3の3.カールバルト教会教義学 神の言葉1 神の啓示> 言葉の受肉新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」 十五節 啓示の秘義 三 クリスマスの奇蹟「啓示の<秘義>の<しるし>」としての「イエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うた」(第二の条項)という「クリスマスの<奇蹟>」について(その2)

なお、引用個所の〔〕書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である

 

処女マリヤヨリ生まれ」(第二の条項

 われわれは「第三の形態の神の言葉」である教会の<客観的な>教義の必然性を証明しようとしたのではなく‥‥‥その教義の内容がたとえその該当する記述がどんなにまばらなものであり問題的なものであろうと「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」(すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――この「子としてのイエス・キリスト自身」によって「ただ一回的特別に召され任命されたところの、その人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)である聖書の証言に対応しているということを確かめたのである」。その教義の内容は特にイエス・キリストの人格の秘義すなわち、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>、「啓示の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」のことを言おうとしている教義の内容がこの秘義に対してもっている関係はちょうどしるし事柄に対してもっている関係と同様である教義の内容はこの秘義の特徴をそれと類似した奇跡の出来事すなわち、その<秘義>の<しるし>としての、イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>ということ」(「第一の条項」)イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>ということ」(「第二の条項」)という<奇蹟>の出来事を通して言い表している「われわれは、そのことでもって、E・ブルンナー等の処女降誕を拒否するさまざまな否定を否定することによって、処女降誕の必要性を指示したのである」。その処女降誕の必然性が事実明らかになってくるということはその該当する聖書証言がその控えめな証言の仕方にもかかわらずそしてその控えめな証言の仕方の中で古代教会によって明らかに聞かれるような仕方で聞かれるということそれであるからしるし「啓示の<秘義>の<しるし>」、「クリスマスの<秘義>の<しるし>」としてのその内容「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>、「啓示の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」の性質がそしてそのしるしと啓示の秘義の間の関係が見て取られそれ故にその内容を形成している奇跡イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>ということ」(「第一の条項」)、イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>ということ(「第二の条項」)という<奇蹟>その妥当性において理解されるということによってもってかかっているすなわちそれは啓示の秘義すなわち、「クリスマスの<秘義>」、「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>かかるものとしてそのしるしイエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>ということ」(「第一の条項」)イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>ということ」(「第二の条項」)を通して語って来て聞かれるということである」。われわれがその処女降誕の必然性を肯定するならばわれわれはわれわれのその処女降誕の必然性を肯定するところの認識をそれがその対象によって強いられてそう語らざるを得ない認識である限りまたそういう認識であるが故に自分自身で語って来なければならない決断として理解しなければならない」。

 バルトは、晩年の1956年の講演『神の人間性』で、次のように述べている――すなわち、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神の神性においてまた「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において神の神性キリストの神性、まことの神と共に、ただちにまた神の人間性キリストの人間性、まことの人間われわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人はすなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について認識し自覚していないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている

 

 啓示の秘義「クリスマスの<秘義>」としてのイエス・キリストはまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性イエスキリストは聖霊によって宿り給うたということ(「第一の条項」)およびイエスキリストは処女マリヤより生まれ給うたということ(「第二の条項」)という啓示の秘義しるし>」の間の関係の事柄からしてイエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求しているように、人は……全く明瞭な第二の条項である処女マリヤヨリ生マレから出発するのが一番よいであろう」。この「第二の条項」である処女マリヤヨリ生マレが明瞭であるのはそれが神的な行為の主権性をそれであるからクリスマスの秘義すなわち、啓示の<秘義>としてのイエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」も<秘義>を、その「イエス・キリストの人格」を、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>を……最高に具体的な否定を通して言い表しているからである」。すなわちそれは啓示の秘義しるし>」、クリスマスの秘義しるし>」としての第二の条項である処女マリヤヨリ生マレということは……ほかの誰もが生まれたことがなかったような仕方で生まれたということ生物学的に見てちょうど死人の甦りと同じようにはっきりさせることができない仕方で生まれたということさらに換言すれば男性の生殖能力に基づかないでただ女性の受胎能力にだけ基づいて生まれたということである」。内容的にもっと重要な第一の条項である聖霊ニヨリ宿リそしてこの第一の条項はイエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求しているように、第二の条項を通して解釈されるのであるが神の言葉が人間的な現実存在となるに当たって働いた神の同じ絶対主権性を積極的な側面から言い表しているすなわち第一の条項は神の自由な意志が第二の条項の意味であり解答であるということを言っている」。第二の条項はただ単に人間的な実在のただ中において出来事として起こる全く謎的なことについてそれと共にその出来事を念頭に置いて考慮されるべき神の絶対主権性について語っているだけでなく前代未聞の仕方で限界づけつつ全くの謎を宣べ伝えつつのことであるが人間的実在について語っているもしもそうでないとしたら第二の条項はクリスマスの秘義〔すなわち、啓示の<秘義>としてのイエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>を、「イエス・キリストの人格」の<秘義>を、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>〕を言い表していないことになるであろう言い換えればもしもそうでないとしたら神の実在がここで人間的実在と一つになるということの中で示される神の絶対主権性を言い表していないことになるであろう」。したがって、バルトは、『神の人間性』で、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての神の神性においてまた「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において神の神性キリストの神性、まことの神と共に、ただちにまた神の人間性キリストの人間性、まことの人間われわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人はすなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について認識し自覚していないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べているのである。第二の条項は、『マリヤヨリ生マレでもってイエスキリストという人格は実在の母の息子であって彼の母のからだから肉と血から生まれた息子であるということを言っている――「この完全な意味で神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順なお方」イエスキリストは人間であり給うもちろんそれからほかの母のほかの息子たちとは違った仕方でほかの誰もが生まれたことがなかったような仕方で生まれたところの、生物学的に見て、ちょうど死人の甦りと同じように、はっきりさせることができない仕方で生まれたところの、さらに換言すれば男性の生殖能力に基づかないで、ただ女性の受胎能力にだけ基づいて生まれたところの、「真に罪なき、従順なお方」人間であり給うここで問題になってくるその別様性はそれほどまでに大きく……根本的であり包括的であるので、〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕彼の人間存在の完全性と真理性を少しも損なわないのである」。「啓示の<秘義>」の<しるし>としての「人間的な実在の真中で起こった奇蹟の場所を、特にラテン語の信条の定式の中でかたく保持されてきたマリヤヨリが強調している(ガラテヤ四・四参照、『女から』)。アタナシウス信条は、そのことを『<母ノ実体カラ、時間ニオイテ>生マレタ人間』、と言い換えた。そして、それよりもっと古い信条が形成されるに際して、マリヤヨリ生マレという第二の条項は、確かにまた、ヴァレンティヌスの見方のようなグノーシス的―仮現論的な見方を防ぐという実際的な意味を持っていた」。このような訳で神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としてのイエスキリストの誕生においては実在の人間の実在の誕生が問題であったしまたそのことでもってそのしるしすなわち、「啓示の<秘義>の<しるし>」、「クリスマスの<秘義>の<しるし>」は事柄を指示しているすなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉が肉体となった>という口に出して言い得ない啓示の<秘義>」を指示している」。「<そのことが現に出来事として起こったということがわれわれがクリスマスの秘義すなわち、啓示の<秘義>としてのイエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、その「イエス・キリストの人格」の<秘義>「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>、「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>であるという<秘義>と呼ぶところの神の絶対主権的な行為であって神の絶対主権的な行為は実にこれ以外の何ものでもないのであるただそのことが実際に出来事として起こったことによってそれはわれわれに対する神の啓示の秘義>、神とわれわれが和解せしめられることの秘義である」。また、「マリヤヨリ生マレが〔「第三の形態の神の言葉」である教会の<客観的な>〕教義の中に含まれていることを確かめることはつまり〔「クリスマスの<秘義>の<しるし>」、「啓示の<秘義>の<しるし>」としての〕クリスマスの奇蹟がそれらの構成要素を持っているということを確かめることは啓示恵み信仰の全領域にとって……「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての〕神学的な探求と教えの全領域にとって重要なことであるインマヌエルがまこととなる時人間の身に対して奇蹟〔「クリスマスの<秘義>の<しるし>」、「啓示の<秘義>の<しるし>」としての「マリヤヨリ生マレというクリスマスの奇蹟」〕が起こるのである主権的な神の行為の対象はこの出来事の中での人間である〔すなわち、聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神は、神の神性においてまた神の神性と共に、ただちにまた神の人間性われわれに出会う」というこの出来事の中での人間であるここで確かにただ神ご自身だけが主人であり主であり給うしたがってそのことは〔「『自然』神学」の段階の思惟と語りにおける〕すべての神人協力説「神人協働説」とすべての一元論神人混交論に対していくら排他独占的に拒否的に強調されても十分過ぎることはないのである」。バルトは、『教義学要綱』で、次のように述べている第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉はすなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子〔神の顕現〕にして人の子神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、真の神〔神の顕現〕にして真の人神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神であると、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれがその最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、第二の形態の神の言葉である聖書を、この神の唯一の御言葉についての(すなわち、イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとしてすなわち、「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性」――すなわち「権威」と、「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの人間性」――すなわち「自由によって賦与され装備された権威と自由を持つ預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」として、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合すなわち、われわれが、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教を神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」、と。

 

 「<創造についての教義の観点から言って……啓示と和解においては……無カラノ創造が問題なのではなく……『古い生まれながらの人間性の中でのそして古い生まれながらの人間性に対する創造的な行為』(G・トマジウス〔啓示と和解〕ということが問題である啓示と和解においては無カラの創造の代わりに古い生まれながらの人間性があるいは「啓示の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」のしるしの中でのマリヤヨリが入ってきたのであるこの新しい第二の創造は古い第一の創造を前提としているこの新しい第二の創造は、イエス・キリストにおける「神の啓示は、裁き〘「神の裁きの啓示」、律法、死であることによって、恵み〘「神の恵みの啓示」、福音、生である」ということからして、裁きと恵みを通して新しく照らし出され形成されるべき実在として、それ故にわれわれによってすなわち、類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって、神とのその関係において直接的に考察され理解されるべき実在としてではなく(『自然神学』の成果としてではなく)、むしろ裁きと恵みの認識の中で考察され理解されるべき実在として、とくかくそれに対して、ここで、ちょうど創造の中で奇蹟的な仕方で基礎づけられたのと同じように、奇蹟的な仕方で働きかけられるところの現実存在として、古い第一の創造を前提としている。ここでひそかに入り込んでくる……すべての自然神学に対して聖霊ニヨッテ宿リという積極的な背景をもった処女ヨリは必要なかんぬきをさしはさむであろう」。バルトは、「創造された世界における神の愛とわれわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛との間にある差異」について、次のように述べている――「イエス・キリストの事実の中における神の愛は、まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛である。すなわち、和解ないし啓示は、創造の継続や創造の完成ではない。この意味は、和解ないし啓示は、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストにおける新しい神の業である啓示・語り手の言葉(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、ということである。それは、神的な愛の力和解の力である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」において第二の神的行為啓示・語り手の言葉(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事を遂行したのである。この神の存在の仕方の差異性における創造と和解のこの順序に、キリスト論的に、父啓示者・言葉の語り手・創造者啓示・語り手の言葉(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・和解者の順序が対応しており、和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできないのである」。しかし、父子は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるということからして、その従属的な関係は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「起源的な第一の存在の仕方」と第二の存在の仕方」の差異性を意味している

 

 ここで、「われわれは「啓示の<秘義>の<しるし>」、「クリスマスの<秘義>の<しるし>」としての処女ヨリという第一の条項と取り組む」。「<処女ヨリという第一の条項でもって……ごく身近な一般的な形式的なことすなわち神ご自身であり給うところの啓示者の人間的な現実存在何故ならば、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリストは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>」が、「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるし、その「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からであるの生成始め(マタイ一・一、一八一つの奇蹟であるということ換言すればこのわれわれの世界の中での出来事であるがすなわち、このわれわれの人間の類の世界、その人間の類の時間(人類史、世界史、歴史)の中での出来事であるがしかしそれはこの世界の中での出来事の連続性の中に基礎づけられていないしまたそういう連続性からして理解されることはできない出来事であるということむしろそれは直接的に神によってたてられたしるしであるが故にただそのままそれとして理解されることができるだけある出来事であるということも語られている換言すれば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいて理解されることができるだけである出来事であるということも語られている」。「しかし、まさに処女ヨリは、すべての聖書的な奇蹟と同様、本質的には<しるし>であるから、われわれはそれを理解するためには、それの『超自然性』を確かめるだけで終わってしまうことは許されないのである。くすしきことと驚嘆すべきことは二つの違ったことであり、ただ単に驚嘆すべきことをただそれとして確かめるということだけでは、……異教的な宗教と世界観に従っても奇蹟が存在し、しかも聖書的な奇蹟、そしてまさに処女ヨリ生マレに大変よく似た奇蹟が存在する領域から依然として抜け切れないことになる……。処女ヨリが新約聖書の中で登場してくる際の現れ方、そしてそれが古代教会の中ではじめから説明されてきた際の説明の仕方は、……驚嘆すべきことそれ自体が教義の起源的な動機であるかのように理解する権利をわれわれに与えない」。言い換えれば、「処女ヨリでもって明らかに……神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉が肉となることによって神の人性〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」をおとりになることによってその人性に対して全く明確な限界づけが起こるという内容的なことが語られているそこで人間の性質に対して恵みが与えられるようになるしかしそのことは人間の性質が裁きの下に置かれるということなしに起こることはできない――イエスキリストにおける神の啓示は裁き〔「神の裁きの啓示」、律法、死であることによって恵み〔「神の恵みの啓示」、福音、生である、神の啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、裁きを包括した恵みである。「その両方のことが問題であるということは特にルカ一二六三八のテキストにおいて明瞭となる。天使の使信は、そこではまず第一にはっきりと喜びの使信という性格を持っている(三〇節「恵みをいただいている」)。しかし、天使の使信は、マリヤの心を動揺させるものであった(二九節「マリアはこの言葉に戸惑い」)。そのマリヤに対して、ちょうどルカ二・一〇において羊飼いに対して声がかけられるように、元気づける声がかけられなければならない(三〇節「マリア、恐れることはない」)。注釈的には今日でもまだ何も異議申し立てをする必要がないほど明らかにされているわけではないあの約束の決定的な言葉、三五節『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む』は、確かにまた脅かす「心を動揺させる」何かを持っている。最後に、マリヤの決定的な答え、三八節『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように』という言葉がやってくる」、それとの「平行記事マタイ一・一八-二五、……ヨセフが夢の中で天使とかわした会話は、まさに……ヨセフに対して、マリヤの懐胎がとりかこまれているのを見なければならない<躓き>を克服するのを助けるという目的を持っている。処女ヨリ生マレはそれらのテキストによればただ単に生物学的な意味で自然と出会っているというだけでなくむしろそこでは内容的にそれとしての人間の身に及んでくる純粋な出来事が問題であるということは明らかである」。そこでは、「ヨセフは、神の側の真実としてある恵みを与えられることによって、ただ単にこれまで出会ったことのないなれない出来事の傍観者としてびっくりするというだけでなく、むしろその恵みの出来事がヨセフに対して抗弁を逆らうことを許さないのであるそしてヨセフ自身の上に一つの決断がすなわちその決断を彼は苦痛や驚愕なしにではなくまた屈服なしにではなく身に受けることができただまさに神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる信仰の中でのみ肯定し是認することができるそういう一つの決断が下されるのである確かにそこでヨセフが置かれるところの裁きの中には恵みが隠されているのであってその恵みについていやただ「神の啓示は、裁きであることによって、恵みである」、裁きを包括した恵みであるというその恵みについてだけいうまでもなくそれらのテキストは語ろうとしているのである恵みは、結局裁きという狭い門を通り、狭い道の上を通って来るしかないのである。そこのところからして恵みはいずれにしても処女ヨリの中においては理解されなければならない」。

 

 処女ヨリの中には人間に対して下された一つの判決が含まれているすなわちマリヤが処女として主の母となり神の啓示が人間の世界に入ってくる門となるということでもって人間の女が普通に母となる時の自然的な道を通っては、主の母となり神の啓示が人間の世界に入ってくる門は存在しないということ換言すれば人間的な性質それ自身はイエスキリストの人間的な性質神的啓示の場所となる能力を持っていないということが語られている生来的な自然的な人間的性質は神の同労者であることはできないということが語られているしたがってそれにもかかわらず人間的性質が事実神の同労者となるならばそのことは生来的な自然的な〕人間的性質がすでに前もって持っているそれ自身固有なものに基づいてではなくむしろ神の言葉を通して人間的性質の身に出来事として起こることに基づいてのことであるすなわち、むしろ神のその都度の自由な恵みの神的決断によるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な事故証明能力」の<総体的構造>に基づいてのことである――イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力持ってはいない」と認識する、「信じる者は、自分がつまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等〕によっては』全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する(『カント』)というそのような思惟と語りは、「『自然』神学」の段階における思惟と語りそのものであると指摘する、「存在するものそのものその純然たる造られた存在、その造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」というアウグスティヌスの思惟と語りに対して、それは、「『自然』神学」の段階における思惟と語りであり、その「『自然』神学」の段階の思惟と語りにおける「三位一体の跡は、世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」と指摘する、すなわちそれは、「人間自身の内在的に理解された宇宙の諸規定人間的な現実存在の諸規定単なる宇宙論や人間論でしかない」と指摘するし、そのような「三位一体論は、生来的な自然的な人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使しての人間自身に基づく人間の世界理解、最後的には人間の自己理解・自己認識・自己規定神話に過ぎないと指摘する。主の誕生に際してのマリヤが処女であるというマリヤの処女性は……神の前での人間の否定ではないがしかし神のためにあることができる〔生来的な自然的な〕人間の可能性適正能力の否定〔「判決」〕を意味している」。「この時人間は自分のことを〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた〕ただあのワタシハ主ノハシタメデスという言葉を持って「マリヤが受胎告知の出来事の中で、自分のことを、メシヤの将来の母として理解することができないでいるのと同じように」彼が自分自身には理解し難い仕方で神の前でそして神からして事実なったところのものとして理解することができるだけである」。

 

 前段における「判決」、「否定の意味は、創造者としての神と被造物としての人間の間の区別ということではない。(中略)楽園においては神の同労者としての人間をしりぞけるしるしである処女ヨリを必要としていなかったしかし啓示そのものの身に対して起こり啓示の中で啓示を通して神と和解せしめられる人間は楽園における人間ではないその人間はもちろん神の被造物であることをやめてしまいはしなかったがしかし彼は純粋な本来の被造物としての姿をそれと共に神のためにあるという可能性を、……彼が被造物としてしかもその被造物性全体の中で彼の創造者に対してキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、われわれ人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認もという不従順になったということを通して失ってしまった人間は、彼の現実存在の根底にいたるまで、その不従順の中で存在している〔日々瞬間瞬間、キリストにあっての神としての神から遠ざかり遠ざかり続けている、罪を新たな罪を犯し続けている〕。その不従順な被造物と神はその啓示の中で関わらなければならないのである神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉は肉となることによって人間の性質人間の肉をおとりになるのであるその人間的性質が神のためにある能力を受け取るという秘義そのしるしとしての処女ヨリ生マレは言い表わしているさし当たって先ず……処女ヨリ生マレが昔の教義学の中でいつも考慮されていた決定的な観点は……いわゆる原罪への想起であったあるいは起源的な罪換言すれば人間がその罪をただ個々の思想言葉業の中で実際に生きてはじめて罪を持つというのではなくアダムの中で堕罪したものとして自明的にそして彼の現実存在の全体性の中ですでに生きている罪への想起であった何故ならば神に対して服従しようとする自由な意志は人間から失われてしまい不従順な奴隷的ナ意志がもともと人間に固有なものであるからであるこの人間的性質が処女ヨリ生マレを通して限界づけられ、反駁されるのである処女ヨリ生マレは……われわれすべてがわれわれ罪深い性質の中で生きているように肉の中にい給い罪の性質と呪いをわれわれと共に担っておられるがしかしその方は神として罪を実際に生きることがない何故ならばその方は確かに罪を生きないからであり……服従への自由ナ意志のみを持ち給うからであるそういう人間の現実存在を指し示しているもしもその方が、われわれと共に罪を担い給わないないならば、その方はわれわれとは等しくない者であるであろう。それであるならば、その方は、マコトノ人間ではないことになるであろう、われわれのための〔啓示者(父)の啓示(子)としての〕啓示者および和解者であることはできないであろう。もしもその方が、罪を生き、われわれれすべてのものと同じように実際に罪を生きつくすならば、どうしてマコトノ神が妥当するであろうか。その時、その方は、どうして〔啓示者(父)の啓示(子)としての〕神的啓示者および和解者であることができようか」。その方は罪を実際に生きることがない何故ならばその方は確かに罪を生きないからであり……服従への自由ナ意志のみを持ち給うからであるそういう人間の現実存在を指し示しているところのその方の現実存在はわれわれの古い人間的性質の中で一つの突き破りと新しい始まりを措定すると同時に一つの突き破りと新しい始まりを意味している歴史的な人類の連続性の中に立ちながらその方はそういう連続性を突き破り新しい人間性を開始し給う――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約「神の裁きの啓示」律法、死から新約「神の恵みの啓示」福音、生へのキリストの十字架でもって終わる古い世、時間は、復活へと向かっている。このキリストの復活すなわち、「キリスト復活の四十日」(使徒行伝一・三)、「実在の成就された時間」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解されたギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」)そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>」そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」新しい世、時間のはじまりである啓示の秘義>」、「クリスマスの秘義>」――そのことのしるし処女ヨリ生マレである」。処女ヨリはあらゆる事情の下でその突き破りと新しい始まりを指し示す指し示し〔「しるし」〕として理解されるべきであるがしかしその突き破ると新しい始まりの条件として理解されてはならないのである」。「そのしるし〔「形式」〕とその事柄〔「内容」〕の間に必然的な関係〔「相互関連性」〕があるとしてもその関係は因果関係的なそれではないわれわれはそれから神がその内容をその形式の中で意志し給うたのであるからその内容のその形式をあくまでかたくとって離さないということを言うであろう」。しかし、われわれは、「神はその内容に対して、いかなるほかの形式も与えることができなかったと言いはしないであろう」し、「それであるから、形式と内容、しるしと事柄を、その相互関連性の中でかたくとって離さないであろうが、しかし……功利的実証的な仕方でもって一方を他方から導き出そうと企てはしないであろう」。したがって、「「第二の形態の神の言葉」である聖書によって証しされ、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の<客観的な>教義によって宣べ伝えれた奇蹟「啓示の<秘義>の<しるし>」、「クリスマスの<秘義>の<しるし>があの突き破りと新しい始まりを可能にしあるいは働き出すという意味を持っている時」には、「処女ヨリは、イエスはヨセフを度外視しても母マリヤからして罪深い人類との関連の中に立っているはずであるから、イエスをあの突き破りと新しい始まりとして理解し、原罪より解放されたとして理解するのに不十分であるという趣旨の異論(シュライエルマッハー、R・ゼーベルク、ブルンナー、アルトハウスの異論)は類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界として人間的な意味があるとしても、しかし、人は、そのようなことを言うことはできない」。何故ならば処女ヨリはあらゆる事情の下でその突き破りと新しい始まりを指し示す指し示し「しるし」として理解されるべきであるがしかしその突き破ると新しい始まりの条件として理解されてはならないからである」。「それは例えばマルコ二一二に対してその「内容」、「事柄」としての人の子は地上で罪を赦す権威を持っているということが真理であり実在であるのは中風の者の癒し「形式」、「しるし」によって可能とされ働き出されるということができないのと同様である<罪の赦し>は、明らかにそこで表示されている<事柄>「内容」であって、<癒し「形式」、「しるし」の方は確かに区別を包括した単一性においてその事柄と最高に切り離せない最高に意味深い仕方で関連させられているがしかし事柄「内容」と同一でもなければまたその事柄「内容」条件づけている訳でもないしるし「形式」である」。このような訳で、「人は処女ヨリの解明からいかなる事情の下でも決してイエスキリストの中で起こった原罪の克服のいわば技術的な基礎づけを期待してはならないのである」。イエスキリストは「第二の形態の神の言葉」である聖書および聖書を自らの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の<客観的な>信仰告白によれば処女から生まれ給うたが故に第二の新しいアダムなのではなくむしろイエスキリストが第二の新しいアダムであり給うということが、『あなたがたに分かるために』、処女から生まれ給うたということの中で指し示されている」。「ここで解明されるべきところのことは……因果関係ではなくどの程度までその処女ヨリのしるし「形式」ないしそのしるし「形式」の要素がクリスマスの秘義「啓示の<秘義>」それと共にイエスキリストの中で起こった原罪の克服を指し示しているのかということである」。

 

 男と女の先行する性的結合なしの誕生である処女降誕は一般的に言ってキリストの誕生を抜きん出たものにしキリストの誕生の神の秘義「啓示の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」として人間性の内部での突き破りおよび新しい始まりとして特徴づけている」。したがって、「ここでは、全く非聖書的な……性的な行為それ自体が取り除かれるべき悪であるかのように受け取り……理解する見解は、はじめから問題とならない」。「詩篇五一・七の『見よ、わたしは不義の中に生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました』は、もちろん自然的な過程に対して断罪することを意味していない」。「カルヴァンが、人間ノ出生ハソレ自体トシテハ汚レテモ、ソコナワレテモイズ、堕落ニヨッテ偶有性トシテ汚レガ生ジタカラデアルと語った時、またスコラ学者たちもいだいていた一般的な見解を定式的に言い表している」。われわれ人間は誰であれ、個―対(一対の男女、その一対の男女の共同性としての家族)―共同性という人間存在の総体性を生きるという点から言っても、自然的なものとしての人間ノ出生ハソレ自体ハ汚レテモ、ソコナワレテもいない。また、「性的な生活がイエス・キリストの人間的現実存在の起源として排除されているのは、性的な生活の<自然的なこと>の故にではなく、むしろ性的生活の<罪深さ>の故であるということを付け加えること……によって、処女ヨリの意味が意味深い適切な仕方で解明されるということもないのである」。「すべての性的な生活と事実上結びついている罪の故に、人間は生まれながらにして、不従順を生き抜くことによって、常に不従順を生きたところの罪人であるのではなく、むしろ人間が生まれながらにしてもともと罪人であるが故にすなわち何ごとをなすにしてもいつもどこででも不断に生きているところのキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、われわれ人間の「欲求」・「自主性」・「自己主張」・「自己義認」もという〕不従順を生き抜くところの罪人であるが故にすべての性的生活は罪と結びついておりそれ故にそれ自身罪であるのである」。このような訳で、「それらの排除は、イエス・キリストの現実存在の中での突き破りと新しい始まりを示すイエス・キリストの無罪性を示す<しるし>となるには、依然としてまだ不適当なものである」。

 

 「処女ヨリ生マレという形でもってイエスキリストの人間的な現実存在の起源として罪深い性的な生活が排除されているということは処女ヨリでもって遂行された人間の限界づけの意味と人間に対する判決の意味はそもそも限界づけられたものそして判決が下されたものからしてそれであるから人間の罪からして洞察されるのではなくむしろただ限界づけるものそして判決を下すところのものからして換言すればそこで罪深い性的生活を排除することによって神が現にあり意志しなし給うところのことからして洞察されることができるということを念頭に置く時に理解されるもの意味深いものとなる」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における啓示と和解の秘義神がその自由いつくしみ全能の中で人間となりそのような方として人間に働きかけ給うということから成り立っている「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内示的本質とする「一神」・「一人の同一の神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」――この神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」であるそのキリストの神性は啓示および和解におけるキリストの行為子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事の中で認識することができるしかし、「そのキリストの人間性が啓示と和解を生じさせるのではなくそのキリストの神性が啓示と和解を生じさせるのである」。神のその行為を通して罪は排除され空しくされるのであるまさにその神の行為を「啓示の<秘義>の<しるし>」、「クリスマスの<秘義>の<しるし>」としての処女ヨリ生マレは指し示している換言すればイエスキリストの人間的な現実存在の起源として罪深い性的な生活が排除されているというしるしは指し示している神が神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕その啓示と和解の中で主であり自らわれわれの間で場所を造り給うが故にそして主であり自らそのような場所を造り給うことによって人間および人間の罪は限界づけられ判決が下されるのである。言うまでもなく、神は、その罪深い被造物に対しても主であり給う。また、神は、その罪深い被造物の起源的な罪、その罪深い被造物の現実存在の中で、その現実存在と共に生起しており、すでにすべての悪しき思い、言葉、行いに常に先行している罪に対しても自由であり給う。しかもただキリストにあっての神としての神だけが彼の被造物に対してそのような自由を回復させるべく自由であり給うしかしその時その自由は常にその被造物に対して働きかけ給う神ご自身の行為「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事の自由であるそれであるからそのことはその被造物自身の自由の否定である罪深い性生活の排除をもった処女ヨリ生マレが、<神の恵み深い裁き〔「神の啓示は、裁きであることによって恵みである」〕を指し示すことによって処女ヨリ生マレは、実際に原罪の意味での罪を排除することを言い表している処女ヨリ生マレが事実神の恵み深い裁きを指し示しているということを人は、男と女の先行する性的な結合なしの誕生においては、事情は、マリヤという形態において関係しているということ、しかもまさに<ただ処女>マリヤという形でのみ関係しているということ、換言すれば意志を働かせない達成しようとしない創造的でない絶対主権的でない人間の形の中でただ単に受け取りただ用意していることができる人間ただ単に何事かを自分の身にそして自分と共に起こらせることができるだけであるところの人間の形の中で関係しているということを考慮に入れる時にのみ理解する」。そのような「人間、処女が、そこで可能性となる、換言すれば肉をとった神の子の母となるのである」。「よく理解せよ処女がそのような可能性そのような母〔「肉をとった神の子の母」〕であるのではなくそのような可能性そのような母となるなるのであるしかも処女は自分自身の能力からしてそのような可能性そのような母となるのではなくまさに神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<言葉>あるいは神のが肉をとり給うことによって処女はそのような可能性を手に入れるのである」。また、「人間的な処女性ということも、〔それ自体において〕自分自身からして神的な恵みに対する結びつき点を形成することができるなどということはないむしろそれ自体神的な恵みの裁きの下に立っているしかし人間的な処女性はそれ自体の性質を通してではなく自分自身からしてではなくむしろ神的な恵みそのものを通して人間に起こるその裁きのしるしとなる何故ならばまさにただ処女だけが主の母であることができる時換言すれば神の恵みがそこでまさにただ処女だけを考慮に入れ、人間に対して働きかけ給うそのみ業のために用いようとされる時そのことでもって……意志を働かせる達成しようとする創造的な絶対主権的な人間はかかるものとしてここでは問題となりえないということがすなわちその業に対して用いられることができないということが語られているからである」。そこでは、「人間は神の同労者としてではなく人間の側からする〕その自主性の中でではなく人間の側から〕生成すべきことに関して一緒になって自由に処理しつつではなくむしろまさにただ神に向かって用意ができている姿の中でしかもそのこともまたただ神がその人間に対してご自身をすでに与えられたが故に関係しているのである」、ちょうど「先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある神の側からする神の人間との架橋)であり、神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ神の認識可能性であるところの、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識すなわち、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」ように、包括的に言えば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」ようにそれほどまでに根本的にキリストにあっての神としての神は人間に向かって恵み深くあり給うことによって肉にあっての罪を裁き給う神は、人間を引き受け給うことによって、それほどまでに、ただ一人、自ら主であらねばならないし、主であることを欲し給う。この〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての〕恵みの秘義処女ヨリ生マレは指し示しているイエスキリストの人間的な現実存在の起源としての罪深いすなわち、「性生活の性質の故にではなく、また性生活が罪深いものであるからという理由の故にでもなく、むしろすべての人間的な出生に際しては、意志を働かせる、達成しようとする、創造的な絶対主権的な人間が登場しているから」罪深い、人間中心主義的な人間の欲求・自主性・自己主張・自己義認が登場しているから罪深い性生活が排除されているということはこの恵みの秘義を指し示しているしたがって、「自然的な人間的な出生の過程は、ここで言い表されるべき<しるし>にはならない……。その過程は、確かに人間的・被造物的な<エロス>の強力な、まさに宇宙的な自然的な力を指し示している」。ただ自分自身のものを求めずその代わり決してやむことのない神的なアガペーしるしとしては自然的な人間的な性の過程は問題とならないのである」。「さらに、<アガペーしるしの中には、特にエロスしるしそのものだけが排除されているのでなく、<男の機能も排除されているということはどういう意味を持っているのかという二次的な問いを付論として考察することも許されないことではないであろう」。「昔の教義学者たち(例えば、ポラヌス)は、処女ヨリ生マレを基礎づけるために、へブル七・三の父がなく、母がなくと関連して、……キリストはその神性を内在的本質とする父の永遠の子として母を持ち給わないように、<肉となった者として父を持つことができない>、ということを持ち出すのが普通であった。われわれにとって興味があるこの命題の後半の部分の背後には……キリストの人間性のエン・ヒポスタジーについての認識が潜んでいる〔このエンヒポスタジー>キリストの人間的な性質は神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において「この肉、人間」となったのおかげで換言すればトルコトのおかげで神の存在の中ですなわち神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事という神の存在の仕方(実体位格)の中で存在を入手するようになるこの神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、この神的な存在の仕方がキリストの人間的な性質に対して結合の出来事の中で存在を与えるのでありそのようにしてキリストの人間的な性質は具体的な自分自身の存在を持つと積極的なことを語っているすなわちキリストはまた人間としてもその人間存在がもともと持っている現実存在の可能性の故に存在しているのではなくむしろただ神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の言葉あるいは神のの永遠の存在の仕方の中でのその神的現実存在の故に存在しているという認識であるわれわれの時間の中での神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「われわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」としてのキリストの現実存在は父なるから生まれた方として何故ならば、この<子>は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>」が、「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるその永遠の現実存在と同一であるすなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としてのその永遠の現実存在と同一である」。「ところで、いずれにしても人間的な息子が、彼自身のものとしての自分の現実存在を<特徴づけている>すべてを負うているのは、まさに人間的な父からである。そのような訳で、とりわけその人間の名と、それと共にその人間の身分、その人間の権利、義、特定の個人としてのその人間の性格、その人間の歴史的な場所歴史的現存性に強いられた、その時代と現実に強いられた場所を、その人間は人間的な父に負うている。それであるから人間的な父を通して生まれるということはただ父から永遠に生まれ給うたみ子としての人間イエスのすなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>受肉、この肉、人間」としての人間イエスのあの現実存在のしるしであることはできない」。したがって、「実際にエンヒポスタジーの秘義を表示するしるしまさに人間的な父親が欠如しているということから成り立っていなければならないすなわちそのようなしるし処女ヨリ生マレでなければならない」。

 

 さて、「先に述べた意志するなしとげようとする創造的な働きをする主権的な人間、<自主独立的な神の同労者としての人間>、<エロスの感情を強く持って生きる人間そして神の恵みが問題である時には神の業に参与することができないところのまさにそのような人間は大事ナ面カラミテ男性的な人間でありまた人間が地上的な現実存在を負うている性的過程においてそのような人間は人間的な父である。(中略)もちろん女もまた人間であることが確かである限り女もそのような定めに参与しているただ女であることについての馬鹿げた観念だけが、あるいは同様に女であることについての馬鹿げた観念だけが、女も人間のこの定めに預かっている参与を女に対して拒否しようとすることができるであろう。しかしそれにもかかわらずこの点で〔男の「自主独立性」<と>女の「受容性」および「先行する神の用意に後続して行く人間の用意」等の「処女性」という〕両性の持っている意味が平等であるということは言われ得ないことである人類の歴史、民族や国家、芸術、学問、経済の歴史は、<事実>……圧倒的に男の歴史、あらゆる種類の男の行為、男の業の歴史であったし、今も現にあるのか、それともそれらすべてにおいて、女の協働と働きかけという隠れた要因があらゆる時代にわたって決定的な役割を演じて来ていなかったかどうか、すなわちそこでは心理学的に、社会学的に、最高に隠された決定が問題であるが故に、それについてもちろんいかなる記録も公文書も記念碑も何かを告げてはいないか、しかしそれだからといって、より僅かな影響しか持てなかった、あるいはより僅かな影響力しか持てないものでなければならないし必要はないといった具合に、決定的な役割を演じてきてはいなかったかどうかということについては、ただ神のみが知り給う。事情はどうであれ、父権制度の代わりに母権制度があったし、おそらく事実いつもそのような母権制度があるとしても、とにかく……『特徴的なこと』は、すべての民族、国家、文化の歴史的な<意識>は、<父権制度>でもって始まっているということである。(中略)<われわれにとって>、事実起こったし起こっているままの世界の歴史人間の<類>の<時間>の特徴を示すものは、<男>の行為である。第二の形態の神の言葉である〕聖書的な啓示証言もまたここでの事情はそうであるということを前提しているまた第三の形態の神の言葉である〕キリスト教会の考え方もその聖書的証言の立場にそのまま結びついて同じ立場をとったのである」。因みに、人間の<類>の時間としての人類史(世界史、歴史)経済的基盤を農耕に置き自然を原理とした「アジア的」段階にあった江戸期(地域日本)の離婚制度における男性の側の三行半と、女性の側の衣類や家具や持参金に対する財産権的な対抗措置という男女の平等性の在り方は、人類史における「アジア的」段階の前、すなわちプレ・アジア的段階、血縁の氏族共同体を基礎とする「原始的」段階における所有権や管理権はなかったとしても女性から女性への財産等の相続・継承という、また家族においては妻の自主性や自由の度合が大きかった「母系制」の遺制として、世界普遍性の中に位置づけることができる祖父江孝男『文化人類学入門』中央公論社したがって、江戸期の男女平等性は、経済的基盤を資本主義に置き自由を原理とし個人原理に基づき明確に法制化された西欧近代(しかし、18世紀後半の西欧においても、普通選挙は導入されず、女性の参政権は意識されず女性には参政権は与えられていなかったの萌芽では決してなく、逆にプレ・アジア的段階の遺制として位置づけ得るのであって、その意味でそれは新しいことでも進歩的でも革新的でもないのである。このことは、ちょうど孟子の「民本主義」と「易姓革命」についても言えることである。中国にも孟子の「民本主義」と「易姓革命」論があるから、すでに中国にも人類史における西欧的段階が存在したのではないかという異議申し立てがあり得る金谷治『中国思想を考える 未来を開く伝統』)が、しかし、その異議申し立てに対して、吉本隆明の時間―空間の指向変容(『南島論』)に基づいて理解すれば、次のように答えることができる。すなわち、第一には人類史における「アジア的段階においては、資本主義を経済的基盤とする近代市民社会の成立に根拠を有する、西欧近代の特徴である人間の自由な自己意識・理性・思惟、人間の自由な内面の無限性が認識され自覚されていなかった。したがって例えば人類史におけるアジア的段階における中国の原理は、自然原理としての「天」であり、それは「道」であり、未分化のままの政治制度(共同性)と道徳(個体性)との混在であり、またその自然原理の体現者は、徳あるものとして天命を授けられた専制君主(親・父)で、そのもとに臣民(子)がいて相互に徳を実践することによって、「修身斉家治国平天下」が成立するというものであるこの時、家父長制において、個や家族や社会や国家は地続きに国家に包摂され、被支配層は支配の暴政や抑圧や暴挙に対しても、天然自然の災害を受け入れるように受け入れていくことになる(ヘーゲル『歴史哲学講義』)。第二には「民本主義」と「易姓革命」論の内容は、人類史におけるアジア的段階の前の、プレ・アジア的段階あるいはアフリカ的段階における絶対的専制の遺制心性認識構造に依拠していたということができる。何故ならば、人類史における「アフリカ的段階においては、王は、政治制度としても、土地所有者としても、絶対的専制君主ではあったが、「疾病のような凶事が襲ったり、失政をまねいたり、天変地異などが永く続いたりすると、王の無能や不手際とみなされ、罷免されたり、殺害されたり、障害の生けにえにされた。この意味で王は裏返された絶対奴隷だともいえた」からである吉本隆明『アフリカ的段階について 史観の拡張』また、「王殺しの伝承」が残っている山口昌男『文化人類学への招待』。そうした絶対的専制君主の後者の在り方が、孟子のいうところの「民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す」や、武王による殷から周への王朝革命(殷周革命)における民衆にデタラメをして忠義な家来をないがしろにするようなのは本当の王ではない」から、「そんな者は殺してしまってもかまない」とされる王の在り方に対応しているということができる金谷治『中国思想を考える 未来を開く伝統』ヘーゲルも「中国ではすべての個人の平等がたてまえとされ、統治権は皇帝という中心に集中して、特殊な個人が自立したり主体的な自由を獲得することがなかった」『歴史哲学講義』と述べているが、その「平等のたてまえ」とは世界史的なプレ・アジア的」段階、氏族制の遺制としてそうであったということができる。

 

 ここで、「聖書的な証言の出発点を正確に見てみることは報いられることである」。「創世三・一-六、Ⅰテモテ二・一四、創世三一六からして、「男が女の主人となるであろうことはまさに堕罪の結果によるのであり男と女に負わされた呪いに属している」。「創世二・一八によれば女が男の『助け手』として、また創世二・二一以下によれば男のあばら骨から造られたという事実からして、そのことは続いて起こったわけではないから、パウロもⅠコリント一一八以下でその箇所を暗に指しつつその上下の秩序を創造にかなう秩序としてではなくむしろ……堕罪の領域において妥当する神の規定として理解した」。このような訳で、「堕罪の背景の上で、……創世三・九で直ちにアダム、男が、神によって語りかけられ、責任をとらされているということが起こっている。……もともと起源的に抜きん出ているということに基づいてではなく男と女が共通的に罪に堕ちてしまい>、それと共にそもそも上下の秩序については語られ得ない関係から男も女も抜け出してしまったということに基づいてあの不平等にまで来るのであり男が女の主人となることによって男は世界の歴史に対して〔先に述べたような〕あの特徴を示すものとなる――「ここのところからして今や反対のしるし>、クリスマスの秘義しるし>、すなわちイエスの人間的な父が欠けているというしるし、<しるしとして理解されるものとなる人間は意志を働かせる遂行しようとする創造的な働きをする主権的な者としては神の業に与る参与者として問題となり得ない何故ならばそのような者としては人間は「神だけでなくわれわれ人間も」、われわれ人間の「欲求」・「自主性」・「自己主張」・「自己義認」もという「無神性」・「不信仰」・「真実の罪」(『福音と律法』)のただ中にある〕不従順な人間であるからであるそれであるからもしもそこで神の恵みが人間の身に及ぶべきであるならばそのような人間は〔すなわち、「神だけでなくわれわれ人間も」、われわれ人間の「欲求」・「自主性」・「自己主張」・「自己義認」もという「無神性」・「不信仰」・「真実の罪」のただ中にあるそのような人間は排除されてしまわなければならない〔裁かれてしまわなければならないまさにこの不従順な状態にある人間こそがヨリ大事ナ面カラミテ男なのである」。このような訳で、神の恵みとしての神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神が人間となることの<しるし>として、一つの反対の<しるし>が立てられなければならない時、そこで排除されなければならないのは〔そこで裁かれなければならないのは〕、男である」。何故ならば、「まさに男こそが、人間の世界の歴史的な『独創性』にとって特徴的ものだからである」。クリスマスの秘義の中で起こるところのことは、〔人間の類の時間としての〕世界史ではないし人間的な独創性がなす業ではないそしてクリスマスの秘義しるしとして、『あなたがたが……ことを知るために』、今やイエスキリストの誕生はすべてのそのほかの人間の生成と違って徹頭徹尾男の歴史ではないのである」。神の恵みとしての神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<み言葉>は、そこで神がキリストにあってすべての異邦人に祝福を約束し給うているのであるから、……キリストは、一人の男あるいは男の業から来ることはできないという認識をわれわれに強いる。何故ならば、(呪われているところの)肉の業は、祝福されているものと折り合えないからである。それであるから、この祝福された実は、一人の男の実ではなく、ただ女の胎の実でなければならなかったのである(もっともその同じ女の胎は、男から、いやアブラハムとアダムから由来してきているのであるが)。また、この母は、処女であり、しかもまさに自然的な母であり、それでいて自然的な能力あるいは力によってではなく、霊によりただ神のみ力によって身ごもったのである(ルター)」。啓示の秘義しるし>」、「クリスマスの秘義しるし>」としてのそのしるし人間とその罪が限界づけられるということ共に同時にあの男の優位性が限界づけられることを意味しているヨセフが特にマタイ一章において……全面的に背後に退き神がその代わりに登場されしかも創造的な働きをする父親の創造的な機能を果たしつつではなくむしろ全くただ神として〔神の恵みとしての神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」において〕奇蹟を行う創造者として新しいことを造り出し措定するという仕方でもってそしてまたそのような仕方で罪のない神の子の人間的現実存在がそれと共にわれわれに対する神の啓示がそして神とわれわれの間の和解が可能となり実在となる」。「われわれはエンヒポスタジー〔このエンヒポスタジー>キリストの人間的な性質は神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において「この肉、人間」となったのおかげで換言すればトルコトのおかげで神の存在の中ですなわち神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>としての、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在の仕方(実体位格)の中で存在を入手するようになるこの神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、神的な存在の仕方がキリストの人間的な性質に対して結合の出来事の中で存在を与えるのでありそのようにしてキリストの人間的な性質は具体的な自分自身の存在を持つと積極的なことを語っているについての教説の意味で……神としてその永遠のみ子の永遠の父としてご自分と並んでいかなる人間的な父親を持とうと欲し給わずその方が永遠のみ子を永遠に生み給うということは人間的な生むことを排除している」。そこでは、「まさに男性としての人間の行為が欠けているということが特徴的に表示されているしたがって処女ヨリ生マレなのである」。インマヌエルの母となるべく適している適正は、女にとっても欠けているわけではない罪深い者として自主独立的な男の基本的な素質の中で、その自主独立的な基本的な素質と共に、処女ヨリを通して、神的な<裁き>の下に置かれているすべてのことを引き去った後に残るところの「受容性」および「先行する神の用意に後続して行く人間の用意」等の女の本質の<規定>だけが持っている適正でなければならない。自主独立的な男の基本的な素質の中で、その基本的な素質と共に、処女ヨリを通して、神的な<裁き>の下に置かれていることの中には、受容性と用意ができていること等々「受容性」および「先行する神の用意に後続して行く人間の用意」等として、女の処女性という人間の可能性が表示されていることも含まれている」この処女性が、「われわれを天上に引き上げてくれるなどということを神学的に重要な意味で語ることはできない」。マリヤがルカ一三八で天使に答えている答え「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」自然ではなくむしろ恵みであり神のみ業に対して自分の方から男性的人間的なものよりももっと用意ができているところの女性的人間的なものではなくむしろそれ自身がすでに奇蹟クリスマスの<秘義>の<しるし>に属している――このことは、「『主がおっしゃったことは必ず実現すると神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信じた方はなんと幸いでしょう』(ルカ一・四五)と語られていることによっても示される」。マリヤヨリ生マレの積極的な意味に関して語られたこと、「啓示の<秘義>の<しるし>」、「クリスマスの<秘義>の<しるし>」としての〕クリスマスの奇蹟がわれわれに指し示している秘義の中で役割を演じているのは実際に神人間であるということである。しかし、人は、それからローマ・カトリックのマリヤ論の痕跡をすべて消し去ってしまわなければならない……。また、処女を通して代表された人間の被造物性を、まさに堕罪にもかかわらず人間に残された神のみ業に対する原理的な開放性であるとして理解することは許されない……」。「言うまでもなく人間はエペソ二三によれば、『<生まれながら神の怒りを受けるべき者である言い換えれば、人間は、悪しき人間的な歴史のどこか背後のところで、……よい人間的本質が隠されており、そのよい人間的本質は、それとして神的本質と交わりを持つのにふさわしい者であるといった具合ではない堕罪は人間全体の堕落であるそれが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、キリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、われわれ人間の「欲求」・「自主性」・「自己主張」・「自己義認」もという「無神性」・「不信仰」・「真実の罪」(『福音と律法』)のただ中にあるわれわれ〕人間は神に向かって不従順であることによって彼がなすところの者である>。そこでは神と人間との出会いは結局神のあわれみの秘義神の側の真実としてある神性を内在的本質とするその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神的義認と聖化の行為」〕によらないでも可能であり実在であるような平面はない」。「イカナル被造物モ、タトエソレガドレホド大キナ力ヲモッテイヨウトモ、世界ヲ汚レカラ引キ出スコトハできない(F・トゥレッティーニ)。マリヤが処女であったということは、彼女が罪カラ免レタ人間デハナカッタことを排除せず、むしろ含み入れている(クエンシュテット)」。「そこで人はまさに〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕神的義認と聖化の行為の形式の中でそれであるから神のあわれみの秘義神の側の真実としてある神性を内在的本質とするその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神的義認と聖化の行為」〕の中で人間の性質は罪深い人間の歴史を度外視して……それに人間の性質そのものの破滅にもかかわらず、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕恵みからして恵みの奇蹟を通して神的性質との交わりに値する者とされるということができるし言わなければならない――「このことのしるしとなるべく女は、〔処女として、〕男を度外視してそして男とのその関係を度外視してそして女が男と共に責任を負わなければならない罪にもかかわらず地上において永遠の神ご自身を宿す者として神ノ母として取り上げられるのであるこのことがその事柄において女の顕著な特性に関して語られなければならないことであるしたがって処女マリヤヨリ生マレなのである」。

文責:豊田忠義