3の1.カールバルト教会教義学 神の言葉Ⅱ1 神の啓示> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエスキリストの>」〕 十五節 啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのイエス・キリストはまことの神にしてまことの人間というキリストの両性」ー「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>である」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕 一 キリスト論の問題について

 

十五節 啓示の秘義についてバルトは次のような定式化を行っている

 イエスキリストにあっての神の啓示の秘義は次のことから成り立っているすなわちそれは神の永遠の言葉がご自身と一つとなるため人間的本質と存在を選びきよめわかち取り上げたということしかもそれはまことの神およびまことの人間として神によって人間に語りかけられた和解の言葉となるためであるということであるこの秘義イエスキリストの甦りの中で啓示された秘義のしるし彼の出生の奇蹟である言い換えればそれは聖霊によって身ごもり処女マリヤより生まれ給うたという出生の秘義である

 

この定式は次のように理解することができる

 聖書の中で証しされているキリストにあっての「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての<自己還帰する>対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由である)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここでは、われわれは「神の不把握性」の下にある)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的われ」・「三重の主体」・「三重の対象」・「三重のわれ」ではないところの、その「ご自身の中での神」における神の自由の概念の積極的側面」、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の自由の概念の消極的側面」、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」、それ故に「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>が堅持されなければならない――すなわち、神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての<イエス・キリストの父>、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての<子としてのイエス・キリスト自身>、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下・「救済者」としての<神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊>なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてのまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「イエス・キリストの受肉」、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする神のその外在的本質である「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「第二の存在の仕方」ーーこの神の「第二の存在の仕方」における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「<この肉、人間>」(それ故に、内在的本質である神性の受肉ではない)その外在的本質である「第二の存在の仕方」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、<神の>言葉であった」――このイエスキリストにあっての神の啓示の秘義〔「まことの神にしてまことの人間である」(イエス・キリストは人となり死んで甦り給うたという復活の力、神の勝利の行為による<和解の言葉>)イエスキリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」((啓示の秘義の<しるし>としてのそれ次のことから成り立っているすなわちそれは〔「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする〕神の永遠の言葉がご自身と一つとなるため〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子なる神としての神の自由な愛の行為の出来事)における「真に罪なき、従順なお方(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>(キリストの「両性」)として一つとなるために、換言すればイエス・キリストにおける神の愛」は、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「神自身の人間に対するまことの<神の>愛と神に対するまことの<人間>の愛の同一である」(『ローマ書』)というように、また「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」(『神の人間性』)というように、一つになるために人間的本質と存在を選び真に罪なき、従順なまことの人となり〕、きよめわかち〔聖別し〕取り上げたということしかもそれはまことの神およびまことの人間として神によって人間に語りかけられた和解の言葉となるためであるということであるこの秘義イエスキリストの甦りまことの神にしてまことの人間である」イエス・キリストは人となり死んで甦り給うたという復活の力、<神の勝利の行為による和解の言葉<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における十字架(死)を包括し克服した「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322ガラテヤ216等の「イエス・キリスト<の>信仰」、すなわち「イエスキリスト>信ずる信仰」(『福音と律法』)、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>」そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのものの中で啓示された秘義のしるし彼の出生の奇蹟〔イエス・キリストは処女マリヤから生まれ給うたという奇蹟〕である言い換えればそれは聖霊によって身ごもり〔キリストの神性まことの神キリストの神性の現実存在〕処女マリヤより生まれ給うた〔キリストの人間性まことの人間キリストの人間性の現実存在〕という出生の秘義である〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」が、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)において「神が人となった」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「<言葉>が肉、人間となった」、「受肉の出来事」という、この「<客観的な>また<必然的な>出来事」であるところの出生の秘義(啓示の秘義の<しるし>)である〕」。

 

バルトは、『カール・バルト著作集8』「われ信ず 使徒信条に関する教義学の主要問題」で、次のように述べている――「聖霊によりてやどり処女マリヤより生まれという言葉には一般的と特殊的内的と外的実質的と象徴的な〔<しるし>的な〕意味があるそのいずれにせよそれが指示しているところは、<受肉という出来事である」。その受肉という出来事が告げている一般的なもの内的なもの実質的なものは秘義そのものでありイエスキリストこそ真の神であり〔まことの神であり〕、真の人である〔まことの人間である〕、ということである」、「またそれが告げている特殊的なもの外的なもの、<しるしとは奇蹟でありイエスキリストがこのまことの神にしてかつまことの人としてただ神のみを父とし〔換言すれば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」ところのただこの神のみを父とし〕、またしたがって〔世界全体、われわれすべて人間の代表者であるイエスの母マリヤ――この〕処女マリヤを母としているということである」、「前者は神の啓示によるその自由な恵みの事実であり後者は啓示が自由な恵みとして認識されるための啓示に固有な形式であり様態である。……この両者は単一性と区別〔区別を包括した単一性〕において理解されなければならない〔ちょうど聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」としての<律法>は、すなわち神の命令・要求・要請は、純粋な教えとしての<キリストの福音>を内容とする<福音の形式>として、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになす、認識し信仰することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにあるように〕。「その形式と様態、すなわち客観的な<しるし>によらなければ、キリストの真の神性と真の人性の証言の明晰さ、的確さは聞かれない……」。「『聖霊によりてやどりという言葉、「イエス・キリストという人間存在はその被造性においてほかのあらゆる被造物とは異なりその根源を直接的に神のうちにもっておりしたがってそのまま神ご自身の存在でもあるということである」。「次に、『処女マリヤより生まれという言葉はイエスキリストにおける神ご自身の存在はここでもまた神が創造主であるという事実にもかかわらず、〔その神の内在的本質である神性の受肉ではなく、その神の外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>として、すなわち人間として〕人間的被造的な起源をももっておりしたがって人間的被造的な存在でもあるということである」――ここでも「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>は堅持されて、「この二つの言葉は神と人間とを非常に近い無限に近い位置にまで引き寄せようとしているのではなくイエスキリストの受胎と誕生において〔すなわち、神のその内在的本質である神性の受肉ではなく、神のその外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>において、すなわち「真に罪なき、従順な」まことの人間において〕、神と人間とが一つとなりあらゆる時代にそして永遠に至るまでこうしてやどりまた生まれ給うた方と一つになり給うたと言おうとしているのである」。このような訳で、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、すなわち「真に罪なき、従順な」人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としてのイエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)――この「イエスキリストは、〔区別を包括した単一性において、〕神であると共に人であったしまた今もあるしかも常にその両者であって一方を欠いて他方だけでなくその両者がそれぞれ独自の在り方で同じほどの真剣さと力強さをもっている……ということである」。このような訳で、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第三の存在の仕方」、すなわち「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント33・10-11、エフェソ214以下)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「神的愛に基づく父と子の交わり」としての「『聖霊によりてやどりである」。そしてまた、「イエスキリストは、〔世界史的個人としての「人類史の英雄たち」、「人々の間で出会うもろもろの主や天使や悪鬼の一つではなく」、神性を内在的本質とする〕真のであるように〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、すなわち「真に罪なき、従順なお方」〕<真の人なのである」。このような訳で、「『処女マリヤより生まれである」。「聖書と使徒信条がこれについて証言しているところを説明するためにはヨハネ一一四は『<成る>』つまり歴史Geschichte、史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕について語っている事実から出発しなければならない。(中略)われわれはただ、〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の〕言葉は肉となった>〔すなわち「真に罪なき、従順なお方」、まことの人間と<なった>〕という現実を知るだけであるわれわれは〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいて、終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を通して〕、この成ることにつまりこの道にこの出来事そのものに従おうとするしかないのである」。何故ならば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神に敵対し神に服従しない」し、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』)からである、それ故に「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り、(中略) 「自分が――つまり〔生来的自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等〕によっては』――全く信じることができない」からである。

 

信仰の業とは、われわれには高すぎる道を、自力で歩むことではなく、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいて、終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に依拠して〕ただ従うことなのである。われわれが信ずる以前に、すでに〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の〕『言葉は肉となった』〔すなわち、「真に罪なき、従順な」まことの人間となった〕ということが起こっていたのである。信仰において、われわれは、このわれわれの信仰より以前に起こった出来事に従うのである」。「この出来事における主体であり行為する者は神である人間ではなく人間とでもなく〔<神人協力>でもなく〕、ただ神だけである。〔神のその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の〕<言葉が肉となったのである」。「神が人となり給いまた人であり給うということは神の自由な決断である」、それ故に人が神にまで高まったということではなく神が人のところまで降り給うたということが〔すなわち、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」ということが〕、受肉の意味である」。したがって、ここでは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守する<方式>が堅持されている。この「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、〔その内在的本質である〕神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」(『教会教義学 神の言葉』)。まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事であることからして、「そこでは神が語ってい給うのであり神が行為してい給うのであってそれを人として行い給うのであるが行うのは神であるこの人となり給うという〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の言葉の〕受肉の力は徹頭徹尾〔神性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕<の力でありまたこの受肉の啓示の力和解の力でもある。このように信仰は、言葉に支えられ、神の子に支えられる。もし神が人となり給わなかったとすれば、どうして信仰は神に支えられることができようか」。その内在的本質である「キリストの神性は、啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識する〔信仰する〕ことができる」。この時、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における〕「啓示と和解がキリストの神性の根拠ではない」、その内在的本質である「キリストの神性が啓示と和解を生じさせるのである」(キリストの神性が啓示と和解の根拠である)、すなわちその外在的本質である「第二の存在の仕方」における「キリストの人間性が啓示と和解を生じさせるのではない」(『教会教義学 神の言葉』)。そのことの中で、その「受肉における神の行為の対象は、<人間である神の自由な決断は神の自由な恵みの神的決断であり神が人となり、〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の〕言葉は肉体となったである」、「神は、現実にわれわれの<側に>あり、現実にわれわれの<ために>存在するために、われわれが今あるようなものに現実になり給うたのであり、こうして人となり・人でありつつも(処女マリヤより生まれ)、われわれのなすこと、すなわち罪をなさず、われわれのなし得ないこと、すなわち神の神ご自身の意志を行い、こうして現実に、われわれのいる場所で、われわれの境遇・立場において、新しい人〔「真に罪なき、従順なお方」としてのまことの人間〕となられたのである。〔「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「第二の存在の仕方」である〕神の子が神のわれわれに対する啓示であり神とわれわれとの和解であるというのはその中で神はわれわれに隠れてい給うという神の永遠の主権によることではなくそのような〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>としての〕新たな人としてであり、<肉体となった言葉としてである」。このような訳で、信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事としての「信仰は、神をその〔内在的本質である〕神性において見るために、その〔外在的本質である〕人性とベツレヘムの飼葉桶と〔復活に包括された〕十字架〔死〕とを見過ごすことはできないのである。〔神性を内在的本質とする〕父の永遠の言葉への信仰は、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〕ナザレのキリストへの信仰である」。『教会教義学 神の言葉』では、次のように述べられている――イエスキリストにおける神の自己啓示は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、ここでは、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様」な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動・活動、外在的本質)、すなわち「起源的な第一の存在の仕方」である<イエスキリストの父>――「啓示者」「言葉の語り手」「創造者」、「第二の存在の仕方」である<子としてのイエスキリスト自身>――「啓示」「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」、「第三の存在の仕方」である神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>――「啓示されてあること」・すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、すなわち「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)・「救済者」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)において、「自己自身である神としての三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする三位一体の神の認識と信仰を要求する啓示である。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である神の本質の問題(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である神の存在の問題(「神の存在を問う問い」)を要求するのである。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「完全さ、自由さ」、(「ご自身の中での神」における「神の自由の概念の積極的側面」、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」)は、存在的にも認識的にも、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」における「完全さ、自由さ」(「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の自由の概念の消極的側面」、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」である。したがって、われわれは、「まさに〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神ご自身について語らなければならないが故に」、「そのことを確認し、讃美しつつ」、「神論の決定的に重要な構成要素」であり「啓示の認識原理」であるところの「三位一体の神について語らなければならない」し、その「完全さ、自由さについて語らなければならないのである」。したがってまた、キリストにあっての「神」は、神とは異なる「被造物ではあり給わない」、「罪ではあり給わない」、「死ではあり給わない」、「単一性と多様性〔差異性における多様性〕の中であり給う」。「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての「一人の方自身」は、「自由の中で愛する方である」、それ故にその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での神の「三つの存在の仕方」における多様性(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)は、「神の完全性、神の生の完全性である」。「自由、主権、愛」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。「ここでは、ただ完全性だけが問題となってくる。何故ならば、神が現にあり給うところのもの」は、「神が現に完全性であり給うという理由で、完全であるからである」。第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、存在的にも認識的にも内在的にも外在的にも、「完全性であり給うが故に、完全性であり給うことの中で、完全である」。「ただ〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神だけが完全性を持ち給う方として、神は完全性をご自分に固有なものとして持ち給う」が故に、「完全性は、神の中にその本質と現実存在を持っているが故に」、すなわちその完全性は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質と「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)を持っているが故に、「完全性であり給うことの中で、完全である」。イエス・キリストにおいて自己啓示された「三位一体の神」が、「父、子、聖霊であり給うことによって」、「父、子、聖霊として自由の中で愛し給うことによって」(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>によって)、「神にとってすべての完全性が本質的に固有である」。このような訳で、われわれは、そのイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「第一の問題」としての「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)――すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示に基づいて神について語る時」には、換言すれば「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」である父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>について語る時には、同時に、この「第一の問題」に包括された「第二の問題」としての「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)――すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその「神の本質について語るのである」。「この関連性を見て取り理解することが、『神の性質についての教説の課題である」。

 

 啓示の客観的可能性あるいは人間のための神の自由を問う問いに対しての答えである啓示の客観的実在(十三節)、すなわち旧約聖書的な待望および新約聖書的な想起の対象われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間としての成就された時間この実在はごく狭く厳密に本来的に取るならば〔「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」としての〕甦りの出来事と甦りの使信である」(十四節)――この甦りの出来事と甦りの使信は神の言葉の啓示である」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖書および聖書と共に〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕キリスト教会の宣教は、この啓示にかかわっており、この啓示を指し示しているということからして、聖書およびキリスト教会の宣教は、この啓示と共に立もすれば倒れもする」。したがって、キリスト教会の宣教における一つの補助的機能、教会的な補助的奉仕としての「教会的な教義学も、自明のことながら、この啓示と共に立もすれば倒れもする」。言うまでもなく甦りの歴史Geschichte、史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕と切り離せない仕方で結びついているのは受難〔と死〕の歴史であるその受難〔と死〕の歴史の中でそれからイエスキリストの甦り〔「イエスの受難と死および復活」における「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、すなわち「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕の中であらわされ信じられるところのイエスキリストの隠された業、キリストの甦りの中で啓示される和解が出来事となって起こるその受難〔と死〕の歴史には、さらにそれに先行するイエスの生涯全体の歴史が属している」――このイエスの生涯全体はそれとして近づいたみ国のしるしおよび啓示〔すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「キリストの生涯と受難〔と死〕の中に隠されている、そしてキリストの甦りの中で啓示される業と出来事」〕なしではないすなわちそれはイエスの甦りの告知なしではない」。このような訳で、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は裁き〔律法、死〕であることによって恵み〔福音、生〕である」ということからして、「キリストのその生涯と受難〔と死、すなわち神的否〕の中で起こるところのことは、……〔神的然りとしての〕甦りの歴史Geschichte、史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ。すなわち、「イエスの受難と死および復活」における「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、すなわち「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕という場の中でそのまま出来事として起こる啓示の具体的な内容である」。

 

 「われわれは今、そのキリストの生涯と受難〔と死〕の中に隠されている、そしてキリストの甦りの中で啓示される業と出来事の前提を問わなければならない。甦りの力は何であるのか、それであるからその業と出来事の力は何であるのか。どのような事情の下でそれは神によって人間に語られた和解の言葉であることができるのか、したがって神的にまことの、また人間的にも実在の力を発揮する和解の言葉であることができるのかそこでの出来事の主体は誰であるのかイエスキリストは誰であるのか>」。「イエスキリストはまことの神であり〔すなわち、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であり、換言すれば「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」し、それ故に「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である」ところの子としての神であり〕、同時にまことの人間である〔すなわち、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」、「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における<言葉の受肉>、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリストの人間性の現実存在」ということである〕。まさにそれ故にこそそこからしてこそあの業と出来事はそのようにしてまたその啓示は力と意味を持っているそこからしてわれわれはすでに啓示の客観的可能性を問う問いに答えた〔すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が…啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている(『教会教義学 神の言葉』および『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)〕。そこからしてわれわれは神がわれわれのために持ち給う時間である成就された時間〔すなわち、区別を包括した単一性における、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、「旧約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の<待望>についての証言の時間」と「新約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間」〕の単一性を見て取ることができたまさにそこからしてすべてのそのほかのことがよってもってかかっているが故にこそ、……われわれは概念の特別な意味でのキリスト論の領域に足を踏む入れることになる〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての〕教会教義学は全体としてもそのすべての個々の部分にわたってもキリスト論に規定されていなければならない何故ならば、<先行する神の用意>に包摂された<後続する人間の用意>ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である」、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」、すなわち「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意という人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」(『教会教義学 神論』)からである〕」。Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書によって証しされ・〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての第三の形態の神の言葉である〕教会によって宣教される啓示された神の言葉が唯一の標準である限りそしてその啓示された言葉はまさにイエスキリストと同一であることが確かである限りはどうしても事情はそうでなければならない」。したがって、「教義学が、自分を原則的にキリスト論として理解しない時、そしてまた理解させることができない時、その教義学は、必ずや何らかの疎遠な力の支配の下に陥っているのであり〔換言すれば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」で、すなわちその<総体的構造>に信頼しないで、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟の能力に、感性力、悟性力、意志力、想像力、人間学等に信頼し依拠しているのであり〕、その時それは確かにすでに、教会教義学としての性格を失おうとしているのである」。「近代において、〔近代主義的プロテスタント主義的キリスト教神学として〕教会教義学が、すべてを荒廃させてしまう<自然神学>の侵入の下で崩壊したということは、すでに正統主義の時代のところで、〔それは不信仰・無神性・真実の罪であるのだが、キリストにあっての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もということを根拠づけるところの、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格を<目的格的>属格(「イエス・キリスト信じる信仰」)として理解された「神人協力説」ところで、〕いや部分的にはすでに中世のスコラ哲学の中で、そして教会教父たちのところで〔例えば、「自然神学」において「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」そのアウグスティヌスのところで(『カント』)、また「キリストにあっての神の特別啓示」・「啓示の真理」・「啓示神学」・「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)にではなく、「一般的な啓示」・「一般的な真理」・「自然神学」・「存在の類比」に依拠して、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠して……造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」というアウグスティヌスの教説(『教会教義学 神の言葉』)のところで〕、そのような崩壊が……はじまっていた」――このような崩壊は人がすべての神学的命題がヨハネ一一四の命題と関連し合っている必然的な関連に対して必要な注意を向けなかったということの中ではじまっていた」。言い換えれば、「事柄に疎遠な副次的な中心を立てたところではじまっていた」。次の事柄に必要な注意を向けなかったということの中で、はじまっていた――「まさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」、〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の」〕神はご自身を把握できるものとし給うた」。しかしそのことは、「決して直接的にではなく、<間接的にである」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるしの中においてである」、このようにとにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」としての「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその外に向かっての外在的な神の第二の存在の仕方における「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである」、換言すればそれは、自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間の観念的生産物人間的自然としての人間の意味世界・物語世界・神話世界としての存在者では決してなく徹頭徹尾神の側の真実としてある「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における神の言葉の受肉としての<「存在者」>である〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」「イエス・キリストの人間性の現実存在」である〕。このような訳で、その「<最初の、起源的な、支配的なしるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在する」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解の概念の実在」、すなわち「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉である聖書が「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその「最初の直接的な第一の啓示のしるし」として客観的可視的に存在している、それから第三の形態の神の言葉である「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストの教会の宣教が<「啓示の<しるし>」の<しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性の>現実存在」――このイエスキリストと地上における可視的なみ国客観的に存在している。「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性であるあまりにもしばしばキリスト論は、久しい以前から、あるいはすでに古代において、それと共に避けられない仕方で、時代が移るにつれて、キリスト論そのものに対して、それは余計なものではないかという嫌疑がかけられ、同時に、教義学のそのほかの構成要素は荒廃の危険にさらされることになった。「人はその間キリスト中心的に語るのではなくその事柄に疎遠な副次的な中心を立てようとする仕方で特に類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟の能力や人間的欲求を満たすために、人間学的領域における一般的な認識論と道徳哲学の形で語るあまりにも多くの自然神学を自分の中に取り入れていたのでヨハネ一一四をもはや本当には理解することはできなかった」。その中で、「一九世紀になって、まず第一にシュライエルマッハーの下で、それからもっとはっきりと口に出してA・リッチュルとその学派の下で、キリスト中心的な神学の方向をそれなりに取ることになった」。しかしながらその神学はやはり「<自然神学を自分の中に取り入れていた水準のものであった近代主義的なそれであった自由主義的なそれであった。「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にある」<人間中心主義>的なヘーゲルの強力な痕跡を持つものであった。したがって、バルトは、『ヘーゲル』で、われわれは、「シュライエルマッハーの所で、またシュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……そのヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」、と述べている。また、『教会教義学 神の言葉』では、次のように述べている――そのような「シュライエルマッハーは、人間学的に教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体であり、敬虔性〔人間学としての意識された人間の絶対依存感情、敬虔心〕と関連した共同体である」、「シュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における近代主義的思惟は〔自由主義的思惟は〕、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。したがって、近代主義にとっては〔自由主義にとっては〕、宣教は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストの福音の宣教ではなく、〕『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現となる。シュライエルマッハー等近代主義者は〔自由主義者は〕、人間の精神的な促進のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために、〔人間の個の時間性、自己史、個体史としての〕自分自身の歴史と現在〔歴的現存性、人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史的現在、その時代と現実〕の解釈を表現しようとする。すなわち、自己表現としての宣教を企てる」、と述べている。また、最晩年の書シュライエルマッハー選集への後書』、すなわち神学者カールバルト』「シュライエルマッハーとわたし蘇光正訳ではバルトは、シュライエルマッハーとの関わりの中で、「すべてを最もよく解釈すれば、一種の聖霊の神学というものが、シュライエルマッハーの神学的行動、事実上彼を支配している、正当な関心事であったという可能性を、わたしは予想したい〔希望したい〕」と述べ、例えば人間の「絶対依存感情」(敬虔心)の概念に対する「問いに弁証法的に答える」場合、その概念は、ある対象を知覚作用により対象化し、その対象了解された対象(内在化された対象)を抽象化、時間化する時には概念構成の問題(了解の抽象化度、時間化度の問題)として現れ、またある対象を知覚作用により対象化し、その対象了解された対象(内在化された対象)を再び空間化する時には「歓び悲しみや選択を伴う」感情作用(<内観>的作用、関係づけの度合、空間化度)の問題として現れるというそれはまさに人間学的概念であるとしても、もしもその概念を「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力として根拠づけ得るとすればどうであろうか、という自問」をしたのであるが、<最後的に>、その<人間中心主義>的な「ヘーゲルの強力な痕跡」を持つシュライエルマッハーの概念は、「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力として根拠づけ得る」ことはできないのであり〔何故ならば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)からして、聖霊は人間精神と同一ではない、人間が聖霊を受けることを許され・持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が生じてはならない」(『教義学要綱』)し、聖霊によって更新された人間的理性も徹頭徹尾聖霊と同一ではない」(『バルトとの対話』)からである〕、それ故にわたしは事柄そのものにおいてシュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り自分は彼のそれ〔「<自然>神学」の道、すなわち一般的な啓示、一般的な真理、「存在の類比」の道〕とは全く違った道〔啓示神学としての「<非>自然な神学」の道、すなわちキリストにあっての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)の道〕に踏みこみそれをあゆんでいかなければならないと思ったし〔最晩年の逝去する年の〕今もそう思っているのである、と述べている。したがって、蘇は、バルトの「『第三条項の神学』〔すなわち、聖霊の神学〕という発言について」それをバルトの近代主義(自由主義)への「転向〔復古、回帰、逆行〕と誤解する者は〔すなわち、それが大学神学者であれ、それに類する者であれ、牧師であれ、そのような「バルト研究者たち」は〕」、それがバルト<主義者>であれ、反バルト<主義者>であれ、中立バルト<主義者>であれ、明らかにその前後数頁だけしか読んでいないところの者たちである、それ故にそれらの者たちは、教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したバルト自身やその書を読む人々に迷惑をかけるところの、それ故にバルト研究者としては全く失格であるところの、箸にも棒にもかからない研究者たちである、と述べていることは全く正しいと言わなければならない。シュライエルマッハー等それらの神学者は、「マタイ六二四で述べられていること」――すなわち、「だれも二人の主人に仕えることはできない一方を憎んで他方を愛するか一方に親しんで他方を軽んじるかどちらかである……」ということを認識し自覚していないのでる。このような訳で、「一方において〔『混合神学』、『人間学的神学』としての、それ故に『<自然>神学』としての〕シュライエルマッハーの浪漫主義的な歴史理解とリッチュルのカント的な形而上学、他方において彼らがなしたキリスト中心的な努力は、ただ相互に不信感をつのらせ、それぞれ自分を信じるに値しないものとすることができるだけであった」。因みに、シュライエルマッハー、「『宗教論』(1799)では<宗教の本質>を直観と感情と定義したが、『信仰論』(182122)では絶対的依存感情と定義した。それは,あらゆる対立を超越した絶対者に自己の存在が由来している (依存している) という直接的な経験であり、絶対的自由の否定においてのみ自覚される。それは多様な宗教的形態をとって表現されるが、その最高の表現形態はキリスト教である〔人間学における宗教の尖端的形態はキリスト教である〕」と述べている。この時、そのキリスト教は、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的にキリスト教を批判したフォイエルバッハの『キリスト教の本質』および『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」におけるキリスト教そのものである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、「神とはまさに、〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟、人間の自由な内面の無限性、〕人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、それ故に「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」し、「(中略)神の啓示の内容は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された〔すなわち、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物(人間的自然)としての意味世界・物語世界・神話世界(存在者)としての〕神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、〔そのような教会の宣教および神学は、人間自身の「自己表現としての宣教」、人間自身の「自己表現としての神学」(人間学)として、その〕『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」。バルトは、『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」で、次のように述べている――「予定説は、イエス・キリストにある救いの自由な表現そのものである」、「その内容は、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」、ということである。したがって、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」(『教会教義学 神論』、『教会教義学 神の言葉』)を通して、「神の選び〔神的な然り〕をイエス・キリストの復活において認識し、神の放棄〔神的な否〕をイエス・キリストの十字架において認識する」ことができるし、またそのようにして「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身を、そのようなわれわれ人間の世を認識することができる」、「〔復活に包括された〕十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方である。われわれ人間は、そのままでは恵みを受け取る状態にはないし、また自分でそのような状態にすることもできない。したがって、もし人がその恵み〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断によるところの、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕を受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みなのである。すなわち、われわれの召命・義認・聖化は、われわれ自身の中に生起するのではなく、イエス・キリストの御業として、われわれのために、われわれ自身の中に生起するのである」、終末論的な<すでに>と<いまだ>における、すなわちイエス・キリストの復活(「実在の成就された時間」)と復活されたキリストの再臨の間の中間時、「和解」と「完成」(「救贖」、「終末」)の中間時における場所は、われわれ人間が現存する場所なのである。したがって、その中間時における人間とは、「すでに自由の身になったという吉報を受け取ったけれども、いまだ牢獄から外に出てしまっていない状態にある人間のことである(『バルトとの対話』)。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうである――「啓示とは、子あるいは言葉の業、すなわち神の現臨とご自分を知らせることが、人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実のことである。この啓示は和解という言葉概念と一致するそれはわれわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復を意味するしたがって啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友として啓示そのものが和解であるしかし聖霊の業に関わる完成〔<救贖>、<終末>、復活されたキリストの再臨〕の概念の概念は終末論的用語であるから和解の概念と一致しない完成〔<救贖>、<終末>、復活されたキリストの再臨〕新約聖書においては啓示あるいは和解から見て、<いまだ来ていない現実性である復活〔「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕と完成〔<救贖>、<終末>〕との間は、イエス・キリストの父であり、子としてのイエス・キリスト自身である、この父とこの子の霊〔神的愛に基づくこの父と子の交わりとしての霊〕としての聖霊の時代である」。

 

 キリスト論は全体にわたって支配的であり認識され得るものでなければならないが故に換言すればすでに〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、啓示の客観的実在、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である<イエス・キリスト自身>を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である<聖書>を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての第三の神の言葉である「<教会>の宣教における一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての〕教会教義学〔<福音主義的>教義学〕の基本的な命題の中で支配的であり認識され得るものでなければならないが故にこそ特別なキリスト論イエスキリストの位格について明瞭に説明する教説でなければならない」。その事柄を十分満足のゆく仕方で理解してゆくために欠かすことのできないことは、……先ず第一にイエスキリストの中で神と人間が一つになり給うたということいわゆる〔<まことの神にしてまことの人間である>という〕キリストの両性についての内容的な命題であるこの内容的な命題の中で啓示の秘義そのものが明瞭に表現されなければならない第二にその事柄を十分満足のゆく仕方で理解してゆくために欠かすことのできないことは第一の命題に伴っているクリスマスの奇蹟についての形式的な命題>、換言すればイエスキリストが処女マリヤから生まれ給うたという奇蹟についての形式的な命題である」。何故ならば、「聖書また教会の宣教において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する」が故に、「この啓示が教会の宣教の<客観的な>信仰告白および教義Credoである三位一体論の根拠である」し、「この三位一体論は、神論の決定的に重要な構成要素であり、啓示の認識原理である」が故に、「この三位一体論を啓示認識の原理にしない時には、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論という誤謬に陥ることになる」が故に、「教会の宣教の批判と訂正は、常にこの三位一体論に即して行わなければならない」ということからして、教会教義学はまさに最高度に特別にキリスト教的な三位一体論キリスト論的認識を再びその記述の発端においてすべてのそのほかの記述の基礎としてみなしまたそのように取り扱うことをあえてするまでは教会的〔福音主義的〕になることはないからである。言い換えれば、「そのことをあえてするまでは、<教会>教義学は、〔「人間学」における、包括的に言えば「自然神学」における一般的な啓示、〕一般的な真理の疎遠な支配から自由となることはない、すなわちキリスト教的真理〔キリストにあっての神の特別啓示、啓示の真理〕を受け入れるべく自由となることはない。「キリストの位格についての教説が、すべてを網羅しつつ述べようとする時、われわれは、……和解主なる神についての教説〔「和解論」〕を論述する際、その脈絡の中で論じることができるし、論じなければならない」。バルトは、『教会教義学 神の言葉2 神の啓示<上> 三位一体の神 十一節 子なる神』「(一)和解主としての神」において、次のように述べている――「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「ひとりの神は、聖書によれば」、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)――このイエス・キリストにおいて「和解主として、換言すれば、われわれの、彼に対する敵意のまっただ中において主として、ご自身を啓示し給う。彼はかかるものとしてわれわれのところに来られた神の子あるいはわれわれに対して語られた神の言葉である」。何故ならばイエスキリストは、「前もって〔「自己自身である神」としての〕ご自身の中において父なる神の子としてあるいは言葉としてそのような方であるからである「われわれは、神の人格性という概念を取り上げる時、……人が神の三位一体に関する教説〔三位一体論〕の中ででも最近に至るまで(大多数の人たちによって!)神の人格(Personen、複数形)について語ってきたことから生じる不明瞭さを意識しなければならない」――すなわち、「神の人格(Personen、複数形)という概念から生じる三つの神的我、三つの対象、三神」という概念像を喚起させる「不明瞭さを意識しなければならない」。したがって、「われわれは、三位一体論と取り組んだ際、三位一体の事柄を言い表す時、この『人格(Personen、複数形)』という概念(複数形)を用いることをやめることに賛成する立場をとった」。何故ならば、この「『人格(Personen、複数形)』という概念は、古典的な神学全体においては、人が今日『人格(Person)』という概念〔「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念〕によって理解するのを常としているような方向では決して理解されたり解釈されたりすることはなかったからである」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を、教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とするキリスト教会は〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神の中に三つの人格三つの神的我がそれ故に三重のわれ三重の主体三神論三重の対象の意味で三つの人格性が存在しているということを決して教えたことはなかったからである。聖書の中で証しされているキリストにあっての神は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、「ご自身の中で父・子・聖霊であることによって、ご自身の中で生き給う方、愛し給う方」、それ故に「ただ一人の方であり」、「また常に、われわれは、神を父・子・聖霊として認識することによって、神をわれわれを愛する方として」、そしてそれから「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち神の「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての「イエス・キリストの父」、神の「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての「子としてのイエス・キリスト自身」、神の「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)・「救済者」としての「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)において「われわれに出会い、われわれに対して、汝と呼びかけ、働きかけ給う一人の方として、認識するのである」。聖書の中で証しされているキリストにあっての「神が人格性として言い表すことのできるものとすればそれは、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」――この〕<神ご自身の中および〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の<「三つの存在の仕方」>における〕その業〔・性質・働き・行為・行動〕の中での父聖霊の共存の中での三位一体性全体の中においてであって〔すなわち、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の中においてであって〕、決して個々の存在様式それ自体の中においてではない」。「三重ではなく、〔「失われない差異性」の中で〕三度三位相互内在性の中で〔「失われない単一性」の中で〕、一人の三位一体の神が人格性であり給う」、「神の三つの顔があるのではなく、一つの神の顔が、神の三つの意志ではなく、ただ一つの神の意志が、神の三つの義があるのではなく、ただ一つの神の義が、神の三つの言葉と業があるのではなく、ただ一つの神の言葉と業があるのである」。したがって、バルトは、例えば次のように言うのである――「最も単純な形において神の啓示の実在を問う問いに対する新約聖書の答えは、<永遠なる神性>を内在的本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストの<名>だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストは<永遠なる神性>を内在的本質としているが故に、啓示の出来事においてはじめて<神の>子、<神の>言葉となるのではなく、〔その外在的本質である「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉としての「第二の存在の仕方」において、〕<永遠なる神性>を内在的本質とする父を啓示するもの、そしてわれわれを父と和解させるものとして、イエス・キリストは<神の>子、<神の>言葉である」。そして、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求するが故に、「キリストの神性は、啓示および和解におけるキリストの行為〔子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕の中で認識することができる。すなわち、〔その「第二の存在の仕方」における〕啓示と和解がキリストの神性の根拠ではなくて、キリストの<永遠なる神性>が啓示と和解を生じさせるのである」。「<赦す神>は、たとえその人がまことの人間であったとしても、人間に内在することはないのである」。「近代主義的プロテスタント主義キリスト教神学が、キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない時、それは、視覚的錯覚〔近代<主義>的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕に依拠しているからである。その時には、「和解に関して言えば、赦す神が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかないものなのである」。そして、その時には、「イエス・キリストは、下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想という単なる空虚な概念でしかなくなってしまう」。「徹頭徹尾、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」――この〕一人の神がわれわれに対して、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)――この〕イエスキリストの中で啓示されているのであり徹頭徹尾同じ一人の神がご自身の中でも神であり給う

 

 ヨハネ一一四の言葉は肉となったという新約聖書の中心的命題そのヨハネの言葉は神であり給う言葉が人間となったということであって〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>ということであって〕決して神性それ自体が人間となったのではない〔すなわち、決してその内在的本質である神性それ自体が言葉となったのではない」。このような訳でイエスキリストにおける神の自己啓示はその神の第二の存在の仕方におけるまさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神であるまことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間>――この真に罪なき従順なお方まことの人間であるナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)において、「自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性秘義性隠蔽性において存在している三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする三位一体の神の認識と信仰(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を要求する啓示である。何故ならば、新約聖書は主という賓辞の中で表現されているようなまことの実在の神性を先ず第一にイエスとは別の方に帰しているすなわち子としてのイエスが主であることは明らかにただ父なる神が主であることを現わす現われ行使適用であるからである。この父なる神を代表することそれがイエスに帰せられた神性の本質であるからである。したがって、「子と〔神的愛に基づくこの父と子の交わりとしての〕聖霊は父とともにひとつの本質である〔すなわち、子と聖霊は、父と共に、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする〕」。「神的本質のこの単一性〔「失われない単一性」、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な区別を包括した単一性〕の中で子は父から霊は父と子からであり他方父は自分自身以外の何ものからでもない」。この父は子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源である」、それ故にその区別された子は父が根源であり父なる神と子なる神の愛の霊としての聖霊は父と子が根源である」。新約聖書的キリスト論的命題、「<まことの人間として神のあるいは神の言葉が人間その「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>〕、<ナザレのイエスである〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」である〕、「<まことの神として人間ナザレのイエスが神の子あるいは神の言葉であるという点にある。この〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての〕イエスキリストので語るべき最初にして最後のことイエスキリストは誰であるかという問いに対する答え、「自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・三位一体の神、「われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での神の第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神であるまことの神「神の顕現」にしてまことの人間「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)であるということであるすなわち、ヨハネ一一四の言葉は肉となったという新約聖書の中心的命題そのヨハネの言葉』」神的な創造主和解主救済主なる言葉>、<神の永遠のみ子>、<まことの神〔「神の顕現」〕にしてまことの人間〔「神の隠蔽」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕であるイエスキリストのことである」。われわれが、……<人間イエス〔「神の隠蔽」〕の中での神の子の顕現〔「神の顕現」〕の目標と高所は、〔その復活に包括された〕イエスの死と十字架から成り立っているということまたその方は甦られた方としても十字架で死なれたこの人間であるということを考えるならばわれわれはまさにイエスキリストの人間性〔「神の隠蔽」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕こそ最高に神の自己卑下と自己疎外化を神としてご自分で本来すべての被造物に相対して持ち給うまさった姿が不可視的〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の「本来すべての被造物に相対して持ち給うまさった姿」の不可視化、「神の隠蔽」〕であり続けあれほど違った被造物の対象性を通して神の対象性が覆い隠されていること〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の不把握性〕を意味していると言わなければならない」。「神の隠蔽」としての「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の<恵み>の意味の中に、またラテン語の<恵み>の意味の中に、……ドイツ語の<恵み>の意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、<神の>まこと、<神の>忠実さ、<神の>義、<神の>あわれみ、<神の>契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、<神の>平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、<神の>恵みである」。<神の恵み(「神的な賜物……の総内容」――すなわち、「<啓示者>である父に関わる創造、<啓示そのもの>である子に関わる和解、<啓示されてあるもの>である聖霊に関わる救済」(父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身が、〔「自己自身である神」としての」〕神ご自身が、〔神の側の真実として〕自分自身を賜物とすることによって、自分自身、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における神の「第二の存在の仕方」、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、神とは全く異なる〕他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、神の側からして、「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくことである」から、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型は、神の言葉の受肉〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である「外に向かって」の「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>〕、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである〔イエス・キリストは、まことの神にしてまことの人間であるという両性を持ち給う〕」。ここでの常に先行する神の「恵みの秘義と本質」は、「二つのものが、(徹頭徹尾〔神性を内在的本質とする〕第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという」点にある。その「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「恵み深い神」と、その外在的本質である「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「われわれのための神」としての「恵み深くあり給う神との間には、中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。「ここでは〔神の側の真実として〕すべてのことは直接性に」、それ故に「われわれのための神」としての「神の存在と行為〔外在的本質〕が実際に〔「自己自身である神」としてのその〕神の〔内在的〕本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば神ご自身として、すなわち神ご自身であり、自分自身を確証〔自己認識、自己理解、自己規定、自己証明〕することによって、〔われわれのための神としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」において〕恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている」。したがって、「旧約聖書と新約聖書の中で、……力を込めて神を指し示しつつ、『わたしの』、『あなたの』、あるいは『彼の』恵みについて語られているのである」。したがってまた、「聖書的な人間は、ただ単に『あなたの恵みにしたがって、わたしをお救いください』(詩篇一〇九・二六)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを覚えてください』(詩篇一〇六・四)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・八八)、『あなたの恵みを聞かせてください』(詩篇一四三・八)等々について語られているだけでなく、ほとんどのところで直接、単純に、『わたしに対し恵み深く<あってください>』と言われている」。「それに対して、わたしの知る限り、わたしに恵みを<与えてください>という言い方はどこにも出てこない」。このような訳で、「使徒たちがその教会に対して臨んでいるすべてのことは、よく知られている挨拶の言葉でもって総括することができる」――すなわち、「恵みがあなたがたにあるように」。したがって、「神の言葉は、使徒行伝一四・三、二〇・三二によれば、単純に『恵みの言葉』」と呼ぶことができる」。「パウロにおいては、恵み、彼自身の回心、彼の使徒職とその行使、それと共に福音の宣教は、一つのまとまった全体を形作っている」――「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(Ⅰコリント一五・一〇)。なお、ローマ一・五を参照せよ」、「まさに恵みこそが包括的に神が現にあるところの方として、〔「われわれのための神」として〕われわれに身を向け給う際の向け方を特徴的に言い表している」。「二世紀に多く存在していたグノーシス主義者「二世紀に多く存在していたグノーシス主義者の先例、またJ・スコトゥス・エリウゲナおよびドゥンス・スコトゥスの先例に従ったシュライエルマッハーのキリスト論に対するバルトの主要な異論」は、「シュライエルマッハーが、第一にキリストを、単に、人間の創造とともに始まった発展の、神意識を強める方向に向かってすすむ発展の継続と完成とみなしている点にある第二にイエス・キリストを通しての救済を、(聖書にしたがって)神の自由な主権的行為として、神の言葉を救済の行為の中での主体として真剣に受けとらずに、世界の過程〔人間の類の時間性、人類史、歴史的過程の〕の諸要素の中の一つとして理解している点にある」。言い換えれば、「シュライエルマッハーのキリスト論に対するバルトの主要な異論シュライエルマッハーが、まことの神にしてまことの人間(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの名」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)が、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第二の存在の仕方」――この神の「第二の存在の仕方」における「肉をとった<言葉>〔人間となった<言葉>〕言葉によってとられた肉〔その外在的本質である「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「第二の存在の仕方」――この「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、肉、人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕とを区別して……ひとつという単一性と区別〔区別を包括した単一性〕、すなわちマコトノ神マコトノ人間が一つであるというイエスキリストにおける両性の単一性〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性〕について理解していないという点にあるすなわちシュライエルマッハーは、「イエスキリストはまことの神にしてまことの人間であるという新約聖書的キリスト論的命題は〔換言すれば、キリストの両性についての<内容的な命題>は〕、ひっくり返すことのできないひとつの等置であるから常に等しくないものが等置されることとして理解されなければならないということを理解していないという点にある

 

 決定的な第一の命題、すなわち<『神の永遠の言葉がご自身と一つとなるため人間的本質と存在を選び〔肉、人間となり〕きよめわかち〔聖別し〕取り上げたということしかもそれはまことの神およびまことの人間として神によって人間に語りかけられた和解の言葉となるためであるという命題は〔換言すれば、啓示の秘義としてのイエス・キリストはマコトノ神ニシテマコトノ人というキリストの両性についての<内容的な命題>は〕イエスキリストにあっての神の啓示の秘義を言い表している――このことは、「この命題でもって〔換言すれば、このキリストの両性についての<内容的な命題>でもって〕、……そこからして〔第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の証言が徹頭徹尾ただ由来して来ておりそれ故に新約聖書の証言にかなった仕方でなされる〔すなわち、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする仕方でなされる〕啓示についての教説第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoも徹頭徹尾そこから由来して来ることができる>」ということを意味しているまた、「このことも、人は、自分自身の全権と事柄を自由に処理する能力によってできるわけではない。したがって、人は、その<点>から由来して来るということが何を意味しているかということを、ただ〔第二の形態の神の言葉である〕福音記者と使徒たちに照らして明らかにすることができる。それから……<どういう>点から由来して来るのかということを明らかにすることができる」。人はそのをただ出発点>として述べることができるだけである」。「そのについてのすべての思惟と語りはただその<点>を繰り返し啓示の秘義として表示するそれ故に「啓示の秘義が解消されてしまうという仕方で触れられ語られてはならない」。「人はキリスト論においては目標〔「独一無比な対象」〕をまた限界〔その独一無比性の中での対象こそが、人間の思惟と語りを限界づけるところのその限界〕ちょうどそれらがすでに〔第二の形態の神の言葉である〕福音記者と使徒たち自身のところで措定されているのを見るような仕方で措定しなければならない」。したがって、「キリスト論は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕啓示の中で人間に対し神的力を行使し給うイエスキリストがどなたであるかをよく考えまた語らなければならない」。したがってまた、「そこでは人間が神に対して力〔人間の自由な自己意識・理性・思惟、感性、悟性、想像、意志、身体的修行等の能力〕を行使することができるということが前提されているような仕方で思惟し語らないようによくよく気をつけなければならない」。キリスト論は、第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で尋ね求められなければならない。キリスト論が可能であるところのこの条件を、「画像の対象がまさに人間となることであるM・グリューネヴァルトによって描かれたイゼンハイムの祭壇の主要な画像に照らして具象的にありありと描き出すことができる。その画像の対象はすなわち人間となるというその対象は〔換言すれば、その区別を包括した単一性において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕『神の永遠の言葉が、〔その外在的本質である「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」――この「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>において肉、人間となるというその対象は〕、それは、その画像の中で、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「メシヤを待望しつつある世界全体の先頭のところで、恵みの受領者としての母マリヤ、そのほかのものすべての代表者である母マリヤが目撃しながら伏し拝んでいる」ところの、それ故に聖書の中で証しされている「開かれた通路」を通って第三の形態の神の言葉である教会も「伏し拝み、ほめたたえ、讃美する」ところの、「母マリヤの腕に抱かれてい給う、すべてのそのほかの者と同様一人の地上の幼児である。……ただその地上の〔「その<人間性>の中での」〕幼児イエス自身だけが、すなわち〔人間〕母マリヤではなくただその〔まことの神にしてまことの人間である「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」である〕幼児イエス自身だけが、……父を見ておりまた同じようにただ〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての〕父だけがこの幼児の眼を見てい給うそれである。このような訳で、「教会は見ている。しかも恵みとまことに満ちた父のひとり子の栄光を見ているのである」。しかし教会は〔そのすべての成員。生来的な自然的な人間論的な自然的人間がそうであるように、生来的な自然的な教会論的なキリスト教的人間も、「神に敵対し神に服従しない……肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」われわれは〕、〔「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の不把握性に下にあるから、〕ただ間接的に見ているだけである教会が直接的に見ているものは言うまでもなくその〔神性を内在的本質とする神の、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、肉、人間――この〕人間性〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕の中での幼児である教会は〔神性を内在的本質とする〕父をただ〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、肉、人間――この〕〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「真に罪なき、従順なお方」まことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)〕の上におちてくる光〔その神の内在的本質である神性、キリストの神性、キリストの神性の現実存在、まことの神(「神の顕現」)〕の中でだけ見ているそして〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、肉、人間――この〕〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「真に罪なき、従順なお方」まことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)〕をただ「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての〕父から発するその光〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての父の光〕の中でだけ見ている」。「〔第三の形態の神の言葉である〕教会は、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神を、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕キリストにあって信じまた認識する〔信仰する〕」。このようにイエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求する。詳しく言えば、<イエスキリストにおける神の自己啓示、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三度別様」な「三つの存在の仕方」(性質・働き・業・行為・行動・活動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」)において、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神の認識と信仰を要求する啓示である「天からさしてくるその光〔その神の内在的本質である神性〕の故に、教会は、この人間イエスを伏し拝むのである。この人間イエスは、教会の目には徹頭徹尾ただ一人の人間であるにも拘わらず、そしてただ一人の人間であることによって、ちょうど神ご自身を伏し拝むのと同じように、教会はこの〔「真に罪なき、従順なお方〕人間イエスを伏し拝むのである」。「グリューネヴァルトの十字架の絵」では、「〔その内在的本質である〕神性の啓示を暗示するものが全く欠けている。その絵に出てくる洗礼者ヨハネは、十字架につけられた、死んだ一人の人間を指で指し示すことができるだけである。ここのところに、キリスト論は自分の場所を持っている。キリスト論は秘義の中に立っているのではなく秘義に相対して立っているキリスト論はマリヤと共に伏し拝み洗礼者ヨハネと共に指し示すことができまたそうすべきである」。

 

 まさに〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、〕一つとなることについての古代教会の〔<啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性>〕キリスト論の主要命題こそがすなわち聖霊ニヨッテ宿リ〔それ故に、キリストは、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」、まことの神、神性の現実存在であり〕、〔啓示の秘義の<しるし>としての〕処女マリヤヨリ生マレ〔それ故に、キリストは、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「三つの存在の仕方」における「第二の存在の仕方」――この「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、肉、人間、「真に罪なき、従順なお方」まことの人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」である〕という表現の中にその言い換えをもったまことの神にしてまことの人なるイエスキリスト451年のカルケドン会議において解決された「キリストの両性」〕という古代教会の〔<マコトノ神ニシテマコトノ人という両性>〕キリスト論の主要命題こそが啓示の秘義を秘義として解消しておらずむしろ啓示の秘義そのものを言い表しているという特質を持っている」。「この命題はそしてまた〔「啓示の秘義」の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれという〕クリスマスの奇蹟について言い換えつつ述べている命題もただ単純であり明らかであるばかりでなく実際にまた謙遜であってそれと共に内容的にはまさに啓示の秘義〔「奥義」〕について語っている」。「啓示の秘義を自ら自由に処理することができるとは考えなかった古代教会の<マコトノ神ニシテマコトノ人という両性>〕キリスト論は啓示の秘義は解消するなどということはできないことであるということを示そうとして啓示の秘義から出発した」。古代教会が〔啓示の秘義としての<マコトノ神ニシテマコトノ人という両性>〕キリスト論の定式でもってそのもっと精密な論述でもってあるいは〔啓示の秘義の<しるし>としての<処女マリヤより生まれ>という〕クリスマスの奇蹟についてのその陳述でもって言おうとしたこと、「そこではそこで実在であるところについて人間はいかなる力も持っていないということである」。したがって、「人間はただそこで思惟し始めることができるだけである、人間の思惟の<始まり>を言い換えつつ述べることができるだけである」、例えば「真に罪なき、従順なお方」「まことの人間」を、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」における「第二の存在の仕方」――この神の「第二の存在の仕方」における言葉の<受肉>、肉、人間、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」というように言い換えつつ述べることができるだけである。「肉にあってのキリストの啓示はすでにⅠテモテ三一六に従ってもただ単に事実的だけでなく信仰告白としても教会の信心の秘義〔「奥義」〕』である」。

 

ニュッサのグレゴリオス」は、次のように述べている――「キリストの中で神的な本質と人間的な本質が一つとなっていることが出来事として起こっているということは、われわれにとっては全く問題はない。しかし、われわれは、それが、われわれの理性を超えていることとして、どのように起こっているかを究明することを拒否する。われわれは、創造がどのようにして起こったかということを完全に口に出して述べることはできず、説明のできないこととして、議論しないままに残しておかなければならないのと事情はおなじである」、「キリストの中で神性と人間性が一つであるということは、三位一体の秘義につぐ最高の秘義である。ソレ故ソレハ人間ノ理性デモッテ教エラレ、受ケ入レラレルコトハデキナイ。何故ナラバソノコトヲ確実ニ保証スルヨウナソレノ完全ナ実例ナドハ自然全体〔宇宙を含めた天然自然としての外界、人間化された自然としての人間の物質的・観念的生産物としての人間的自然、これら全自然〕ノ中ニ存在シナイカラデアル……〔ソレの認識と信仰は、神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づく信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事として贈り与えられるものであるから、〕ソレハ神ノミ旨ニヨリ、聖書ニヨッテ教エラレ、確証サレ、信仰ノ目デモッテ受ケ入レラレナケレバナラナイ」。

 

それに対して、形而上学的な木を見て森を見ないという仕方で、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、「模範キリスト論の<道徳>主義」(人間の観念的生産物としての人間的自然、人間の意味世界・物語世界としての「存在者」)に依拠して思惟し語る「ヘルデル」は、「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性〕キリスト論に対する、それは<主知主義>であるという非難」を、「次のような言い方で表現した」――「僧侶くさい言葉〔「ギリシャ的な僧侶の妄想」〕を用いて人は、……キリストの両性が一つに結び合されていることを説明しようと欲した。そのことでもって、福音記者たちがすべてのそのような言葉をもっての定義や説明なしに述べているようなキリストの生全体の健全な姿をくらましてしまった。われわれプロテスタント教会は、そのギリシャ的な僧侶の妄想とは何のかかわりもない。パウロおよびすべての福音記者が、キリストはわれわれと同じように一人の人間であり給うたと語る時〔言うまでもなく、この思惟と語りは、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としないところでの、それ故に人間学的領域において思惟し語るところでの、しかも形而上学的な木を見て森を見ないという仕方での、すなわちその一面だけを拡大鏡にかけて全体化した見方での、ヘンデル自身の恣意的独断的な判断に基づいたそれである〕、……すべての使徒が、最も困難な戦いを戦い、キリストを模倣しつつ徳の道の上で〔道徳上で〕主に従うようにわれわれを義務づけている時、すべてのキリスト信者にとって、すべてのキリスト教神学者にとって、人間キリストは、……その者を〔道徳上で道徳的に〕模倣しその者の教えを受けるべき地上における模倣であるこの地上における最も純粋な人間の姿を歴史的に展開し、道徳的に言い表している書物〔人間学的領域における道徳<主義的な>道徳的書物〕はすべて、福音的な書物なのである。したがって、それに反する、キリストを人間離れした幻影〔「地上をさまよう神的な幻影」〕にしてしまうところのすべてのスコラ的な屁理屈をこねることは〔換言すれば、「古代教会の啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論」は〕、新約聖書に対してまさに逆行しているのであり有害である」。「模範キリスト論の<道徳>主義」に依拠した「このいくらかやかましい語り方」をする〔人間学的領域における〕<道徳<主義>者>ヘルデルは、まさにその思惟と語りが一面的である、すなわち人間学的領域における<道徳<主義>者ヘンデルは、次のような人間学的領域におけることを全く認識し自覚していないのである――人間が、個の世界、対(一対の男女、その共同性である家族)の世界、共同性の世界を生きているという人間存在の総体性を、またこの現存する現実的な社会の中で、人は、ある自己資質、生活、喜怒哀楽の感情の世界、愛憎の世界、嫉妬の世界、嗜好や選り好みの世界、思想信条、意志、構想を持っているということを、またヨハネ81以下の「姦通の女」における人間の内面の普遍性に届くイエスの言葉からして、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、道徳<主義>者であれ、法律<主義>者であれ、学校で道徳や法を教えている教師であれ、法律関係者であれ、警察関係者であれ、善人であれ、誰であれ、人間はただ道徳的にだけ生きているわけでないということを、すなわちそのことを認識し自覚しているかどうかは別として、一般に<友情>物語と評価されているところの太宰治の『走れメロス』であるが、太宰<自身>はただ単なる<友情>物語としてだけで終わらせてはいないのであって、まさにその外在的には<友情>物語で終わらせているその後の<三行で>人間に内在する<嫉妬の世界>も描いるように、少なくともその<内面の世界>においては道徳だけでなく法も破って生きているということを、また自然の一部である人間は、個体的自己として、その<自然な>身体(肉体)と<自然な>身体を座とする<自由な>精神(意識)を介した、普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界および人間化された自然としての物質的、観念的な生産物としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動を行うということを、またそれが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれその自然史的成果とそれに見合った観念諸形態(人間化された自然としての、人間の非有機的身体としての、人間的自然としての物質的な観念的な諸生産物)を生み出し、そうしていったん疎外され外化された観念諸形態はそれ自体の自体性を持つということを、それ故に観念は復古(回帰)することや逆行することや停滞することがあり得るということを、またそれが知識人であれ、法律関係者であれ、宗教関係者であれ、教育関係者であれ、医療関係者であれ、平和主義者であれ、慈善活動家であれ、エコロジストであれ、善人であれ、誰であれ、<現実的な>戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避的な<契機>さえあれば、理性的・意志的にだけ生きることはできず、<自分が意志しなくとも>、人一人だけでなく多数の人を精神的肉体的に傷つけ得るしあるいは殺し得るということを、また「人類は、人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないもの」であり、それ故に「歴史的現存性とは、それが<良きもの>であれ<悪しきもの>であれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のこと」であり、それ故にまた「個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである」から、「個人としての人間の意志、判断力、構想が通用するのはただ半分だけであって、いったんそうした現実に衝突してからは、人は、何々させられる、何々せざるをえない、何々するほかないというように生きる以外にはないのである」ということを、それ故に「人間の歴史〔人間の類の時間性としての歴史〕は、すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」(吉本隆明が『思想の基準をめぐって)ということを、また「念仏をとなえて、いちずに仏に成って、大慈大悲心をもって思うがまま自在に、〔飢餓、病気、餓死、煩悩等で苦悩し疲弊する衆生としての〕衆生をたすけ益することを意味するはずである」という「浄土の慈悲」(還相浄土)の観点において、「困窮する者を不憫におもい、悲しみ、助けてやることである。けれども思うように助けおおせることは、きわめて稀なことであるという「聖道の慈悲」(往相浄土)の観点を包括し止揚した親鸞のような往還的な思惟と語りが重要であるということを認識し自覚していないのである。「このいくらかやかましい語り方の核心、「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対する形式的な非難内容的な非難である」。われわれは、この非難を、ただ単にヘンデルだけでなく、一九世紀および二十世紀におけるヘンデルの多くの後継者のことを考えることによって、目にとめなければならない」。「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対する彼らの形式的な非難は、全くただ……教会教父、スコラ学者、宗教改革の正統主義者たちが、マコトノ神ニシテマコトノ人という主要命題を解明し、さらにこまかに定義し、……自分の立場を守ろうとする課題と取り組んだ際の入念さ、すべての側に向かって矛先を向けつつ展開された論争的な熱心さ、そこで起こって来るどんな問題をも解決しないまま残そうとしなかった組織的な精密さに対して向けられていた」。何故ならば、彼らにとっては、「教会教父、スコラ学者、宗教改革の正統主義者たち」は、「ラビ的な遊び半分の、論争好きの、実人生に疎い主知主義、『僧侶くさい言葉』や『スコラ的な屁理屈をこねる』」者としてしか感受できなかったからである。しかし、「昔の教会と神学がそこで課題と取り組んだ際の意識的な入念さはそれ自体イエスキリストは誰であるかという問いによって要求されていると感じた際の鋭さの表現以外の何ものでもなかった」。この「キリスト論の中での〔イエス・キリストは誰であるかという問いに対する〕入念さや論争なしに、僧侶くさい言葉やスコラ的な屁理屈なしに済ますことができる」と考えたのが、「例えば、いわゆる史的イエスの伝記を新約聖書の起源的な本来的な内容とみなすところのものである」もしも人が仮現論的な偏見によってもエビオン主義的な偏見によっても混乱させられないで約聖書を読む際にパウロとヨハネがイエスはキリストであるという彼らの命題をもってまた共観福音書記者たちがイエスはキリストであるという彼らの命題をもって出会うところで考え始めるならばもしも人がキリスト論においてはそれら両方の命題でもって言い表されている一つの実在〔その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、肉、人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕についてすなわち旧約聖書的待望の対象であり同時に新約聖書的想起の対象である実在について説明することが問題であるということを承認するならばその時には人は少なくともすべての世紀にわたって教会が事実巻き込まれていた誤謬を念頭に置くならばどうしてもそのような込み入った複雑な課題とならざるを得なかったということである」。古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対する彼らの内容的な非難は、……古代教会のキリスト論は「〔例えば道徳的に〕模倣することも思索することもできない」「地上をさまよう<神的幻影>」にしてしまったということに対して向けられている。古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対する彼らの<内容的な>非難は、後になって特にAリッチュルおよびリッチュル学派に属する歴史家のところで、とりわけAvハルナックのところで、具体的な形態をとった彼らにとっては、古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論のキリストは、神的および人間的な『性質』というその根本的概念が示しているように、根本においては、〔「ギリシャ的な感覚と思惟の前提に従えば〕全く〔人間学的において〕<宗教的>ではない〔人間学的における〕形而上学の形成物である。何故ならば、それは、倫理的〔意志的、精神的〕にではなく物体的〔自然的、肉体的〕に興味をもったものである」からである。しかし、「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論はヘンデルやリッチュルのキリスト論の課題とは違っていてキリストを地上におけるもっとも純粋な人間の姿としてまさに何らかの名目上救いになると言われている倫理学の図式に従って模範として表示して行くことはなかった古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論はキリストに対してそもそもただ倫理的にだけ興味を感じてはいなかったまた救いについて持っていた古代教会のキリスト論の概念は人間の肉体も包含しておりその希望はからだの甦りを含んでいたまた古代教会のキリスト論は神について語った時にも先ず第一の線において言うまでもなく排他独占的に道徳律法を与えるものあるいは保証するものとしての神の性質のことを考えなかったむしろ古代教会のキリスト論は事実神の過ぎ去ることのない性質および不死性について考えたまた古代教会のキリスト論は言うまでもなくそれが人間について語った時内面的なものと外面的なものからだと精神としての人間の現実存在〔精神的、意志的〕倫理的な問題〔自然的肉体的な問題を考えた」。このような訳で、「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論はとりわけ先ずそれに対する近代的な批判者たちと比べて〔「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする〕神と〔その外在的本質である「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における〕神的な救いについてもっと豊かな見方を持っていた」。しかし「このことは決定的なことではなく、決定的なことは古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論その近代的な批判者たちのように主として倫理的に人間の精神的、意志的領域における問題としての倫理、道徳に興味を感じていたわけでもなくまた物体的に〔自然としての、物体、肉体に〕興味を感じていたわけでもなかったということである」。古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論はそれらの興味の彼岸〔外〕において優越した包括的なそれ故にこそ単純な関心事――すなわちキリストを新約聖書の中で証言されているままの姿で、<全人的な人間の主としてその現実存在の両方〔外面的と内面的、からだと精神的・意志的・倫理的と自然的・物質的・肉体的の両方〕の側に向かっての生命をもたらすものとして人間存在の和解主として理解するという関心事を持っていた古代教会のキリスト論がキリストの中での『<人性>』〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」のその神性の受肉ではなく、その神の「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における「第二の存在の仕方」――この「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>、肉、人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕について語った時それはその〔区別を包括した〕単一性と全体性の中でのその人間存在のことを言おうとしていたのであるまたそれに相対して古代教会の〔啓示の秘義としての<マコトノ神ニシテマコトノ人という両性>〕キリスト論がキリストの中での『<神性>』〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての神の神性〕について語った時それはその〔区別を包括した〕単一性と全体性の中での神的存在のことを言おうとしていたのである」。「このような訳で、「これらの根本概念のいずれもが、近代主義的なプロテスタント信者が根本的という概念を用いる時に考えるのを常とする『性質』についての概念と何らかかわりがないのである」。「近代主義的なプロテスタント信者が『性質』と呼んでいるところのものは、昔の教義学の神性という概念の中に、ただ……神が、その方は神であるが故に、またその狭い意味での物体〔自然としての肉体〕に対しても主であり給う限り含まれていた。そして、近代主義的なプロテスタント信者が『性質』と呼んでいるところのものは、昔の教義学が言う意味での人性の概念の中に、ただ……人間は、彼が人間であるが故に、そして人間であることによって、ただ単に精神あるいは霊であるばかりでなく、またからだでもあり、ただ単に精神的―道徳的に存在しているばかりでなく、また肉体的―自然的にも存在している限り含まれていた」。したがって、「近代の神学者たちが、自らただ精神的―道徳的にだけ〔生来的自然的な人間の自由な理性や意志にだけ〕興味を感じつつ、物体的〔自然としての肉体〕にも興味を感じていた古代教会の神学者たちに対して、〔誤解して、〕ただ<単に>物体〔自然としての肉体〕にのみ興味を感じていたと咎め立てた時、そのことは、全くの視覚的な思い違いであった」、誤謬であった。「ただ、次のことは否定されるべきではない」――それは、「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論において、そもそも古代教会の神学において、〔形而上学な木を見て森を見ないという仕方で、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化するという仕方で〕、もっと狭い意味での『自然的なもの』の方向に向かって、それと共に事実、〔自然から対象的になって距離を取らないところの、それ故に意志的で自由でもないところの〕神秘主義的―魔術的―機械的なものの方向に向かって、逸脱へと来ることができたし〔「<自然>神学」へと逸脱することができたし〕、逸脱へと来たということである〔「<自然>神学」へと逸脱することができたということである〕」。「このことを、Av・ハルナック自身が見事に指摘している。しかし、ハルナックも、同様にはっきりと、強力に、〔生来的自然的な人間の自由な理性や意志に依拠する〕<精神主義>と<道徳主義>の方向に向かって逸脱へと来たのである〔「<自然>神学」へと逸脱したのである〕。このように、近代においても、〔まさに「<自然>神学」へのベクトルを持つ〕ヘンデルによって要請された模範キリスト〔「道徳主義的キリスト論」〕の方向をとっての強力な試みも終始欠けることはなかった〔すなわち、近代においてはさらに、その時代と現実に強いられて、「<自然>神学」へと逸脱して行く強力な試みがなされることは終始欠けることはなかったし、意志的に自覚的にその<負>の過程を否定的に媒介しないところの「教会の宣教における一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としてのキリスト教神学において、現在でもその「<自然>神学」の方向へと逸脱して行く試みは行われ続けている〕」――古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論」においては、「それら〔「<自然>神学」へと向かう〕両方の方向へと逸脱させてしまうことが欠点であるとしてもしかしどうしてもその二重の欠点〔二重の逸脱〕の陰画の中で古代教会のキリスト論の起源的な優越性があらわれている」。「ただ、古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論の包括的な、人間、その救いについての概念の高所からしてのみ、その二重の逸脱〔二重の欠点〕は可能であった。その中で、確かにヘンデル〔模範キリスト論の<道徳>主義〕に後続した近代の神学は、すべての魔術、すべての聖礼典神秘主義、すべての自然主義から自分を解放する術を知っていたが、しかし、その近代の神学は、……古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論の持つ重みの中に含まれておりそこで共に語って来る〔聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の特別啓示としてのその啓示の〕真理の要素なしに全く一面的にただ〔われわれ人間の一面に過ぎない、人間学の一つの領域に過ぎない〕精神神秘主義のかすかなものうい余韻をもった模範キリスト論の道徳主義におちこんでしまったのである因みに、ミシェル・フーコ―の『フーコーと禅』およびヘーゲルの『歴史哲学講義』では、<神秘主義>について、次のように述べられている――(先ずミシェル・フーコー)「〔人類史のアジア的段階における自然を内面の原理とする〕<禅>は〔禅的神秘主義は〕、〔西欧的神秘主義としての自由を原理とする〕<キリスト教の神秘主義>とは全く違うものだ(中略)。私が神秘主義という時、私はそれをキリスト教的な意味で用いています。キリスト教の精神性と、それに結びついた技術においてきわめて印象深いのは(中略)いや増す個別化が探究されているということです。個々人の魂の奥底にあるものを、その個人に把握させようとするのです。『おまえが何者であるのか、私に語れ』――これこそがキリスト教の精神性なのです。〔東洋的神秘主義としての自然を内面の原理とする〕禅においては、精神性にまつわる一切の技術は、逆に個人を非個別化する――個性を破る傾向があるように思えます。(中略)キリスト教神秘主義は、神と人間との合一を説く地点においてさえ、何かしら個的なものが残ります。というのも、それが神と個人の愛の関係だからです。一方は愛する者であり、他方は愛される者です。キリスト教神秘主義は、つまるところ個別化をめざすものです」。(次にヘーゲル)〔人類史のアジア的段階における〕真なる原理としての無は、(中略)活動と意思を持たないことにあるという。無とは無念夢想〔無我の境地〕で自己と一体化することですから。(中略)そのようにして、幸福な状態が実現されると、もはや悪徳も善徳も問題にならない。至福の境地とは、無と一体化することですから」、「〔人類史のアジア的段階における〕中国の宗教には解放にむかう要因がないので、というのも、その対象が天とか森羅万象とかいった自然の原理だからです」、「本当の信仰は、個人が外部からおしよせてくる権力をふりきって内面的に自立したとき、初めて可能になるのですが、〔人類史のアジア的段階における〕中国では個人がこのような自立性をもたず、宗教においても外部の力に、それも、天を最高の存在とする自然の力に、従属しています」、坊主は占いや巫術にたずさわります。〔人類史のアジア的段階における〕中国人はどんな迷信にも身をゆだねるからで、そこにはまさしく内面の非自立性と精神の不自由がしめされています」、「〔人類史のアジア的段階における〕インド人のいうブラフマン(宇宙の原理)との和解ないし一体化は、人間の精神がこの統一を<意識する>といったものではなく、まさに意識も自己意識も、したがってまた世界の内容も、自分の人格の内容も、すべてが完全に消滅するところに統一がなりたつ」、「〔人類史のアジア的段階における〕東洋世界の原理は、共同精神が権威としてあらわれることにあります。(中略)東洋では外部から命令されるだけで、(中略)外部的な命令をくだす意思は存在するが、内面の命令にしたがって義務を実行するような意思〔意志、自由〕が存在しないのです。精神が内面性を獲得していないために、精神は自然のままの精神としてしかあらわれません〔それ故に、自由ではない〕」。

 

そのような中でわれわれは第三の形態の神の言葉である古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の中で証しされているキリストと取り組んだということを〔その聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「純粋な教えとしてのキリスト」を尋ね求めたということを〕認識することができるその古代教会のキリスト論キリストについて最高の主として語っていたのである地の創造主である神ご自身のことを言おうとしていたそれがもっていた危険や欠点にも拘らず健康であったのような訳でその古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対して主知主義だという非難をすることは適当ではないのである」。「神も人間も、キリストも、キリストを通して得られる救いも、古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論にとっては、ただ事実理論的な信仰の対象であり得たという意味で、自然的なものであったのではない。すなわち、古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論の信仰は確かに全くその対象〔聖書の中で証しされている「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神〔「神の顕現」〕にしてまことの人間〔「神の隠蔽」〕イエス・キリスト〕の認識に基づいていたそしてその古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論の信仰の対象は言うまでもなく存在を持っていた〔「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事を持っていた〕。したがってその信仰は、〔「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)とその「第二の問題」を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)とのその総体としての現実的な信仰であった。したがってまた、人が、その信仰を、グノーシスに似た単なる真理とみなした時、それは、視覚的錯覚であった」、誤解であり誤謬であった。古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論は疑いもなく啓示の秘義〔「啓示の秘義」としての「まことの神にしてまことの人間である」、「啓示の秘義の<しるし>」としての「イエス・キリストが処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」を見て取っており尊重していたのである」。それに対して、人間学的領域を引き寄せて生来的自然的な類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使してなされる形而上学的な木を見て森を見ないという仕方でのその一面だけを拡大鏡にかけて全体化する、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」「近代のキリスト論はもともとからして、〔聖書を自らの思惟と語りにける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした〕古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論と比べて、全く別の何ものかを語ろうとしているのであるそれだからこそ、近代的なキリスト論は、古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論を、〔自然から対象的になって距離を取らない〕自然主義だと中傷したのである。それだからこそ、近代的なキリスト論は、キリストはただすべてのキリスト教的思惟の始まりとしてだけ続いて思惟され語られることができるところの事実であるということを語ろうとは<しない>のである。それだからこそ、近代的なキリスト論は、最後的に根本においては、キリストについてのマコトノ神ニシテマコトノ人間という定式の中で確かに語られているところのこと〔「啓示の秘義」〕を語ろうと欲しないのである。それだからこそ、<近代的な>キリスト論は、キリストを、理性的な・道徳的なこととして、その限り神的なこととして知っていると考えるところのことを具現化している最高の現象〔例えば、自己意識・理性・思惟によって反省的に認識され自覚された現実性としての模範キリスト論の<道徳>主義」〕として理解しているキリスト論か、それともキリストを単純に経験的に一個の特に印象深い実在〔例えば、ヘーゲルのいう世界史的個人のような実在〕として評価しようとしているキリスト論か、そのいずれかを言おうとしている」。このような訳で、その「両方の場合とも、そこで言おうとされていることは、キリスト教的思惟と語りの始まりは〔聖書の中で証しされている〕キリスト自身の中にあるのではなく、われわれ自身の判断能力の中に、あるいはわれわれ自身の体験能力の中にあるということである」ここにおいて近代的なキリスト論の古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対する形式的な非難が可能となる」。その「仮現論的な道およびエビオン主義的な道」における「言明は、……結局ただ、……人間の悟性、あるいは良心、あるいは感情の中ですでに持っている神概念からして、人間は、聖書のキリストに関して特定の『価値判断』あるいは価値感情にまで達する、そしてその人間的な価値判断あるいは価値感情に基づいてキリストに対してあれやこれやの賓辞を与えるのであるが、それらの賓辞がたとえ最高の賓辞であるとしても、それらの賓辞は、最後的にはただ感受し・判断し・語る人間に、自分の神を自ら認識する能力〔人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能〕に基づいているということである〔何故ならば、そこでの神は、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではなく、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物(人間的自然)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界(「存在者レベルでの神」)でしかないそれであるからである〕」。近代的なキリスト論の古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対する内容的な非難すなわち近代的なキリスト論は自然的〔物体的、肉体的〕に救いを受け取る理解の仕方、聖礼典神秘主義、魔術的な客観主義の過ちを犯していないが、それに対する精神主義的な道徳主義の過ちだけは犯している」。このようなことの中で、「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対する近代的なキリスト論の内容的な非難は、事柄から見て正しくもなければ当たってもいないということが示される。何故ならば、その近代的なキリスト論は、決してキリストについてのたちまさった認識から由来しているのではなく、古代教会の中でも存在していたのと同じ道徳主義のわがまま勝手さから由来しているからである」。「近代的なキリスト論は、まさにただ道徳的な判断と〔一回性を本質とする体験の思想化という〕精神の体験能力の希薄な空気の中で呼吸しているのである。近代的なキリスト論は新約聖書の中でからだ生命甦り等と呼ばれているところのことと何らかかわる術を知らないしたがって、近代的なキリスト論にとって、聖書的な奇蹟は、ほかのすべてを度外視して、それらの奇蹟がことごとく最高に『自然的なもの』であるという理由で、苦痛なのであるしたがって、近代的なキリスト論は、イエスのからだをもっての甦りに対して何を言うことができようか。〔「啓示の秘義の<しるし>としての〕処女マリヤカラ生マレ〔というクリスマスの奇蹟〕に対して何を言うことができようか。このような恐れ〔それは、時代と現実から強いられた苦痛、<近代的な>一般大衆や特に<近代的>知識人や人間学からの孤立への恐怖〕がその思惟と語りにおける奇妙な貧困化を意味しているということは決定的なことではない近代的なキリスト論のその思惟と語りにおける奇妙な貧困化を意味している決定的なことは、〔換言すれば<近代的な>一般大衆や特に<近代的>知識人や人間学からの孤立への恐怖による〕キリストにあっての啓示の中での神の存在に対する恐怖が潜んでいるということである。「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という〕キリスト論におけるキリストの両の概念に反対する議論はただ単に言語上の誤解に基づいているだけではな、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、〕人間が、〔<近代的な>一般大衆や特に<近代的>知識人や人間学からの孤立への恐怖からして、〕啓示の中での自然的なものを承認することを恐れてしり込みすることによって同時に存在的なもの聖書が証ししている啓示の使信の現実主義を承認することを恐れしり込みした人は聖書の使信をただそれが〔史実的に確かめられる〕歴史的として示された限りにおいて受けいれようと欲したが故に人が自ら望んでいたような〔類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された〕道徳的な判断と宗教体験の似かよった告知として示される限りにおいて聖書の使信を受け入れようと欲した」。このような訳で、「人は聖書の使信をわれわれがその方をわれわれ自身の主権〔すなわち、類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求〕からして主として判断しまた体験する前に現に主であり給う主の優越した言葉として承認しようとは欲しなかったのである人は、このところで逆らったが故に〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方を堅持しなかったが故に〕、人は、新約聖書を、部分的には解釈し曲げることを通して、また部分的には文献的および宗教史的な批評を加えることによって、……新約聖書が証ししている主について何も語らず、新約聖書からのいかなる命令も聞き取らず、新約聖書のキリスト証言の秘義〔すなわち、「啓示の秘義」としてのマコトノ神ニシテマコトノ人というキリストの両性、「啓示の秘義の<しるし>」としての「処女マリヤカラ生マレというクリスマスの奇蹟に対しても身を屈せず、……キリストについて好き勝手に語り、自由にこの言明やあの言明をして行くべきだと感じたここからして、〔聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の特別啓示、その啓示の〕真理をば、厳格に責任をもって問い、それに対応しつつ答えて行くことをはじめから断念してしまう謙虚さへと向かった換言すれば聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神を、キリストの福音を尋ね求めるつつ思惟し語るのではなく、<近代的な>一般大衆や特に<近代的>知識人や人間学からの孤立への恐怖からして、<近代的な>人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を第一義として、「人間学の後追い知識」としての「混合神学」・「人間学的神学」・「哲学的神学」へと、包括的に言えば「自然神学」へと向かったのである。バルト、『ルドルフ・ブルトマン』で、次のように述べている――「ブルトマンは、神話的世界像と神話的人間像は時代の経過とともに、われわれの前から消え去ってしまうし、われわれの眼前存在〔現前性〕は近代的な世界像、人間像にあるから、神話形式のままでは、新約聖書の言表、すなわち語られた内容の表現は理解できないから、それは非神話化されなければならない」と語ったが、しかし、それに対して「バルトは、聖書註解者は、だれに対して、誠実と真実をささげるべきなのか? 責任的応答をなすべきなのか? 同時代の人たち〔「教養人」、知識人〕の思考の前提に対してか? そこから形成された理解の規準〔人間学的規準〕に対してか? 否である。われわれは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所において、われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリストを、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」と述べている。また、「教会教義学 神の言葉」では、次のように述べている――「中立的な観察者として聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問いは、聖書にとっては全く縁遠いものであり、聖書の証言の対象にとって異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを聞くもの、見る者、信じる者である非中立的な観察者にとっては、〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示の実在そのもの、〔その最初の直接的な第一の啓示の概念の実在である「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての〕聖書、〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての〕教会の宣教の中に同時に啓示の秘義があったし、あり続けた。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、史実的には全く何も確かめられないということ知らされたし、啓示の出来事にとって重要でないものだけ、啓示とは別の何かだけしか確認できないということを知らされた」、それ故に「史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事、ポンテオ・ピラトと使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten)について語っているという点にある」。このような訳で、人間学的領域における文芸批評家であり言葉の専門家であり思想家である吉本隆明も、『<非知>へ―<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」で、次のように述べている――「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流の言葉〔文芸批評あるいは思想の言葉〕でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけですしかし<言葉>としての聖書というのは信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度なく前に三度私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、人間の<心>というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」。「近代的なキリスト論における謙虚さは、たとえそれがどんなに誠実で愛すべきものであるとしても、……人間的道徳的に見てよい態度だとして目立っているとしても、それは、キリスト教的な謙遜ではないし、すなわち神の啓示の秘義〔すなわち、「啓示の秘義」としての「まことの神にしてまことの人間である」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕の前での謙遜ではないから、それは、きっぱりと否定されなければならない何故ならば、「その近代的なキリスト論における謙虚さは〔聖書の中で証しされている〕啓示の秘義〔すなわち、「啓示の秘義」としての「まことの神にしてまことの人間である」イエス・キリスト、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を原則的に回避し、ごまかすことに基づいているのであり、人間が〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神に対して能力を持っているという意識であるからそれは謙虚さというよりも傲慢として特徴づけられなければならない」からである。このような訳で、「われわれは古代教会の「啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論に対してそれは主知主義だとして非難するあの非難に耳をかさなければならないことはないであるそのような非難は、その形式的な態度においても、その内容的な態度においても、新約聖書が今や確かに語っており、教会の中で・教会によって確かに聞かれなければならないことを半分は無鉄砲に・半分は狼狽の余り<看過する>という同一の根・同一の出発点を持っている」。したがって、人間学的領域からも、「主知主義だとして非難するあの非難する近代的なキリスト論」者たちに対して、彼らが、フォイエルバッハの客観的な正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的なキリスト教批判の対象そのものと同類であることを示すことができるのである。また彼らに対して、ブルトマン(ブルトマン学派)が尋ね求めた「存在者レベルでの神」・「存在者レベルでの神への信仰」に対して客観的な正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的な批判をなしたハイデッガーの「揶揄」(批判)の言葉を投げ返せばよいのである(木田元『ハイデッガーの思想』)。いずれにしても、「古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性〕キリスト論は、その意味の<看過する>ということはしなかったのであるから、それ故にわれわれは近代的なキリスト論の<形式的な、内容的な非難>にも拘らず、〔そのような「近代的なキリスト論」者たちとは違って、〕断固として古代教会の〔啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性キリスト論の側に立つべき契機を持っている」。

 

 「『キリスト論の問題という表題の下で思い出され厳密に教えられるべきことはわれわれを正確に今立っている場所へと導てくれた一一節〔「子なる神」〕および一三節〔「人間のための神の自由」〕の内容全体において……教会的に意味深く正当である唯一の道の上を通ってきたのであれば換言すれば預言者的使徒的証言を通して〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕啓示の出来事としてのイエスキリストへと導かれたのであれば〔「啓示の秘義」としての〕まことの神にしてまことの人間であるイエスキリストという命題はそこからしてさらに引き続いてのすべての考察が出発しなければならない前提であるということである」。「先ず第一に、それとして知り、第二に、それとしてそのまま<承認>しなければならないキリスト論」は、「旧約聖書の垂れ幕がかかげられ、それであるから肉をとった神の子の現臨が出来事として可視的であり見て取られる。しかもまさに<この>出来事として、すなわち時間の真中で『われわれと等しい一人の人間』イエスの現実存在という全く日付をつけることができる出来事として、しかもそこでは主なる神が直接的に一度ですべてにわたって力を奮う仕方で行動される主体であり給うたそういう出来事として〔何故ならばイエスキリストは、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(「ご自身の中での神」における神の自由の概念の積極的側面」、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、神の自存性」、<自在>としての「神の自由」)の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の自由の概念の消極的側面」、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」、それ故に「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>が堅持されなければならない)における「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての神の「第二の存在の仕方」であるから〕、可視的であり見て取られる。こういうところで、自分の場所を占めなければならない。、〔神性をその内在的本質とする〕主なる神がここで〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の<言葉の受肉>において〕<人間であり給うたすべての留保なしに神でありまたすべての留保なしに人間であり給うたこの出来事に向かい合っている場所へと、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書はわれわれを導くキリスト論はまさにイエスキリストは誰であるかというその問いをもってこの場所を占めなければならないキリスト論はこの場所からしてそれとしての啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を見過ごしにすることはできないし忘れることはできない」。このような訳で、「キリスト論は啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を否定するという可能性を考慮に入れることはできない」。キリスト論は啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕に固執しなければならないキリスト論は啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を秘義として堅くとって手放さないでいなければならないしかし、「近代的なキリスト論は、啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を手放してしまったそれと共に、近代的なキリスト論は、ゆるし難い誤謬を犯したのである」。言い換えれば、「近代的なキリスト論が、啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を手放すという誤謬を犯してしまったところのそのキリスト論とそのような誤謬を犯そうとはしないキリスト論〔すなわち、「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」に固執し固着した古代教会のキリスト論の時間累積、歴史性〕との間の了解をいや根本においてはただ議論だけでもなすことを不可能にしてしまうという誤謬を犯してしまった」。それに対して、古代教会の〔「啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性〕キリスト論は啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を手放すという誤謬を犯さなかった古代教会の〔「マコトノ神ニシテマコトノ人という両性」〕キリスト論は啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を見て取ったそしてたとえその際そのほかの点でどういう過ちを犯していたとしても少なくとも全体として啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を守る術を知っていた」。例えば、啓示の秘義〔「啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」、「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕を手放してしまった「近代主義的プロテスタント主義神学が、キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない場合、それは、視覚的錯覚〔例えば、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕に依拠している」のであるが、「その場合、和解に関して言えば、赦す神が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかないものである」から、そこでは「イエス・キリストは、〔人間自身の意味世界・物語世界(存在者)としての〕下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想という単なる空虚な概念でしかなくなってしまう」。そこでの神や神の啓示や神への信仰は、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神ではなく、またその神の啓示でもなく、またその神への信仰でもなく、その最初からフォイエルバッハのキリスト教批判の対象そのものとしての、またハイデッガーのブルトマン神学批判そのものとしての、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物(人間的自然)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」に過ぎないものとなるのである。このような訳で、「キリストの神性についての教義こそが、神的啓示と人間的な信仰の間における<幻想性>を、〔木を見て森を見ないという仕方でのその一面だけを拡大鏡にかけて全体化する〕その<形而上学性>を打破できる武器なのである」。このような訳で、「人は方法において原則的に古代教会の〔「啓示の秘義としてのマコトノ神ニシテマコトノ人という両性」〕キリスト論に味方した立場を取らなければならないのである」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』および『バルトとの対話』で、次のように述べている――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった。神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった。またその時、哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる。キリスト教哲学は、それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった。また、それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」し、「われわれが〔人間学的領域における〕哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、〔第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教における一つの「補助的機能」、「教会的な補助的奉仕」としての〕神学は哲学的試みが終わるところから始まる。すなわち、〔神学も類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使してなされる知的営為であるが、〕神学は方法論的にはほかの学問のもとで何も学ぶことはない、それ故に「人間学の後追い知識」としての人間学と神学との「<混合>神学」あるいは「<混淆>神学」、「<人間学的>神学」、「<哲学的>神学」、「<歴史学的>神学」、「<心理学的>神学」、「<教育学的>神学」、一般的な「<倫理学的>神学」や「<道徳学的>神学」等はあり得ない、と。

(文責:豊田忠義)