1.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕 十三節 人間のための神の自由』について
「十三節 人間のための神の自由」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
聖書に従えば、神の啓示は、次のことの中で出来事となる。すなわち、それは、神の言葉が人間となったということ、それであるからこの人間は、神の言葉であったということである。永遠の言葉、イエス・キリストの受肉は、神の啓示である。この出来事が実在であるということの中で、神は、われわれの神であるという神の自由を実証し給う。
この定式は、次のように理解することができる。
「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいては、われわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖書に従えば、神の啓示は、次のことの中で出来事となる」。「すなわち、それは、神の言葉が人間<となった>ということ、それであるからこの人間は、神の言葉<であった>ということである」。「永遠の言葉、イエス・キリストの受肉は、神の啓示である〔言い換えれば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方――この「語り手の言葉」であるところの<言葉>が肉、人間となったということである、詳しく言えば「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「根源〔「起源」〕である父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ことからして、「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」という仕方で、「子として、和解主として、換言すればわれわれの彼に対する敵意のまっただ中において主として、ご自身を啓示し給う」――その起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、その第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、その第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の中のその第二の存在の仕方における神の言葉が肉、人間となったということ(それ故に、その内在的本質である神性が肉、人間となったのではない)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)」、それであるからこの肉、人間は、神の言葉であったということである〕」。「この出来事が実在であるということの中で」――換言すれば、イエス・キリストにおける神の「自己啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」、詳しく言えば<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)<と>その主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性という<総体的構造>に基づいて、終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の中で、「神は、われわれの神であるという<神の自由>を実証し給う」。したがって、われわれは、「神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、自己運動する自分自身から生きる存在として理解する」。したがって、自己運動する神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、「神が愛し給うことを、それ自身の故に愛する愛として、無条件的な、自分で自分の根拠と目的を措定する、徹頭徹尾主権的な愛することとして、理解する」。「この精密規定なしには、すなわち〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神は生き、愛し給うという独一無比性についての表示なしには、われわれは、神が生き、愛し給うことではなく、〔人間の想像能力・思惟能力・表象能力によって〕一般的に生きることと愛することについて語っているのであって、〔キリストにあっての神としての〕神については語っていないのである」。まさに「この精密規定は、……神の自由という概念によって与えられている」。「生きる方、愛する方としての〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神の存在は、自由の中での神の存在である」。そのように「自由に、神は生き愛し給う。神は、自由の中で生き、愛し給うという仕方で、またそのことの中で、神であり、ご自身をそのほかの生ける者、愛する者から区別し給う。そのような仕方で、自由な人格、<われ――存在>として、神は、ご自身をその他の人格から区別し給う」。また、キリストにあっての神としての「神の自由」は、先ず以て「自己自身である神の自由」、すなわち「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の自由としての「自存性の概念〔「神の自由の概念の積極的側面」〕<と>神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由、すなわち「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における自由、換言すれば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における自由としての独立性の概念〔「神の自由の概念の消極的側面」〕との<全体性>において定義されなければならない」。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係としての神の創造と和解の概念<と>神の全能、遍在、永遠性の概念は、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由としての独立性の概念に言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。したがって、キリストにあっての神としての「神の自由」は、その「神の自由の<全体性>における認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方でなすことができるし、なすのである」。キリストにあっての神としての「神についての聖書的な証言」は、「神の自由を、神とは異なるすべてのものに対して持つところの神の優位性を、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけ〔外的条件づけ〕からの神の自由〔「独立性としての神の自由」〕としての神の相違性〔差異性〕そのものの中でだけ見ているだけでなく、神がそれらを実証することによって、それ故に外的条件づけからの神の自由に相対しても自由〔「自存性としての神の自由」〕であり、この完全な自由を放棄することなく、創造主、和解主、救済主として、神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で、神の真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由〔「独立性としての神の自由」〕であり、ご自身の中で自由〔自存性としての神の自由〕である、その神の自由の<全体性>の中で見ている」。
バルトは、次のように述べている――われわれは、「福音主義的な聖書原理を、その<客観的な>側面からして」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性とまことの人間性」――すなわち「権威と自由」によって賦与され装備された「権威と自由」を持っているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に<神性>を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と自由に基礎づけられ限界づけられている」ところの、徹頭徹尾「間接的・相対的・形式的な権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威〕と自由」を持っている全く人間的な教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である全く人間的な「教会の中での権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威〕についての教説の中で理解しようと努めなければならなかった」。しかし、「その後、福音主義的な聖書原理を、その<主観的な側面>からして」、「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性とまことの人間性」――すなわち「権威と自由」によって賦与され装備された「権威と自由」を持っているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と自由に基礎づけられ限界づけられている」ところの、徹頭徹尾「間接的・相対的・形式的な権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威〕と自由」を持っている全く人間的な教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である全く人間的な「教会の中での自由〔すなわち、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>における自由〕についての教説の中で理解しようと努めなければならなかった」。何故ならば、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「啓示の<しるし>」)としての第二の形態の神の言葉である「啓示との<間接的同一性>〔区別を包括した同一性〕」において現存している聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とする(聖書を媒介・反復することを通した)その「間接性こそが、主ご自身を通して設けられ、主の甦えりを通して力を奮う」からである。バルトは、このような、第二の形態の神の言葉である聖書を媒介・反復することを通したところの、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト<と>第三の形態の神の言葉である教会(われわれすべての成員)との「間接的な関係性」(聖書の中で証しされていることを通した媒介的・反復的な関係性)のことを、「まことの直接性」、「まことの関係性」と呼んだのである。「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を理解するということは、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質を問う問い」(「神の本質の問題」)を包括した「第一の問題」である「神の存在を問う問い」(「神の存在の問題」)を要求するイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、そしてその「啓示自身が啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、木を見て森を見ないという仕方ではなく、換言すればただその一面だけを形而上学的に切り取って全体化し理解するという仕方ではなく、客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」をその<全体性>おいて理解するという仕方で、それ故に客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」を前提条件とするところの(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」)である「イエス・キリスト自身」を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の、直接的な、第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である「聖書」、それから「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」とする教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である「教会の宣教」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」という、この<総体的構造>の中で理解するということである。それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところで存在し思惟し語り行動する第三の形態の神の言葉である教会(そのすべての成員)は、あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、第二の形態の神の言葉である聖書を媒介・反復することを通して、換言すれば聖書に対する<他律的服従>とそのことへの決断と態度という<自律的服従>との全体性において、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、『福音と律法』によれば純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法の問題、神の命令・要求・要請の問題)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)を目指していくところで、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神に、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身に出会い関わるのであって、それ以外のところにおいて出会い関わるのではない。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方である「まさにイエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は〔何故ならば、この「三位一体の神」は、「三重のわれ、三重の主体、三神論、三重の対象の意味で三つの人格性が存在しているということではない」から、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする神だからである〕、ご自身を把握できるものとし給うた」。「しかし、そのことは、決して直接的にではなく、<間接的に>である」。イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰〔「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるし>〔「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」〕の中においてである」――このように、「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方(外在的本質)における「<言葉が肉となった>」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的な<しるし>〔「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」〕である」。言い換えれば、それは、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」では決してなく、もっと包括的に言えば神とは異なる「実在全体」――すなわち、宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によって生み出されるところの人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物(マルクス『経済学・哲学草稿』)では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」の第二の存在の仕方における言葉の受肉としての<「存在者」>〔すなわち、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」〕である。そして、その「最初の、起源的な、支配的な<しるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在するのである」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書が、「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」として客観的に存在している、それから「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である教会の宣教が「啓示の<しるし>」の<しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」)――この「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」が客観的に可視的に存在している。「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる<偉大な可能性>である」。イエス・キリストにおける「神の自己啓示によれば、神は、神とは異なる実在の内部で、神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う。よく注意せよ。それは、神の現実存在を、それ故に神とは異なる実在全体」が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」における存在では決してなく、徹頭徹尾「自ら証明する自由における存在者の存在である」――すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神は、「神の現実存在を自ら証明する自由を持ち給う」。
「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「神の隠蔽としての身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の<恵み>の意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に、特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように、神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである」。「神的な賜物……の総内容としての神の恵み」――すなわち、「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済〔父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>〕は、確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが、それを与える方自身が、〔「自己自身である神」としての「三位一体の神」としての〕神ご自身が、〔神の側の真実として〕自分自身を賜物とすることによって、自分自身、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる〕他者との交わりの中に赴き」、「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り、ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくことである」ところの、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの<原型>は、神の言葉の受肉〔換言すれば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質である神性の受肉ではなくて、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――その第二の存在の仕方における<言葉の受肉>(それ故に、その内在的本質である<神性の受肉>ではない)〕、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれ人間は「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方における第二の存在の仕方である「イエス・キリストの神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。ここで先行する「神の恵みの秘義と本質」は、徹頭徹尾「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の下で、「二つのものが、〔神の側の真実として〕(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという点にある」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての「恵み深い神<と>〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における〕恵み深くあり給う神との間には、中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。「ここでは〔徹頭徹尾「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、神の側の真実として〕すべてのことは直接性に、実際に、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」――この〕神の本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば神ご自身として、すなわち神ご自身であり、自分自身を確証〔自己認識・自己理解・自己規定〕することによって、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)において〕恵み深くあり給う方として理解されるということによってもってかかっている」。したがって、「旧約聖書と新約聖書の中で、……力を込めて神を指し示しつつ、『わたしの』、『あなたの』、あるいは『彼の』恵みについて語られているのである」。したがってまた、「聖書的な人間は、ただ単に『あなたの恵みにしたがって、わたしをお救いください』(詩篇一〇九・二六)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを覚えてください』(詩篇一〇六・四)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・八八)、『あなたの恵みを聞かせてください』(詩篇一四三・八)等々について語られているだけでなく、ほとんどのところで直接、単純に、『わたしに対し恵み深く<あってください>』と言われている」。「それに対して、わたしの知る限り、わたしに恵みを<与えてください>という言い方はどこにも出てこない」。このような訳で、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「使徒たちが、〔第三の形態の神の言葉である〕その教会に対して臨んでいるすべてのことは、よく知られている挨拶の言葉でもって総括することができる」――すなわち、「恵みがあなたがたにあるように」。したがって、「神の言葉は、使徒行伝一四・三、二〇・三二によれば、単純に『恵みの言葉』と呼ぶことができる」。「パウロにおいては、恵み、彼自身の回心、彼の使徒職とその行使、それと共に福音の宣教は、一つのまとまった全体を形作っている」――「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(Ⅰコリント一五・一〇)。なお、ローマ一・五を参照せよ」、「まさに恵みこそが、包括的に、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神が、現にあるところの方として、〔「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において〕われわれに身を向け給う際の向け方を特徴的に言い表している」。
「一 イエス・キリスト、啓示の客観的な実在」、「二 イエス・キリスト、啓示の客観的可能性」
「一 イエス・キリスト、啓示の客観的な実在」
「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての「神の三位一体性についての教説〔「三位一体論」〕は、聖書の中で証しされている啓示の<主体>を問う問いに対して答えるものである」。「その答え」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここにおいては、われわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の「根源」(「起源」)である「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ことからして、「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」という仕方で、この神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父(「父は子の父、言葉の語り手」)と子(「子は父の子、語り手の言葉」)の交わりである「啓示されてあること」・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、「現にあるところの方であり給う」ということからして、「聖書の中で証しされている啓示は、神として、換言すれば主として、啓示が<由来する>父であり、〔<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)として〕啓示を<客観的にわれわれのために遂行する>子であり、〔その「啓示の出来事の中での<主観的側面>」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」として)〕啓示を<主観的にわれわれの中で遂行する>聖霊であり、しかもこれらの異なった互いに同一視されてはならない存在の仕方と行為の仕方の中で、一人の神であり給う〔換言すれば、しかも「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)の中で、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として一人の神であり給う〕、そういう神の啓示であるということである」。したがって、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としてのキリストにあっての神としての「神は、そのみ子の中においても、そのみ子の中でわれわれに対して啓示されるように<なる>のであるが 〔換言すれば、神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方であるそのみ子の中でわれわれに対して啓示されるようになるのであるが〕、また聖霊の中においても、神は、その聖霊の中でわれわれに対して啓示されて<ある>〔このことは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)のことである〕のであるが 〔換言すれば、「自己自身である神」としての「三位一体の神」としてのキリストにあっての神としての神は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神的愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方としてのその聖霊の中においても、われわれに対して啓示されてい給うのであるが〕、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕決してわれわれの〔人間の〕存在と行為の賓辞、あるいは客体となり給わない」。このような訳で、われわれは、「この<なる>ということと<ある>ということ、すなわち啓示のこの二重の<客観的な>遂行および<主観的な>遂行と取り組まなければならない」。「言い換えれば、先ず言葉の受肉〔先ず「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)、外在的本質〕――この第二の存在の仕方における「言葉の受肉」、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」〕、われわれのための神の啓示としてのイエス・キリスト<と>、それからその後、〔<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での<主観的側面>」としての〕われわれの中での神の啓示としての聖霊の注ぎ〔による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)〕と取り組まなければならない」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である「教会の宣教において、神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり〔神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊であり〕、このような三位一体の神として自己啓示する」し、「この啓示が、教会の宣教における<客観的な>信仰告白および教義(Credo)である三位一体論の根拠である」ことからして、「この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である」。したがって、「教会の宣教の批判と訂正は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない時、神性否定のキリスト論や半神、半人キリスト論や三神論という誤謬に陥らざるを得ないことは必然だからである」。
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である神の本質の問題(「神の本質 を問う問い」)を包括した「第一の問題」である神の存在の問題(「神の存在を問う問い」)を要求する。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神に敵対し神に服従しない……、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を全く持ってはいない」ところの、「全く不信仰で罪に穢れた」ところの、生来的な自然的なわれわれ人間は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「啓示の秘義を、神の秘義を、父、子、聖霊を定義することはできない、それらを相互に限界づけることはできない」。「われわれは、ただ、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である〕啓示の中で自分自身を相互に限界づけている三つのものが登場してくるということを確立しうるだけである」。言い換えれば、われわれは、ただ啓示の中で、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>が「登場してくるということを確立しうるだけである」、「われわれは神的な出ること〔すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)である「父は、子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」ことからして、「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」ということ〕と存在の仕方〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)〕の事実を確立することができるだけである」、イエス・キリストにおける「神の啓示の中で登場してくるもの、それは、……父、子、聖霊である」。「聖霊の出ずることは、父と子からの聖霊の出ずることである」。したがって、この「出ずること、息を吹きかけるというこの概念は、人が本質的に表現し得ないこと、人が彼の言葉でもって到達し得ないことを表現しようとする一つの試みである」、「どのように神の子が生まれるのであるか、どのように神のことばは語られるのであるか、われわれはそれを知らない。したがって、われわれの認識は、ただ、事実の承認あるいは受認であり得るのみである」。この「事実の承認あるいは受認」には、区別を包括した単一性において、先ず以て神のその都度の自由な恵みの神的決断による<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での<主観的側面>」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な必然性」)を前提条件とするところの、「事実質問〔「存在質問」〕、テキストを問う問い」に関わる三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「語り手の言葉」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)としての「存在的な<ラチオ性>」<と>「その後に続いて」「了解質問〔「認識質問」〕、注釈を問う問い」に関わる徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性(<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」)という<総体的構造>(イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」)に基づく出来事を必要とする。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「まことの神」(神の顕現)して「まことの人間」(神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――この「イエス・キリストにおける啓示自身」が、その「啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして――すなわち、あの<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」を持っていることからして、われわれは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての「聖書」を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、区別を包括した単一性において、先ず以て「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)と関わるのではなく、<先ず以て>その「第二の問題」を包括したところの「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)と関わらなければならない。言い換えれば、われわれは、<先ず以て>「第二の問題」を包括したところの「第一の問題」であるところの、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神の「第二の存在の仕方」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわちイエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「まことの神」(「神の顕現」)にして「まことの人間」(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――このイエス・キリスト自身と関わらなければならない。したがって、具体的には「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「その最初の直接な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖書の中で証しされているイエス・キリスト自身と関わらなければならない」。したがってまた、それが大学神学者のそれであれ、教会説教者のそれであれ、誰々のそれであれ、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「神学が、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神に対して、そもそも神の啓示は何であり、どのような具合でなければならないかについて指示を与えるということは、避けられるべきことである」。何故ならば、「そのような仕方で接するところのものは、神の啓示では<ない>」からである、換言すれば類的機能を持つ人間、神学者の自由な自己意識・理性・思惟によって「わがまま勝手に」恣意的独断的に対象化され客体化されたその人間、神学者の観念的生産物(「空想の産物」)としてのその人間、神学者の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」でしかないからである。それは、「啓示神学ではない」。「この意味での転倒」は、包括的に言えばこの「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返す転倒は、「既に教会の第二世紀の護教論者たちのところで、……(中略)一七〇〇年以来の支配的なプロテスタント神学の中で、まさに原理的な前提となってしまった」。彼らは、「啓示の実在の批判あるいは否定を意味しない」ところで、「教義学的な合理主義を肯定し」、<一般的な>啓示、<一般的な>真理、存在の類比、「『自然』神学」の段階で停滞と循環を繰り返していたし、今もそのことは繰り返されているのである。したがって、われわれは、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にある」(換言すれば、「神は、もともと……人間に束縛されているという考え、神は自由な主では<なく>、神の啓示は自由な恵みでは<なく>、神の啓示の事実は神によって自由に造り出された……前提では<ない>という考え方」)ところの「ヘーゲルの強力な痕跡に」、モルトマン、ブルトマン、E・ユンゲル、ルドルフ・ボーレン等々「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……遭遇するであろう」、この「ヘーゲルの強力な痕跡」を持った神学に対する「フォイエルバッハの非難は正しいとしなければならない、この「ヘーゲルの強力な痕跡」を持った神学に対するフォイエルバッハの根本的包括的な原理的な批判は客観的な正当性と妥当性をもった宗教としてのキリスト教批判である(『ヘーゲル』、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』、『教会教義学 神の言葉』)。したがって、「聖書の主題であり、同時に〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使してなされる〕哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、「聖書が、神と人間、神的な事実とそれに対する人間態度決定を、神の啓示についてのその証言の中で対置し並置する際に、明らかにしているところの<存在秩序>〔「事実秩序」〕は〔すなわち、「その中で、神は主であり、しかし人間は被造物、下僕であるところの存在秩序」は〕、それに対応している<認識秩序>〔「了解秩序」〕を強いる〔換言すれば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているが故に、「人間の思惟と語りは、〔その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼し」、〕その神によって自由に創造され、前提された神の啓示の事実〔「事実秩序」、「存在秩序」〕に後続して後から従っていくという認識秩序〔「了解秩序」〕を強いられている」、詳しく言えば第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)の宣教における、その一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているが故に、具体的には「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下で、絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」<特別的な神学的倫理学>の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法の問題、神の命令・要求・要請の問題、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの問題)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)を目指していくことを強いられている〕」、「それ故に、そこでは、人間によって携えられた了解原理〔「認識原理」〕に基づいて、その秩序に反乱を起こすことはあり得ない〔例えば、「人間学の後追い知識」として、「前期ハイデッガーの哲学原理に基づく<絶対的>規準としての先行的理解と解釈学的原理」を主張した「ブルトマンの聖書解釈」のような反乱を起こすことはあり得ない〕」。何故ならば、<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」) ――この「存在的な<必然性>」<と>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下) <と>その主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性に関わる「聖霊の働きの本質的なもの、直接性は、聖霊が、われわれに対して、第一に、一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるが故に、そのように告白することを要求する」という点にある。「聖霊の働きは……ひとりの主、……神を、主としてもつ自由から成り立っている。したがって、真に自由たるものは、……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神の僕として(Ⅰペテロ2・16)自由である」、また第二に、われわれ人間の中にも、われわれ人間の中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」という点にある、また第三に、われわれ人間の〔生来的な自然的な〕理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」という点にある、また第四に、われわれ人間の究極的限界性を告白することを要求する」という点にある。この時、われわれは、「教義学的な合理主義を明確に否定して」、キリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学、包括的に言えば「『<非>自然な』神学」の立場をかたくとって離さないようにしなければならない。すなわち、「わがまま勝手に」恣意的独断的に「悪魔も聖書を引用することができるということ、不信仰も聖書と信仰の方法をまねて自分の方法とすることができるということ」の中で、われわれは、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としてのわれわれの神学にとって、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖書の中で証しされている啓示を理解することが問題である限り」、「その時、われわれのその神学は、すべての哲学的あるいは歴史的宗教学と違って、この方法をかたくとって離さないようにしなければならない」。何故ならば、第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な「教義を、いや、〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書の表現を、そのまま後に続いて熟考し、言葉に表現するとしても……ただ、神の恵みを通してだけ〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてだけ〕、自分のものとなり得る」し、また「われわれの思惟と語りそれ自体は、この対象に対し適当なものであることはできず、ただ不適当ものであり得るだけであろう」から、第三の形態の神の言葉である教会の宣教および神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである。したがって、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔すなわち「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」からである。
「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての<教会>教義学における「キリスト論の基礎的部分は、神の言葉の受肉についての教説である〔すなわち、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質であるその第二の存在の仕方における神の言葉の受肉についての教説である〕」。それは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性――Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)に関わる「テキストを問う問い、事実質問〔「存在質問」〕を扱う」<教会>教義学の「プロレゴメナ、基礎づけに属している」。「それに対して、〔その外在的本質である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に関わる〕キリストの人格と業についての教説におけるキリスト論は、神の啓示が人間に及ぶところの和解についての教説の内部にある」。それは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性――Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)における第二の形態の神の言葉である聖書、「テキストの注釈を問う問い、了解質問〔「認識質問」〕を扱う」。イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>からして、またその中の「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性――Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)からして、「事実質問〔「存在質問」〕は、了解質問〔「認識質問」〕に先行する。したがって、この順序を逆転させることはできない。「われわれが、三位一体論の展開でもってはじまった啓示概念の分析の継続において、先ず最初に向かわなければならない対象は、<神の言葉の受肉>についての教説である」。「そもそも神の啓示を見て取ることができるためには、聖書の中で規定されている存在秩序〔「事実秩序」〕に従って、何よりも先に啓示の主体としての神を問わなければならないという洞察を通して条件づけられているように、キリスト論に近づいてゆくことは、先ず第一に<事実質問>〔「存在質問」〕を立て、その次に<了解質問>〔「認識質問」〕を立てなければならないという洞察を通して条件づけられている。あるいは、……事実質問〔「存在質問」〕においてもまたほかならぬ理解する〔認識する、了解する〕ということが問題であり、了解質問〔「認識質問」〕においてもまたほかならぬ事実〔「存在」〕が問題であるから、われわれは、先ず第一に、イエス・キリストの<実在>そのものを理解し、その後でこの実在の表示板から読み取りつつ、その中に含まれている<可能性>を、その中で実証された神の自由を、決してそれと別様ではなくご自身をまさにこの実在の中で啓示する神の自由を、それ故にわれわれが神の<必然性>として尊重しなければならない<可能性>を、理解しなければならない」。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己示自身が、次のような「啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているからである――すなわち、客観的な「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11およびエフェソ2・14以下、すなわちその「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」としての「起源的な第一の形態の神の言葉」、その「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」としての第二の形態の神の言葉である聖書、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義Credo)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性、という<総体的構造>を持っているからである。バルトは、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠したアウグスティヌスの造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りに対して、根本的包括的な原理的な批判を加えている。すなわち、「そのような三位一体の跡は、世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない。それは、ただ単なる〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」、〕人間自身の内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論でしかないものである。また、そのような三位一体論は、人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解、神話に過ぎない」。このような包括的言えば「『自然』神学」が成立する根拠は、人間の自由な自己意識・理性・思惟が類的機能を持っているからであり、それ故にそれは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」からである。したがって、バルトは、「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけるために、聖書に依拠した神学、罪深い曲がった人間の究極的な限界性を自覚した人間の言語を前提として、三位一体を、世界から説明しようと欲しないで、むしろ逆に、世界を三位一体から説明せんと欲する」、と述べている。
「この方法論的な予備的考察を振り返り見つつ、われわれは、ここでなお次のことを付け加えて確認しておかなければならない」。
(1)「アンセルムスは、『何故神ハ人間トナリ給ウタカ』の中で、キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪の死の可能性、つまり必然性を理解シヨウ、理性的ニ(しかも理性ダケニヨッテ、キリストカラ離シテ、聖書ノ権威ナシニ)論証シヨウとした」ということに対して、「人は、『合理主義』だと非難した」が、「人はその際、決定的なことを見過ごしていたのである」。「確かに、アンセルムスがその書物の中で受肉を神の啓示の権威によってまことであると前提したのではなく、先ず第一に問いとして取り扱い、それから受肉を証明したというその独特な方法」は、「アンセルムスのすべての書物の中で適用されている」が、「しかし、それだからといって人は、彼の方法を合理主義と呼ぶことはできない」。何故ならば、「アンセルムスが、受肉は可能である、あるいは必然である、それ故に理性的であり、それ故にまことであるということを証明しようとした際に用いた決定的な要素全体、換言すれば人間を相手として取り扱い給う際の神の意図、神に対して服従するようにと人間が義務づけられていること、無限の負い目としての罪、神の必然的な怒り、人間が自分自身を救うことができないこと、創造主としての神の名誉、そういったものについての彼の概念は、決して一般的な真理ではなく、啓示からして得られた認識〔すなわち、信仰〕であり、その啓示からして得られた認識〔すなわち、信仰〕は、ただまさにその書物の特別な主題に関して、さし当り権威として力を奮わしめられていないだけだからである。しかも、彼の記述の高所において、『教義的な合理主義』は、はっきりと〔明確に〕言葉に出して否定されている」――「モシモアナタガ、キリストガナシ給ウタシ、身ニ受ケ給ウタスベテノコトガマコトニ必然性ヲモッテイルコトヲ知リタイナラ、ホカナラヌ彼ゴ自身ガ意志サレタカラコソ、スベテノモノハ必然性カラシテ生起シタトイウコトヲワタシハ知ッテイル。マコトニイカナル必然性モ彼ノ意志ニ先行シハシナカッタ」。このことは、アンセルムスが、「自分勝手に考え出された可能性からして実在について考えたのではなく、実在からしてそれの可能性について考えたということを意味している」。アンセルムスは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼した」のである、換言すれば「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」(すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」における「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」)を前提条件とするところ、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」に信頼したのである。「仲保者および救済者」は、「一方においては、〔「真に罪なき従順な」〕まことの人間でなければならない〔何故ならば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な人間は、「死としての刑罰」を受けなければならないのであるが、その「死としての刑罰」を受けなければならないのは、「真に罪なき従順な」「まことの人間でなければならない」からである〕、と同時に他方において、まことの神でなければならない〔何故ならば、「まことの神が、その神性の力の中で神の怒りを耐え、われわれに義と生命を回復してくださらねければならないからである」、「啓示と和解」は、まことの人間、キリストの人間性ではなく、まことの神、キリストの神性が生じさせるからである〕」。「まことの神でありまことの正しい人間であるところの仲保者は誰であるのか」に対する「答えは、わたしたちの完全な救いと義のためにおくられたわたしたちの主イエス・キリストである」。「このことをどこから知るのか」に対する「答え」は、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言やおよび使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖なる聖書からである」。「ここで、ハイデルベルク教理問答書も、可能性から、すなわち必然性〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」〕から実在〔聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)〕にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」)へと向かう道を進んでいる」。「ここでも論証を進めて行く際に用いられるすべての決定的な要素は、……啓示によって示された基礎であって、まさに〔生来的な自然的な類的機能を持つ人間の自由な〕理性による基礎ではないということである」(ハイデルベルク教理問答書の質問一二-一九)。アンセルムスや問答書の著者は、「信仰の合理性を、換言すれば啓示を理解することを問うたとしても、彼らは結局、啓示そのものに固有な、啓示そのものに適した合理性以外のほかの合理性を問題にしようとしたのではなかった。その啓示そのものに固有な、啓示そのものに適した合理性に対して、彼らが推論しつつ結論づけた認識的―教義的―学問的な合理性は、事実その後に従おうと欲しただけであり、単に従順に素直に後に続こうと欲しただけであり、それに対して彼らが推論しつつ結論づけた認識的―教義的―学問的な合理性は、ちょうど封蠟が鋳型に合わせて形成される、つまり合わせて態度をとるように、合わせつつ態度をとるのであって、彼らはそういう啓示そのものに固有な、啓示そのものに適した合理性以外のほかの合理性のことを言おうと意図したわけではなかった。彼らがなした推論の結果は、実はすでに彼らの推論の出発点であった。ワレ知解センガタメニ信ジルは、……わたしは神の客観的な真理によって、ただ神の客観的な真理によってのみ、教えられて思惟し語りつつ、この出会いについて説明しようと欲するということである」。
(2)「しかしながら、……われわれは、今日もこの道を進むことができるし、この道を進んでもよいということを意味していない」。何故ならば、(1)で述べたことに対して自覚的でない時には、「レッシング、カント、シュライエルマッハーがキリストに向かって接近してゆこうと試みた方法――その接近の仕方は、結局キリストに導くことができなかったのであるが、そのような接近の方法――を、〔近代以降においては〕意識的に、無意識的にあまりにも生き生きとわれわれの中に持っている」からである。シュライエルマッハーは、〔「『自然』神学」の段階で停滞し循環した思惟と語りで〕人間学的に、教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、〔「絶対依存感情」、「敬虔心としての〕『敬虔性と関連した共同体』である」と言う、このシュライエルマッハーおいては、「信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される」、「神学における近代主義的思惟は、〔ルートヴィッヒ・フォイエルバッハが、『キリスト教の本質』で、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に宗教としてのキリスト教を批判していたように、〕人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)〔類的機能を持つ人間の自己意識・理性・思惟を駆使して〕人間が自分を相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために、自分自身の歴史と現在の解釈を表現しようとする。すなわち、自己表現としての宣教を企てる」(『教会教義学 神の言葉』)。この時には、恣意的独断的に人間的自然(人間の観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」を生み出す類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や際限なき人間的欲求、もっと包括的に言えば神とは全く異なる「実在全体」――すなわち、宇宙を含めた天然自然としての外界、自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、人間化された自然としての人間的自然である人間の物質的および観念的な諸生産物を生み出す個体的自己としての全人間の身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての人間の自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動――この「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態」を惹き起こす(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』、マルクス『経済学・哲学草稿』、バルト『ヘーゲル』)、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で〔すなわち、すでに前もって生来的な自然的な類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟に内在している神概念の再想起としての神認識という点で〕、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)という事態を惹き起こす、前期と後期の総体を生き思惟し語ったハイデッガー自身が、を、客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に、批判したところの、「『今日まさにこのマールブルク〔「人間学の後追い知識」としての「前期ハイデッガーの哲学原理に基づく絶対的規準としての先行的理解と解釈学的原理に依拠した」ブルトマンおよびブルトマン学派〕では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって恣意的独断的に対象化され客体化された人間自身の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、〕存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うことではなかろうか』」という事態を惹き起こす(木田元『ハイデッガーの思想』)。
「最も単純な形において神の啓示の実在を問う問いに対する新約聖書の答えは、ただイエス・キリストの<名>だけであるということである。この<名>が神の啓示である〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>」、「<殻>」、「<特定ノ外形>」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神>(「神の顕現」)にして<まことの人間>(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」) ――この「イエス・キリストの<名>だけであるということである。この<名>が神の啓示である」〕」。「二世紀に多く存在していたグノーシス主義者の先例、またJ・スコトゥス・エリウゲナおよびドゥンス・スコトゥスの先例に従ったシュライエルマッハーのキリスト論に対するバルトの主要な<異論>」は、「シュライエルマッハーが、第一に、キリストを、単に、人間の創造とともに始まった発展の、神意識を強める方向に向かってすすむ発展の継続と完成とみなしている点にある。したがって、第二に、イエス・キリストを通しての救済を、(聖書にしたがって)神の自由な主権的行為として、神の言葉を救済の行為の中での主体として真剣に受けとらずに、世界の過程の諸要素の中の一つとして理解している点にある」。言い換えれば、シュライエルマッハーに対するバルトの「主要な異論」は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」(「イエス・キリストの人間性の現実存在」)が、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)の中での第二の存在の仕方における「肉をとった言葉<と>言葉によってとられた肉とを区別して……ひとつ、という単一性と区別〔区別を包括した単一性〕、すなわち<マコトノ神>と<マコトノ人間>が一つであるというイエス・キリストにおける両性の単一性〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性〕について理解していない」というところにある。「神が恵みを与え給うことの原型は、神の言葉の受肉である〔すなわち、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」である〕」。すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)の中での第二の存在の仕方における「神の言葉の受肉であって」、その内在的本質である「神性の受肉ではない」。このことは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、「神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>という新約聖書的―キリスト論的命題は、ひっくり返すことのできないひとつの等置である〔すなわち、その主辞としての内在的本質と賓辞としての外在的本質とをひっくり返すことができないひとつの等置である〕」。したがって、『神の人間性』においては、「神の神性において、また神の神性と共に、<ただちに>また神の人間性もわれわれに出会う」と言われている。「ただイエス・キリストの<名>だけが神の啓示である」は、「もっと正確に言うならば、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕啓示からして明らかになってくる、啓示から受け取られた、啓示に対応している啓示の定義である」。「使徒行伝四・一〇以下によると、この<名>において、ペテロは語り、この<名>において、宮のうつくしの門の前で生まれた時から足のきかない人が、元気になってみんなの前に立ったのである」。「イエス・キリストは主である(ピリピ二・一一、Ⅰコリント一二・三、ローマ一〇・九)も、綜合的に理解されてはならず、むしろ解析的に理解されなければならない」――「イエス・キリストという<名>」は、「それとして、そのまま主の<名>である」、「人々が啓示を理解すべきであり、啓示を理解することができる際の第一のこと、決定的なこと、すべてを包含することである」。このことは、「旧約聖書の中で、まさにヤーヴエの<名>が、ヤーヴエの啓示であり、ヤーヴエとその民の間で最初にして最後のものであるのと全く同じである」。「この<名>でもって表示されている方は、自分自身で語ってくるもの、言葉であるということである」。「例えばⅠコリント一・三〇の関係代名詞節――すなわち、『神に立てられ、わたしたちの知恵となり、義と聖と贖いとになられた』ところのキリストを、ほんの一瞬たりとも、それが関係しているところの主語イエス・キリストではなしに、何かほかの主語に関係していると受け取ってみる」時には、「その関係代名詞節は、新約聖書の著者たちの意味では、……全く意味のない命題となってしまう」。何故ならば、「知恵、義、聖、贖いは、新約聖書の著者たちにとって、それ自体ではなく、ただ主語イエス・キリストの賓辞としてのみ、適切な意味のある概念である」からである。したがって、「人は、新約聖書の物語、教え、宣教のどの個々の構成要素についても、そのもの自体が独一無比であって、重要であり、そこで意図されている証しの対象であるということはできない」。したがってまた、「山上の説教の道徳も、マルコ一三章およびその平行記事の終末論も、めしい、足なえ、悪霊にとりつかれたものの癒しも、パリサイ人との戦いや宮きよめも、パウロ的、ヨハネ的形而上学や神秘主義の記述(それらが確かに存在する限りのことであるが)も、神への愛も隣人への愛も、キリストの苦しみと死も、大いなる奇跡としての死からのキリストの甦りも、そのいずれもが、新約聖書の中では、それらすべてのことの中で主語であるのは、まさに<イエス・キリスト>であり、その中ではじめてそれらすべてがまことであり、実在であり、生き、本質を持ち、それ故にイエス・キリストは、それらがすべて証言しなければならないところの<名>である」。したがってまた、「このことを度外視して、決してそれ自身の価値、内的重み、抽象的な意味を持っていない。彼は、神の奥義であって、そのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている(コロサイ二・三)」。したがってまた、「ある特定の道徳的な原理(例えば、自分の主義に忠実に行動するという原理、あるいは無条件的な愛の原理)」、「生の形而上学、死の形而上学という原理」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>に過ぎない神秘主義的、あるいは社会的理論〔、政治的理論〕と実践〔社会的、政治的実践〕という原理」、「そういうことは、全くどうでもよいことである」。したがってまた、時代と現実から自覚的に対象的になって距離をとるのではなく、時代と現実に翻弄されて繰り返される「そういうことは、悲劇的であると同時にまた滑稽でもある」。「とにかく大切なこと」は、「新約聖書の著者たち自身の意味においては、その彼らが語るところのすべては、もしもそれを一つの原理、理念、一般的な真理の宣言として理解するならば、それは、ただ周辺のこと、副次的なこと、単なる時代史的な記録でしかないであろう」が、「しかし、確かに、それを<イエス・キリストについての言明>の中に出てくる<賓辞>として理解するとするならば、すべては中心であり、重要な出来事であり、永遠の中での出来事である」と理解する点にある。すなわち、「イエス・キリストは、ほかの要素と並んでの、新約聖書の証言の一つの要素ではない」。「神の言葉の受肉」(その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における神の言葉の受肉)としての「イエス・キリストの<名>そのものだけが、それであるからいかなる原理でもなく、いかなる理念でもなく、いかなる一般的な真理でもなく、ただ一つの人格を言い表している<しるし>〔「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>」、「<殻>」、「<特定ノ外形>」〕だけが、〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における神の言葉の受肉としての〕ただとにかく発言し得る・知られた・知られ得るイエス・キリストの<名>そのものだけが、新約聖書の証言のすべての要素の内部で、それらすべての要素が言おうとしており・指し示しているところの対象を代表している」――「この限り、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中で三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉〕、啓示、実在そのものを言い表そうとしているところのイエス・キリストの<名>は、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)〕としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中で三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕<イエス・キリストご自身>と<イエス・キリストのことを言い表そうとしている新約聖書の証言>〔すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」〕の間の中央に立っている」。「イエス・キリストの<名>は、イエス・キリストご自身と共に人間に与えられて、イエス・キリストご自身と違っていまや実際に第一の・決定的な・包括的なものとして、彼らの心の中に与えられ彼らの唇にのぼせられて、彼らがイエス・キリストについて語らなければならない最後のもの・決定的なもの・包括的なものなのである」。「新約聖書に従えば、最初にして最後のものは、イエス・キリストの<名>であるということ」は、われわれを、「新約聖書が、神の啓示がそこで生起しているのを見るところの実在は、徹頭徹尾<単純>な実在、神の単純な実在であるということに、注意を向けさせる」。
イエス・キリストの<名>としての「その単純な実在は、徹頭徹尾<一回的な>実在である。このことに加えて同時に、〔それぞれの時代、それぞれの世紀、その歴史的現存性、その時代と現実に強いられたところで、ある現実的な社会の中において、具体的にある資質、職業、生活、喜怒哀楽の感情、思想、信条、意志、構想をもって生き死んでいく〕われわれは、神が一回的であり給うように〔すなわち、<一回的な>イエス・キリストにおける神の自己啓示によれば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての<イエス・キリストの父>なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事および第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての<子としてのイエス・キリスト自身>なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事ならびに第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>におけるそれぞれの出来事が一回的であるように〕、そのように<一回的>であるということである」。この「啓示―実在の単純さは、しばしば起こる出来事、あるいは一般的に起こる出来事の持つ単純さではなくて、例えば因果律の中で一つの定式に還元できる出来事の持つ単純さではなくて、特定の・時間的に限定された・繰り返されなかった・またどうしても繰り返され得ない出来事の持つ単純さである」。「聖書によれば、この出来事の預言と想起が〔すなわち、「啓示との<間接的>同一性」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している「預言者たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」が〕、……〔「イエス・キリストにおける啓示の時間から『攻撃』され、否定された時間、失われた非本来的な古い時間、このわれわれ人間の時間の中で」、「実在の成就された時間、キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>」――この「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、「ただひとりの<真実の証人そのもの>であるイエス・キリストの現実存在と職務」という〕まことの証しが、……正しい宣べ伝えが〔すなわち、「啓示との<間接的>同一性」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している「使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」が〕、存在する」。「それらすべてのことの中で、ほかの時間が、もっと以前の時間あるいはもっと以後の時間が〔すなわち、それらすべてのことの中で、ほかの時間、われわれ人間の類の時間性、歴史性、人類史、世界史、歴史が、その歴史的現存性に強いられた、時代と現実に強いられたわれわれ人間の個の時間性、現存性、個体史、自己史が〕、この出来事にあずかる参与というものがある」。「この出来事は、最後に原理的に、そしてまた事実的に、未来として理解されなければならない。すなわち、それは、すべての時間の終わりとして理解されなければならない〔換言すれば、それは、終末、「完成」、復活されたキリストの再臨として理解されなければならない〕。来たり給うイエス・キリストは、そのような方として、また未来的なイエス・キリストである」。「新約聖書の証人たちは、キリスト復活の四〇日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を想起する時、光を得たのである。彼らは甦えりの証人である。そして彼らは、既に来た方、イエス・キリストは、またこれから来たり給う方〔終末、「完成」、復活されたキリストの再臨〕であることを語るのである」。「啓示は、歴史〔われわれ人間の類の時間性、歴史性、人類史、世界史、歴史、その歴史的現存性に強いられた、時代と現実に強いられたわれわれ人間の個の時間性、現存性、個体史、自己史〕の賓辞ではない。歴史が、啓示の賓辞である」。「啓示の実在は、それ以前には起こらなかった、またそれ以後にも二度と再び起こらない、まさに一度ですべての<ために>力を奮う仕方で起こったところの、全く特定な歴史的<出来事>である」。
そのような訳で、「イエス・キリストという<名>は、とにかく一般に人間を表す名として理解されることはできない。また、先駆けとしてあるいは後に続く者として、イエス・キリストとある特定の歴史的な関連の中ある人間を表す名として理解されることもできない〔すなわち、イエス・キリストという<名>と、ヘーゲルにとって英雄である世界史的個人としてのシーザーやナポレオン等々とを関連させて理解することはできない〕」。したがって、「旧約聖書の中には、油注がれた預言者たち、祭司たち、王たちがいるし、新約聖書の中にはキリスト者たちがいる」が、「しかし、それは、一人の方、キリストが、旧約聖書および新約聖書の中で証しされている契約の主であり給い、彼以前に、彼以後に、ほかに誰もそのような者がおらず、すべてのそのほかの者と比べて比較を絶した仕方で自分を際立たせ給い、彼らすべてがただ非本来的な仕方であるところの者で、本来的な仕方であるということに基づいて、またそういうことからしてのみ言えるのである」――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、「律法」〕から新約〔「神の恵みの啓示」、「福音」〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、古い時間〕は、復活へと向かっている。このキリストの復活〔「われわれの時間の中で実在の成就された時間」〕は、新しい世〔、新しい時間〕のはじまりである」。「完全な敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間は、本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間〔「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「実在の成就された時間」〕、神の勝利の行為によって克服されてそこにある。しかしまた、その勝利の行為は、敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」(『教会教義学 神の言葉』)、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)闇のこの世以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。包括的に言えば「『自然』神学」の段階で停滞し循環している「A・E・ビーデルマンやR・A・リプシウスやH・リューデマンやA・リッチュルの自由主義神学〔近代主義神学〕が、イエス・キリストにあって啓示された実在を、……<人間の>最も深い・最も本来的な実在の啓示として解釈することができると考えた時、それは宿命的な誤解であった〔すなわち、根本的包括的な原理的な「誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて語る」(吉本隆明『カール・マルクス』)語りであった〕」。イエス・キリストの区別を包括した単一性におけるその内在的本質もその外在的本質も全く否定したところの(「一九八二年の南山大学主催滝沢講演後討論会」を参照されたし)、自然科学系と人文科学系の自由な学問と研究の場である大学というものから自覚的に対象的になって距離を取ろうとせず、ただその大学の場にどっぷり浸かったままの大学神学者・八木誠一も、ご多分に漏れず、『イエス』で、「イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けたただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」と述べている。また、自由主義神学(近代主義神学)と正反対の方向を取る「一九世紀のいわゆる『積極』神学が、キリスト以前および以後の特別な歴史的関連をいわゆる『救済史』として、ある種の神話化形式がもつ明瞭さをもって、ほかの歴史から際立たせた時、それと同時にその救済の内部ですべてのそのほかの一回性に対してイエス・キリストの一回性を、その根本的な意味と影響において明らかにするというよりも、ただ表面上主張する術を知っているだけであった時、事情は、本質的に少しもよくならなかった」、「『積極』神学が、正反対の方向を取る自由主義神学と戦った際に、到底長きにわたって自分の地歩を守り抜くことができず、その後の代表者たちにおいては(例えば、R・ゼーベルクとその学派においては)……ただある種の技巧と趣味の面での相違だけを残して、自由主義神学の動きの中に全く埋没してしまったということは怪しむに足らないことである」。「ペテロが、使徒行伝四・一〇以下において、天の下で人間に与えられたほかのすべての名を救いの源泉として排除している時、ペテロは、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」) 〕――このイエス・キリストの<名>に対して一回的であるということの意味を帰している」。「人は、イエス・キリストの<名>が一回的であるというそのことが、いかにⅠテモテ二・五において、神の一回性と直接に関係づけられているかに注意せよ」――「神は、唯一であり、神と人との間の仲保者もただ一人であって、それは人なるキリスト・イエスである」。また、「ピリピ二・九以下で、イエス・キリストの<名>が、『すべての名にまさる<名>』、その<名>によってすべての者のひざが<身をかがめる>ところの<名>と呼ばれていることに、人は注意せよ」。「人は、またここで、当然のことながらイエス・キリストの救いの業〔神の第二の存在の仕方、救いの業〕について述べる際、特にへブル人への手紙の中で何回も印象深く付け加えられている『一度』に注意しなければならない」。「この『一度』は、へブル七・二七、九・一二、二六-二八、一〇・一〇において、時間的にいろいろな時に当たってなされた(へブル一・一)旧い契約の中での準備に相対して、イエス・キリストの一回性を特徴づけている。そこでは、イエス・キリストの一回性が、すべての人間が一度だけ死ぬことと比較されている。ローマ六・一〇、Ⅰペテロ三・一八では、それらの言葉は、むしろキリストとキリストを通して和解されたキリスト信者の対立を浮き立たしめている。しかし、われわれは、へブル六・四、一〇・二、一〇、ユダ三の箇所から、……まさにこの一回性こそが、キリスト信者をしてキリスト信者たらしめるところのもの、すなわち彼らが光を受けて心が照らされること、聖化等々に属しているということである」。「また、へブル一二・二六以下は、われわれに、キリストの再臨もキリストの啓示の一回性を問題化しないで、むしろその一回性の中での彼の啓示は、また万物の終わりであるということを確認させる」。「この『もう一度』という言葉は、震われないものがのこりために震われるものが(造られたものとして)変えられることを示している(へブル一二・二七)」。「同じ意味で最後に、マタイ福音書およびルカ福音書の中でなされている年代記的に記述しようとする努力」、すなわち「マタイのイスラエルの歴史の中で、あるいはルカの世界史の中で、イエス・キリストが立ち給うた場所を指し示すことによって、いずれにしてもイエス・キリストの、決してそのほかのところではなくそこでのみ存在し給うたその個人、そこで存在し給うた、全くただ、その方として記述する意図と働きを持っている」。「史実的(historisch)に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事、ポンテオ・ピラトと使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、出来事として起こったもろもろの歴史、歴史的出来事(Geschichten)について語っている」という点にある。
「われわれは、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとして起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の証言に基づいて、この単純な一回的なイエス・キリストの実在を、次のように定義する」。すなわち、「われわれは、神の言葉あるいは神の子は、人間となりナザレのイエスと呼ばれた、それ故にこの人間ナザレのイエスは、神の言葉あるいは神の子であり給うた」、というように定義する。「われわれは、この命題がもつ位置と意味について、いくつかのことを明らかにしておかなければならない」。
(1)「啓示、実在そのものを言い表そうとしているところのイエス・キリストの<名>は、<イエス・キリストご自身>と<イエス・キリストのことを言い表そうとしている新約聖書の証言>の間の中央に立っている」。「<注釈的に>、その二つの構成要素を持った二重の命題は、それとしてそのまま新約聖書の中ではっきりと言葉に出された形で見出すことはできない」。「その二つの構成要素を持った二重の命題は、普通は、その二つの構成要素のうちのただ一方の構成要素だけが、新約聖書のある高所において、そこでは聖書の著者にとって明らかに総括しつつ、最終的なもの、換言すればかかるものとしてイエス・キリストの<名>そのものの前にある最後から一歩手前のものを語ることが問題であるところの新約聖書の証言のある厳粛な高所において現れている」、「彼らは、ごくつつましい仕方で、その告白と関わっている。言葉に出すことなしに、力を奮わしめるということである」。第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>「キリスト教教義は、三位一体論的教義の場合と同様、明らかにテキストではなく、ただテキストの<注釈>である。キリスト論的教義は、どこでも言葉通リニ聖書の中に出てこない」。「新約聖書の中には、その告白が欠けていて、しかも厳粛な大事な箇所もあるのである」。「マルコ福音書の冒頭の言葉――『イエス・キリストの福音の初め』、そこで付け加えられている『神の子』という言葉〔「告白」〕は、おそらくもともとはなかった言葉であろう」。したがって、「福音は、もともと……まさにこの『イエス・キリストの<名>』についての福音として述べられていた」。また、「使徒的ケリグマについて記述している使徒行伝一〇・三六以下においても、その告白はただ一度だけはっきりと言葉に出して語られている」。しかし、「使徒行伝二・二二以下、一三・二三以下では、その告白は欠けている」。また、「ヨハネ福音書二〇・二八の甦りの報告の高所においても、その告白は現れている」。しかし、「共観福音書の平行記事の中にはその告白は出てこない」。
「『神の子』という言葉〔「告白」〕は、行間に見出されることを欲している、読者あるいは聞き手によって、イエス・キリストの<名>について、イエス・キリストの<名>に対して、そのほかの語られるところから推量されることを欲している」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「新約聖書は、〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の〕宣教と証しのための道具である。新約聖書は、〔人間の類の時間性、歴史性、人類史、世界史、歴史としての〕歴史的な記述でもなければ、組織的な記述でもない。新約聖書は、〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての〕教義学というつつましい作業を、教会に、われわれに任せたのである」。
(2)「内容的に、新約聖書が、ある部分では直接的に・あからさまに、またある部分では(その方がもっと多いのであるが)間接的に・暗々裡に示しているイエス・キリストの神性と人性についての規定は、疑いもなく……イエス・キリストご自身の<名>との関係において、副次的なものであると言わなければならない新約聖書の証言の要素に属している」――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの<名>からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない〔何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における日本において、天皇を含めて非農耕民は、神人と呼ばれていたからである〕。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの<名>だけであり、そのイエス・キリストの<名>がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその<名>に含んでいるのである。ただまったくこのイエス・キリストの<名>だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。「キリストの神人性の真理も、……このイエス・キリストの<名>を言い表すことができるだけである。そのようにして、それであるから……キリストの神人性の真理は、間接的に啓示の真理を言い表すことができる」。このような訳で、「われわれは、啓示概念を詳述する際、当然、脈絡の中に含まれているところのそのキリストの神人性の真理を、特にまず第一に目にとめることによって、新約聖書の中で証しされているすべての真理が指し示している<方>をみるようにと呼び出されている。すなわち、直接的に・あからさまに神人性について語られていないところででも言おうとされ証しされている方の方へと視線を向けるようにと呼び出されている」。「厳格にとるならば、われわれは、〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――〕このキリストの神人性の真理を本当に理解するためには、直ちに新約聖書の証言全体を同時に語らなければならない」。「このことが果たして起こるのか起こらないかということについての決定は、<対象>から下される」、換言すればイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>から下される、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断による<客観的な>「存在的な<必然性>」とその主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」の出来事が起こるか起こらないかということから下される、そしてその出来事が起こるか起こらないかということは、「神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」。
ここで、われわれは、「神の子はナザレのイエスと呼ばれる、ナザレのイエスは神の子である、という二重の命題に立ち向かう」。「イエス・キリストの<名>こそが、事実主要なものであり、それ故にキリスト論的告白も、かかるものとしてイエス・キリストの<名>と、この<名>が言い表しているところの実在〔「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)〕をただ表現することができるだけである副次的なものでしかないということは、……この告白が二重の軌道を持っているという姿の中で示される」。第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である「教会の<客観的な>信仰告白の文書であり、キリストの神性についての教義の最も重要な文書であるニカイア・コンスタンティノポリス信条」の「光よりの光」は、「おそらく先ず第一に、教父たちによって特に好んで用いられた、太陽および太陽光線という比喩である」。「光源である太陽」としての「父は、自分自身以外の何ものからでもない」ところの、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)として、「父の比喩であり」、それ故に「その太陽光線」は、「三位一体の神」の「根源」(「起源」)としての「父が、自分を自分から区別した父を根源とする子、子としてのイエス・キリスト自身の比喩である」。「キリスト論的な告白が証している起源的な唯一の光については、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的なそれ故に、完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、われわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるということからして、〕いかなる命題もない〔いかなる命題も不可能である〕」。このような訳で、「起源的な唯一の光そのものについては、ただイエス・キリストの<名>が証しすることができるだけである〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――このただイエス・キリストの<名>が証しすることができるだけである〕」。「新約聖書のテキストの中においては、イエスの中でまさしく神が見出される、また神はまさにイエスの中で見出される」。「イエス・キリストは、啓示者〔言葉の語り手〕である父なる神の子としての啓示ないし和解の実在そのものとして父の啓示〔「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)〕であり、父の啓示は、啓示者〔「言葉の語り手」〕である父なる神の子としての啓示ないし和解の実在そのものとしてのイエス・キリスト自身〔「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)〕である」。「新約聖書の証人たちが、イエス・キリスト―実在の中で、換言すればイエス・キリストの<名>の中で見出したもの、あるいはむしろイエス・キリストからして新約聖書の証人たちの身に及んだところの照明は、神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一であるという認識か、<それとも>一人のこの人間、ナザレのイエスは、神の子あるいは神の言葉と同一であるという認識である」。「新約聖書の通則は、(中略)……ヨハネ文書に関しては、そのキリスト論は、全体として、前者のタイプのキリスト論に属し、……また共観福音書に関しては、そのキリスト論は、後者のタイプのキリスト論に属し、……パウロにおいては、……両方のタイプのキリスト論がほぼ均等に代表されている」。「Ⅰヨハネ一章一節、二-三節、エフェソ四・一〇、ピリピ二・六以下の箇所においては、両方の陳述が、……直接隣り合って出会っている」。
(1) 「新約聖書の中には、神の子は、この<人間>である〔すなわち、区別を包括し単一性において、「神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、キリストは<イエス>である〔すなわち、区別を包括し単一性において、「キリストは、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕という命題がある〔新約聖書の中の「第一の認識」〕」――この「新約聖書の命題を、仮現論的キリスト論が言おうとしている意味で受け取ることは、考え得られる限り最もひどい誤解であり、邪道的な受け止め方である」。何故ならば、類的機能を持つ自由な人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」と関わる「仮現論的キリスト論が、人間の手によって起草され、それ故に〔聖書の中で証しされている〕すべての啓示の前に、すべての啓示なしにも、すでに〔人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物に過ぎない〕固有な神性についての理念を〔聖書の中で証しされている〕神性と同一視することによって、仮現論的キリスト論は、確かにイエスを高く評価することができるが、しかしそれはまた〔聖書の中で証しされている〕イエスなしにもすますことができるのである〔すなわち、仮現論的キリスト論にとって、イエスは大切ではなくて、ただキリストが、換言すればそこで前提され携えもってこられた〔人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物に過ぎない〕キリスト概念あるいはロゴス概念あるいは仲保者概念だけが大切なのである〕。それは、ちょうどイエスに〔人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物に過ぎない〕神性の衣を着せたように、イエスから〔すなわち、聖書の中で証しされている「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」の〕神性の衣をはぎ取ってしまうことができる」キリスト論である。「神性否定のキリスト論」の「仮現論的キリスト論は、イエスの神性について語る時にも、イエスの中で具現化され、実現化された理念の神性のことを考えているが故に、神性はただまさしく〔聖書の中で証しされている〕<イエス>の中でのみ、そしてイエスの中で<完全に>具現化され、実現化されるということを認めることができないのである」。この仮現論の「神性否定のキリスト論におけるイエスは、集団主義的なものとしてよく知られた先在的ロゴス……世界救済者としての最深の本質、最高の理想、ひとつの理念、一般真理の人格化されたナザレのイエスのことである、ひとつの理念、一般真理等のために要請されたナザレのイエスのことである」、「地上の現実存在の具体的な人間性、究極的には……〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」を恣意的独断的に捨象されたところの、〕その人間性の歴史的実在性を揚棄された神的実体の一つの類似性、象徴として信じられたナザレのイエスのことである」。ここで、「イエスは、上から歴史の中へと……下ってくるところの超歴史の寄生根である。すなわち、イエスは神的現臨の最も完全な象徴である」。このような訳で、「人は、神の子は、この<人間>である〔すなわち、区別を包括し単一性において、「神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、キリストは<イエス>である〔すなわち、区別を包括し単一性において、「キリストは、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕という、という新約聖書の命題〔新約聖書の中の「第一の認識」〕を、この命題が、まさに仮現論的キリスト論に対してこそ真っ向から反対しているということを理解するときにのみ、理解することができる」。仮現論者たちは、イエスの中に、彼らの人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物に過ぎない「キリスト―理念、あるいはロゴス―理念、あるいは神の子―理念という<理念>が成就されているのを見出すべく、その彼らの<理念>で武装されて、イエスのところに来たのである」。しかし、「新約聖書の証人たちは、何よりも先にまず第一に、イエスの中で、そのほかのところでは、またイエスのところに来るまでは、決して信じたことがなかったし認識したことがなったところのことを、すなわち「神の子は、この<人間>である〔区別を包括し単一性において、「神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、キリストは<イエス>である〔すなわち、区別を包括し単一性において、「キリストは、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、という新約聖書の命題〔新約聖書の中の「第一の認識」〕を信じ、また認識したのである」。言い換えれば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として「『父のもとにいました生命』、神ご自身の、まことの現臨としての神的派遣および神的業の実在〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)ということを信じ認識したのである。このような訳で、「彼らは、〔「イエスの神性についての承認」としての〕神の子あるいは神の言葉についての彼らの概念を携えて〔すなわち、「彼らの信仰であり、彼らの認識であり、彼らがイエスのもとでなした発見であった」ところの、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「啓示との<間接的>同一性〔啓示との区別を包括した同一性〕」における「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の<概念>の実在」を携えて〕、まさにイエスご自身にところに来たのであって、決してそれ以外のところから来たのではなかった、イエスの神性そのものが、それであるからイエスの神性のあますことろのない完全な承認ということが彼らの道のはじめにある事実的なものであった。この事実的なものなしには、彼らの道は全く考えられないことであった」。新約聖書の証人たちは、「単一性と区別」(区別を包括した単一性)における、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」としての「イエスの中で<はじめて>、そして<ただ>イエスの中で<だけ>、そしてイエスの中で<完全に>、神性を見出したということを語ったのである」。
「ヨハネ一・二で、このものは、初めに神と共にあった」と言われている。「このものは、……<肉>をとったロゴスそのものが〔すなわち、「単一性と区別」における、区別を包括した単一性における、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」が〕、われわれの間に<宿り給うた>ことによって(ヨハネ一・一四)〔われわれの間に、われわれ人間の類の中に、人間の類の時間性に中に、われわれ人間の世、歴史、社会の中に、<宿り給うた>ことによって〕、その栄光をわれわれが<見た>そのロゴスである」。「ヨハネ一・一七ではじめて、恵みと真理としてのイエス・キリストの<名>が、その証人であるモーセおよび洗礼者ヨハネの名と具体的に対置させられて出てくる」。したがって、「イエスご自身が、<わたし>はそれである、生命のパン(六・三五)、世の光(八・一二)、羊の門(一〇・七)、よき羊飼い(一〇・一一)、甦り、生命(一四・六)、まことのぶどうの木(一五・一)である、と語り給う。そして、ベタニヤのマルタは、……<あなた>こそこの世に来るべきキリスト、神の子です、と言う(一一・二七)。また、ペテロは、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。私たちは、<あなた>こそが神の聖者であることを信じ、また知っています(六・六八以下)」。「二〇・三一で、この福音書を記した目的が、……これらのことを書いたのは、あなた方が、<イエス>は神の子キリストであると信じるためである、と記されている。ヨハネ福音書は、特徴的に<イエス>―福音書である。言い換えれば、それが、<イエス>こそキリストであるということを言おうとしている限り、特徴的に<イエス>―福音書である」。「初めからあったもの、命が<現れた>、使徒たちによって<見られ>、<聞かれ>、<手で触れられ>、<それ故に、それに基づいて>、彼らによって宣べ伝えられたというⅠヨハネ一・二の指摘でもって、ヨハネ福音書一・一-八の主題が取り上げられている」。「Ⅰヨハネ四・二によれば、霊は、イエスが、肉体をとってこられたことを告白するものと、告白しないものとに分けられる。したがって、仮現論的な意味で告白するものは、反キリストである」。「Ⅰテモテ三・一六の背後には、ローマ八・三がある」。「また、ガラテヤ四・四では、時の満ちるに及んで、神は、み子を女から生まれさせ、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました、と言われている」。「また、ピリピ二・六以下では、……僕のかたちをとり、ご自分の存在を人間と等しい様でおもちになり、人間の姿になられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、その僕としての従順を確証し給いながら、神の存在の仕方〔神の第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕の中にいます方が、〔その内在的本質である神性の受肉ではなくて、その外在的本質である第二の存在の仕方における言葉の受肉において〕ご自分を低くし給うた、と言われている。それであるから、まさに彼が、人間存在のその具体的な姿の中で、その道を進まれたことによって、進まれたが故に、神は、彼を高くひき上げ、彼に主の名をあたえ給うたのである」、「イエスという<名>そのものが、主の名である(Ⅰ一二・三、ローマ一〇・九)。わたしたちは、しるしを請うユダヤ人や知恵を求めるギリシャ人と違い、彼らと対立しつつ、〔神の第二の存在の仕方における〕<十字架につけられた>キリストを宣べ伝える(Ⅰコリント一・二三)」。「神が彼に賜った子らは肉と血に共にあずかっているので、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。したがって、イエスも、また同様に肉と血をそなえておられる。それであるから、イエスは、天使の立場をおとりにならず、むしろアブラハムのすえの立場をおとりになった。イエスはあらゆる点において兄弟たちと同じようにならなければならなかった。それは、彼らに対して、あわれみ深くあり、同時に神のみ前で彼らの正しい大祭司であるためである(へブル二・一四以下)。わたしたちは、この方の中で、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではなく、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に合われた大祭司をもっている。<それだから>、わたしたちは、はばかることなく、その恵みのみ座に近づくのである(へブル四・一五)」――「この線全体の上で、キリスト論的陳述は、……神の子は、<人間>となられ、<人間>であり給うである。<それ>こそが、啓示の実在である」。<それ>こそが、「単一性と区別」(区別を包括した単一性)における、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」である。「このことの中で、神は、<われわれのための神>であるという神の自由を確証し給う」。この「神の啓示を信じ、神の啓示を認識するということは、この側面から見るならば、その人間を、そのまま神の現臨および行為として信じ、認識するということを意味している。ケリグマは、ここで、イエス―使信である。すなわち、決してほかの者のもとではなく、実に彼のもとでこそ、救い、ゆるし、生命、支配、永遠の言葉、神の子を発見するということから出発し、それであるから<イエス>はそれらすべてを持ち給い、それらすべてであり給うという宣べ伝えから成り立っている<イエス>―使信である」。「神の子は、この<人間>である〔区別を包括し単一性において、「神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、キリストは<イエス>である〔区別を包括し単一性において、「キリストは、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、という新約聖書の命題が、「このケリグマを、……エビオン主義的キリスト論に特有であるような歴史主義、虚妄な現実主義、被造物崇拝に堕さないように、あるいはそのようなものではないかという嫌疑をかけられることから、守ってくれるのである」。「神性否定のキリスト論のエビオン主義」における「イエスは、個人主義的なものとしての一人の『偉大な人間』の神化、神話化されたナザレのイエスである」。すなわち、「未だかつて聞いたことのない純真さ、自由さ、従順、愛、死いたるまでの真実の生活態度の開始者、宣教者のナザレのイエスのことである、またそうしたキリスト教宗教の創始者、キリスト教会の創設者としてのナザレのイエスのことである」。ここで、「イエスは、超歴史の中へと突入していく歴史の本来的な山頂である。すなわち、イエスは、人間的な生の最高の現象である。エビオン主義的な思惟の宿命的な出発点は、人格性である」。「まさしく十字架につけられた方が主題であるところでこそ、ほかならぬ甦られた方を宣べ伝えることが、その論旨の展開ということにならなければならない〔すなわち、「称賛サレルベキコトが受肉そのものであるところ、まさしくそこでこそ、肉をとった姿の中で見られ聞かれたロゴスそのものを記述するという論旨の展開ということにならなければならない」〕」。「『<イエス>はキリストである』という命題は、イエスは、言葉、光、生命、道、真理であるということである」。したがって、「このことを証明するという目的のために、人間イエスご自身を、ただ〔類的機能を持つ生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使して〕抽象的に、史的に(historisch)だけ知り、知らせるということは問題となり得ない(Ⅱコリント五・一六)」。生来的な自然的な「肉は何の役にも立たない(ヨハネ六・六三)」――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や〔感性、悟性、意志、想像、自然を内面の原理とする禅的修行等の〕力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ(マルコ九・二四)、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。「単一性と区別」(区別を包括した単一性)における、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」としての「具体的な人間イエスについての証言を展開すること」は、「証言が主要なこととして、まず<キリスト>―使信であろうと欲しているところで、換言すればイエスは<メシヤ>であるということが証明されるべきところで、その適当な場所を持っている。また、逆に、<イエス>―使信であろうと欲しているところ、換言すれば仮現論に反対しての論証がなされるべきところ、まさにそこでこそ、イエスの人格および業のメシヤ性、神性の強調が置かれなければならない」。したがって、「人が、とりわけヨハネおよびパウロを、彼らの疑いもなくイエスの人間生活についての霊的な見方の故に、あれ程しばしば一気に仮現論的概念と結びつけて呼んだということは、新約聖書に対してなした多くの悪しきことと並んで、新約聖書に対してなした最も悪い誤解の一つである」。
(2)また、「新約聖書の中には、イエス・キリストについての第一の認識と違って〔すなわち、(1)で述べた「神の子は、この<人間>である」、すなわち区別を包括した単一性において、「神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」、「キリストは<イエス>である」、すなわち区別を包括した単一性において、「キリストは、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」という新約聖書の命題と違って〕、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<神の子>あるいは神の言葉である〔すなわち、区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<神の子>あるいは神の言葉と同一である〕、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>である〔すなわち、区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>と同一である〕という新約聖書の命題〔新約聖書の中の「第二の認識」〕がある」。「この新約聖書の命題においては、人間を理想化すること、あるいは神化することが問題なのではない」。「神性否定のキリスト論」における「仮現論が、首尾一貫して立ち戻って行く人間的な概念から出発しているように、エビオン主義は、人間的な経験から、ナザレのイエスの英雄的な人格についての体験および印象から出発する。そして、この印象および体験に基づいて、その人間に対して神性が帰せられる」。「近代において、『仮現論的』キリスト論は、カント、フィヒテ、ヘーゲルの影響の下に立っている」――われわれは、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にあるヘーゲルの強力な痕跡を持っている」、シュライエルマッハーに、シュライエルマッハー以外の他の人々に、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教神学者、自由主義神学者に、遭遇する(『ヘーゲル』)。また、「『自然』神学」の段階に停滞して、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。
「ちょうど仮現論的キリスト論にとっては、キリストの<まことの人間性>が欠けてしまってよいものであるように、エビオン主義的キリスト論にとっては、イエスの<まことの神性>は最後的には欠けてしまってもよいものなのである。否、最後的な根底においては、エビオン主義的キリスト論にとっては荷厄介なものである」。「人間イエスは、<キリスト>である、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>である〔すなわち、区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>と同一である〕という新約聖書の命題は、そのようなキリスト論と何らかかわりがないのであって、そのようなキリスト論の必然的な詭弁や矛盾と少しもかかわりがないということについて、特にこれ以上駄弁を弄する必要はないであろう」。「この人間イエスは、<キリスト>である、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>である〔すなわち、区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>と同一である〕という新約聖書の命題は、ただまさにエビオン主義的キリスト論との対立の中で考えられ語られたということを見て取る時、人ははじめて理解することができる」。「この新約聖書の命題を考え語った新約聖書の証人たちは、その命題でもって、……一人の英雄に、あるいは賢者に、あるいは聖人に出会った……少なくとも最も感激した瞬間において、さし当りただ神の言葉あるいは神の子ということが残るということを言おうとしたのではない。そうではなくて、そこでもイエス・キリストの神性の認識は、すべての体験や起こり得る感激に先行しているのであって、道の<はじまり>であった」。したがって、「新約聖書の証人たちが、イエスの中に、英雄的な、聖者的にふさわしい特徴を、賢者の特徴を、『偉大な人間』の特徴を見出すとしても、……彼らがイエスに関して持ったし、イエスについて語らなければならないところの起源的なもの、本来的なものが尋ね求められるべきであるということについては〔すなわち、「はじめの認識、根本の認識」、「われわれは<神>に出会った、われわれは<神>の言葉を聞いた」ということが尋ね求められるべきであるということについては〕、何ら語ることはできない」。「そこでは人間的な下方から神の上方へ考えられているのではなく、むしろ神の上方こそが、人間イエスの中で彼らに経験されたのである、ちょうど新約聖書の証人たちにとっては、イエスの人間性の中でこそ神性が彼らに出会ったのであるから、イエスの人間性がほんの少しでもどうでもよいものとなり得なかったように、そのように、イエスの神性こそ、その人間性の中で彼らに出会ったのであるから、いまやイエスの神性も、ほんの少しだけでもどうでもよいものとなり得なかった」。「新約聖書の証人たちは、人が近代になって好んで彼らになすりつけた、イエスを信じる彼らの信仰とイエスが誰であるかを知る彼の認識の概念と定式を、軽率に自分のものとするようなことは、彼らにとっては全く思い及ばないことであった」。「むしろイエスがメシヤであり、神の子であるという概念は、彼らがイエスについて考え語らなければならなかったところの、まったく決定的なことであった。彼らが経験していたとすれば、それは、神の子あるいは神の言葉の現臨についての経験であった。それが、経験として口に出して語られた時、それは、はじめから神の子あるいは神の言葉についての証言に奉仕していた。『イエスは<神の子>である』という命題は、はじめからそれと対応している命題、すなわち『言葉が肉となった』という命題と同様、徹頭徹尾それ自身の中で確実な命題である。両方の命題とも、彼らによって語られる時、それは、綜合的な命題ではなく、むしろ〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性における〕解析的な命題である」。バルトは、『神の人間性』で、「神の子は、この<人間>である〔区別を包括し単一性において、神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、キリストは<イエス>である〔区別を包括し単一性において、「キリストは、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕という命題〔新約聖書の中の「第一の認識」〕」と「一人のこの人間、ナザレのイエスは、<神の子>あるいは神の言葉である〔区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<神の子>あるいは神の言葉と同一である〕、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>である〔区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>と同一である〕という新約聖書の命題〔新約聖書の中の「第二の認識」〕について、区別を包括した単一性において簡潔に、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と述べている。「単一性と区別」(区別を包括した単一性)における、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」としての「具体的な人間イエスについての証言を展開すること」は、「新約聖書の証人たちにとって主要なことであった」。「この意味で、共観福音書記者たちは、ヨハネ的なイエス福音書と違って、<キリスト>福音書として理解されることを欲している」。「共観福音書記者たちは、内的に、事柄から見て、……人間ナザレのイエス、『大工の子』(マルコ六・三)が死人からの甦りの中で、またそこから後ろを振り返ってみて、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にして(「神の顕現」)まことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>、「イエス・キリストの人間性の現実存在」としての〕彼の言葉と行いの中で、ご自分が、〔「自己自身である神」(「ご自分の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われれない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、〕メシア、神の子であることを実証し給うたという事実から出発する」――「このこと、彼の甦りの中で出来事となって起こっていること、一人のこの人間、ナザレのイエスが、神として、主として、ご自分を啓示し給うということこそが、彼らが語り証明しようと欲していることである。このことは、彼らが、外面的にまさに彼の人間性〔「イエス・キリストの人間性の現実存在」〕から、甦り以前の彼の生から出発しなければならないということを意味している」。「神が、<イエス>の中で〔一人のこの人間、ナザレのイエスの中で〕、<人間性>をおとりになったということこそが、ヨハネが述べようとしている大いなる秘義である」。また、「この人間の中で〔一人のこの人間、ナザレのイエスの中で〕、神が、<キリスト>の神性が、われわれの間に現れたということが〔すなわち、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」(「キリスト復活四〇日の福音」)、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、「まことの過去とまことの未来を包括したまことの現在」としての「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」から「『攻撃』されたわれわれ人間の時間」(・世)、「われわれ人間の『失われた』時間」(・世)、「われわれの人間の『否定された時間』」(・世)、「われわれ人間の『否定的判決の時間』」(・世)、「われわれ人間の『失われた非本来的な古い時間』」(・世)の間に現れたということが〕、共観福音書記者たちによれば、同じ秘義である」。「イエスの洗礼に際して語られた天からの声(マタイ三・一七およびその平行記事)、山上の変貌に際して語られた天からの声(マタイ一七・五およびその平行記事)は、共観福音書によれば、……あなたは、洗礼を受けるためにヨルダン川にやってきたすべてのほかの者たちと違って、<わたしの愛する子>、<わたしの心にかなうもの>である。あなた方はこれに聞け、と述べられている。神の子を、ほかのすべての人間たちの間にまさって立っているナザレのイエスの中で抜擢し・発見し・啓示するということが、福音記者たちが、甦りの証人として、全線にわたって由来してくるところの論証し宣べ伝えようとしている解かれた問題、下された決断である。そしてそれを、彼らは、いまやまた全線にわたってそのようなものとして論証し宣べ伝えようとしている解かれた問題、下された決断である。福音書記者たちの記述全体は、不断に謎を立て、謎を解くことである。立てられた<謎〔問い〕>は、……イエス・キリストの<人間性>である。その謎を解くということは、繰り返さなければならず、その謎の解答を彼ら自身いくら聞いても十分聞きすぎることはあり得ず、その解答を彼らはまた彼らの読者たちにただ謎を解きつつ提供しようと欲しているのであるが、その<解答>は、イエス・キリストの<神性>である」。「それは、マタイおよびルカによる福音書の中に出てくる前史の中で述べられているマリヤの受胎と懐胎の啓示された秘義である。そのマリヤの受胎と懐胎は、その謎の解答である<名>がインマヌエル、神われらとともにいます(マタイ一・二三)と呼ばれる男の子を生むであろう処女についての預言者の言葉(イザヤ七・一四)の成就である。それは、……悪魔にとってもまったく明らかであり(マタイ四・一以下およびその平行記事)、悪霊たちも直ちにそれを言い当てて叫び声をあげ(マルコ一・二四、五―・七)、知らずして学者たちも少なくとも外からそれにふれており(マルコ二・七)、エリコの二人の盲人の助けを求める叫びからほとばしり出(マタイ二〇・三〇)、宮にいる子供たちによってダビデの子にホサナと叫ばれ(マタイ二一・一五)、十字架のもとにいいた異邦人百卒長が、『まことにこの人は神の子であった』と厳粛に告白しなければならなかった(マルコ一五・三九)ところの秘義である」。「共観福音書の中に出てくるキリスト論的高所は、……人々は人の子(あるいは、わたし)は誰であるかと言っているかという問い (マタイ一六・一三以下)に対して、人々は、バプテスマのヨハネ、エリア、あるいは預言者の一人だと答えるが、しかし、「<あなたがた>〔弟子たち〕は、わたしを誰というかという問いに対して、ペテロ〔「教会の信仰告白」〕によって、『あなたこそ生ける神の子キリストです』という告白がなされる」。「メシヤの名に対する『人の子』というイエスの自己称号、尊称は、(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい。逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べているというように理解した方がよい」。「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠しを意味している」。「人は、……新約聖書のこの線全体の実質的内容は、すべての福音書および書簡を貫いており・すべてを担っているところの、甦り―使信および昇天―使信であるということである、ということに注意しなければならない」。「十字架上で死に給うた方、そのことの中でご自分が人間であることを実証し給うた方、そのこと中で彼の受肉を完成し給うた方、しかしそのことの中でまた神性の隠れの中にい給うた方が、三日目に死人の中から甦られ、父の右に座し給うということこそが、メシヤ的な<しるし>としての奇跡もただ指し示すことができるだけであるところのイエス―謎の解答であり、それこそ、受肉そのものに対する偉大な対となるものであり、すべてのエビオン主義的キリスト論に対する決定的な反駁である」。このような訳で、「それこそ、この第二の側面から見たイエス・キリスト、『神われらとともに』という<名>で呼ばれる子、父なる神の右にいます人間である」。この側面から見て、「啓示の実在を認識するということ」は、一人のこの人間、ナザレのイエスという「この人間の中で神が現臨なさり、神が行動し給うということを認識ことである」。「またここでも、ケリグマは、イエス―使信である。まさにイエス―使信としてこそ、それは<キリスト>―使信である」。したがって、まさにそこで「ヨハネやパウロとは全く違った程度に、ケリグマの『内容充実』へと、イエスの甦り以前の、そしてイエスの甦りを度外視しての、イエスの人間としての生活についての証言への展開へと来なければならないのである」。「そこで言おうとされていることは、証明されるべきことは、神の子であること、甦られたキリストである」。「そのことを証明することは、明らかに、一人のこの人間、ナザレのイエス、彼の人間存在の中で同時に、彼の神性の、真の証人であるところの十字架につけられた方を記述するという形以外の仕方ではなされることはできない」。「ここでは、具体的に歴史的な見方が第一であり、霊的な見方は第二でなければならない。(中略)人は、ルカに対して、ちょうどパウロに対してそれは仮現論であると言って非難することができないのと同じように、エビオン主義的歴史主義だとして非難することはできない。ルカの歴史的――心理学的注意力は、神にして人である方についてのまさに<反>エビオン主義的な命題を明らかにすることに役立っている」。「<史実的に>確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは、迷信に基づく。<歴史家>たちがそれとして確証できるすべてのことよりも、はるかに確実に、じっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得るのであり、そのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠をもっている」。したがって、「史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事、ポンテオ・ピラトと使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、出来事として起こったもろもろの歴史について語っているという点にある」。
新約聖書の証人たちは、「まことの神を人間と呼び、まことの人間を神と呼ぶ時、最後から一歩手前の言葉〔「イエス・キリストの<名>」〕を語っているのであって」、それ故に彼らが、両者の「綜合命題ではないところの最後の言葉を語る時、彼らは同一のことを語るのである」。それは、「まさに〔その両者の「単一性と区別」、区別を包括した単一性における〕イエス・キリストの<名>であり、この<名>をあげることによって、彼らはいわば、そのように呼ばれ給う方ご自身が、言葉〔「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉〕を語り給うであろうということを欲しているのである」。このような訳で、「共観福音書がパウロに対するある種の対立の中で書かれたということ、そしてまた共観福音書に対するある種の対立の中で、第四福音書が書かれた」のであるが、「証明主題と証明が著しい仕方で交差し合っているという事実が、それとしてそのまま、キリスト―福音でないようなイエス―福音は宣べ伝えられておらず、またそれがそれとしてそのまま、イエス―福音でないようなキリスト―福音はない」。そこでは、「ただ相対的に相対して立っているだけであって、決して互いに否定しあったり、ましてや除去し合ったりすることのない、〔「イエス・キリストの<名>」としての〕<一つの>実在についての証言が問題であっただけであるということは、教会史の中での〔その「単一性と区別」、その区別を包括した単一性に対して自覚的でないところの、キリストの人性を強調する〕アンテオケ的キリスト論と〔その「単一性と区別」、その区別を包括した単一性に対して自覚的でないところの、キリストの神性を強調する〕アレキサンドリア的キリスト論の間の対立、それからルター的キリスト論とカルヴァン的キリスト論の間の対立に対して態度を決めなければならない時、人は、よく考慮しなければならないことである」。われわれは、「確かに、ヨハネ的タイプのキリスト論の線上でエウテユケスのキリスト理解を、そして後にはルターのキリスト理解を尋ね求めなければならないであろう」し、「共観福音書的タイプのキリスト論の線上でネストリオスのキリスト理解を、そして後にはカルヴァンのキリスト理解を尋ね求めなければならないであろう」。
「われわれが、新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉は、イエス・キリストの<名>である」。われわれが、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「その最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「イエス・キリストの<名>を超えて聞くべく手に入れるところのもの、それは、人間となり給うた神の子についての証言、神の子であり給うた人間についての証言である」が、それは、「思惟の体系の中でではなく、思惟の<道>の上で〔すなわち、具体的には、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として〕」、「第一のもの中で直接に第二のものを、第二のものの中で直接的に第一のものを、そして両方の中で一つのものを聞くということである」。したがって、『神の人間性』では、次のように述べられている――「神の神性において、また神の神性と共に、<ただちに>また神の人間性もわれわれに出会う」、「第二の方向転換としての神の人間性の主文章化は、第一の方向転換の神の神性の主文章化と対立関係にあるのではなく」、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、その「区別と単一性」、区別を包括した単一性を自覚したところの、あくまでもある時代と現実に強いられた言表なのである。したがって、「神の神性において」という言表から明らかなように、「神の人間性の主文章化」のその背後には「神の神性」が保存される構造となっている。したがってまた、バルトは、「聖書の主題であり。同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている。このような訳で、バルトは、あくまでもある時代と現実に強いられたところで、「一方が中心部から周辺へ、強調された主文章からさほど強調されない副文章へ」とベクトル変容するだけであると述べているのである。「われわれに対して、新約聖書の中で神の啓示の実在として証言されていることを、そしてただそのことだけを理解しようとしているキリスト論について、……そのようなキリスト論は、そのすべての成果において、結局ただ<試行>であることができるだけである」。しかし、その<試行>の中ででも、それが、「最後の言葉、イエス・キリストの<名>を指し示している時、そのことは、決して偶然ではなく、むしろ必然である……」。
「二 イエス・キリスト、啓示の客観的可能性」
「イエス・キリストという<名>の保持者について語らなければならない最初にして最後のことは、まさに……彼は、まことの神〔「神の顕現」〕にしてまことの人間〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」〕であるということである。この意味の単一性の中で〔この意味の「単一性と区別」、区別を包括した単一性の中で〕、彼は、神の啓示の客観的実在である。このイエス・キリストの存在は、人間のためにいます神の自由である。あるいは逆に言って、人間のためにいます神の自由は〔換言すれば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)の神の第二の存在の仕方における神の自由は〕、イエス・キリストの存在である」。われわれは、キリストにあっての「神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、自己運動する自分自身から生きる存在として理解する」。したがって、「自己運動する神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、神が愛し給うことを、それ自身の故に愛する愛として、無条件的な、自分で自分の根拠と目的を措定する、徹頭徹尾主権的な愛することとして、理解する」。「この精密規定なしには、すなわち〔キリストにあっての〕神は生き、愛し給うという独一無比性についての表示なしには、われわれは、〔キリストにあっての神としての〕神が生き、愛し給うことではなく、〔人間の想像能力・思惟能力・表象能力によって〕一般的に生きることと愛することについて語っているのであって、〔キリストにあっての神としての〕神については語っていないのである」。まさに「この精密規定は、……自由という概念によって与えられている」。「生きる方、愛する方としての〔キリストにあっての神としての〕神の存在は、自由の中での神の存在である」。そのように「自由に、神は生き愛し給う。神は、自由の中で生き、愛し給うという仕方で、またそのことの中で、神であり、ご自身を、そのほかの生ける者、愛する者から区別し給う〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、そのほかの生ける者、愛する者から区別し給う〕。そのような仕方で、自由な人格、<われ――存在>として、神は、ご自身をその他の人格から区別し給う」。また、キリストにあっての「神の自由」は、先ず以て「自己自身である神の自由」、すなわち「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の自由としての「自存性の概念〔「神の自由の概念の積極的側面」〕<と>神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由、すなわち「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における自由、換言すれば起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における自由としての独立性の概念〔「神の自由の概念の消極的側面」〕との<全体性>において定義されなければならない」。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係としての神の創造と和解の概念<と>神の全能、遍在、永遠性の概念は、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけからの神の自由としての独立性の概念に言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。したがって、キリストにあっての「神の自由」は、その「神の自由の<全体性>における認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方でなすことができるし、なすのである」。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神の自由を、神とは異なるすべてのものに対して持つところの神の優位性を、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけ〔外的条件づけ〕からの神の自由〔「独立性としての神の自由」〕としての神の相違性〔差異性〕そのものの中でだけ見ているだけでなく、神がそれらを実証することによって、それ故に外的条件づけからの神の自由に相対しても自由〔「自存性としての神の自由」〕であり、この完全な自由を放棄することなく、創造主、和解主、救済主として、神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で、神の真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由〔「独立性としての神の自由」〕であり、ご自身の中で自由〔自存性としての神の自由〕である、その神の自由の<全体性>の中で見ている」。「啓示の客観的実在とは、われわれが聞き、われわれに向かって語られたとして、そのまま受け取ったことを<理解しよう>とする時、われわれが、そこから読み取らなければならない文字板である。われわれは、この道を、一七世紀の二人の改革派神学者、F・ブルマンとF・トゥレティの中に持っている。F・ブルマンとF・トゥレティは、先ず聖書から、一、メシヤが現れた、二、イエスこそメシヤであるということを示そうと試みた。それは、その後、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕その<事実>からしてその理解へと、換言すれば受肉の概念を説明することへと進むためであった」。
そのような訳で、われわれは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「神の啓示の実在の中で前提され、また認識できる可能性そのものを、それとして目にとめることによって、啓示の実在を、われわれによって立てられなければならない<問い>の<答え>として理解する」。したがって、「その時には、これまでの論述からして、すでに前もって立てられた一般的な問い、〔「人間学の後追い知識」としての〕自分勝手に立てられた神学的―人間学的問い、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストの実在に対して、いわば外から問われている問いは問題ではあり得ない」。「問題は、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストの実在を通して、われわれの中に呼び起される問い、われわれに対してイエス・キリストを通して投げ掛けられる問い、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストの実在そのものを通して、イエス・キリストの実在そのものとの関係の中で意味深く必然的な問いである」。言い換えれば、「イエス・キリストの存在が、人間のためにいます神の自由と同一であるという事情は、どの程度までのことであるのかという問いが問題である」。「そもそも知解することにならないところのものは、決して信じることではないであろう」。客観的実在としての「神の啓示が問題である時、<われわれに>対する神の関係が、われわれに立ち向かい給う神の実在が、問題である」。その時、われわれが、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「もしも聞き理解しようと欲しないならば、認識し信じることをしないならば、われわれがそこで関りを持たなければならないであろう相手は、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕神の啓示ではないであろう」。
さて、「キリスト論の基礎的部分は、〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕<教会>教義学のプロレゴメナ、基礎づけに属しており、〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の〕言葉の受肉についての教説であり、それは、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の〕テキストを問う問い、事実質問〔「存在質問」〕を扱う」。それに対して、「キリストの人格と業についての教説におけるキリスト論は、神の啓示が人間に及ぶところの和解についての教説の内部にあり、「テキストの注釈を問う問い」、「了解質問」(「認識質問」)を扱う」。この時、「事実質問が了解質問に先行しなければならない」、また「事実質問の後には必ず了解質問が続かなければならない」。バルトは、この時、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼する」のであり、それ故にあの<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」(それ故に、「理性主義」、「主知主義」とは違っている)に信頼するのである。それは、「啓示によって示される基礎に基づくものであり、〔類的異能を持つ生来的な自然的な人間の自由な自己意識・思惟・〕理性による基礎に基づくものではない」。「イエス・キリストの<名>は、人々が啓示を理解すべきであり、啓示を理解できる際の、第一のこと、決定的なこと、すべてを包括することである。イエス・キリストの<名>にのみ、救いが存在する、義と聖とあがないがある、知識と知恵がある。足のきかない人が元気になる」。したがって、「先行的な事実質問に後続して了解質問を持たない時、その事実質問は誤った仕方で立てられ、答えられることになるし、啓示の実在に対して、怠惰さ、無意味さ、参与しない態度をとることになる」。
バルトは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示の実在を通して、われわれの中に呼び覚まされ・われわれとしてとにかく取り上げなければならない問いを、啓示の<可能性>を問う問い――われわれの文脈の中では、啓示の<客観的な>可能性を問う問いと呼ぶ」、と述べている。「われわれは、この問いを、<神の啓示が人間の身に及ぶのは、どのような具合に、神の自由の中で可能であるのか>と定式化する。どの程度まで、イエス・キリストの実在は、換言すればこの<名>でもって表示されている神と人間の単一性〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性〕は、人間に対する神の啓示であることができるのか」。われわれは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にして(「神の顕現」)まことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――この「イエス・キリストの実在は、事実、人間に対し示される神の啓示で<ある>ということを前提する」。すなわち、われわれは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示そのものの中で、啓示そのものを通して前提され・基礎づけられた、そしてただ啓示そのものからして、啓示そのものの中で認識されるべき可能性を問うのである」。われわれは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にして(「神の顕現」)まことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――このイエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼する」。「啓示の実在そのものが、人間となり給うた神の子、神の子であり給う人間であるイエス・キリスト自身が、言うまでもなく一つの<問い>に対して<答えている>のである、<答え>である」。このような訳で、「イエス・キリストのその存在そのものが、神の自由であるところの啓示の客観的可能性であるということを、われわれに向かって語らしめることにしよう。そうすると、われわれは、当然のこと、啓示の客観的可能性としてのイエス・キリストの存在ということを理解しなければならない課題の前に立つ。まさに現にあり給うままのイエス・キリストが、明らかに〔神の第二の存在の仕方における〕啓示の業と働きに関して必要なのである。この必要であるということを問うわれわれの問いは、……われわれが、聖書の中で証しされている啓示の中で成就され・実現されているのを見出すことを通して、われわれに対してあらかじめ指示されているのである」。このような訳で、「われわれが啓示を理解しようとする時、その問いそのものを与えられた答えとの関連の中で、またその答えそのものを、そこで答えられている問いとの関連の中で、理解するということがわれわれに課せられているのである」。
「その問いと答えを……見て取るために、われわれに対し聖書の中で証しされているイエス・キリストの実在は、われわれに対して<厳格に批判的な>意味を持っている……。すなわち、それは、われわれに向かって、神のその人間存在の中でのみ・その人間の神存在の中でのみ、われわれのために自由であり給うということを語る」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示そのものの中で、啓示そのものを通して前提され・基礎づけられた、そしてただ啓示そのものからして、啓示そのものの中で認識されるべき可能性を問うのである」。われわれは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にして(「神の顕現」)まことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――この「イエス・キリストの実在は、自分自身を秘義として、そしてまたその秘義のしるし、すなわち奇蹟として、換言すれば人間に出会っているそのほかのもろもろの実在の世界の通則からの例外として特徴づけている。イエス・キリストの実在は、神を、そのイエス・キリストの実在そのものを度外視しては、人間にとって<隠れた>神とする。また、人間を、その同じイエス・キリストの実在そのものを度外視しては、神に対して<盲目の>人間とする。〔このような仕方で、キリストにあっての「神は、われわれのための神の自由を証明し給う」〕。イエス・キリストの実在は、それが持っている例外的な性格に対応した例外的な仕方で証しされ、認識されることを欲している」。何故ならば、イエス・キリストにおける「啓示自身が啓示に固有な自己証明能力」を持っているからである。詳しく言えば、イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が、あの<客観的な>「存在的な<必然性>」(「そのものの存在」)とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」(「啓示されてあること」)とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という<総体的構造>を持っているからである。「懐疑論者や無神論者はこのことを知らない」。したがって、「彼らの主張する神の不在性のごときは、全く神の不在性ではない……」。「いやしくも神の不在性を知るためには〔いやしくもキリストにあっての神の聖性・秘義性・隠蔽性、それ故にわれわれ人間の神の不把握性を知るためには〕、彼は、先ず第一に、神を、それであるから神の啓示を知らなければならない……」。キリストにあっての「神は、人が、今日は信じ主張するが、明日は疑い否定することができるような、超自然的な事物に属し給わない」。「神の不把握性も、神に対して人間の理性が全く闇に閉ざされているということも〔神に対して類的機能を持つ生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟が全く闇に閉ざされているということも〕、いずれも一般的な真理ではなく、〔<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(すなわち、<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)、換言すれば神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事における〕啓示の真理であり、信仰の真理である」。「詩篇の作者たちは、……まことの神の不在性について、……彼らは、同時に神の現臨を告白し誇ることができるが故にこそ知っているのである(「例えば、詩篇二二、二八、三九、四二、四四、六九、七四、七七、八〇、八三、八五、八八、八九、一三〇、一三九、一四二、一四三を参照」)」。
そのような訳で、「ただ啓示だけが、現実に、神と人間を、一緒にする<と同時に切り離す>のである」。このことについて、先にも書いたが、バルトは、『神の人間性』では、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と表現している。何故ならば、「啓示は、〔イエス・キリストにおいて〕神と人間を一緒にすると同時に、神および人間自身についての決定的なことを語るからである。言い換えれば、神を永遠からいます主、創造主、和解主、救済主として啓示し、人間を被造物、罪人、死の手に引き渡された者として特徴づけからである。啓示は、人間に向かって、神が彼のために自由であり給い、神が彼を創造し保持し給い、彼の罪を赦し、彼を死から救われるということを語ることによって、そのことを語る」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、わたしにとって隠れています、またわたしは、神に対して盲目である。まさに、この限界を踏む超えるところの啓示こそ、啓示の中でこの限界にも拘らず出来事して起こっている神と人間の共存こそ、まことに彼に対して限界そのものを、いままでかつて聞いたことがない鋭さをもって明らかにするのである」。「この世界に関しての啓示の答えは、この世界のもろもろの実在の中には、神が人間のために自由であり給うような実在は一つもない」ということである。「神の啓示は、われわれに向かって、この世界においては、神は隠れてい給い、人間は盲目である、という決定的な答えを与える」。「このことが、啓示の<厳格に批判的な>意味である」。「聖書の主題であり同時に哲学の要旨である」神と人間との無碍の質的差異を固守するという<方式>の下で、「世界のもろもろの実在のうちのどれか一つの実在が、人間に対して神の啓示であることができる力を持つ」ということはあり得ないことである。したがって、「もしも人間が、彼の世界のもろもろの実在のうちのどれか一つの実在の中に、そのような力があるということをあつかましくもあえて主張しようとするならば、(中略)そのような語りは、ただ事柄全体に対しての、持続的なあるいは一時的な、しかしいずれにしても根本的な無能力から生じてくることができるだけの饒舌でしかないということである」。「もしもわれわれが、イエス・キリストの十字架(死)と復活を仰ぎ見つつあくまで視線をそらさないでいるならば、われわれはほかのほうを見る余裕などないであろう」。「生来、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないわれわれは、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈ら与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠して〕神の放棄を、神に選ばれたお方である〔復活に包括された〕十字架のイエス・キリスト――このイエス・キリストの十字架において認識し(信仰し)、神の選びを神に選ばれたお方である十字架につけられたイエス・キリストの復活において認識する(信仰する)」(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)。
われわれは、われわれにとって、「どの程度まで、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストの実在は神の啓示であることができるのかという問いに対して、ただ根本的には……われわれに向かって神が啓示されるためには、まさにイエス・キリストの実在を必要としている、その限りイエス・キリストの実在は、神の啓示であることができる……と答えることができるだけである」。「われわれが<必要としていること>を、イエス・キリストはなし給うことができるのである」。「そして、ただイエス・キリストがなし給うことができるところのことだけを、われわれは<必要としている>」。「啓示の客観的可能性は、事実イエス・キリストの中での啓示の実在からして読み取らなければならない」。「この啓示そのものを通して、そのほかのすべての啓示の可能性は取り除かれている」。このような訳で、「われわれがこれからなそうとしている個々の説明は、原則的に、まさに、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕イエス・キリストの中での啓示の実在を読むこと・注釈すること以外の何ものでもない」。したがって、われわれは、「イエス・キリストの実在の中で出会うところの神の啓示は、どの程度まで可能であるのかという問いを立て、それから啓示の客観的可能性を、(1)「神が、イエス・キリストにおいて、神ご自身とは異なる実在になり給う卑下、(2)イエス・キリストが、まさに神の子あるいは神の言葉と同一であり給うということ、(3)イエス・キリストが、まさにわれわれに知られた実在世界に属してい給うということ」、(4)いささかも減少させられない仕方で、イエス・キリストが、神ご自身に属しているということ、(5)イエス・キリストの人間存在、換言すれば肉存在、の中に見出そうとするのである」。
(1)われわれは、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示が神からして可能となる際のなり方からして、神は、ただ〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として〕単にご自身の中で神であるばかりでなく、また、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において〕われわれの下でも、われわれの間でも、われわれの世界の中ででも〔われわれ人間の時間と世の中ででも〕、われわれに出会うもろもろの実在のうちの一つの実在として、神であり給うという仕方で、われわれのために自由であり給う」。先にも述べたように、キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神の自由を、神とは異なるすべてのものに対して持つところの神の優位性を、神とは異なるものによってなされるすべての条件づけ〔外的条件づけ〕からの神の自由〔「独立性としての神の自由」〕としての神の相違性〔差異性〕そのものの中でだけ見ているだけでなく、神がそれらを実証することによって、それ故に外的条件づけからの神の自由に相対しても自由〔「自存性としての神の自由」〕であり、この完全な自由を放棄することなく、創造主、和解主、救済主として、神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で、神の真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由〔「独立性としての神の自由」〕であり、ご自身の中で自由〔自存性としての神の自由〕である、その神の自由の<全体性>の中で見ている」。「神の子は、この<人間>である〔区別を包括し単一性において、「神の子あるいは神の言葉は、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、キリストは<イエス>である〔区別を包括し単一性において、「キリストは、一人のこの人間、ナザレのイエスと同一である」〕、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<神の子>あるいは<神の言葉>である〔区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<神の子>あるいは神の言葉と同一である〕、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>である〔区別を包括した単一性において、一人のこの人間、ナザレのイエスは、<キリスト>と同一である〕ということから成り立っているイエス・キリストの実在は、神は、ご自分とわれわれの間の境界を、あるいはもっと一般的に言って、神ご自身の存在と神と同一ではないものの存在の境界を、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、神の側から〕踏み超え給うことができるということである」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えを〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な第二の存在の仕方における「言葉の受肉」において〕肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。したがって、このことは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さずとも、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕神であることを廃めずに、何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿のわれわれ人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように、しかも〔「『自然』神学」の<立場>における思惟と語りにおいて〕混淆〔・共働・協働、神人協力〕されぬように、統一し給うたということを内容としている」(『福音と律法』)。このことは、「高きものがその高さから落ちてしまうことなしに、しかも卑しさにまで身を落とし、自ら卑しい姿の中で現れ給うということ、換言すれば神が人間となり、しかもあくまで神的であり続ける (ニッサのグレゴリー)ということの中で、実証される」。
「被造物へとご自分を低くされることの中で示される神の尊厳さが、いずれにしてもイエス・キリストの実在を通してわれわれに語られるところの最も一般的なことである」。われわれは、「ただ〔啓示の客観的実在である〕イエス・キリストの啓示によって、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕それが<事実>であるという側面において認識し、敬うことができるだけであるとしても、神が、われわれに対して、まさにこのように身を落とし卑下し給うことを示されるということこそ、明らかに、神が、われわれのために自由であり給うために、われわれにとってどうしても必要なことであるということを<理解する>ことができる」、「神が、事実歩み給うた道の後に続いて、……神が、ご自分をわれわれに対し啓示し給うと欲し給うた時、換言すれば神が、われわれのために自由であろうと欲し給うた時、われわれは、……まさに神が、自分自身である〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である〕ことを止めることなしに、われわれの領域の中に歩み入られ、われわれの本質をとり給うたという奇蹟が起こらなければならなかったということを思惟しつつ語らなければならない」。「神は、われわれに対して、ご自分を伝達しようと欲せられた時、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方において、〕ご自分の仲介者となり給わなければならなかった。言い換えれば、神は、ご自身の中で神、しかし同時にまた〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方において、〕われわれの世界の中での実在となり給う」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その内在的本質である神性の受肉ではなくその外在的本質である第二の存在の仕方における言葉の受肉である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――このイエス・キリストにあっての「神が、これら両方のものであり給うということができるということ、この神の可能性そのものが、啓示の客観的可能性であるということ、このことが神の言葉の受肉のイエス・キリストの<名>、イエス・キリストの神存在と人間存在の最も一般的な意味である」。
(2)われわれは、「イエス・キリストの実在からして、神が、われわれのために自由であり給う際、神の<言葉>あるいは神の<子>が人間となるという仕方で、ご自身をわれわれに対して啓示する方法をとり給うたのである」ということを引き出す。「父なる神が、そして聖霊なる神が、人間となり給うたのではない」。われわれは、「このことを理解するために、……神は、父、子、聖霊として、その本質〔その内在的本質〕において一人の神であり給い、そのすべての働きの中で〔その外在的本質である父、子、聖霊なる神という三つの存在の仕方の中で〕部分的な仕方でではなく、全き仕方で、一人の神であり給う……ということを思い出さなければならない」。このような訳で、「まさに〔その外在的本質である「神の三つの存在の仕方」における神の第二の存在の仕方において〕神の<言葉>が、神の<子>が人間となり給うたという命題は、子が父および聖霊と違っている差異性にも拘らず〔すなわち、その「失われない差異性」の中での三度別様な「神の三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における差異性にも拘らず〕、いささかの留保もなしに、……神が、〔その内在的本質である〕<その全き神性の中で>、〔「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない単一性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての〕人間となり給うたということである」。「人間となり給うのは、〔神の〕<子の>存在の仕方の中での〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」父を根源とする<子の>、「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない単一性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方の中での〕、神の一つの本質である〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての神の一つの本質である〕」、すなわち「神であり給う〔神の第二の存在の仕方における〕<言葉>が人間となられたのであって、決して〔その内在的本質である〕神性それ自身が人間となったのではない」。
「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの<父>、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての<子>としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>ということからして、「父、子、霊としての神の存在の仕方には三つあるということを通して……裏づけられている……神の本質の単一性を念頭に置いて〔換言すれば、神の本質の「単一性と区別」、神の本質の区別を包括した単一性を念頭に置いて〕、それ故に神のそれら三つの存在の仕方の間の<内的>単一性〔「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」〕を念頭に置いて、言葉あるいは子は、父なしに、そして聖霊なしに人間となり給うたのではなく、言葉が人間となり給うということは、〔その「失われない差異性」を外在的本質とする〕神のすべての働きにおいていつもそうであるように、〔その「失われない単一性」を内在的本質とする〕<父>、<子>、<聖霊>の共通的な業として理解されなければならないということである」。何故ならば、「失われない差異性」を外在的本質とするその第二の存在の仕方であるイエス・キリストに関わる「啓示ないし和解」は、「失われない単一性」を内在的本質とする「キリストの神性が生じさせる」からである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」は、たとえその人がまことの人間であっても「人間に内在することはないのである」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」。したがって、「その区別された子は父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」。「この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」。したがって、その外在的本質である起源的な第一の存在の仕方に関わる「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの「父だけが創造主なのではなく、〔その外在的本質である第二の存在の仕方に関わる「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての〕子〔子としてのイエス・キリスト自身〕と〔その外在的本質である第三の存在の仕方に関わる「啓示されたること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての〕霊も創造主である、と同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」。「イエス・キリストが父として啓示する神は、われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う神である。したがって、われわれ人間を永遠の生命に導くために、ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられたのである」。
さて、われわれは、ここでもまた、「まさに神の子の中で起こった神の卑下〔すなわち、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」〕を、どのようにして起こったかを理解することが問題であることはできず、ただ……〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕その<事実>を認識し尊重するということが問題であることができるだけである」、「われわれに対して、聖書が神の啓示の中で起こっているとして証しているまさにそのことこそが、神がわれわれのために自由となり給うために、換言すればわれわれにとって啓示されるようになるために必要である」ということを理解することができる。何故ならば、「神が、その一つの本質の中で〔その「失われない単一性」を内在的本質とする中で〕、……その異なった存在の仕方の中で〔その「失われない差異性」を外在的本質とする存在の仕方の中で〕、……孤独であり給わず、一人の子を持ち給う父であるということの中に、神がほかの者に対して、換言すればご自身とは異なる実在に対して持ち給う自由が、永遠から神ご自身の中で基礎づけられているからである」。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で、「神的なものと神的でないものとの間にある全くの非類似性の中で……神の永遠の言葉とその言葉を通して創造された世界の間にはある類似性がある、いや、それ以上である、永遠の・生まれながらの・ひとり子<と>そのひとり子を通して神の養子とされた子供たち、恵みによって神の子供となった者たちの間に、ある類似性がある。この神のひとり子とわれわれの間にある類似性の中に、われわれは、神の啓示の客観的可能性を認識するのである」。キリストにあっての神としての神は、「第二の存在の仕方の中で、言葉あるいは子として、われわれに対し啓示されるようになることが<できる>」。われわれは、「神が、われわれに対し啓示されるようになるために、イエス・キリストの<名>を、言葉、子なる神を<必要としていた>。同様に、神は、われわれに対して啓示されるようにならなければ<ならなかった>」。何故ならば、「神は、永遠の昔からして、すでにご自身の中で、換言すればわれわれが存在し世界が存在した前に、まさに神の言葉あるいは子の中で、われわれのために用意し開いてい給うたからである、われわれに対し身を向けてい給うたからである」。「神の第二の存在の仕方である言葉〔「語り手の言葉」としての起源的な第一の形態の神の言葉〕あるいは子〔子としてのイエス・キリスト自身〕の中での神は、ご自身を啓示することができ、われわれのために自由であることができる神と同一であり給う」。第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「三位一体神学そのものは、啓示の本文ではなく、啓示の本文を注釈しているものである〔聖書の注釈である〕」が、その「三位一体神学そのものからして、……われわれが、父および聖霊なる神についてではなく、まさに子なる神について、子としてのイエス・キリスト自身は、〔外在的本質であるその「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉において〕人間性をとり給うたという時、それは、確かに正しい・まことの・必要な『あてがうこと』であるが、〔聖書の注釈として〕あてがうこと以上のものではないということが思い出されなければならない」。したがって、われわれは、「その命題を、……聖書の中で証しされている啓示の<事実的な実在>とのかかわりの中で、そのような啓示の<事実的な実在>によって制約されながら、相対的に理解することで満足する」。
「まさに神の<子>が人間となり給うということが啓示であることが<できた>ということ、神が啓示し給うという目的のために、まさに神の<子>が人間となり給わなければ<ならなかった>ということ」――「このことを、われわれは、自分自身を啓示の実在の上に置くのではなく、啓示の実在の下に置き、それであるからわれわれの理由やわれわれの三位一体神学的理由に対してではなく、ただ<啓示の実在>に対して、その必然性を承認することによって理解する。われわれの理由は、ただこの実在の必然性そのものを、われわれに明らかにするのに役立つことができるだけである」。「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を持っている。すなわち、<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの(換言すれば、「聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、われわれは、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができ」、また「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たちは、〔受領者と授与者との無限の質的差異の下で、〕神の子供である」が、終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の出自である、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」としての三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)<と><主観的な>「認識的な<ラチオ性>」としての徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性という<総体的構造>を持っている。このイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>の中で、われわれは、神の啓示の客観的可能性を認識する。
(3)「アウグスティヌスが、神ト人間トノ仲保者ハ、神ニ似タモノヲ有スルトトモニ、人間に似タモノモ有シナケレバナラナカッタ、と述べている時、神の柔和さのことを意味している」、また「ルターは、父がそのように定めて下さり、われわれの間に神であり神の様に等しい一人の方、しかも人間であり人間の様に等しい一人の方を置いてくださったことに対して、父に感謝しよう。何故ならば、われわれは人間であり、彼は神であり給うからである。万一これら二者がそのまま互いに出会うならば、人間は粉微塵に粉砕されてしまわなければならない。それ故に、神は、ここでの事情に合わせて下さり、神であり人間である一人の方を手段として、その方によって、われわれが、父のところに近づくことができるようにしてくださったのである、と述べている」。子としてのイエス・キリスト自身は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における言葉の受肉である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」である――この「イエス・キリストは、神を啓示することができる。何故ならば、イエス・キリストは、人間として〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「人間性の現実存在」として〕、われわれ人間にとって、いずれにしても可視的であるからである。このイエス・キリストの可視性の中に入られるということは、神の永遠の言葉が覆われることの中に〔神の永遠のみ言葉が隠蔽されるということの中に〕、空しくなることの中に、受難の中に入られるということである。しかし、まさにこの言葉が覆われること、空しくなること、苦難の中に入られるということが、言うまでもなく、言葉があらわにされ、高められるということ――このことが、啓示が実際に起こるためには、どうしても起こら<なければならない>のである」。「神は、われわれが熟知しているこの形態をおとりになる時に、いわば身を落としてわれわれに合わせ給う」。「アウグスティヌスは、ソノ方ハ、ソノ限リナイ愛ノユ故ニ、ワレワレガ現ニアルトコロノモノトナリ給イタノデアル。彼ハ、神人であり給い、まさにそのような方としてワレワレニ対スル神ノ愛ノアラワレである、と述べている」。このような訳で、われわれが「熟知しているこの可視的な形態の中で、神は、われわれに啓示することが<できた>、……そのことをなし給わなければ<ならなかった>し、われわれは、まさにそのことを<必要としていた>と結論づける時、ここでも、われわれは、ただ神がそのことを実際になし給うたことを感謝をもって振り返り見つつ語ることができるということをよく熟慮しなければならない」。したがって、「われわれが、決してすでに前もって見て取ることのできる〔「『自然』神学」の段階における〕存在ノ類比に基づいてそのことを語ることができるわけではない」。言い換えれば、「われわれに知られた世界が、創造以来特有な仕方でもっており、堕罪にも拘らずその世界の中で認識することができる神の啓示に対する親近性と適正に基づいて、そのことを語ることはできない」。したがって、「神にとってふさわしいことは何であるかということについて、われわれは、前もっての理解に基づいてではなく、ただ徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)の神の第二の存在の仕方における神の言葉の受肉としての<「存在者」>〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」〕の後からの理解に基づいて語ることができるだけである〔言い換えれば、われわれは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)に連帯し連続することができるだけである。そして、その時にだけ、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられたところで現存している第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りは、「正しい内容を持っているということであり、……根本的には……真理が来るということのしるしとなることができる」〕」。その「<最初の、起源的な、支配的なしるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在する」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書が、「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」として客観的に存在している、それから「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である教会の宣教が「啓示の<しるし>」の<しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「ただイエス・キリストの<名>だけ」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――この「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」が<客観的に>可視的に存在している。「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる<偉大な可能性>である」。このような訳で、われわれは、この秩序性に後続して従わなければならない。われわれがこのことを語る時、われわれは、「神が、明らかに必然的だとみなし給うたことを、そのまま受け取る承認のことを語っているのである」。われわれは、聖書の中で証しされている「神の啓示の出来事の中で明らかになってくる神の事実的な意志を、すべての必然性の源泉および総内容として尊んでいるのである。その時、われわれは、われわれに向かって前もって語られたところのことを、後に続いて語っているのである。まさにその後に続いて語りつつ、われわれは、確かに神の事実啓示された意志、神の定メラレタ可能性を、必然的として受認することが許され、受認しなければならない」。
(4) われわれは、「イエス・キリストの実在からして、啓示は、神からして、〔その内在的本質である神性の受肉においてではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の言葉の受肉において〕神の言葉が人間となり、しかも<同時に神の言葉があるところのものであり>、あくまであり続けるという仕方で神がわれわれのために自由であり給うということの中で、換言すればまことの・永遠の神で、〔すなわち、「失われない単一性」を内在的本質とする〕ご自分の中で、父の右に永遠から永遠にわたっていますその同じ方であるし、あくまであり続けるという仕方で神がわれわれのために自由であり給うということの中で可能となる」、ということを引き出す。「永遠の神は、み姿を変えられ、われわれのみじめな肉と血を取り給う(ルター)」。したがって、「神の言葉が人間となることによって、ご自分の身に招き給うところの自分を空しくすること、受難、卑下は、いささかも神的尊厳さを意味しない」。したがってまた、「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、〔「人間に熟知されている形態の下に覆い隠される」〕神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」、「それどころか、…それは、神的尊厳さの勝利を意味している」――「この覆い隠されているこの中で、神の尊厳さは、確かに人間に出会うことができ、その限り神の尊厳さが人間によって認識されることを可能とすることができる」。しかし、「永遠の言葉が、人間によって認識されることが現実のこととなるのは、……死人からのイエスの甦りを通して、あるいはイエスの生涯のすべての言葉と行いがイエスの甦りのしるしである限り、それらすべての言葉と行いを通して、あらわにする働きによってである」。すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」によってである、それ故にその<総体的構造>に基づいてである、その<総体的構造>の中での神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてである、<客観的な>その「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいてである。「まさに覆うことと現わすこと、受肉と甦りが続いているということ(ヨハネ福音書と共観福音書が続いているということ)こそが、……覆い隠すことにおいて、受肉において、われわれが、決して永遠の神性の減少と取り組むべきではないということを示している。したがって、受肉は、ただ単にイエスの神性を覆い隠すことであって、イエスの神性の放棄でもなく、また減少でもないということを示している」。したがってまた、「三日目に死人の中から甦られた方は、明らかに馬ぶねの中で、十字架上で、より僅かにまことの神であり給うたのではない。言葉は肉となることによって、それが以前に永遠の中で、ご自身において、神であり給うたの比べて、より僅かにまことの全き神であり給うのではない。言葉の受肉は、全体的にも、部分的にも、言葉が何かほかにものに変化したことを意味するのではなく、あくまで言葉であり続ける言葉の受肉、言葉が言葉存在であると同時に肉存在であることを意味している」。
「そこでも、われわれは、……そのどのようにをわれわれとして把握できない一つの事実の前に立つ」。しかし、われわれは、「啓示が、その真正の・本来的な意味で出来事として起こるためには、まさにわれわれにとって把握できるものの通則を破り砕くことを<必要としている>ということを理解することができる」。「そのように、神は、ご自身を啓示することができる。また、神が、ご自身を啓示しようと欲し給う時には、いつもそのようでなければ<ならない>のである」。したがって、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている。神の「言葉の受肉は、その神存在において減少せしめられない、ただ覆い隠されるだけの言葉が、神と異なった実在、肉存在の中で、現臨なさることとして、神の啓示であることができる。そのようにして、神は、われわれに対してまさに<神>として<現臨し給う>ことができる」。何故ならば、「人ガモット大胆ナ確信ヲモッテ、真理ソノモノデアル真理、……人間性ヲトリ給イ、信仰ヲ基礎ヅケ、確立サレタ神ノ子ヘト通ズル道ヲ歩ムコトガデキルタメデアッタ(アウグスティヌス)」からである。しかし、われわれは、「そのことを……人間ナザレのイエスの中で〔その人間性の現実存在の中で〕、その神性の制限されないまことの現臨を通して、われわれに啓示し給うことが、事実神のみ心にかなったということを承認しつつ、『必要である』、『できる』、『ねばならない』について語るのである。われわれは、この実在を必然であるとして承認する」。何故ならば、「事実与えられていないような実在の可能性を、聖書の証言から全く逸れてしまうことによってはじめて考察の対象とすることができるような実在の可能性を、確かに事実与えられている実在の中で<実現された>可能性と比べ見て、競合させるようなことは、何の意味もないことである」からである。われわれは、「そのことを前もって知っておらず、ただそのことをその後に続いて語るだけであるという留保の下においてであるが、後者の方の可能性を固くとって離さないでいながら、とにかく……その後者の方の可能性こそが、啓示の客観的可能性であり、それが、啓示の<必然的な>形式である」と言うのである。
(5)われわれは、「イエス・キリストの実在からして、最後に、……神の啓示は、神の子あるいは神の言葉が<人間>となるという仕方で可能となるということを引き出す」。「神の子あるいは神の言葉は、何かある一つの自然的存在となり給うのではなくて、われわれ自身があるところのものとなり給うのである」。われわれは、「例えば、一般的な人間論に基づいて、前もって知ろうと欲することは許されない」。すなわち、われわれは、「神の言葉が、われわれに向かって、あなた方は現にこういうものであると述べているところの者である」。「われわれは<肉>である。<そのようなもの>に、神の言葉自身が、神の啓示の中でなり給うのである。まさに決定的な箇所、ヨハネ一・一四において、一般的に『人間』と言われていないで、具体的に『肉』と言われている。しかし、もちろん、肉とは、人間、人間性、あるいは人間存在を言い表している」。「このような特徴的表示でもって、すでにほかのところから知られたあるいはほかのところから得られるべき人間の概念に、さらに……付加されるというのではなく、むしろ基礎を与え、完結させ、他を排除する仕方で、イエスが『肉』であるということが、まさに人間の概念なのである。それが基礎を与え、完結させ、排除する仕方で人間の概念であるのは、この概念が、現に神の前に立っているままの人間の特徴を表示しているからである」。このことでもって、「『肉』としての人間の自己理解〔・自己認識・自己規定〕は、決してあらかじめ手に入れることができるものではなく、ただ神の啓示された言葉と判決からしてのみ手に入れることがところの自己理解である」ということが言われている。「自分自身を『肉』として自己理解〔・自己認識・自己規定〕することは、神のこの判決を、信仰の中で取り上げることを意味している」。「われわれは、神の正しい裁きと怒りの下に立っており、もしわれわれが失われ駄目になってしまわないで救われるとするならば、それは、われわれの業や功業によってではなく、そのことは神の自由な恵みである。われわれは死の手に陥っている。われわれがそれにも拘らず、死のさ中にあって生きる時、それは、われわれが神を通して永遠の救いに向かっていまここで進んでいるからである」――「このことが、肉であるということの意味である」。われわれは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通して、その自己認識・自己理解・自己規定を得ることができる。その時には、次のような思惟と語りになるのである――「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、<肉>であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』)、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」、われわれ人間に対する「神の選び〔「恵み」〕をイエス・キリストの復活において認識し、神の放棄〔「裁き」〕をイエス・キリストの十字架において認識することができる」(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や〔感性、悟性、意志、想像、自然を内面の原理とする禅的修行等々の〕力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
「まさに、その人間存在を、神の子は取り給うた」。「まさに、このことこそ、イエス・キリストの実在の中で、〔「失われない単一性」を内在的本質とする〕三位一体の神がなし給うた〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)の第二の存在の仕方における〕行為である」。「確かに〔「真に罪なき従順なお方」〕イエス・キリストの人間存在として、イエス・キリストの人間存在は、罪が、換言すれば神に対する人間の抗争が、そこで発生し継続することができなかった限り、われわれの人間存在とは異なる人間存在となった」。「聖書が人間を肉と呼ぶ時、まさにそのことでもって意味しているところの罪の呪い全体を、神の子は、人間となり給うことによって、ご自分の身に負われ担い給うた。実に、それほどまでに、神の子は、現実の・正真正銘の・まことの<人間>、<神の前に>立つ人間となり給うた」。
「神の言葉が人間であり、人間が神の言葉である」――「このことが、啓示の客観的可能性である」。「それが、そのような啓示の客観的可能性であるということを、われわれは、そのことが実在であるということに基づいて理解することができる」。「神は、人間となり給う時、先ずご自分を覆い隠すことを欲し給う。それは、隠れの中から現れ、まさに人間として、ご自分を現わし給うためである。神は沈黙することを欲し給う。しかもそれでいて、また語ることを欲し給う。神の人間性は、限界であると同時にまた、自分を開示する門である。神の人間性は、謎であると同時に、また謎の解明である。神は、まことの人間として死ぬことを欲し給う。それは、同じまことの人間として、三日目に死人の中から甦り給うためである」――このような仕方で、「確かに、神の啓示が、イエス・キリストの実在の中で遂行される。まさに、神が、ご自分を人間として啓示される時にこそ、神は両方のことをなし給うことができる」。
「もしもわれわれが、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、聖書の中で証しされているところの、際限なき、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある人間として、日々瞬間瞬間キリストにあっての神としての神から、神の恵みから、遠ざかり遠ざかり続け、罪を新たな罪を犯し続けている人間として〕自分自身、神の判決の中にあることを知るならば、またそこからして同胞である人間が何であるかを知るならば、その時、同胞たる人間は、本当に他なるもの、向かい合って立つもの、閉じられた戸となる。<肉>である人間との出会いは、……われわれが存在するところの出会いであり、その時、われわれは、人間の現実存在〔肉存在〕は、世界の中のほかの何ものもそのことができないような仕方で、何事かを覆い、隠し、秘密にできるということを理解することができる」。このような訳で、「神の啓示〔「神の顕現」〕は常に覆い隠すこと〔「神の隠蔽」〕ができるのであるが、人間の現実存在〔肉存在〕は、その啓示の手段となることが<できる>のである」。しかし、「また、人間にとって、……人間ほどよく知られた近いものは存在しない。人間として生きるということは、人間との関係の中に立つということ、意見が対立したり一致しながら人間と出会うということ、人間からして人間に向かって存在するということを意味している」。人は、身体(肉体)と精神(意識)を介した、普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、人間化された自然を含めたところの宇宙を含めた天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動を行うのであるが、ある<社会構成>―それに規定されたそこでの政治的合理性の形態としての<支配構成>の中で、「価値とされたものと<非>価値とされたもの」、「選ばれたものと排除されたもの」、「聖なるものと俗なるもの」、「教えるものと教えられるもの」、「正常なものと異常なもの」、「支配するものと支配されるもの」、あるいは西欧にとっての差異としての「東洋人(オリエンタリズム)は、西欧社会における差異としての諸要素、犯罪人、狂人、女、貧乏人と結びつけられる」、あるいは「西欧人(白人)と<非>西欧人(非白人)」(その典型は、北米初期入植者の子孫であるWASP――白人およびアングロ・サクソンならびにプロテスタント主義における集団的な「人種差別」、「差別原理」、それに基づく「浄化の原理」、「殺す原理」である)へと関係を規定されるという観点からすれば(M・フーコー『全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて』、中山元『フーコー入門』、E・W・サイード『オリエンタリズム』)、さらに問題的な人間の物質的生活に対する人間の類的生活(逆立した観念の共同性における観念的生活)を本質とする完成された政治的近代国家の中で、個体的自己としての人間の思惟や現実的生活において、天上(政治的共同性)の観念的非日常的生活<と>地上(市民社会生活、個別的私的現実的生活)の現実的日常的生活との二重の生活が強いられ、現実的な社会の中で具体的に私人として「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活<と>とあたかもそうした対立や争いのない観念的な法的政治的共同性によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活との二重の生活を強いられているという観点からすれば、そしてその個体的自己としての全人間が、現実的な市民社会の中で具体的にある資質、職業、生活、喜怒哀楽の感情、思想、信条、意志、構想をもって現存するという観点からすれば、そしてまたその個体的自己としての全人間が、個、対(一対の男女、一対の男女の共同性としての家族)、共同性(現実的な社会的なそれ、観念的な政治的なそれ)という人間存在の総体性を生きるという観点からすれば、そしてまた意識された現実としての現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)<と>対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)との構造としてあり、この対自的意識と対他的意識、言語の自己表出と指示表出の構造としてある意識された現実としての現実的意識の外化である言語<表現>は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識〔実践的意識〕の外化である」が、このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入るのであり、この時<表現>された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となり、その外化された実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識という意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である」が、しかし、人間には、一方で他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)があることも確かなことであるという観点からすれば、「われわれは、神の前に存在する通りの仕方で、そのまま同胞たる人間の前に存在するのではない。また、われわれは、われわれが同胞たる人間の前に存在するということの中で、神の前に存在するのでもない。われわれは常に『他人に<向かって>』いる、われわれは他人<からして>ありつつ、同時に常にわれわれであり、自分の生を生き抜くのである」。しかし、「われわれは、事実、あらゆる事情の下で、他人<からして>あることなしに、しかも世にあるそのほかのものの場合とは全く異なった仕方で他人からしてあることなし、われわれ自身であることはないのである」。「同胞たる人間の中で、われわれに対して名乗り出るところの者は、最も近いもの、最も親しい者、最も親しくわれわれに属している者である。この意味で、われわれの身に、開示が、伝達が、知らせが与えられるべきであるとするならば、われわれにとって対象性の総内容であり得るこの同じ同胞たる人間の中で名乗り出てくるのである」。人は、このことを、「われわれ人間の伝達が、われわれが人間一般として互いに相対して立つ限り、事実いかに問題的であるかということを念頭に置くならば、一般に人間について言うことはできないのである」。「われわれに対し、実際に自分を開き、自分を伝達することができるであろう人間、その者の言葉がわれわれに実際に届くところの人間、その者をわれわれが実際に見、聞くであろう人間、その者の顔の中にわれわれがわれわれ自身を実際に再認識するところの人間、肉なる人間は、被造物として、罪人として、死の手に陥っている人間であるところの聖書的人間でなければならないであろう」。「ここでもまた、すべてのことは、われわれ自身が、神の判決の中で何であるかということを知ることによってもってかかっている〔「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」・律法〕から新約〔「神の恵みの啓示」・福音〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、古い時間〕は、復活へと向かっている。このキリストの復活は〔すなわち、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>」〕は、新しい世〔、新しい時間〕のはじまりである。この時、敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間〔古い世〕は、本来的な実在としてのキリストの復活における神の勝利の行為によって克服されてそこにある。しかし、その勝利の行為は、〔終末論的限界の下での途上性で、〕敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」。したがって、ここでの人間的存在は、次のような人間的存在である――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみない」ところの人間的存在である〕。それは、そこからして、同胞である人間が、〔一方において、〕われわれにとって閉じられた戸であるばかりでなく、〔他方において、〕また開かれた戸であるためである」。この時、われわれは、「同胞たる人間は、隠れている何かを明るみに出すことが<できる>、隠れた何かについて語ることができる、隠れた何かをあらわにすることができる、しかも世界の中にあるほかのいかなるものも到底できないような仕方で、同胞たる人間の存在はそのことができる、ということを理解することができる」。このようにして、「同胞たる人間の存在は、覆うことであるばかりでなく、また覆いを取ることでもある神の啓示の手段となることが<できる>」。
そのような訳で、「神の啓示が、永遠の言葉が、覆われているところから覆いを取ることへと進む道、馬ぶねと十字架から甦りと昇天へと通じて行く道であるならば、啓示は、まさに神が<人間となること>、<肉となること>以外の何ものでもない」。「神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史形態」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」――すなわち「イエス・キリストの<名>」としてのその神の第二の存在の仕方における「言葉の受<肉>として、それは〔「神の顕現」としての〕啓示であることが<できた>。啓示であるためには、それは受<肉>でなければ<ならなかった>。神がわれわれに対して啓示されるようになるためには、換言すればわれわれのために自由となり給うためには、まさしく〔「神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史形態」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」――すなわち「イエス・キリストの<名>」における〕受<肉>を<必要とした>のである」。
「以上述べた論証は、人間が神の啓示の担い手になるのに特別適していることを証明しようとする試みでは全くないということである」。「神が良く造り給うた世界には人間も属しており、……人間となり給うことが神の啓示であるということは、とりもなおさず人間の起源的な良さの確認であり回復であるというこのような〔主観的な、「わがまま勝手な」恣意的独断的な〕思惟の動きは、存在ノ類比があるということを証明するのには適していない〔そのような思惟と動きを根拠として、存在ノ類比があるということを証明することはできない〕。すなわち、このような思惟の動きは、人間が神の啓示に対して特別な適性を持っているということを証明するのには適していない」。言い換えれば、「われわれの人間性が、それとしてそのまま、すなわち人間一般が、神の創造者としての知恵と善意によって、神の啓示に対して有用な手段であるということ、またどの程度まで神の啓示に対して有用な手段であるのかということは、われわれにとって、われわれ自身の中で、またわれわれが知っておりわれわれが知っている通りの世界の中では全く隠されている」。このことは、「啓示の中で、イエス・キリストの実在の中で、われわれにとって認識できる〔すなわち、このことは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識として神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠した信仰の類比を通して認識できる〕。われわれは、〔聖書の中で証しされている〕まさに〔「真に罪なき従順なお方」〕イエス・キリストの実在の中でこそ、言うまでもなく、神の言葉が、一般的な意味での人間となり給うたのではなく、<肉>となり給うたことを見出すのである」。
「<肉>であるところの人間とは、神の前に立ち、それであるから自分自身すでに<霊的>実在の中にある人間、神の啓示がその者の身に及ぶところの人間である。起源的、本来的にはただイエス・キリストだけが<肉>であるところの人間であり給い、それから派生的、副次的な意味で、聖霊を通し信仰の中で、イエス・キリストと共に<肉>であるところの者たちが、<肉>であるところの人間であるということを言う時、われわれは、決して言い過ぎてはいない」。このような訳で、「起源的、本来的には、神の啓示の客観的可能性としての<肉>は、全くただイエス・キリストご自身だけの可能性である」、「また、イエス・キリストを念頭に置いてのみ、われわれは、制限された意味での一般性の中で、言葉は<肉>とならなければならなかった。そのようにして、神の啓示が客観的に可能となるために、言葉は<肉>とならなければならなかった」と言うことができる。「<肉>としての人間は、一般的に理解するならば、ただ<言葉>が肉となったが故に、換言すればイエス・キリストの人間性の中で彼の肉存在をその手段のために選び、その手段とすることが、神のみ心にかなったが故にのみ、覆い隠し、またあらわにすることができるのである」。このような訳で、「われわれの証明は、何らかの一般的な人間論に基づいてなされた証明ではなく、徹頭徹尾、キリスト論に基づき、キリスト論と関わらしめている。われわれの証明は、キリスト論を決定的な証明手段としてすでに前提している限りにおいてのみ、証明しているのである」。(5)の最初の段落で述べたことからしてそうである。「神の恵みの自由は、全線にわたって、神がなし給う〔先行する神の〕存在証明……の自由である」。先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてある、神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、すなわち「ただイエス・キリストの<名>だけ」――) このイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」。
われわれは、「イエス・キリストの実在の中で出会うところの神の啓示は、どの程度まで可能であるのかという問いを立て、それから啓示の客観的可能性を、(1)「神が、イエス・キリストにおいて、神ご自身とは異なる実在になり給う卑下、(2)イエス・キリストが、まさに神の子あるいは神の言葉と同一であり給うということ、(3)イエス・キリストが、まさにわれわれに知られた実在世界に属してい給うということ」、(4)いささかも減少させられない仕方で、イエス・キリストが、神ご自身に属しているということ、(5)イエス・キリストの人間存在、換言すれば肉存在、の中に見出したのである」。このような訳で、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を持っているところの「啓示の実在からして読み取ることのできる啓示の客観的可能性について、そしてただそのような啓示の客観的可能性についてだけ語ったのである」。「根本的には、ただ『何故神ガ人間ニナリ給ウタカ』という問いの答えは、知解センガタメニ信ジルという正当なプログラムを正当な仕方で実行に移すことだけであるということである」。それは、「教義学的な合理主義を明確に否定し」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼し」、具体的にはその<総体的構造>に信頼し、「正当なプログラムを正当な仕方で実行に移すことだけであるということである」。詳しく具体的に言えば、それは、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、終末論的限界の途上性の下で、時代と現実に強いられたところで絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわち、区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題であるところの、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての<律法>、それ故に神の命令・要求・要請、換言すれば「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」としての「イエス・キリストの<名>」)――この「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」、すなわち<主格的>属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」)による「神の義、神の子の義、神自身の義」(『ローマ書新解』)そのもの、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、それ故に「律法の終わりとなられた方」そのもの、それ故に成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(「この包括的な救済概念は平和の概念と同じである」)そのものであるキリストの福音を内容とする福音の形式としての<律法>、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が〔全世界としての〕<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」としてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての<律法>、換言すれば全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会共同性を目指していくという点にあるのである。純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法によって、律法は、「罪と死の法則の律法、汝斯く斯くなるべしという要求から、生命の御霊の法則、汝斯く斯くならんという約束へと回復せしめられる、遂行せよと求める要求から、信頼せよと求める要求へと回復せしめられる」、それ故にわれわれは、「『生命の御霊の法則』である律法によってイエス・キリストにあって解放されたのであるから、われわれが己の解放を与えられるためには、ただ彼に固着し得るだけである」。したがって、そうでない時には、『福音と律法』によれば、次のような事態を生じさせるのである――「イエス・キリストが律法の終わりとなられた方であることを聞かず承認せず」、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪のただ中で、「われわれ人間が、神の要求を、人間的な自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて、<神的な>『汝は斯くなすであろう』を変じて、<人間的な余りに人間的な>『汝は斯くなすべし』をつくり上げ」、「福音の内容そのものとしてのイエス・キリストを律法の目標〔すなわち、前で述べた純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請としての「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」を目標〕としない」のであるから、その福音を内容とする福音の形式としての「律法の目標は、人間的な自然法や抽象的理性や民族法という形に転倒されてしまうし、ある者は盲目的に仕事へと没頭し、ある者は人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜し、ある者はその時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行い、ある者は大規模な世界改良の偉大な計画に邁進し、ある者は大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」ことを律法の目標としてしまうことになるのである。聖書の中で証しされている純粋な教えとしての「キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法」を価値として第一義化しないところの、「わがまま勝手な」恣意的独断的な「人間的な余りに人間的な」律法を目標とする「これらすべてのことは、まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何であろうか」。このような訳で、その時には、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「イエス・キリスト<が>信ずる信仰による神の義、それは福音の内容であるとともに、それが人間の手に渡される時に律法という形式を取るのであるが、その「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」――すなわち、福音を内容とする福音の形式としての律法をも守らないのであるから、福音の内容であるイエス・キリスト<が>信ずる信仰による神の義もあり得ないことになる。ここに、人間の真実の罪とその人間の状態がある。したがって、この時、われわれ人間は、人間の状態が、徹頭徹尾喪われた者であり、死と地獄に渡された者であり、何の助言も、何の慰めも、何の助けも存在しないという状態にあることのみを知らされるのである」。
(文責:豊田忠義)