2の1.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中> 言葉の受肉新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」 十四節 啓示の時間 一 神の時間とわれわれの時間』について

 

十四節 啓示の時間について、バルトは、次のような定式化を行っている。

イエスキリストの現臨の出来事の中での神の啓示はわれわれのための神の時間であるそれはその出来事そのものの中で、<成就された時間であるしかしそれは、<待望の旧約聖書的時間および想起の新約聖書的時間としてその出来事についての証しの時間である

 

この定式は、次のように理解することができる。

 イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)、詳しく言えば「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち、客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」<と>主観的な「認識的な<必然性>」――すなわち、その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」を前提条件とする、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」、「神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」)である「イエスキリスト自身」を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)におけるその「最初の、直接的な、第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)において存在している第二の形態の神の言葉(「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」)である「聖書」、それから「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」とする教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉(「啓示の<しるし>」の<しるし>)である「教会の宣教」<と>主観的な「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが「聖霊によって更新された人間の理性性」という<総体的構造>を持っているところの、イエスキリストの現臨の出来事の中での神の啓示換言すれば「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、すなわち目的格的属格として理解されたローマ書322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(イエス・キリスト>信ずる信仰)ではなくて、主格的属格として理解されたローマ書322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(イエス・キリスト>信ずる信仰)による「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、それ故に「成就と執行、永遠的実在としてある」、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)そのものである「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すれば神性を内在的本質とするイエス・キリストのその外在的本質である第二の存在の仕方における神の言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この「イエスキリストの現臨の出来事の中での神の啓示はわれわれのための神の時間であるそれはその出来事そのものの中で、<成就された時間である」――すなわち、それは、「イエス・キリストの受難と死および復活」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間である」。しかしそれは、<待望の旧約聖書的時間および想起の新約聖書的時間としてその出来事についての証しの時間である――すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(詳しく言えば、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)である聖書の中で証しされているところ、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの受難と死および復活」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「実在の成就された時間」――このイエスキリストにおける神の自己啓示についての待望想起の中での証しの時間である(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている。このキリストの復活は、新しい世〔、時間〕」のはじまりである。敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間〔、世〕は、本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間〔世〕である実在の成就された時間としてのキリストの復活における神の勝利の行為によって克服されてそこにある。また、その勝利の行為は、敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」。したがって、『福音と律法』では、次のように述べられている――「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうかわれわれのうち誰一人としてそのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会うしかるにこの救いの答えを〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し人間は喪われたものであると告白し己に逆らって神を正しとしかくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の第二の存在の仕方における神の「言葉の受肉」において〕肉となり給うことによって肉において服従を確証し給うことによってまたこの服従において刑罰を受けかくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業であるこれこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリスト<の>信仰』は、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。そして、「福音と律法の<現実性>における勝利の福音の内容」は、次の点にある――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」。われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエスキリストにある復活の力だけである」――このことが、「福音と律法の現実性における勝利の福音の内容」である。したがって、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。

 

 

一 神の時間とわれわれの時間」、「二 待望の時間」、「三 想起の時間

 

一 神の時間とわれわれの時間

 先ず以て、バルトは、次のように述べている――われわれは、「福音主義的な聖書原理をその客観的な側面からして」、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すれば神性を内在的本質とするイエス・キリストのその第二の存在の仕方における神の言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この直接的な絶対的な内容的なイエスキリストのまことの神性とまことの人間性」――すなわち権威と自由」によって賦与され装備された権威と自由」を持っているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と自由に基礎づけられ限界づけられている」ところの、徹頭徹尾間接的相対的形式的な権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威〕と自由」を持っている全く人間的な教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の中での権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威についての教説の中で理解しようと努めなければならなかった」。しかし、「その後福音主義的な聖書原理をその主観的な側面からして」、「直接的な絶対的な内容的なイエスキリストのまことの神性とまことの人間性」――すなわち「権威と自由によって賦与され装備された「権威と自由を持っているその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「聖書の権威と自由に基礎づけられ限界づけられている」ところの、徹頭徹尾間接的相対的形式的な権威〔すなわち、全く<人間的な>教育的権威〕と自由を持っている全く人間的な教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の中での自由〔すなわち、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との<全体性>における自由〕についての教説の中で理解しようと努めなければならなかった」。何故ならば、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「啓示の<しるし>」)としての第二の形態の神の言葉である「啓示との<間接的同一性>〔区別を包括した同一性〕」において現存している聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」とする(聖書を媒介・反復することを通した)その間接性こそが主ご自身を通して設けられ主の甦えりを通して力を奮う」からである、と。バルトは、このような、第二の形態の神の言葉である聖書を媒介・反復することを通したところの、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト<と>第三の形態の神の言葉である教会(われわれすべての成員)との「間接的な関係性」(聖書の中で証しされている「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」を通した仲介的・媒介的・反復的な関係性)のことを、「まことの直接性」、「まことの関係性と呼んだのである。

 

「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「『<神は〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・業・働き・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すれば神性を内在的本質とするイエス・キリストのその第二の存在の仕方における神の言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエス・キリストにおいて〕ご自身を啓示し給う>』という命題はそのことでもってほかならぬ聖書の中で証しされている啓示が意味されているのであるなら〔すなわち、そのことでもってほかならぬ「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」である第二の形態の神の言葉、換言すれば「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」である聖書の中で証しされている啓示が意味されているのであるなら〕、出来事が起こることについて述べているまたこの命題はもともと啓示に固有な時間についての言明を含んでいるそのことを考え合わせるならばこの命題は結局神はわれわれのために時間を持ち給うという命題と同じである神がわれわれのために持ち給う時間はまさに神の啓示のこの時間神の啓示の中で実在である時間啓示の時間である」。言い換えれば、それは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、詳しく言えば起源的な第一の存在の仕方である啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者としてのイエスキリストの第二の存在の仕方である啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者としての子としてのイエスキリスト自身第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」関係と構造(秩序性)・「救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における神の第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すれば神性を内在的本質とするイエス・キリストのその外在的本質である第二の存在の仕方における神の言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエスキリストの現臨の出来事イエスキリストにおける啓示の時間である」。「われわれはこの時間の概念を解釈するにあたって……〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける〕啓示そのものと切り離して独立的に得られた何らかの時間概念を持って来てその基礎づけをすることはできない」。したがって、「一 われわれは神がわれわれのために持ち給う時間以外のほかの時間を持っていない二 神はわれわれのためにまさにその啓示の時間以外のほかの時間を持ち給わないが故に、「それに基づいて啓示の時間そのものを理解してゆくためにわれわれは先ず〔イエス・キリストにおける「啓示自身が…啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているが故に、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼して」〕啓示そのものによって教えられなければならない……」。何故ならば、「この啓示の時間を問う問いは、ただこの特別な時間〔神の特別啓示の時間〕の特別な概念〔神の特別啓示の概念〕を前提とすることによってだけ、立てられまた答えることができる」からである。

 

 そのような訳で、キリストにあっての神としての神の特別「啓示の時間を理解することが問題である時には、ほかのところから得てきた時間概念では事実十分ではないのである」。ここで、バルトは、そのことを「二つの実例に照らして例証」しているアウグスティヌスは、「『神の国』では、神は、時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる。しかし、『告白』では、過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」、「過ぎ去ったものは想起の対象となり、未来的なものは待望の対象となる」から、「想起と待望は、過ぎ去ったものと未来的なものが、それぞれ現在化されるということを意味している」と述べている。ここで、「現在的なものとは何であろうか。それは、わたし自身の現在、わたしの現実存在、時間を、わたしがはかること自体である」。言い換えれば、アウグスティヌスは、時間を、人間の個の時間性、人間の個の時間累積、人間の個の現存性、自己史、個体史、現実的現存性として思惟し語っている。また、「神とその啓示はそもそも予見されていない」、また「それだけでなく神とその啓示は何らかの場所を持っていない」Mハイデッガーの「ハイデッガーの思想体系」によれば、『起源的な時間』は、……現存在が『気がかり』であることができ、……それ故に現存在が『忘我的であり』、自分の『最も固有な、抜きん出た存在可能』に向かおうとする『先行的な決意性』の中で、自分自身に向かって、すなわち自分の責任ある過去における存在に向かって近づくことができ、そのようにしてその過去における存在の中で現在を持つことができる、そういう現存在の可能性として理解されなければならない。時間化することによって<時間が存在するのではなく>、むしろ<現存在が存在する>のである。言い換えれば、彼自身の未来、彼自身の過去、彼自身の現在が存在するのである」。このような訳で、ハイデッガーも、時間を、人間の個の時間性、人間の個の時間累積、人間の個の現存性、自己史、個体史、現実的現存性として思惟し語っている。両者の時間概念は啓示の時間の概念を解釈する前提として用いるには次の二つの理由からして適していない」。

()アウグスティヌスもハイデッガーも時間を明確にはっきりと被造物である人間存在の自己規定として理解している」。すなわち、両者によれば、「人間は、自分からして時間をとることによって、いや自分で時間を<創造する>ことによって、時間を<持つ>のである」。ハイデッガーにおいては、「時間は、まさにあの『先行的な決意性』の中で、現存在と、換言すれば人間自身と異ならない未来からして『時間化』される」。また、アウグスティヌスにおいても、「事情は、これと異ならない」。「アウグスティヌス的な思想体系」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていると考えているわれわれ人間の時間」を、すなわちわれわれ人間の類の時間、われわれ人間の類の時間性、われわれ人間の類の時間累積、人類史、世界史、歴史、歴史的現存性を、またそれに不可避的に強いられたわれわれ人間の個の時間、われわれ人間の個の時間性、われわれ人間の個の時間累積、自己史、個体史、現実的現存性を、また「人間精神の行為の中で発生する時間」を、「神の啓示の中で神ご自身の規定となることによって、神はわれわれのために時間を持ち給う」時間、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「神の裁きの啓示」、「律法」、「死」(十字架)を包括した「神の恵みの啓示」、「福音」、「生」、「神の恵みの啓示」、「福音」、「生」に包括された「神の裁きの啓示」、「律法」、「死」(十字架)、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」から「『攻撃された時間』、『否定的判決を受けた時間』、『非本来的な古い時間』、「『失われた時間』であるという考察を通して問題化するという観点を持っていなかった」。したがって、「アウグスティヌスにおいても、ハイデッガーにおけると同様に、人間は、彼が自分自身を実現してゆくことによって、時間を<持つ>のである」。「ハイデッガーは、『気がかり』を、時間を構成している現存在自体の中に移し入れることによって、『気がかり』から免れるのである」。「もしもわれわれが神の啓示の時間を理解したいと思うならばわれわれが時間を持っているということはわれわれ自身が時間を持つことが含みを持っている〔そのわれわれ人間の時間の〕問題性を克服する神がわれわれのために時間を持ち給うこととして理解されなければならない」、すなわちわれわれだけで〔「問題に満ちた非本来的な失われた」〕われわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間ということが理解されなければならない」

 

()アウグスティヌスもハイデッガーも時間を明確に……被造物的人間的現実存在の規定しかもまさに自己規定として条件づけられた実在として理解している」。彼らにとっては、「問題に満ちた非本来的な失われた」「この現実存在が、人間の精神が、現存在の可能性としての『時間性』があるのであって、〔本来的な〕時間そのものがあるのではない」。「もしもわれわれが啓示の時間を理解したいのであれば、その時には、時間は、ただ単に延長として解釈された人間的現実存在が造り出した産物としてではなく、人間的現実存在そのものと同じように、神にとって直接的である本来的な実在として理解されなければならない〔すなわち、神にとって直接的な本来的な「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての実在の成就された時間として理解されなければならない〕」。ハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解した」。すなわち、自分の意志とは全く無関係に不可避的な歴史的現存性(被投性、現前性、被制作性)のただ中に投げ出された個が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』〔企投性〕によって時間化する時、自分自身の時間、自分自身の未来、過去、現在を創造し持つことができる」、個が「自分自身を実現してゆく」現実的現存性に意識的自覚的に生きようとする時、時間を創造し持つことができる。自然時間でもなく、歴史的時間でもなく、内在的な個の現実的現存性に固有な時間を創造し持つことができる。このことは、「時間を、被造物的―人間的現実存在の規定、被造物である人間存在の自己規定として理解している」こと、すなわち人間的現実存在は、時間性であること、その時間性が存在を規定すること(存在了解)を意味する。

 

 確かに〔「神は人間的現実存在の創造者であり」、〕神は時間の創造者であり給う、「われわれが知っておりまた持っていると考えている時間われわれの時間は決して神が創造し給うたままの時間ではない」。「『われわれの時間神によって創造された時間の間にはわれわれの存在様式神によって創造された存在様式そのものの間に堕罪があるように堕罪があるのである」。したがって、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)は固守されなければならないことであるし、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって恣意的独断的に対象化され客体化されたところの人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在の類比」はあり得ないことである。何故ならば、それは、次のような理由による。すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてある存在者「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(すなわち、様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち子としてのイエス・キリスト自身、「啓示」・「語り手の言葉」・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、この神の第二の存在の仕方における神の言葉の受肉としての<「存在者(神の業の<衣>、<殻>、<特定ノ外形>」、「最初の起源的な支配的な<しるし>」)だけであるし、そしてそれからそれに基づいて、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)が客観的可視的に存在しているからである。このイエスキリストと地上における可視的なみ国、これこそが、<神ご自身によって造り出された>……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である」。「『われわれの』時間は、……罪に堕ちた人間によって惹き起こされて生じた時間である」。このような訳で、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、「われわれが、時間は、このわれわれの時間の中で語られた神の言葉に基づいて神によって造られたということを信ずる信仰」は、「罪に堕ちた人間によって惹き起こされて生じた時間を除去するものではない」が故に、「われわれは、やはりわれわれの時間と神によって造られた時間とを同一視することは許されないのである」。すなわち、「われわれの時間、われわれが知っており持っているところの時間は、まさに時間の創造者としての神を信ずる信仰の中でこそ〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」 (「認識的な<必然性>」)基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の中でこそ〕、失われ罪に染まった時間であり、あくまでも失われ罪にそまった時間であり続ける」。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている。この〔実在の成就された時間である〕キリストの復活は、〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、「実在の成就された時間」として、〕新しい世〔、時間〕のはじまりである。すなわち、敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間〔、世〕は、本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間、実在の成就された時間であるキリストの復活における神の勝利の行為によって克服されてそこにある。しかし、その勝利の行為は、敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」。この時、「神によって造られたままの時間は、あくまでもわれわれにとって隠され、われわれの手からすべり落ちてしまった時間である」。このような訳で、「神の啓示が時間を持っている時、それ故に神が、われわれのために時間を持ち給う時、それであるからわれわれが、時間を本当に(神学的に妥当する深い意味で)知っており、本当に時間を持っている時、それは、〔堕罪後の〕<別のわれわれ自身の時間>および<もともと神によって造られた時間>と並んでの〔あの客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいてのみ認識(信仰)され得る、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括する「まことの現在」としての〕新しい第三の時間でなければならない」。

 

 「われわれは、エレミヤ三三・二〇以下、二五以下において、ヤーヴェが昼および夜と結ばれた契約について、『昼と夜が、定められた時に来る』と述べられているのを読む。時間を保証しているこの契約は、創世一・一四において、天の大空に天体が創造された際に暗示されている時間の創造とそのまま同一ではない。堕罪後の時間は、別な新しい時間である」。「確かに、その時間も、昼と夜が交代し、この交代が継続して行くことから成り立っている」が、しかしそのことは、「もはや、人間とその世界が創造されているということと共に、自明的に決められているわけではない」。「人間は、善悪を知る木から取って食べて以来、生命の木からも切り離されてしまった(創世三・二三)。主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。……わたしは、これらを悔いる』と言われた(創世六・五以下)」。「この裁きが、実際に執行されることなく、むしろその裁きの真剣さが洪水の中で十分明らかにされた後で、『神とすべての肉なるあらゆる生き物との間に永遠の契約(創世九・一六)』〔神の恵みの契約〕が結ばれるようになったことが事実だとしても、人間存在はやはりその最も深い根底においては罪の中に堕落した存在でありそれの基礎づけとその現状のまま続いている姿において全く神の忍耐神への希望に頼らしめられている存在である」。『福音と律法』によれば、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、人間の人間的存在が、生来的な自然的なわれわれの人間的存在である限りは、生来的な自然的なわれわれの人間的存在は、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという際限なき欲求を手放すことができない存在であり、それ故に無神性・不信仰・真実の罪のただ中にある存在である。このような訳で、「人間存在は自分自身から存在せず、……神が人間に向かって語り給う言葉その言葉でもって神は確かに人間をあの生命の木へと連れ戻し給わないがしかしあの恵みの契約を宣べ伝え給うその言葉に基づいて存在する」。このとは、『福音と律法』では、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間の人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」と語られている。「人間存在は、自分の時間を、もはやそれが造られた存在であるということと共に自明的なこととして持ってはおらず、人間存在が時間を持っているということは、『地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう(創世八・二二)ことは、今や特別の約束の対象、特別な神の愛の業となったのである〔すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)〕における特別な神の愛の業となったのである〕」。

 

 「<第一の実在的な時間>、<神が創造し給うた第一の時間いかにわれわれにとって隠されておりわれわれの手から身を引いてしまっているかということはそしてわれわれが知っておりまた持っていると考えるところの時間が事実いかに問題的であるかということは通俗的な時間概念の三つの大きな困難さに照らして明らかにすることができる」。

()ハイデッガーと共に「時間からその対象性をはぎ取って、時間を人間の現実存在の存在様式として理解した」アウグスティヌスが主張している自己意識において、「<現在>に照らしてはかられて過去は過去であり、未来は未来であり、それであるから、それの中で、それからして時間が発生するところの現在とは、……実際に第三のものであり、……起源的なものであろうか」。「われわれが知っておりまた持っていると考えるところの時間」からすれば、自然の一部としての個体的自己としての全人間が、一回性を本質とする自然時間に規定されつつ、外在的な時間であるところの、不可避的な人間の類の時間性、人間の類の時間累積、人類史、世界史、歴史、歴史的現存性のただ中に投げ出され、その中で、内在的な時間であるところの、人間の個の時間性、人間の個の時間累積、個体史、自己史、現実的現存性を生きるとすれば、アウグスティヌスの時間概念は、木を見て森を見ない仕方で、その一面だけを形而上学的に抽象し固定化させ全体化したそれである。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活の四〇日の福音」――すなわち、「罪におちた人間によって惹き起こされ生じたわれわれが知り持っている時間罪にそまった時間であるところのわれわれの時間われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したところのわれわれのための神の時間イエスキリストにおける啓示の時間われわれの時間の中で実在の成就された時間、<まことの現在である」。ここに、「〔<まことの現在>包括された〕まことの過去とまことの未来が存在するし神の言葉がある」。

 

()「時間は、<始めと終わりのないもの>であろうか〔無限であろうか〕、それとも時間は、<始めと終わり>を持っているのであろうか〔有限であろうか〕。これは、カントにおける純粋理性の対立命題が持つ有名な第一の二律背反である」。「個々の区切られた時間は、始まるものあるいは終わるものであるであろうが、それとしての時間そのものは、始まったり終わったりすることはあり得ない」。われわれは、「時間は始まりと終わりを持っているということを、まさにあり得べからざることとして理解しなければならなかった。時間を有限なものとして理解することも、無限なものとして理解することも等しくわれわれにとって不可能である」。そうであるとすれば、「いったいわれわれは、時間について何を知っているのであろうか」

 

さて、吉本隆明は、次のように述べている――「人間の固有性について、根源的にそして単純に答えられるべきである」として、(1)「脳髄が脳髄について考える個体の内部過程」と(2)「生理過程から、対象の形や色や全体像が構成され、<この対象は茶碗だ>とか<この対象は森だ>とか了解される個体の知覚作用」を例にとって、(1)の認識が成立するためには、「生理過程〔自然過程〕の信号、反応、刺激、伝播という自体的な識知〔「生理過程の<変容>」〕」と「脳髄が脳髄を生理過程の外部から認識する対象的識知の過程が必要である」し、(2)の認識が成立するためには、「まず対象物から眼に到達する光作用に対して、生理過程として網膜の背後にある色彩、明暗、形態を弁別できる諸神経の刺激の継続と強弱、刺激の質量の度合という自体的な識知〔「生理過程の<変容>」〕と同時に、そうした対象物からうけとる神経刺激という生理過程の外部に出て、<対象物を全体的に構成し了解する>対象的認識の過程が必要である」、と述べている。そして、(2)の対象的認識の過程は、生理過程〔「生理過程の<変容>」〕にとっては絶対的な自己矛盾であるから、人間に固有な<心的領域>あるいは<観念>という概念を疎外する以外に、その自己矛盾を包括し止揚することはできない」。したがって、「ここで、疎外とは疎外の止揚である」。したがってまた、生理学が<観念>という概念と命名を拒否しても、<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるを得ない。このような訳で、「人間は、対象を再構成し、了解するところまでやらなければ、対象物にたいして、どう行動するか、どう行動しないかさえできない」。確かに、「人間の心的な過程が存在するためには、身体の存在は絶対的条件である」。「それにもかかわらず、人間の心的な過程の内容は必ずしも身体の存在の<反映ではない>」。言い換えれば、「<心的領域>あるいは<観念>観念」は、いったん疎外されれば、その自体的展開と自体的構造を持つ。自然の一部としての「わたしの身体は、知覚作用の座である」。また、「その身体は、眼あるいは人間の歴史の<つみかさね>、知識や自己体験によって、外部から客観的に観察することができるし、自分が自分の身体をどう思っているかという意味で、内からも直接観察することができる、という二重の特異性を持つ自然物である」。すなわち、「それは、もう一つの他の自然物に対して、自分を区別することを知っている、関係づけられる自然物である」。「現象学的な人間理解、現象学や実存主義の本質直感、個体としての人間およびメルロ・ポンティの根本的な誤謬」は、「自己抽象づけそして自己関係づけというものが、人間の個体を対象にたいして成りたたせている基本的な要素である」ということを認識していない点にある。すなわち、彼らは、「最初の意識は自然体としての人間つまり身体〔自然の一部としての自己身体〕としての人間があり、そして〔その身体を座とする〕自己意識というものが、それを、<現にここに自己がある>という、その<現に>という時間性と、<ここに>という場所性として認知している、そういうことが人間の個体にとって本質的な問題である」ということを認識していないのである。「(中略)けっして知覚作用自体が人間の存在にとってきわめて本質的なことであるということではない。つまり、そこが現象学的な人間理解というものとわたしどものかんがえ方がまったく異なってくる最初の地点である」。「わたしたちが<知覚>作用に感情的な選択の衣を着せる訳にいかないのは、直観本質を人間の存在の本質的な仕方と考えないのとおなじである。わたしたちはけっして対象の知覚がいつも科学者の経験の仕方に似ているとはいわない。それが歓びや悲しみや選択をともなうことをしっているしかし、このような感情作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないものである」。すなわち、「感情作用は一般に対象の了解そのものを対象となしうるという<内観>的作用〔内在化された対象の空間化の作用〕に属している。メルロ・ポンティでは、対象的に関係づけられて存在するのが個体であるとしているけれども、それは個体性の哲学にとって本質的な誤謬であって、個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられるという点に、個体性の哲学の本質がある」。例えば、個体の知覚作用に基づいて、「自体的な識知「生理過程の<変容>」(空間化)と「対象的識知」によって<この対象は茶碗だ>と了解(時間化)されるのであるが、「それに伴う歓びや悲しみや選択をともなう感情作用」は、その内在化された対象の空間化の作用、「<内観>的作用に属している」。したがって、「感情作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないものである」。すなわち、対象了解された対象(内在化された対象)を抽象(時間化)する時には概念構成(了解の抽象化度、時間化度)の問題として現われるのであるが、感情作用は対象了解された対象を再び空間化する過程において現われる。また、メルロ・ポンティにおいては、個体の身心相関は、<均質な>行動空間に還元されているが、しかし、「人間の行動空間は均質であるわけではない」。すなわち、「行動空間には、個体が個体として存在する行動の場、個体が性・家族として存在する行動の場、他の個体と関係づけられて存在する行動の場、個体が観念の共同性(政治、法、制度)として存在する行動の場」、という三つの位相がある。「個体とは、その存在の根本的な構造〔内部構造、意識構造〕における人間存在の一様式のことである」――この個体の内部構造・意識構造は、「自己関係づけと自己抽象づけとの構造としてある」。「自己関係づけとは自己の身体がここ〔空間〕にあるという意識、自己を自己として関係づける意識である」。すなわち、自己の自然的な生理的身体〔自然の一部としての自己身体〕を内在的に関係づける意識、「空間的な自己意識」である。「自己抽象づけとは自分の身体が現〔時間〕にあるという意識であり、自己を自己として抽象する意識である」。すなわち、自己の自然的な生理的身体〔自然の一部としての自己身体〕を内在的に抽象化する意識、「時間的な自己意識」である。したがって、「対象的に関係づけられて存在するのが個体とする現象学や実存主義は本質直観における知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解を、すなわち自己対象了解……自然対象了解……を人間の存在本質の根本におくわけですけれども、わたくしどものかんがえではそうではない」。すなわち、この自己関係づけと自己抽象づけの構造において、個体は個体として自己に関係づけられるから、対象〔全自然――すなわち、自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界、さらに身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動によって産み出された人間化された自然としての<人間的自然>〕を対象的に関係づけることができるのである」。ところで、「自己抽象づけの度合は、了解性によって測られ、了解性は時間性によって測られる」。したがって、認識の了解性の度合、抽象の度合の差異は、時間化度(時間化の度合)の差異による。また、「知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合は空間化度によって測られる」。そしてまた、「了解性が時間性である根拠」は、「人間はさまざまな体験や感覚のみがき方をし、〔そうした時間累積において〕現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」ということからして、原始・未開から現代までの時間の累積(歴史性)にある。したがって、「古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化度(時間化の度合)の差異による」。すなわち、「古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識する場合のその認識の差異性の根拠」は、古代から現代までの時間累積(歴史性)の度合、時間化度(時間化の度合)の差異にある。このように、人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかはない。したがって、「言葉の表現もまた、表現に固有な<時間>性と<空間>性を獲て成り立っている」(『思想の基準をめぐって』、『吉本隆明全著作集14』「自立思想の形成について」、「人間にとって思想とはなにか」、「個体・家族・共同性としての人間」、『詩的乾坤』「メルロオ=ポンティの哲学について」、『知の岸辺へ』「言葉の根源について」)。

 

()「時間は永遠に対してどういう関係にあるのであろうか」。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)を意識的に後景へと退けて、「シュラエルマッハーが語っているように、『すべての瞬間において永遠的』なのであろうか。永遠を時間の始めと終わりのところに置き、それ故に時間を永遠から絶えず継続的に遠ざかってゆくこととして、また永遠に向かって絶えず継続的に近づいてゆくこととして、しかも絶えず継続的に遠ざかってゆくことと近づいてゆくこととしてだけ述べるということは、何という大胆な断定であろう、何という幻想であろう」、また「永遠を、すべての時間の隠れた内容として、それ故にすべての時間を、永遠の一つの容器として、しかも結局単にただ一つの容器としてだけ宣言するということは、何という大胆な断定であろう、何という幻想であろう」。

 

 前の()()()に共通な思惟と語りは先ず以てわれわれが知り持っているわれわれの時間を念頭に置いてあるいは信仰の第一箇条を引き合いに出しつつ神によって造られた時間を念頭に置きつつ」「神の啓示がなくても」、「神が啓示される以前に」、「われわれが知り持っているわれわれの時間について語る時われわれは語ることを知っているというという点にあるわれわれ人間は、先ず以て一回性を本質とする自然的時間、自然(精神・意識の座である自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界)の時間(自然時間、生理的時間、時計的時間、物理的時間)があることを知っており、また自然の一部としての人間の個の時間性、人間の個の時間累積、個体史、自己史、現実的現存性、精神的な意識的な時間、内在的時間を持っていることを知っており、また自然史の一部である人間の類の時間性、人間の類の時間累積、人類史、世界史、歴史、歴史的現存性、人類史的時間、世界史的時間、外在的時間を持っていることを知っている。しかし、「われわれは神によって時間が創造されたということを、〔「時間の実在」を、「実在の成就された時間」を、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」を、〕そもそも一般に創造について言えるようにただ〔「啓示神学」において、それ故に神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なその「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」である「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事において〕信じること〔認識すること〕ができるだけであって知ること〔学業的な知識として知ること〕はできないということである」。

 

 神の啓示はイエス・キリストの出来事である〔イエス・キリスト自身、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である〕。(中略)もしもわれわれがその出来事を神の啓示として理解するならば、その時には、われわれは、……その出来事はそれ自身の時間を持っていたということを言わなければならない〔すなわち、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「神の裁きの啓示、律法、死」を包括した「神の恵みの啓示、福音、生」、恵み(福音、生)に包括された裁き(律法、十字架の死)、裁き(律法、十字架の死)を包括した 恵み(福音、生)、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「実在の成就された時間」としての新しい第三の時間を持っていた〕」、またちょうどその「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていると言わなければならないように、またちょうど常に先行する「神の用意」に包摂されたその後に続いて「後続する人間の用意」ができているところの「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「永遠の言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエス・キリストにおいてのみ、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないように、それ故に常に「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」と言わなければならないように。イエスキリストにおける啓示の出来事は、「その出来事の中でわれわれがいつもながらわれわれだけでわれわれの時間を持っていた時に「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての神がわれわれのために〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において、〕ご自分の時間を持ち給うたということが生起したということである」。「神は、そこで実際に時間を持ち給うた」。すなわち、キリストにあっての神は〔まことの〕未来と〔まことの〕過去を持ったところの〔まことの〕現在その成就の待望と成就の想起を持ったところの実在の成就された時間〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示の時間そして啓示についての旧約聖書的および新約聖書的な証言の時間〔すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉の時間、イエス・キリスト自身によって「直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」〕を持ち給うたのである」。キリストにあっての神は、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)を持ち給うた。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神はこういうことすべての中で〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神ご自身の時間〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方における〕神の時間それ故に実在であるところの時間を持ち給うた」。「神の言葉がイザヤ四〇・八によれば、『とこしえに変わることはない』時、そしてこの言葉がヨハネ一・一四によれば、〔その第二の存在の仕方における言葉の受肉において〕肉となったのであり、新約聖書の証言全体によれば、またその甦りにおいても肉であり続け、また父なる神の右にいます栄光の姿にあっても肉であるし肉であり続けるのであればその時には、ご自身を聖書の証言に従って啓示し給うた〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠は、時間なしではないのであるそうであれば〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神が「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において〕われわれのために持ち給う時間はわれわれの生成し消滅する時間とは異なって、<永遠の時間として理解されなければならない」。

 

 「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての神がわれわれのために持ち給う時間は〔換言すれば、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間は〕、神がわれわれに対して「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その外在的本質である第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエスキリストの中で現臨し給うになることを通して成り立つようになるわれわれがイエスキリストと言う時にはわれわれはいずれにしてもまた人間的なそれであるから時間的な現在のことを語っているイエス・キリストにおける出来事のすべての時間は、確かにまた時間的な瞬間である。すなわち、過去を自分自身の背後に持ち、未来を自分自身の前に持った現在〔不可避的な人間の類の時間性、歴史的現存性<と>それに強いられた人間の個の現実的現存性の交点としての現在〕、その一連の続きの中にわれわれ自身が存在している時間的な瞬間と同じような時間的な瞬間である」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、この神の第二の存在の仕方における神の「『言葉が肉となったということはまた言葉は人間となったということを意味しているしたがってイエスキリストにあっての啓示の実在はまたわれわれが人間的生涯の時間〔換言すれば、不可避的に歴史的現存性に強いられた内在的な時間であるところの、人間の個の時間性、人間の個の時間累積、個体史、自己史、現実的現存性〕と呼ぶところのものであるそれはまたわれわれが歴史的な時間あるいはその有史前の時代を含めて世界史〔換言すれば、人間の類の時間性、人間の類の時間累積、人類史、世界、歴史、歴史的現存性〕と呼ぶところのものの一断面である」。

 

「歴史とは個々の世代〔個体的自己の成果の世代的総和〕の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力〔および言語ならびに一対の男女の共同性である家族〕を利用〔媒介、反復〕する」(マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)、「私の立場は、経済的な社会構造の発展〔その観念諸形態の自体的構造があるのであるが、観念諸形態がそれに見合った仕方で疎外されてくるところの、経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の増大・細分化、生活の利便性の向上〕を自然史的過程〔すなわち、自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果〕として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』「第一版の序文」)、「マルクスは資本主義の分析の際に、労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒んだ。なぜなら、資本主義制度における生産は、その基本的法則〔システム的必然〕によって必然的に貧困を生産せざるをえないものだからである。すなわち、資本主義制度は、何も働き手を飢えさせるために〔何も働き手を不幸にさせるために〕存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに〔かといって彼らを不幸にさせずに〕発展することもできないものなのである。したがって、マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析したのである」(桑田禮彰・福井憲彦・山本哲二編『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」)、資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然(、システム的必然)として原理的に自明なことである。しかし、資本主義は「人類の歴史の無意識〔自然史の一部としての人類史の自然史的過程〕の生んだ……最高の出来栄えの作品である。したがって、資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品である」。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」・搾取・貧困があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその文化や文明を批判しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」、その根拠を揺るがし資本主義を超えるためには、資本主義とその資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚する以外にない。したがって、創造的な批判は、その「問題を明確に提起する」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)ことによって、それを包括し止揚するという点にある。言い換えれば、還相的な究極的包括的永続的課題として資本主義を包括し止揚するためには、資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成しなければならないのである。その可能性は、吉本によれば、それは、世界普遍性としてある人類史の原型・母型・母胎としてのアフリカ的インディアン的縄文的等の段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づくその再構成にある。すなわち、「民族国家の枠組みを超えた世界的規模での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある」。それができれば、経済社会構成を資本制におく西欧近代の段階(西欧的段階、欧米的段階)を超え出て、次の段階に超出することができる(吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』、『アフリカ的段階について 史観の拡張』、『情況へ』)、「人類は、人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないものである」。自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である「科学・技術や生産様式の発達は、遅延させることはできても逆行させたりすることはできない。この意味で、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである」。と同時に、人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分に過ぎず」、科学<主義>における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方は、部分でしかない科学を全体として錯誤するところにある」。「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達」に対して、情念や非感覚的部分や喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではない。マルクスが、「人類の歴史において、経済的範疇は第一次的に重要なものである、そしてその他のものはそれに影響されると述べた時、幻想領域の問題〔観念領域の問題〕は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提に立脚して述べている」。すなわち、マルクスは、経済決定論者ではないし、観念の自体構造、自己増殖過程を否定したわけではない。そのことをマルクスは、「ギリシャ古典芸術の永遠の魅力に言及」しながら、「困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない規範としての意義をもっているということを理解する点にある」というように述べている(吉本隆明『共同幻想論』、マルクス『経済学批判序説』)。したがって、「個体としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にない」し、「個人としての人間の意志、判断力、構想が通用するのはただ半分だけであって、いったんそうした現実に衝突してからは、人は、何々させられる、何々せざるをえない、何々するほかないというように生きる以外にはない」のであって、そのようにして個の現存性を刻んでいく。すなわち、「人間の歴史は、すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではないのである」(吉本隆明『思想の基準をめぐって』)。

 

それらすべてはまた旧約聖書的な待望証言および新約聖書的な想起証言の中での啓示の実在についても言えることであるとにかく聖書が意味している啓示は確かに永遠的な実在であるがしかしそれだからと言って決して無時間的な実在ではなくいずれにしても時間的な実在である」。このような訳で、「聖書が意味している啓示は、すべての時間あるいはいくつかの時間の、理想的な、しかしそれ自身は無時間的な内容と言ったものではない。聖書が意味している啓示は、……時間の中に入ってくるいやそれは時間を取り上げるいやそれは時間を造り出すのである〔すなわち、永遠と有限との間に、〔あの客観的な「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて認識(信仰)され得る、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての〕新しい第三の時間を造り出すのである〕」。バルトは、次のように述べている――「以前わたしが書いた『ローマ書講解』は、あの当時支配的であった……世界内的、通俗的―時間的な啓示のほかの啓示について何も知らなくなってしまった歴史主義と心理主義に対して与えた衝撃の故に、あの特定の純化する課題と意味を持っていたが、しかしながら、人が今日あの書物を読む時、そこではヨハネ一・一四が正当な仕方で取り組まれていないという見誤るべくもない印象を受ける」、と。したがって、バルトは、その前期と後期の総体における思惟と語りにおいて、後期の『神の人間性』においては、イエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神 (「神の顕現」) にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、<神の>言葉であった」)ということからして、「神の神性において、<また>神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」と思惟し語っている。したがってまた、「史実的に(historish)正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事、ポンテオ・ピラトと使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、出来事として起こったもろもろの歴史(Geschichten)について語っているという点にある」。

 

 「われわれは、そこのところで、旧約聖書および新約聖書の中に出てくる<年代記的記述>が持っている重要な意味を思い出す。例えば、創世記の中で族長たちの生きた齢の数が、また預言者たちが公に登場した時期が述べられる際の、またマタイ福音書およびルカ福音書の始めで、イエス・キリストの場所が歴史的に座標づけられている際の、注目に値する正確さを思い出す」。「その場合、古代東洋的な数字の象徴的表現法や数字神秘主義の材料が用いられているかもしれないし、そこには確かに計算上の誤りや勝手な計算の仕方、矛盾、齟齬が含まれているかもしれが、しかし、ここでは、時間を述べる際の数字の内容的な正確さあるいは不正確さということが大事なのではなく聖書の中では、むしろ<時間>のことを述べているそれらの数字が含みを持っている重要さが……、注目されるべきことなのである」。その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における神の「言葉の受肉が何時起こった出来事であるのか述べることができるということが、古代教会にとっていかに大切であったかということを、すでに信仰告白の最古の形の中に含まれているポンテオ・ピラトノモトデ苦シミヲ受ケが示している。啓示は、この場所を持っているのであって、決してほかの場所を持っているわけではない。啓示は、イエス・キリストの出来事の中で、それの待望と想起の出来事におけると同様に、ちょうどこの領域の中でのそのほかの現実の出来事と同じように、全く時間的であり、それであるから時間的に規定され、時間的に柵をめぐらされているのである。啓示は、創造物語の記述が、近代の歴史学の標準を用いてはかった場合には、ただ『古潭』あるいは『歴史物語』であるようなところででも、時間的に実在であるとして記述されている。旧約および新約聖書が譬えを述べているところでも、時間的に実在であるとして記述されている」。「それに対して、神話は、換言すればそれが歴史物語的な物語の形態をとっていても、はじめから物語であろうと欲していない物語、一般的な精神的あるいは自然的な真理を物語風に述べているものは、聖書の中では現れてこない。たとえ聖書の言語の中で、どんなにしばしば神話的な材料が用いられているとしても、やはりそうである。ヨブ記の始めに出てくる神とサタンの間の会話でさえ、後で実際に地上的な不幸が具体的にヨブの身にふりかかってきた日に対応して、『ある日』起こったことなのである。われわれは、まさに時間概念に関してこそ、どこにおいても、聖書の『特権的な擬人法』(JG・ハマン)を避けて通ることは許されないであろう」。「年、日、時間は、神の啓示についての聖書的証言から切り離してしまうことのできない概念であって、また聖書的証言を説明する際に、もしも聖書的証言を全く別な啓示についての全く別な証言に変えてしまいたくないならば、決して瑣事として取り扱ってはならない概念である」。したがって、バルトは、次のように述べている――「聖書の中で物語られているもろもろの歴史は、史実史や神話ではなく、ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ主観を交えて脚色しており、そういう意味で干渉し、関与するという歴史物語あるいは古譚の要素を持ったものである」、それ故に「中立的な観察者として聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問いは、聖書にとっては全く縁遠いものであり、聖書の証言の対象にとって異質なものである。しかし、聖書的証言に対して、それを聞くもの、見る者、信じる者である<非>中立的な観察者にとっては、聖書的証言の中に同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」、それ故に「<非>中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、史実的には全く何も確かめられないということ知らされたし、啓示の出来事にとって重要でないものだけ、啓示とは別の何かだけしか確認できないということを知らされた」、「聖書の中の歴史である歴史物語あるいは古譚は、すなわち『和解論』における原歴史あるいは史実以前の歴史は、無空間的無時間的な神話ではない。なぜなら、神話が事実として報告していることは、少なくとも潜在的に存在している根源的なそして自然的な結びつきとの関係の中に立っているところの、思弁の前形式として、〔自然生に依拠した人類史(世界史)の起源・母胎・母型としてのアフリカ的インディアン的縄文的等の段階においては世界普遍的に起こり得た出来事であって、人類史的(世界史的)に〕決して一回的な出来事ではなく、繰り返され得る出来事だからである」、「歴史<主義>は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問うことをする。しかし、啓示の証言としての聖書の理解と、神話の証言としての聖書の理解は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化することは、証言としての聖書の実体を攻撃しないが、しかし、聖書記事を神話として受けとることは、証言としての聖書の実体を攻撃する。なぜなら、啓示は、歴史〔人間の類の時間性、人間の類の時間累積、人類史、世界史、歴史的現存性〕の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではないからである。したがって、大切なことは、聖書の歴史を、一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある」。吉本隆明は、人間学的領域における神話ないし古代史研究の現在的水準について、次のように述べている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。〔したがって、〕じぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます(『敗北の構造』「南島論」)。

 

 そのことが言われた後でわれわれはもちろん続けて(中略)われわれがイエスキリストのことを語る際われわれが考えているところの時間は〔すなわち、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」は〕ほかのいかなる時間とも同一視されたり混同されてはならない時間であるということである」。「神の子が〔その外在的本質である第二の存在の仕方において〕人間存在を取り給い〔神性を内在的本質とする〕ご自分の神存在との単一性ヘと人間存在を取り上げ給うた〔「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)ことを通して人間存在が新しいもの別なものとなったようにそしてまた肉は〔「神の」言葉、〕永遠の言葉が〔その第二の存在の仕方における言葉の受肉としての〕肉となることによってアダムの罪を繰り返すことができなかったように時間はそれが〔われわれの「罪に堕ちた」、「罪にそまった」、「非本来的な」、「失われた時間」の中で、「神の裁きの啓示、律法、死」を包括した「神の恵みの啓示、福音、生」、恵み(福音、生)に包括された裁き(律法、死)、裁き(律法、死)を包括した 恵み(福音、生)、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「実在の成就された時間」、〕イエスキリストの時間となることによって別な新しい時間〔無限と有限との間の新しい第三の時間となったのである」。「レビ二五・八以下で、イスラエルに対し、七年を七倍するごとに巡ってくる<自由な年>あるいは<ヨベルの年>について命じられている。このヨベルの年は、それら四九年のうちの最後の年の贖罪の日でもって始まり、その日は全国にラッパの音を響きわたらせることによって告げ知らされなければならず、その年においては、種をまいたり、刈り取ったりしてはならず、また四九年間に売却によって失ったもとの所有を正当な代価を払って買い戻さなければならなかった」――「このヨベルの年の中ですでにイザヤ六一二の著者は、『主の恵みの年換言すればメシア的な救済の年が予示されているのを見た」。「まさに徹頭徹尾尋常ではないこの年こそがルカ四一九以下によれば(この聖句はあなた方が耳にしたこの日に成就した)イエスキリストの時間である」――「この時間は、〔「あの五〇年目の年がもろもろの年の系列の中で一つの年であったのと同様に」、〕もろもろの時間の系列の中での一つの時間である」が、しかし、「まさにあの年に対応しつつ、それは、祝い、安息、解放、贖い〔完成〕の時間であって、それ以前のあるいはそれ以後の時間との関係において、それこそ本来的な<正規の>時間である」、へブル四八においてはっきりと言葉に出して旧約聖書の安息日神の安息の日および民に約束された安息の日として長く時間が経ってから』、イエスの日の中で成就したと述べられている」。「人が、新約聖書の中で、今、今の時、時、今日、日という言葉に出会う時、少なくとも……それらの言葉でもって、ただ単に何かある特定の暦の上での、時計が知らせる時間のことが意味されているだけでなく〔すなわち、自然時間、生理的時間、時計的時間、物理的時間が意味されているだけでなく〕、特定の暦の上でのあるいは時計が知らせる時間の中でのそのような時間と共に、そのような時間の下で、またそれの内容に故に特別な時間であるイエスキリストの時間が言い表されているということを考慮に入れなければならない」。「<今>の意味深い使用については、多くのパウロ的あるいはヨハネ的聖句の中で、例えばⅡコリント六・二が特に注目さてよい。そこでは、……見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である、と述べられている」、「時については、Ⅰヨハネ二・一八にある、……子供たちよ、今は終わりの時である、が注目されてよい」、「今日については、ルカ一九・九の『今日、すくいがこの家に来た』、二・一一の『今日、あなた方のために救い主がお生まれになった』が、そしてへブル一・五、五・五の『今日、わたしはあなたを生んだ』、またそれ故に三・七以下、一五、四・七の『今日、あなた方がみ声を聞いたなら、あなた方の心を、かたくなにしてはいけない』、三・一三の『今日という日のうちに』が特に注目されてよい」。

 

 「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、イエスキリストの時間の特別な点は時間の主の時間であるということである」、われわれ人間に関わる自然的時間、内在的時間、外在的時間の主であるということである。したがって、それはわれわれの時間と違って神の支配の時間しかもまさにそのことの中でこそ、<実在の成就された時間である」。バルトは、次のように述べている――「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・原木・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「イエス・キリストがわれわれ人間に対して、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕聖書および〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法定・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教を通して同時的となる時と所、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕『神われらと共にが神ご自身によってわれわれに語られるところにおいてはわれわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する。したがって、われわれは、世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する。自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音(恵み)、神の要求、判定(裁き)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」。したがって、その神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示の場所は、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学におけるキリストの「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所であるし、われわれの人間の個と現存性、現実的現存性―われわれ人間の類と歴史性、歴史的現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である。時間の主の時間」、「イエス・キリストの啓示の時間」、神の裁きとしてのキリストの十字架()を包括し克服した神の恵みとしての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」は、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、実在の成就された時間である」。「ここでは、過去と未来の真中で消失してしまっている現在<と>現在の中で消失してしまっている過去および未来という二つのものの間のディレンマは発生しない。ここでは、<まことの現在が存在するし、……まさにそれ故にこそ、<まことの過去まことの未来が存在するし〔換言すれば、<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>が存在するし〕神の言葉がある」。「永遠から語られた神の言葉はきょうもきのうも、いつまでも変わることがない」――このことは、「肉となったそれであるから時間となった神の言葉についても言えることである」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・原木・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエスキリストは彼の時間的な現実存在のすべての瞬間においてまことの神およびまことの人間として啓示され〔その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕信仰と証言を見出すところの彼の時間的な現実存在のすべての以前と以後においても同一の方である」。「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「われわれのための神の時間」、「肉となった、それであるから時間となった神の言葉」が、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の根源(起源)としての「父は、子として自分を自分から区別する」し、その「子の中で、創造主として、われわれの父として、自己啓示する神として自分自身が根源であり」、それ故に「その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が根源である」が、その神の「われわれのための神」としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)におけるイエス・キリストの父としての起源的な第一の存在の仕方、すなわち「啓示者」・「言葉の語り手」の、その「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)としての神の第二の存在の仕方(子としてのイエス・キリスト自身)、すなわち「永遠から語られた言葉のみが、実在である神の存在への、自分自身を通して動かされ、自分自身の中に憩い、自分自身で十分である神の存在への参与を与える。その言葉は〔キリストにあっての〕神によってすでに語られている>。それは独一無比な完了であるわれわれの時間の中でではないが肉となった言葉を通して〔すなわち、神の第二の存在の仕方における神の言葉の受肉を通して〕造られた神の時間の中でまことの本来的な解消されることのない完了が存在するそれ故にこそその言葉は世に来たりつつあるのであるそれは独一無比な未来である何故ならばわれわれの時間の中でではないがしかし確かに肉となった言葉を通して造られた神の時間の中で〔すなわち、神の第二の存在の仕方における神の言葉の受肉を通して造られた神の時間の中で〕まことの本来的な解消されることのない完全な未来が存在するからであるこのような具合に神の言葉は〔まことの〕現在である」。このことは、「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「啓示者」・「言葉の語り手」の「啓示」・「語り手の言葉」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)としての神の第三の存在の仕方が自己証明している。「神の言葉は、偶発的な同時性、すなわち特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマとなる。神の言葉は、その都度、全く特定の一回的な、独一無比な言葉である。しかしまた、神の言葉は、神の口を通して語られて、同時的である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわちきょうも、きのうも、いつまでも変わることがないということを意味している」。この同時性が、特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマとなる出来事を可能とするのである。すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(啓示者の啓示、言葉の語り手の言葉)であるイエス・キリストにおいて、「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」。「救済を、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、あの「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>における神のその都度の自由な恵みに神的決断による客観的なその「死(十字架)と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「出来事の中での主観的側面」としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>)」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる〕信仰の中で持つことは約束として持つことであるわれわれはわれわれの未来の存在を信じるわれわれは死の谷のさ中にあって永遠の生命を信じるこの未来性の中でわれわれは永遠の生命を持ち所有するこの信仰の確実性は希望の確実性である新約聖書によれば神の恵みの賜物である聖霊を受け満たされた人は召されていること和解されていること義とされ聖とされ救われていることについて語る時、<すでにいまだにおいて終末論的に語るここで終末論的とはわれわれの経験と感性にとっての〔われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍によっての〕<いまだであり、〔徹頭徹尾、神の側の真実としてある〕成就と執行永遠的実在としてすでにということである」。その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における言葉の受肉として、肉となったそれであるから時間となった神の言葉、「啓示の中で啓示と共に新しく措定されてまた創造された時間からも区別されて新しい第三の時間として現れ出てくるのである」。

 

 神が定められた時に及んでみ言葉を明らかにされた(テトス一・三)。イエスご自身によって宣べ伝えられた『神の福音』の最初の言葉は、時は満ちたである(マルコ一・一五)。同様に、パウロは、ガラテヤ四・三において、わたしたちが子供であり、それ故この世のもろもろの霊力の下に縛られていた時のことを語っているが、その後四節において、……しかし、時の満ちるに及んで、神はみ子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、お遣わしになった、と述べている。満ちるというのは、容器、計画、概念、形式を満たしているもののことであり、それであるから、内容、目的、意味、形式の中で可能性として告げられている実在のことであるしたがって、『時が満ちる、『実在の時間以外のことを意味している」。すなわち、それは、神の第二の存在の仕方における神の「言葉の受肉の中で言葉の受肉と共に神の国が近づいたことの中で神の国が近づいたことと共に新しい時間として救い主の今および今日として、<実在の時間が明け初めるということである」。「神は、ご計画に従って、天にあるもの地にあるものを、ことごとく更新するあるいは……一つに帰せしめるというみ旨の奥義を、わたしたちに示してくださった。それは、時が満ちることを秩序だった仕方で導入するためである(エペソ一・九以下)。言い換えれば、それは、あの更新を通して、また時が満たされて、実在の時間となるためである」

 

 「出エジプト三章のモーセがヤハウェに出会う出会い」――「モーセはヤハウェの天の使いを見る」――「この〔仲介的な、媒介的な〕形態の中で、〔覆い隠された〕ヤハウェ自身を見る」。「その形態は、……蔓延する火、それでいて焼き尽くさない火、生きており保持されている被造物、そのただ中にあってのその被造物の限界および除去である方の現臨、聖礼典的な実在二節である」。「この理解を絶した出来事がヤハウェの啓示である」。「テキストは、……モーセがさし当って被造物的な場所の中での最も理解を絶した出来事をも観察し理解しようとするようにその出来事を観察し理解しようとすること(三節)を強調する実際彼の場所と領域の中で〔彼の空間と時間の領域の中で〕、啓示は出来事となって起こる」。「しかし、モーセは、そこでご自分を啓示される方によって、燃える柴から、彼の人間的な名でもって、すなわちモーセと呼びかけられる(四節)。この呼びかけは、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神の人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下における〕警告である。……『足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』(五節)」。「ヤハウェは語り給う。その方は、〔先行する〕彼の先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。「ここで、彼……モーセは、顔を隠したと言われている。『モーセは〔聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「自己自身である神」としての「三位一体の神」としての〕神を見ることを恐れたので顔を隠した』」。「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における起源的な第一の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、イエス・キリストの父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において「先祖たちに対して、先祖たちと共に、〔先行して〕行動された方、彼らを召し、導き、救い出される〔恵む〕方、その方が、焼き尽くす〔裁く〕、それでいて保持する〔恵む〕、保持する〔恵む〕、それでいて焼き尽くす〔裁く〕方である」。この時、「モーセは、今や、彼が観察し理解したいと思っているものが、先祖たちに関わったように、彼自身に関わって来られる方であることを知る。まさに彼は、ここで、見ることができないこと〔神の聖性・秘義性・隠蔽性〕を知る。まさにそれだからこそ、彼は、恐れるのである(六節)」。「そして、〔先行する〕まさにその先祖たちの神として彼に関わり給う方が、彼自身を召し、委任を与えることによって、彼に関わり給う〔神の顕現〕」。「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父としての「その方の行為、焼き尽くすこと〔裁くこと〕と保持すること〔恵むこと〕、保持すること〔恵むこと〕と焼き尽くすこと〔裁くこと〕は、モーセの奉仕を通して、イスラエルの将来の歴史の中で続いて行かなければならない」――「ヤハウェは、『下って、彼らをエジプト人の手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる血に至らせようとしている』(八節)」。モーセの「防衛的な問い」――すなわち、「わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか(一一節)」という問いに対して、ヤハウェは、「『わたしは必ずあなたと共にいる』と答えられる」、またモーセの「『あなたがたの先祖の神』という……名だけでは不十分であるような」問い(一三節)に対してはヤハウェは、「『わたしは、有って有る者』(一四節)と答えられる」。「人が七十人訳に依拠しつつなしたわたしはまことに存在する者という翻訳はテキストの文脈の中では不可能である何故ならば、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神ご自身によってこの名「わたしは、有って有る者」が与えられることが確かにいわば神がモーセに対して、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において〕ご自身を認識するよう与え給う際の啓示の第三の形態を言い表している時この第三の形態は〔「わたしは、有って有る者」は〕、結局最初の二つの形態〔「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」および「わたしは必ずあなたと共にいる」〕の方向で最初の二つの形態〔「先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」および「わたしは必ずあなたと共にいる」〕の解釈として理解されなければならないからである」。「『わたしは、有って有る者』は、あの焼き尽くす〔裁く〕、それでいて保持するもの〔恵むもの〕、あの保持する〔恵む〕、それでいて焼き尽くすもの〔裁くもの〕以外の何ものでもない」、「先祖の神以外の何ものでもない」。「そのことを、その箇所の続きが語っている」――「イスラエルの人々が、『誰があなたを遣わしたのか』と問う時、彼は、一四節によれば『わたしは有る』という方が、わたしをあなたがたのところへ遣わされましたと答えなければならない」、「また、一五節によれば、もう一度はっきりと、『イスラエルの人々にこう言いなさい、あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへ遣わされました、と。これは永遠にわたしの名、これは代々のわたしの呼び名である』と言われている」。このような訳で、「『わたしは有って有る者というのは、人が、その際、動詞を現在形としてとるか未来形としてとるかはとにかくとして、『わたしは、<わたしが現にあるところのもの』、あるいは『<わたしがあるであろうところのものということである」。言い換えれば、「そのものについてはそのものが現にあるところのものであることによってすなわちそのものが現に行動するように行動することによって自分で与える定義以外の客観的な定義は存在せず、したがってわれわれ自身によって見出されなければならない定義は存在しないところのものであるということである」。「『わたしは恵もうとする者を恵みあわれもうとする者をあわれむ(出エジプト三三・一九)そのように言われており決してそれと違ったふうに言われていない方、〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における〕その行為の中で自分自身を措定し与え給うところの方ただ常に新しくその行為を問う問いの形でだけその方の存在が問われることのできる方その方が〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神である。〔したがって、〕そのほかの名は、すべて神の名ではないであろう。また、そのほかのものを認識する認識は、いずれも〔その顕現性と隠蔽性における〕神認識ではないであろう。そのようにして、決してそれと別様にではなく、〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神は人間の前に立ち給う」。「『わたしは有って有る者という旧約聖書の中の神の名(出三一三以下)について、「新約聖書の黙示録の著者はその神の名を時間との神の関係のことを指しているとして解釈した」、「その名でもって神は、〔その神の内在的本質からして、〕いつかそうであることをやめてしまうことがあり得ない仕方で、<生けるものと言い表されているとして解釈した。言い換えればわたしはわたし自身を現在化するものあるいは自分自身を通して現在的であるものとして解釈した」。したがって、「黙示録の著者は、特徴的な仕方で補充して、わたしは今いまし、昔いまし、やがて来るべき者、……全能者にして主なる神という意味深い表現を付け加えている(一・八。一・四も参照せよ)」。「一・八におけるほど意味深くはない」が、「黙示録四・八では、昔しまし、今いまし、やがて来るべき者、それからこの定式を適用しつつ一・一七では、わたしは初めであり、終わりであり、生きている者であると言われている。二一・六では、二つの要素を含みつつ、(ここではわたしは現在的であることの表示である)わたしは、アルパでありオメガである、起源であり目標である、初めであり終わりであると言われている。神は、存在する方であり、それであるから顕著な意味で生けるものであるということから、それ故に全能者で<ある>ということから、まさに神は単にそのような方であるばかりでなく、そのような方として、また昔いまし、今いまし、やがて来るべき方、アルパでありオメガであり、起源であり目標であり、初めであり終わりであるということが続いて起こってくる。また逆に、神が初めで<あり>終わりで<ある>ということの中で、神はまことに存在する方、生ける者、全能者であるということが実証される」。出三一四に出てくる神の名が、『わたしはあるであろうところのものであるであろうあるいはわたしはあるであろうところのものとしてあるであろうというふうに翻訳されるべきであるとするならばそのことはまさに現在未来関係の特有な優位性を意味していることになるそうすると黙示録でなされているところのその言明を過去の方向に向けて拡大するということはあの有名なテキストについての特徴的に新約聖書的な解釈として理解されなければならないしそのように過去の方向に向けて拡大するということは、……今後はすなわち実在の成就された時間の後では>、<待望想起すなわち旧約聖書がまだ持っていなかったあるいは旧約聖書にとってはまだ普通のことではなかったこととして想起が付け加わってきたということである」――「このことへブル一三八で言われていることが一致する。すなわち、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・原木・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その外在的本質である第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエスキリストはきのうも今日もいつまでも変わることがない〔永遠に変わることがない〕」。「ここで強調点は文脈によれば明らかにきのうということに置かれているしたがって現在―<過去の関係に強調点が置かれているこのような訳で、「時間が〔「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての〕イエスキリストの現在の中で満たされているということについての認識の内容は新約聖書の中では終始ただ単に尋常でない現在意識の中で示されるばかりでなくまさにその現在意識がもともと持っているところの過去を過去として知り未来を未来として知る最高に意味深い知識換言すれば二つのもの〔「過去」と「未来」〕は違う時間として同時にまた違う世界として全く対立したしるしのものとに立っている二つのとしてそれ故に原則的に過去的な』、しかしまさにそのようなものとして〔「実在の成就された時間」としてのまことの〕現在の光の中で今すでに同じような最高の実在の原則的に未来的な』、しかしまさにそのようなものとして〔「実在の成就された時間」としてのまことの〕現在の光の中で今すでに同じように最高に実在のであるというそういう二つの』〔「まことの過去」と「まことの未来」〕についての知識の中で示される」。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕へのキリストの十字架〔死〕でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている」。この「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、すなわち「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」は、「新しい世〔、時間〕のはじまりである〔<まことの現在>のはじまりである〕」。その「現在意識にとって……特徴的なことは、その現在意識が、〔「単一性と区別」、すなわち区別を包括した単一性において、〕一方において過ぎ去ったもの〔過去的なもの〕を、他方において未来的なものを、それぞれの性質とあり方に従って、出来得る限り真剣に受け取り、両者の間の深淵を出来得る限り深く掘り下げ」つつ、「しかもそのように分けられたそれら二つのもの、過ぎ去りつつある古い世〔、時間〕と来たりつつある新しい世〔、時間〕をその『今日』〔現在的なもの〕の中で一つにまとめている」という点にある――「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、〔「神の裁きの啓示」(律法)、十字架、死を包括した「神の恵みの啓示」(福音)、復活、生による〕義をもってこの世界を裁くためにその日(イエス・キリストの日)を定められた(使徒行伝一七・三〇以下)」、「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ……しかし今では御子はその肉のからだにより、その死〔すなわち、「神の恵みの啓示」(福音)、復活、生に包括された「神の裁きの啓示」(律法)、十字架、死〕を通して、あなたがたを神と和解させ給うた(コロサイ一・二一以下)」、「あなたがたは、以前は神の民ではなかったが、今は神の民であり、以前はあわれみを受けたことのないものであったが、今はあわれみを受けたものとなった(Ⅰペテロ二・一〇)」、「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている(エペソ五・八)」、「その言葉の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕神の聖徒たちに明らかにされたのである(コロサイ一・二六)」。「人はよく注意せよ。それら両方の『代』の関係は決断の関係である。決断が<下される>、それが新約聖書の本来的な内容である現在である〔すなわち、区別を包括した単一性において、<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>としての現在である〕。古いものは過ぎ去った(Ⅱコリント五・一七)。しかし、そのことは、過去が消失するということを意味していない。過去は、それが過ぎ去る中にあって現在的である〔すなわち、過去は、区別を包括した単一性において、<まことの現在>に包括された<まことの過去>として現在的である〕。しかも、それが、〔区別を包括した単一性において、<まことの現在>に包括された〕過去として認識されるが故に、過去として認識されつつそうなのである。それは、〔区別を包括した単一性において、<まことの現在>に包括された〕<まことの過去>である。それが<キリストの死>を通して過去とさせられることが確かである限り、確かにそうなのである」。したがって、「〔「神の恵みの啓示」(福音)、復活、生としての〕新約聖書の中では、〔「神の裁きの啓示」(律法)、十字架、死としての〕旧約聖書は消失しない。〔「神の恵みの啓示」(福音)、復活、生としての〕新約聖書の各頁ごとに、古き『代』の〔キリストの復活に包括された〕キリストの十字架の中で成就された時間についての証言として引き続いて生きている。〔「神の裁きの啓示」(律法)、十字架、死としての〕旧約聖書の中で、<まことの過去>が、〔キリストの復活に包括された〕キリストの死の中で成就された時間を待ち望む待望の形で引き続いて生きている」。また、「未来も、まだ存在しないのではなく、未来としてすでに現在的である〔すなわち、すでに、区別を包括した単一性において、<まことの現在>に包括された<まことの未来>として現在的である〕」――「見よ、新しくなった(Ⅱコリント五・一七)。まさにそれが、〔区別を包括した単一性において、<まことの現在>に包括された〕未来として、新しい世〔、時間〕が明け初めることとして認識されるが故に、認識されつつ、それは、確かの<まことの未来>である。その未来が、〔キリストの十字架()を包括した〕<キリストの甦り・復活>と共に開始されることが確かである限り、確かにそうなのである」。したがって、今や旧約聖書はただ旧約聖書だけであり続けることはできない今や〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備されたところの、「神の裁きの啓示」(律法)、十字架、死を包括した「神の恵みの啓示」(福音)、復活、生、「実在の成就された時間」としての<まことの現在>の想起の形における証人としての〕使徒たちが〔イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備されたところの、「神の裁きの啓示」(律法)、十字架、死を包括した「神の恵みの啓示」(福音)、復活、生、「実在の成就された時間」としての<まことの現在>の待望の形における証人としての〕預言者たちと並んでそこにいなければならない」。「〔まことの〕未来はまさにただ〔キリストの十字架()を包括した〕キリストの甦り〔復活、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕を覚える想起の形でのみ宣べ伝えられることができるのでありそこで<想起>の形で〔まことの〕未来が宣べ伝えられるのである」。

 

 「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)・救済者としての神的愛に基づく父と子の交わりである聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において、「神は現にあるところの方であり給う」ことからして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(その「最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)の中で証しされているキリストにあっての「『神はご自身を啓示し給うということは、『神はわれわれのために時間を持ち給うということを意味している神の啓示は理解を絶した仕方で神が自由であり給うということでありそれと共に神がわれわれのためにい給うということである」――このことこそが、「神がわれわれのために時間を持ち給うということなのであるこのように、「われわれのために〔「全面的に完全な」「正しいまことの実在の」〕時間を持ち給うということの中に神の啓示とその中で遂行された和解の善き業の満ち溢れ全体が含まれている」。「イエスの中で起こった時間の成就はただ単に神的富の中から分かち与えられる施し物というだけでなくむしろイエスキリストがガラテヤ四〔『しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした』〕において、<時間のプレイローマであり給う時われわれは、……イエスキリストの中には、『満ち満ちている一切の神性>』何故ならば、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質としての第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストは、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるからが形をとって宿っている(コロサイ二)ということによく注意しなければならない」。

 

 イエスキリストにおける啓示の中で神は全き仕方でわれわれのために歩み入り給う」。この「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の「完全さ、自由さ」は、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における「完全さ、自由さ」であるこのような訳でキリストにあっての神自らが啓示の中で造り出し給うた時間すなわちまことの現在まことの過去まことの未来もわれわれに対して全き仕方で与えられる〔換言すれば、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、われわれのための神の時間」、キリストの十字架()を包括した「キリスト復活の四〇日」、「問題的な、非本来的なわれわれの時間の中で、実在の成就された時間」――ここに、「まことの現在」に包括された「まことの過去」<と>「まことの未来」があり、「神の言葉がある」のであるが、それらは、われわれに対して、全き仕方で与えられる〕」。「今や、このわれわれの時間の多くの年と世紀のただ中で、イエス・キリストの時間が、われわれの時間として入ってくることによって、喜ばしい使信としてわれわれのところにも来、約束としてわれわれにも与えられ、またわれわれによってもつかまれ、生きられるべき時間として入ってくることによって、神のまことの時間が、われわれの問題的な、非本来的な時間の代わりに入ってくる、ちょうどそのほかのところは暗闇に閉ざされている空間の中にある光が、……その小さな空間において光であり、その空間全体のために光をもつのと同じように」。神と人間の間にはただ唯一の契約があるだけであるすなわち〔「裁き」を包括した〕恵みの契約があるだけである〔したがって、『福音と律法』における思惟と語りで言えば、律法は純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする――すなわち、主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」)そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの――それ故に「律法の目標」は、この純粋な教えとしてのキリストの福音を全世界としての教会自身と世のすべての人々が現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにある、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの(『平和に関するバルトの書簡』によれば、この包括的な救済概念は平和の概念と同一である)を内容とする福音の形式である。詳しく言えば、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、その「律法の目標」は、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)<と>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(<一般的>倫理学の問題ではなく、「正しい行為を問う」特別的な<神学的>倫理学の問題、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くという点にある〕この契約の仲保者は〔まことの神にしてまことの人間としての〕人なるキリストイエスであるそれであるから福音の歴史の正しい考察すなわちキリストの誕生〔裁き〕甦り〔恵み〕についての宣教の正しい考察は人が福音の歴史において神の永遠の決議が時間の中で実行に移されていることを認識することそれであるからそれが時間の中で実行されているという事実はとりもなおさず……その真理と働きが前方に向かっても後方に向かってもすべての時代を超えてひろがってゆくそういう永遠的な事実であるということを見て取ることである」。「神の名誉が毀損され、罪と死が世界の中に入って来た、それ故にまたこの地上において、人間を通して〔すなわち、まことの神にしてまことの人間としての人なるキリスト・イエスを通して〕すべてのことが回復されなければならない。このことが起こるで<あろう>ということを、福音は、すでに楽園において最初の先祖たちに証している」。また、「この福音は、すべての預言者たちによって確認され、ますますはっきりと明確に解き明かされ、ついにその最もこまかな点にいたるまであらかじめ宣べ伝えられたのである。それらの神の約束が成就され<た>ということ、起こるべきはずのことが実際に起こっ<た>ということ、それが、福音記者たちと使徒たちの使信である」。

 

 われわれは、「聖書の意味での啓示ということを語ろうとする時には、……イエスキリストの出来事の出発点および終着点という二つのことをすなわちイエスキリストにあっての神の言葉が覆い隠されているということこの覆いがイエスキリストの自己顕示の故に破り取られているという二つのことを考えなければならない」。この脈絡において語らなければならない<覆い>は、イエス・キリストがそのような時間をご自分に取り上げられる限り、〔問題的な、非本来的な〕一般的な、古い、<われわれの>時間のことであるその際、〔そのことは<覆い>をとってあらわにするということであるが、〕イエス・キリストがそのような〔問題的な、非本来的な〕古い時間を取り上げられる理由はその時間を、彼の<新しい>時間〔「新しい第三の時間」〕にするためである」。「われわれが前にいくつかの新約聖書のテキストを注釈しつつ語ったようにそれらの時間〔、世〕、〔「敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間は、本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間、実在の成就された時間」、「キリストの復活における神の勝利の行為によって克服されてそこにある」のであるが、また、その「勝利の行為は、敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」ということからして、〕すでにそこにあるところの新しい時間がまだ依然としてそこにあるところの古い時間に対して勝利をおさめつつある時同時にそこにある時間である」。勝利者がすでにそこにおりまた敗北者も依然としてそこにいるところの勝利の行為旧約から新約へのキリストの十字架〔律法、死、「神の裁きの啓示」〕でもって終わる古い世〔、時間〕からキリストの甦り〔福音、生、「神の恵みの啓示」、「キリスト復活四〇日の福音」〕とともにはじまる新しい世〔、時間〕へのこの移り行きが啓示であり成就された時間の光なのである」。「旧約聖書の中でも新約聖書の中でも、<神の裁きの啓示神の恵みの啓示どこにおいても互いに切り離すことはできない二元論的に対立させて分離することはできない、区別を包括した単一性において裁きは恵みに包括されているし、恵みは裁きを包括している。

 

そのような訳で、「『啓示と歴史という近代の問題は啓示のこの本質についての宿命的な誤解に基づいている」。その今もなおなされているところの少なくとも三つの決定的な誤謬次の点にある

()「人は、<時間>の一般的な現象、歴史の現象から出発し、〔啓示と歴史を〕比較照合するという仕方での考察に対して、特定の場所において、<啓示>の現象が示されたかあるいはどのように示されたかということは問うことはできないということを見逃していた」。「その多種多様性の中での時間あるいは歴史の一般的な現象は、……それを読みつつ、いつか誰かが直接的にあるいは間接的に啓示の現象に出会うであろうテキストではない。時間〔、歴史〕のその一般的な現象そのものはそれとしてまだ新約聖書そのものの中で来たりつつある新しい世と直面して古い世〔「まことの過去」〕と言われているものですらない」。したがって、「神学的な概念としての啓示の出来事とその認識を前提としている」普遍性と相対性の中での歴史的なものそのものが、それとして、啓示の必然的な『躓き』であるしたがって、洗礼者ヨハネは、〔「普遍性と相対性の中での歴史的な」観点に立った時、〕キリストに『躓く』(マタイ一一・二以下)が、しかし、歴史〔「われわれの時間」〕の中では啓示を見て取ることはできないと主張する歴史家は、誰もここで躓くことはない。同様にまた、神の子のイザヤ的―パウロ的『僕の姿』(P・アルトハウス、G・キッテル)は、一般的に確かめることのできる、それ故に誰にとっても洞察することのできる『史的なことの疑わしさと不確かさ』ということとは全く別なことである。その〔神の子の〕僕の姿をイザヤやパウロと共に実際に見るところの者は言うまでもなく古い世〔、時間、「まことの過去」〕の終わりとしてのキリストの十字架〔死、「神の裁きの啓示」、律法〕を見るであろうその時また彼は新しい世〔、時間、「まことの現在」〕それ故に古い世〔、時間、「まことの過去」〕から新しい世〔、時間、「まことの現在」〕への転換をそれ故に神の啓示〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、生、「神の恵みの啓示」、福音、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」〕を知るであろう」。したがって、直接的に確かめつつであろうと間接的に弁証法的に思惟しつつであろうと」、「一般的な時間〔われわれの時間、人間の類の時間性、人間の類の時間累積、人類史、世界史、歴史、歴史的現存性、それに不可避的に強いられた人間の個の時間性、人間の個の時間累積、自己史、個体史、現実的現存性〕の下で思惟し始める者、「いずれの場合でもそこにおいては啓示の特別な時間にさえ出会うことはないであろう」。例えば、「終末論的な『将来的なものの力』としての御霊」の概念によって、「終末論と歴史とを結び付け」、「終末論的なものが、そのような仕方で歴史的になることによって、歴史的なものが終末論的になる」、「終末が歴史となり、歴史を動かしている」と考え、「特殊と普遍、救済史と普遍史」とを交叉させ、神学的三段階的進歩史観、すなわち「ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念における宗教」において、世界史は自由の概念、自由の原理の実現過程であるというヘーゲルの『歴史哲学』に基づいて、「律法、父の国、奴隷状態の歴史〔すなわち、世界史的段階で言えば、自然にまみれた自然生の原始未開の段階〕」、「恩寵、子の国、神の子供の状態〔すなわち、世界史的段階で言えば、農耕を経済的基盤とすることによって自然から対象的になったけれども、その対象的自然を自由な自己意識・理性・思惟によって対象化することによって自由・自由の原理を自覚し自然から完全に超出し完全に自由になっていない、それ故にまだなお依然として自由な自己意識・理性・思惟によって自由・自由の原理が自覚されてはおらず自由ではない、それ故にまた生来的な自然的な類的機能を持つ自由な自己意識・理性・思惟が客観的な実体的な自然の中に没入し自然によって規定されている、それ故にまた自由な自己意識・理性・思惟によって自覚されるものである自由・自由の原理を現実的に所有していない自然によって規定されている自然を原理(自然を内面の原理)とするアジア的段階〕」、「自由、霊の国、神の友の状態〔世界史的段階で言えば、生来的な自然的な類的機能を持つ自由な自己意識・理性・思惟によって自然から完全に超出し自由・自由の原理を自覚し獲得した自由を原理とする西欧近代の段階〕」という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した希望の神学者・モルトマンの思惟と語りにおいては、「啓示の特別な時間にさえ出会うことはないであろう」――このような思惟と語りにおいては、現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている中で、その「問題を明確に提起する」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』によれば、「問題を明確に提起することは、その問題の解決である」)ことができ得ていないのであるから、全くの人間的な意味での社会的な政治的な究極的包括的総体的永続的な救済や平和は永久にあり得ないだけでなく、また神の側の真実としてある成就され完了されたイエス・キリストにおける究極的包括的総体的永遠的な救済、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の概念を、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「啓示認識」(「啓示信仰」)、「信仰の認識としての神認識」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」として持とうとしないのであるから、それ故に持たないのであるから、神の側の真実としてある救済も平和も永久にあり得ないことになってしまう。啓示は歴史の賓辞ではない歴史が啓示の賓辞である「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、人間の歴史〔時間〕神的自由の行為としての啓示となることはできない」。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の時間、「イエス・キリストの現臨の出来事」、「われわれのための神の時間」は、常に、人間が人間的に所有する人間の歴史〔時間〕の<彼岸・外に>ある、<彼岸・外に>にあり続ける。したがって、両者を同一視したり混同したり混淆したり混合したりすることはできない。

 

()聖書が実際に起こったとして主張しているところのキリストにあっての神の啓示において、「問題的なものはほかならぬ古い世〔、時間〕の別種の働きであるすなわち、よしんばその代表者が洗礼者ヨハネと呼ばれようと、メシアを依然として待っていて、メシアがすでに来たことを受け入れようとしないところの古い世〔、時間〕の別所の働きである」。それに対して、「聖書が実際に起こったとして主張しているところのキリストにあっての神の啓示において、「無問題的公理的なものは神ガ語リ給ウタであるすなわち、『盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている』(マタイ一一・五)である。そのことに対して結局また過ぎ去ってゆく世〔、時間、「まことの過去」〕も、新しい世〔、時間、「まことの現在」〕の使徒の証言、『主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが〔「神の裁きの啓示」、律法、死を包括した「神の恵みの啓示」、「キリスト復活四〇日の福音」、生によって〕義とされるためによみがえらされたのである』(ローマ四・二五)と並んで、あの洗礼者ヨハネの人格の中でその証言を与えなければならないのである、『見よ、世の罪を取り除く神の小羊』(ヨハネ一・二九)」――この転換移り行きをテキストとして自分の前に持っていないところの者換言すれば新約聖書の中で新約聖書から見てまた旧約聖書の中ででもすべてのものが不断にただひたすら時間のこの転換についてそのようにして神の時間について語っているということにまだ気づかなかったところの者、あるいはこの転換について、そのようにして神の時間について語っているということにまだ気づかなかったところの者、あるいはまた何らかの理由でそのことをかたくとって離さないでいることができない者」は、「聖書が実際に起こったとして主張しているところのキリストにあっての神の啓示とわれわれの時間〔歴史〕の問題全体において通暁した仕方で共通に語ることはできない」、その時には、彼はたとえどういう否定的なあるいは肯定的な結論に達しようとも必然的に事柄を通り過ごして語っているのである」。このような訳で、「もしも人が実際に誠実な真理探究の中で新約聖書自身が始めているところで始めようとしないならば、そこでは、すべてのことはただ抽象であることができるだけである」。

 

() 聖書が実際に起こったとして主張しているところのキリストにあっての神の啓示が啓示である時人は〔「神はご自身を啓示し給う」という〕啓示を人間的な歴史〔われわれ人間の時間〕の最も深い意味および内容として自分勝手に見出し掘り出し造り出すことはできないということを見落としていた」。「もしも一般的な人間の時間と歴史が〔キリストにあっての神の特別〕啓示をわれわれに対して隠す覆いとして真剣に受け取られるならばその時には人は一般的な人間の時間と歴史をまさに〔十字架(死、「神の裁きの啓示」、律法)を包括した「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)(生、「神の恵みの啓示」、福音)としての「実在の成就された時間」によって〕打ち負かされた古いとして〔問題に満ちた、失われた、非本来的な、〕堕罪の時間として理解するであろうその堕罪の時間〔歴史〕を、人は、〔復活に包括された〕キリストの十字架の中で絶頂に到達したその恐ろしさと見通しのきかない姿の中で、すなわち啓示そのものの中で、換言すれば〔十字架、死、律法、「神の裁きの啓示」を包括した〕キリストの甦り〔生、福音、「神の恵みの啓示」〕の中で、覆いを取られることによって、事実とっくに脱落して<しまった>ということを知る時に、はじめて認識する」。したがって、「すでに古プロテスタント主義の正統主義者たちのところで好んで引用された『信仰の眼』についても、(中略)……その眼が取り除かれていなければ、結局はそれは盲目であり、その眼は、ただ啓示そのもの覆いを取る力のおかげでだけ見る目であるということを告白しなければならない」。神学における近代の問題は、「(昔のエルランゲン学派がなした)『救済史』について、……(M・ケーラーおよびその後に続いたP・アルトハウスのなした)『超歴史』について、……(F・オーフェンベックに組しつつ、残念ながら私自身もそうしたのであるが)『原歴史』について、あるいは『資格ある歴史』について語るところの、疑わしい仕方での骨折り」における問題、「啓示は歴史の賓辞であるという近代主義的神学を包括し止揚する問題である何故ならば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、聖書が実際に起こったとして主張しているところのキリストにあっての神の特別」「<啓示は歴史の賓辞ではない歴史〔われわれ人間の時間〕が啓示の賓辞である>」からであるしたがって、「先ず第一に歴史のことを語ることが起こるところでは、人は、〔「聖書が実際に起こったとして主張している」ところの、キリストにあっての神の特別「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>〔『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』〕に信頼し固執するという〕唯一の可能な服従の道を進んではおらず、むしろその不服従の下で解釈しつつ、価値評価しつつ、絶対化しつつ、自分自身の道を進んでいたに過ぎなかったということを自己暴露するのである」。

 

 キリストにあっての「『神はご自身を啓示し給うという命題を言い換えたものは〔その受難、死(十字架)、復活の出来事における「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」〕三〇年の間は〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」が存在するし、「神の言葉」が存在するところの〕成就された時間である」、「われわれの時間の中で実在の成就された時間である」。「その命題そのものの中で神が主語であるようにそこでは常に神が主語でありあくまで主語であり続けるそういう言い換えだけが正しい言い換えであることができる」。したがって、「人が、そこで別な主語を挿入するや否や、……例えば『史的イエス』についての記述という形式をとるや否や、『神はご自身を啓示する』という命題は、たちまち意味を失うのである。いずれにしても、その命題が、聖書の中で証しされている啓示に関して持っている唯一の独自の意味を失うのである」

 

 キリストにあっての神はご自身を啓示し給うという命題が含みを持っている独自の意味は次の三つの点にある」。

()神はご自身を啓示し給うという命題はそれが聖書の中で証しされている啓示と直面して語られている時には事実的なすでに出来事として起こった支配の行為を念頭に置きながら語られているしたがってそのことを語る者が身を引くことができないところの支配の行為を念頭に置きながら語られている」。「啓示の時間そのものと共に」、「〔われわれの〕時間は〔すなわち、人間の類の時間、人間の類の時間性、人間の類の時間累積、人類史、世界史、歴史、歴史的現存性は〕、またそのことを語る者の時間も〔すなわち、人間の個の時間、人間の個の時間性、人間の個の時間累積、個体史、自己史、現実的現存性も〕、自分の主人を見出したのである」したがって、「その〔われわれの〕時間は支配された時間となった」。したがってまた、「そのことを語る者は自分自身成就された時間によって限界づけられ規定された時間以外の別な時間をもはや持たないのである何故ならば、〔「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の成員としての全く人間的な〕彼は、〔人間としての〕自分の時間の中で、その成就された時間について知っているからであり〔認識し信仰しているからであり〕、その知識の中で、その成就された時間と同時的となり、その成就された時間の同時代人になり、それであるから、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエス・キリスト、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方である「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命された「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕預言者および使徒たちの同時代人となったからであるしたがって彼はまた成就された時間によって限界づけられ規定されていないような出来事歴史に対する展望を持たないのである。「〔問題に満ちた、失われた、非本来的な〕彼の時間、すなわちわれわれの時間<と>成就された時間の間には、今や彼にとって、正確な<ひっくり返すことのできない神の時間とわれわれの時間の間の上下関係>が成り立っている」。「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その外在的本質である第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエスキリストがわれわれ人間に対して、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕聖書および〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教を通して同時的となる時と所、『神われらと共にが神ご自身によってわれわれに語られるところにおいてはわれわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認するしたがってわれわれは歴史社会をその中でキリストが生まれ死に甦られたところの世歴史社会として承認し確認する自然の光の中でではなく恵みの光の中でそれ自身で閉じられかくまわれた世俗性は存在せずただ神の言葉福音〔神の恵み〕、神の要求〔、要請、命令〕、判定〔神の裁き〕、祝福によって問いに付されただ暫時的にだけただ限界の中でだけれ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」。この神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける啓示の場所は、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学におけるキリストの「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所であるし、われわれの人間の個と現存性―われわれ人間の類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である。このような訳で、「われわれがイエスキリストの啓示の支配の行為に基づいて、〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下の秩序性の下で、起源的な第一の形態の神の言葉である〕キリストと同時代人であるならば、〔その起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の成員の〕われわれは、〔第二の形態の神の言葉である〕その使徒たちの同時代人として、<キリストを想起しつつこの〔現存する〕われわれの時間をただ失われた時間換言すれば原理的にすでに過ぎ去ったただその過ぎ去りつつある中で実在的な古い世の時間として振り返り見ることができるだけである〔言い換えれば、啓示認識(啓示信仰)することができるだけである〕」――このような時間が、「それにも拘らずかかるものとしてなお依然としてまたわれわれの時間である限りその予言者たちと共にキリストを待ち望む〔復活されたキリストの再臨、「完成」、終末を待望する〕>こと、「この時間の中でわれわれの事柄である」。「われわれは、啓示の時間とわれわれの時間の間のその上下関係のために弁護する必要はない、〔何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、〕われわれがその上下関係を基礎づけることはできない、またわれわれがその上下関係を自分で基礎づけようと欲してはならない、啓示の時間とわれわれの時間の間のその上下関係は〔啓示の時間〕自らが語ってくる〔からである〕」。「自由、主権は、神ご自身においてのみ実在であり真理である」ことからして、イエス・キリストにおける神の自己「啓示は、神的自由の行為である。したがって、〔「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「われわれのための神の時間」としての〕啓示が、〔われわれ人間の〕時間的な歴史的な啓示であるということは〔換言すれば、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」としての啓示であるということは〕、啓示の自由を除去しないそれどころかむしろまさにその時間性と歴史性の中でこそ啓示は自由でありそれ故に人間的な解釈と価値評価の対象ではないのである」。われわれは、「啓示を、時間と歴史の(人間的なアプリオリではなく)、神的なアプリオリの背景の下に、必然的であるとして理解する」。したがってわれわれは十字架(死、「神の裁きの啓示」、律法)を包括した「キリスト復活の四〇日」(生、「神の恵みの啓示」、福音)としての「成就された時間」を、すなわち「まことの過去とまことの未来」を包括した「まことの現在」としての「『成就された時間成就からして理解するのであって決して時間からして理解するのではない時間は、〔「神の支配的行為」としての〕成就された時間の中では徹頭徹尾それの成就の故に、〔十字架(死、「神の裁きの啓示」、律法)を包括した「キリスト復活の四〇日」(生、「神の恵みの啓示」、福音)、すなわち「まことの過去とまことの未来」を包括した「まことの現在」に支配された〕現にあるところのものである」。

 

() 神はご自身を啓示し給うという命題はそれが聖書の中で証しされている啓示と直面して語られている時には神的主権の行為に逆らう人間的な反抗同様に事実的なそのことを語る者が自分もそれにあずかっておりそこで自分も共に責任があることを知っているところの人間的な反抗を念頭において語られている」。すなわち、「啓示の時間そのものと共に」、「〔われわれの〕時間は、またそのことを語る者の時間も、自分の主人を見出したのである」。したがって、「その〔われわれの〕時間は、支配された時間となった」。したがってまた、「そのことを語る者は、自分自身、成就された時間によって限界づけられ、規定された時間以外の別な時間をもはや持たない」し、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」と「われわれの時間の間に上下関係が樹立された」ということ――「このことを知らない者は、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕その者が神はご自身を啓示し給うという命題を口まねして語るとしてもその者は、自分が何を語っているかを知らないまた同様に、……その本来的傾向と能力からして〔例えば、生来的な自然的なわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟が類的機能を持っていることからして、〕その限界づけと上下関係をすすんで身に受けることがどうしてもできないということを知らないならば、「最後的な真剣さをもってその限界づけと上下関係に対してあくまで反抗してやまないということを知らないならば、「彼は自分が語っていることについて何も知らないのである」。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、キリストにあっての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もというわれわれ人間の不信仰・無神性・真実の罪(『福音と律法』)を認識できるのは、まさにイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる啓示認識(啓示信仰)、信仰の認識としての神認識、人間的主観に実現された神の恵みの出来事においてである。「われわれが本当に神の啓示を認識する時われわれはそのような人間としての自分自身を認識するのであるすなわち神の敵としてのわれわれ自身を認識するのである神の敵としてのわれわれと出会うこの出会いの中で神の啓示は実在である神の啓示がこの出会いの中で実在であるということの中で神の啓示の隠れは基礎づけられている」。「イエス・キリストは、啓示を遂行するみ子として、『罪人らのこのような反抗を耐え忍んだ方』である(へブル一二・三)」。「その光は、『闇の中に輝いている』(ヨハネ一・五)」。「ぶどう園の主人がその愛する子を送った時、そこではじめて農夫たちの反抗は原理的に決定的になった、『あれは跡取だ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ』(マルコ一二・七)」。「新しい世〔、時間〕としてのイエス・キリストに相対して、古い世〔、時間〕が、アダムの罪が、その本来性にまで来るのである。啓示だけが、アダムの罪をその本来の姿にもたらすのである〔アダムの本来的な姿を暴露するのである〕。アダムの罪を、まさに啓示に対してこそ抵抗し、それ故にまさに啓示よりももっと隠れたものはあり得ないその全体性の中で明るみに出すのである。まさに啓示に対してこそ人間全体が反抗するまさに新しい成就された時間〔、世〕に対してこそ必然的にまさにわれわれの時間〔、世〕こそが抗争する何故ならばわれわれ自身こそが新しい成就された時間〔、世〕に対して抗争するからである」。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「啓示に対してはじめてそして啓示に対してのみ人は躓くことができるいや啓示に対して人は躓かざるを得ないのであるわれわれ人間の時間の中での神』、『歴史の中での神』――これこそ啓示の躓きとなる点である。ここで、神それ自身は躓きではない。また、時間それ自体も躓きではない。しかし、時間の中での神ということが躓きなのである。〔何故ならば、「問題に満ちた非本来的なわれわれの時間〔、世〕のまっただ中での成就された時間〔新しい第三の時間、すなわち問題に満ちた非本来的なわれわれの古い時間〔、世〕を攻撃し否定する成就された時間〕は、「われわれの時間〔、世〕われわれの時間の中に侵入してきたわれわれの敵であることからして、われわれは、少なくともそれを取り除いてしまわなければならない、あるいは少なくとも骨抜きにしてしまわなければならない、あるいは少なくともわれわれの目から隠してしまわなければならない中心である」からである〕」。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕によっては』――全く信じることができないことを知っておりそれを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみあるところの、主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(イエス・キリスト<>信ずる信仰)、このように「われわれのために、全く端的に信じ給うた」イエス・キリスト〕『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。「エルサレムの議会そのものについてではなく、この世の支配者たちについて、パウロは、彼らは栄光の主を十字架につけた、と語った(Ⅰコリント二・八)『わたしに躓かない者は幸いである』(マタイ一一・六)。しかし、洗礼者ヨハネでさえ躓いたところで、一体誰が躓かないでおられようか。躓きは必ず来る(マタイ一八・七)。罪の誘惑が来ることは避けられない(ルカ一七・一)。今夜あなたがたは皆わたしに躓くであろう(マタイ二六・三一)ここでまさに自分を例外だと見做すところの者こそ、『あなたは三度わたしを知らないと言うだろうと言わなければならないのであるすなわちキリストがその上にご自分の教会を建てようとされる……ペテロこそがそう言わなければならないのである(マタイ二六三四)」。このような訳で、われわれは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を必要とするのである。

 

 人が〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での「三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)」における神の第二の存在の仕方における〕啓示、『時間の中での神に対して躓くということが避けられないことであるが故にあのイザヤ的パウロ的僕の姿〔しかし、神の第二の存在の仕方における「神の言葉の受肉」、「神が人間となること」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠しを意味している」〕現にそのような姿の中で成就された時間〔その受難、死(十字架)、復活の出来事における「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」〕三〇年の時間であるあの見栄えのしない見分けにくい姿なのである」。神の啓示メシヤの出現それであるからメシヤが拒否されるということは徹頭徹尾イスラエル的な事件であったしかしちょうど神の啓示がまさにこの神の啓示に基づいてこそ普遍的な事件となったようにイスラエルによって啓示が拒まれ捨てられる啓示の拒否という特殊的犯罪にあずかる普遍的な参与がある〔ちょうどヨハネ81以下にある「(中略)律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ」、「イエスを試して」、イエスに、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と「しつこく問い続けるので」、イエスは、「あなたたちの中で<罪を犯したことのない>者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた時、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」というイエスの言葉は、それが人間論的な自然的人間であれ、道徳家であれ、法律家であれ、医者であれ、教育者であれ、慈善家であれ、知識人であれ、宗教家であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、<全人間の内面の普遍性>に届く言葉であるように、またちょうどキリストにあっての「神に敵対し神に服従しない」全人類において、イスラエルによって啓示が拒まれ捨てられる啓示の拒否という特殊的犯罪にあずかる普遍的な参与があるように〕」。「この拒否は至る所で起こっている。……すなわちわれわれが、〔「啓示の躓きを取り除く」ために、生来的な自然的なわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使するという仕方で、〕すでに〔イエス・キリストにおける神の自己〕啓示以前に、〔イエス・キリストにおける神の自己〕啓示なしにも決定的なことを知っておりそれを手がかりとしてわれわれが判断し評価し基礎づけつつ啓示に対しても自由に処理することができると考えるところの価値概念の図式をもって啓示の実在を理解しようとするところでは至る所で起こっている」。それと共に、「奇妙な仕方ですなわち自分の時間をキリスト誕生以前と誕生以後に従って教えることはするが実際はキリストなしであり啓示なしであるところの、〔それ故に、「世俗的な」〕唯一の全能な世界時間世界実在世界歴史の絵が、……そしてそこでは文化史民族史戦史芸術史と並んで確かに宗教史と教会史はあるが、……『神の大いなるみ業の歴史〔すなわち、神性を内在的本質とする神の「三つの存在の仕方」、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第二の存在の仕方、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、「新しい第三の時間」〕が存在しないところの世界史が、〔それ故に〕そこではキリスト出現の時が本当に意味で時期を画しておら>、むしろ〔世界史的な〕『キリスト教の発生の時としてそのすべての特別な性質を持ちつつも結局はすべてのほかの時間と同じ時間である世界史が発生してくるのである」。キリストにあっての「神が、まさにご自分に対して反抗してやまないこの人間を拒否されず、むしろこの人間の反抗を通して準備された隠れを取り上げられるということ、神がわれわれに対してまさにそのような仕方でこそ、まことに<われわれに対して現臨する>ことを欲し給うということこそが、神の啓示の深みである」

 

() 神はご自身を啓示し給うという命題はそれが聖書の中で証しされている啓示と直面して語られている時には事実そこで起こっている奇蹟〔すなわち、啓示に属するところの、「神の時間、啓示が、われわれの時間、歴史の中で出来事となる形式」としての奇蹟〕古い時代〔、世〕のただ中で新しい時代〔、世〕が出現するという特別な新しい直接的な神の行為の出来事として起こっている奇蹟を念頭において語られている。「奇蹟は聖書の中では、……非常によく理解できる出来事、……まさにただ時間および歴史の中での神の特別な新しい直接的な行為の指数として理解できる出来事である聖書の中で証しされている啓示は、それが時間的に歴史の中で出来事となるという形式において〔すなわち、それが時間的に歴史の中で、神性を内在的本質とする神の「三つの存在の仕方」、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における第二の存在の仕方、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、「新しい第三の時間」となるという形式において〕、常に奇蹟であり、それ故に啓示についての証言は、直接的あるいは間接的に、常に出来事として起こった奇蹟についての報告である。したがって、奇蹟は啓示に属している」。したがってまた、何ら躓きとならないところのわれわれの現実存在われわれの時間と歴史は奇蹟なしである」。しかし、キリストにあっての啓示に属する「奇蹟は、そのほかの時間に相対しての啓示の時間の限界を表示している」、すなわち躓きとなるキリストにあっての神としての神の現実存在がわれわれの現実存在のためにそこにあるということ神がわれわれのために時間を持ち給うということわれわれの時間のただ中に神の時間が存在するということ」――このことは、「<躓きとなるのでありそして奇跡として明らかになるということである」。

 

 イエス・キリストにおける神の自己啓示としての特別啓示はただ奇蹟の形でのみ理解されることができるということは新約聖書の証言に従えば、<死人の中からのイエスキリストの甦りの中での啓示であるということから結果として生じてくる」。「もしも啓示が神的な支配の行為であり、しかもまさに啓示に対してこそ神の敵として出会わなければならない人間に対する、すなわち光を悟らなかったし悟ることができない闇でしかない人間に対する神の支配の行為であるならば、当然その結果として続いてくることは、もしもそれにも拘らず啓示が実際に起こるならばそれはただ奇蹟の形でのみ起こることができるということである」。したがって、もしもそれにも拘らず誰かが神はご自身を啓示し給うと告白することが出来事となって起こるならばそのことはただ実際に起こった奇蹟をそのまま認め告白することができるだけである〔すなわち、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、啓示に属するところの「神の時間、啓示がわれわれの時間、歴史の中で出来事となる形式としての奇蹟」をそのまま認め告白することができるだけである〕」。何故ならば、「そうでないとしたら、彼は、神的支配の行為を通して造り出された神の時間とわれわれの時間の間の上下関係を取り除いてしまい、両者を同等のものとしてしまうことになる」からである。したがって、「啓示が持っている奇蹟としての性格を弱めたり、ごまかして取り除いてしまおうとするすべての努力は、原則的に拒否されなければならない」。イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」時には、「存在するものそのもの、その純然たる造られた存在に依拠したアウグスティヌスの造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という「存在の類比」(典型的に、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」における「存在の類比」)に依拠した「『自然』神学」の段階における思惟と語りになってしまう、「そのような三位一体の跡は、世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」から、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって「内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論でしかない」ものとなる、また、「そのような三位一体論は、人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解、神話である」。バルトは、また『カント』で、次のように述べている――「『自然』神学」の段階における「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」。また、近代主義的プロテスタント主義的神学が、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」時、それは、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しないで、視覚的錯覚に基づいている」からである、「存在の類比」に、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に基づいているからである。その時には、「和解に関して言えば、<赦す神>が人間に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかないものとなる」、「イエス・キリストは、下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想という単なる空虚な概念でしかなくなってしまう」。

 

 「〔「悲劇的な経過をたどった」「史的イエスhistorishe Jesusを扱う〕『<イエス伝研究>』、すなわち聖書のいわゆる歴史的批評的考察が啓示に対して終始奇蹟の性格を帰しているところの聖書からまさにその性格を取り除いてしまいイエスキリストにおける神の自己啓示を神の自由な特別な直接的な行為からではない仕方で理解することができるであろうような実在を苦労して引き出して来〔すなわち、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物である人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」を引き出して来〕」、そしてその実在こそが、「本来的に意図されているものだとして示そうとすることの中に見て取ろうとする時神学的にはもちろんのこと人間学的にも注目に値するものであることを止めてしまう」。このことは、「最も穏健的な保守主義から最も空想力豊かなあるいは最も空想力に乏しい『高等批評』に至るまで、あらゆる変種の中で企てられた試み、一連の結合、補充、また特に削除という手段によって、単に人間としてのイエスの姿、いわゆる『史的イエス』を、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その第二の存在の仕方における神の言葉の〕受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」は、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、その受難、死(十字架)、復活の出来事<全体>における出来事であるにも拘らず、そのことを堅持しないで、木を見て森を見ないという仕方で、形而上学的にその人間という側面のさらにある側面だけを抽象し固定化し全体化したところの〕一-三〇年において、おそらくは<妄想に近い熱狂家>として、また<崇高な宗教的―道徳的人格>として、また尋常ならざる、いや独一無比の賜物を賦与された<超人>として、そしてまさに<根本的には人間>として、〔それ故に〕われわれ自身の時間に属する仲間として、生きたところのいわゆる『史的イエス』を、新約聖書からむき出しにして表そうとする試みについて言われなければならない」バルトはこのような時代状況の中で著されたマルティンケーラーの著書いわゆる史的イエスと歴史的聖書的キリストの中で語られていることはいくら賛めても賛め過ぎることない永続的な功績であると述べている――ケーラーは、そこで、「福音書は、証言であって、証拠書類ではない」ことからして、「歴史的な基礎づけと実在の歴史的なキリストは、聖書的な、新約聖書の著者たちによって証しされたキリスト以外の何ものでもない。言い換えれば、〔神の第二の存在の仕方における言葉の受肉、〕肉となった言葉、甦られた高揚された方、それが弟子たちの信仰の対象であるところのその和解の行為の中での啓示された神以外の何ものでもないという注釈的―教義的な基礎づけをもって」、「われわれは、イエスの生涯に関して、歴史研究家が信頼できるし十分であると見做すことができるような資料を決して持っていない」が故に、「『イエス伝運動』全体を、歯に衣きせぬ言い方で、『邪道』だと呼んだ」。このような訳で、「歴史的―批評的聖書研究が、歴史的学問の立場から見ても、神学的学問の立場から見ても、……新約聖書の背後に想定された空虚な空間の中で史的イエスの幻影を追い求める代わりに、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の歴史の中で実在したキリストの研究と記述を追い求めた」ならばすなわち「奇蹟から遊離した奇蹟なしの啓示を自分の目標としなかった」ならば「新約聖書の証言そのもののできる限り正確な、また多岐ににわたる理解に対して役立とうと欲することができたであろう。言い換えれば、それによって、暗闇から驚くべき光に神がわれわれをを招き入れてくださったその驚くべき光(Ⅰペテロ二・九)を証しするのに役立とうと欲することができるたであろう」。

 

「『神はご自身を啓示し給うという命題が出来事として起こった奇蹟に対する告白であるということは確かに聖書の中で物語られているすべての奇蹟を盲目的にまことであると見做すことを意味していない」。何故ならば、第二の形態の神の言葉である「聖書の奇蹟は、言うまでもなく、ただ聖書の中で証しされている啓示の奇蹟の<しるし>でしかない」からである〔言い換えれば、それは、最初の、起源的な、支配的な<しるし>」である「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「啓示ないし和解の<概念の>の実在」(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについて尾言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉であるその「最初の直接的な第一の<啓示のしるし>」であるからである〕」。したがって、「われわれに対して、実際に、聖書の中に書かれているすべてのことを、おしなべてまことであると見做すように委任が与えられているのではない。むしろわれわれが聖書の証言を事実聞くところで聞くようにとの委任が与えられているのである」。出来事として起こった奇蹟としての啓示を告白するということは、……『神はご自身を啓示し給うという命題が徹頭徹尾感謝の命題でなければならずそこで弟子たちが甦られた方と出会った時の驚きがそのまま繰り返される全くの驚きの命題でなければならないということは〔あのイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられるそれであって、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能を駆使して〕習得し所有し理解し知るようになったという自己意識と優越感の命題では決してあり得ないということを意味している」。「われわれは、歴史の中での啓示に対して、常に繰り返し、針の穴をくぐることができないラクダのように、相対して立っている。『人にはそれはできない……』(マタイ一九・二四以下)。言葉ハ肉トナリ、知恵ハ肉体トナッタ。ソレ故ソレハ、隠サレテイテ、霊的理解ニヨラナケレバ近ヅクコトガデキナイ。ソレハ、キリストガ啓示ニヨラナケレバ認識スルコトガデキナイノト同様デアル〔すなわち、われわれは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を必要とする〕」。「しかし神には何でもできないことはないまた、神の啓示が、見通しがきかないほど濃くめぐり囲まれているところの隠れ、僕の姿、躓きというものも、神にとっては何の障害も意味していない啓示が起こるところ、そこでは、啓示は、……われわれの洞察や技術という手段を通して起こるのではなく、神が、われわれのために自由であり給い、われわれをわれわれ自身から自由にするところの、換言すればそれとしては光を悟ることができない闇の中で、われわれをその光で照らし出すという神が持ち給う自由の中で、啓示は起こるのである」――「この奇蹟の中ですなわち〔「キリスト復活」から「復活されたキリストの再臨」(「完成」、終末)までの「聖霊の時代」、「中間時」に現存する〕われわれがそれを事実起こっているとして承認しそれをただそれが神のみ手を通して起こるままに神のみ手から受け取るだけである奇蹟の中でわれわれにとって神の国は来るのであるしわれわれにとってこの世は過ぎ去ってゆくのであるこの来ることと過ぎ去ってゆくことの中で聖書が啓示と呼んでいるところの運動が、〔イエス・キリストにける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で〕われわれにとって出来事として起こる」。

 

われわれはその十字架、死(「神の裁きの啓示」、律法)を包括した「キリスト復活四〇日」(生、「神の恵みの啓示」、福音)としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」――この成就された時間神の時間が、<われわれのための時間であるということから出発した」、その時堕罪によって堕落した非本来的な否定的判決の啓示から攻撃された」「われわれの時間は成就された時間を通して限界づけられ規定された時間である」。このような訳で、「われわれの時間は、その全く別な時間といわば隣り合わせに存在している、この全く別な時間のしるしの中に、そしてまた全く別な時間の光の中に立っている」。われわれの時間が「堕落した非本来的な時間であるが故に、その時、われわれの時間は、徹頭徹尾、その成就された時間によって、いわば凌駕され支配されている」。その時、「事実最も遠い過ぎ去った時間も、もっと未来的な時間も、その成就された時間と隣り合わせに存在しており、それであるから、何百年、何千年という隔たりも、カインとアベルの日も、われわれの日も、例えば使徒ペテロの日が成就された時間によって限界づけられ支配されているのと同じ意味で、同じ力で、成就された時間によって限界づけられ支配されていることを妨げることはできないという仕方で、凌駕され支配されている」

 

 「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「成就された時間においては、地は、全地を穹窿状におおっている天とまさに一つなのである」、「あなたの目の前には、千年も過ぎ去ればきのうのごとく、夜のひと時のようです(詩篇九〇・四)」――このように語りかけ給う神はもちろん永遠の神であるこの神はギリシャ人の無時間的な神々ではなく時間の中でご自分を啓示し給うイスラエルの契約の神である無時間的なものである神の前ではなく、全く時間的に啓示される方であり給う神の前で、千年は一日のようである。(中略)また、神の名についてのあの福音書の理解も、ここのところに属している、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神……は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である』、人はみな神に生きるものだからである」。

 

 さて、「<われわれの時間〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての〕実在の成就された時間を通して規定され>、<限界づけられているということが何を意味しているかということは次の四つの観点から説明することができる」。

()成就された時間はまことの本来的な時間としてわれわれのまことでない非本来的な時間の代わりに入ってくるわれわれが時間という時われわれが言おうとしていることはそこで実在的な時間なのである」。このような訳で、「われわれはわれわれの実在に時間をここに持っているのではなくそこに持っている聖書がそして聖書の使信の宣教がわれわれをわれわれの時間からその時間の中へと換言すればイエスキリストの時間の中へと召し移す時そのことは決して建徳的な思想の遊戯ではなくわれわれの生にとって最も欠かすことのできない滋養の摂取であるこの〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕預言者および使徒たちの証言を通して仲介されたキリストとの同時性の中でだけわれわれは実際に時間を持っているこのような時間み国が来この世が去ってゆくことの中でのその現臨これこそまことにわれわれの時間神の啓示としてわれわれにリアルに贈り与えられた〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、すなわち「実在の成就された時間」としての〕時間である」、「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にまさるのです(詩篇八四・一一)」。

 

()「〔われわれが時間として知っており持っていると思っているところのわれわれの〕時間が、〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、われわれのための神の時間」、「まことの過去とまことの未来」を包括した「まことの現在が存在するし、神の言葉がある」ところの、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、実在の成就された時間」としてのイエス・キリストにおける神の特別〕啓示を通して成就されたということは徹頭徹尾比喩的な意味ではなく全くリアルな意味で、……われわれが時間として知っており持っていると思っているところの時間がわれわれから取られてしまっているということを意味している」。「われわれが『時間』ということを語る時、われわれは語っていることを全く知らないということ、われわれは、まさにわれわれが知っており持っていると思っているものの中で最も自明的なもの、すなわち時間を、実は全く持っていないということである」――このことを、「いかなる哲学的な懐疑も、時間概念の難問についての発見も、確認させてはくれないのである」。「啓示はそのような見せかけを打ち壊すそのような見せかけを不真実として仮面をはいでしまいその限りわれわれからわれわれが知っており持っていると思っているわれわれの時間を奪い取ってしまう啓示はまさにはじまりつつある恵みの時間として一般的な時間の(その時間の中に急に入り込んで来た)危機であるまさにそのことによってこそ啓示の躓きが発生するのである」。「啓示がわれわれに出会う時には、われわれの時間の、そしてまたわれわれの時間の中で実在するすべてのものの終わりである」ことからして、「われわれが死ぬほど驚愕させられるということはまことに正しいと言わなければならない」。「われわれは啓示された神と並んで富に仕えるためのいかなる時間も持っていない、「その啓示の中での神は、『時と季節を変じ>』(ダニエル二・二一)る方であるから、「あなたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない(マタイ六・二四)」。「『わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた』(詩篇一三九・一六)、あるいは同じことを否定的な言い回しで表現された『わたしは煙のように消え』(詩篇一〇二・四)」という「それらの言葉を書いた者が、イスラエル人であってギリシャ人ではなかったということを明らかにするならば」、われわれは、その言葉の中に、「決して抽象的な時間思弁ではなく、われわれの日を処理することは啓示された神によってわれわれの手から取り上げられたのであり、実際にわれわれの時間は神のみ手の中にあるという厳しい具体的な認識を見出すのである」

 

() 〔われわれが時間として知っており持っていると思っているところのわれわれの〕時間が〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、われわれのための神の時間」、「まことの過去とまことの未来」を包括した「まことの現在が存在するし、神の言葉がある」ところの、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間の中で、実在の成就された時間」としてのイエス・キリストにおける神の特別〕啓示を通して成就されたということはわれわれの時間がまだ取り除かれることが実行に移されること意味しておらずただわれわれの時間が取り除かれるということの告知をあるいはわれわれの時間が取り除かれることがすぐ目前に迫っているということを意味している」。「われわれの時間が取り除かれるということは、神的真理の全き真剣さと重み全体をもってまことである」――このことは、「啓示の中で、可能な限り最もリアルな仕方で起こっており、われわれに出会う、またわれわれに出会っており、われわれの時間を限界づけ規定している」。この謎的なものが成就された時間と並んで成就された時間に相対して存在している――このことは、「万物が避けられない仕方でわれわれの時間の終わりに向かって進む進行は引き止められており、いずれにしてもまだ実現された事実ではないということを意味している」。ここで問題となっていることは聖書の中では比較的稀にしかはっきりと言葉に出して述べられていないところの神の忍耐という概念である」。「ヨエル二一三詩篇八六一五一〇三一四五八――ここでは、『怒ることおそく(忍耐強く)ということが定まった言い方として契約の神の典型的な属性、『あわれみありおよび恵みありと並ぶ第三の属性として述べられている」。「人は、人間が神の啓示と並んで、神の啓示から離れて持っている時のことが、神の忍耐の時として記述されているところのローマ二・三、三・二五以下に、またパウロが同様に意味で自分のことをキリストの忍耐の対象として記しているⅠテモテ一・一六に注意を向けなければならない。人は、主の忍耐について述べているⅡペテロ三・九、一五に注意を向けなければならない。とりわけノアの物語の結末、創世八・二〇、-九・二九に注意を向けなければならない」。啓示が、<まだ〔復活されたキリストの再臨、「完成」、終末としての〕救済でない限り換言すればまだ神の国そのものが入ってくるということではなく>、ただ神の国そのものが近づいたこと(マルコ一・一五)である限りそれであるからまだキリストは父の栄光のうちに(マタイ一六・二七)来たり給うわけでない限り、<まだ神の新しい時間〔、世〕唯一の時間〔、世〕ない限り啓示そのものの中での忍耐すること>、万物の終わりを招来せずに引き留めておくこと自分をあのように制限することが起こっている限り換言すれば成就された時間と一般的な時間がともども並んで保持されているということが起こっている限り」、「神の時間はその時間を通してわれわれの非本来的な堕罪した時間が保たれその正体が暴露された不可能性全体の中でなお依然として繰り返し可能とされるという意味でも、「神がわれわれのために持ち給う時間である」。この限り、われわれの人間の時間としての「世界史全体は、実にイエス・キリストの中で啓示が起こったが故に、起こったし、起こるし、起こるであろうということである」。「<神の>時間を持ち給うことの中で効果を現わしてくる神の恵みおよびいつくしみに対して」、「神の自己卑下と自己疎外化」としての「この卑下に対応した立場をとるようにとわれわれに時間を、しかも<われわれの>時間を、換言すれば信じて悔い改めをなすための時間を許容するところの<神の忍耐>が対応している」

 

()時間がイエスキリストの中で成就されたのであればその時われわれは、……われわれが神の忍耐に基づいてなお持っているところの時間をもはや無限に続く時間としてではなくむしろ有限な時間として理解することができるだけである」。この時、「そのような時間に対して、終わり〔終末、「完成」、復活されたキリストの再臨〕がすでに告知されている限り、終わりからして」であり、「そのような時間が、そしてそのような時間と共に、われわれの時間が何時の時にか実際に終わりを見出さなければならないことが神の忍耐ということの中に含まれている限り、終わり〔終末、「完成」、復活されたキリストの再臨〕に向かっている」。「啓示に出会うならば、〔「ただ啓示に対して無知なあるいは啓示を忘れてしまっている時間意識にとってのみ存在する」〕無限に続く時間という神話は壊れてしまう」。それに対して、「啓示を知っており、啓示を忘れないでいる時間意識は、決して無時間的な意識ではなく、時間でもって満たされ時間にかなった意識である。しかし、このような時間意識にとって時間は啓示の言葉が現臨する中でわれわれが〔その起源があり終極がある〕時間〔その十字架(死、「神の裁きの啓示」、律法)を包括した「キリスト復活の四〇日」(生、「神の恵みの啓示」、福音)、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」に限界づけられ規定されたところの、人間の類―その人間の類の時間性、類の時間累積、人類史、世界史、歴史、歴史的現存性<と>それに不可避的に強いられた人間の個―その個の時間性、個の時間累積、自己史、個体史、現実的現存性〕と呼ぶところのものが間断なく過ぎ去ってゆくことであり神の時間〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストの時間、「時間の主の時間」、復活されたキリストの再臨、終末、「完成」〕が間断なくやってくることである」。この時間意識は、「実際に今そこでは実在の成就された時間に直面して神の忍耐の時間以外のほかの時間をもはや持っていない」。「『人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子にお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない』(コヘレトの言葉三・一-一一)。人間のなすすべての業は、<それの>時間を、まさにただそれの時間だけを持っており、それであるから、それは、決して神が人間の心に授けられた永遠にかなうところの対応ではなく、それ故にそれは、永遠の業ではなく〔すなわち、永遠性を内在的本質とする神のその存在の仕方における業ではなく〕、神ご自身が、神のみが<その>時にあってなし給う比較を絶した業によって境界をめぐらされているということ、そのことが、その時間意識を特徴づけている」。「さらに、その続きにおいて、『わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生をおくることだ』、また『人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物である』(三・一二-一三)と言われている時、人は、……快楽主義の限界をかすめているこの告白は、コヘレトの言葉およびそのほかの旧約聖書の脈絡の中で読むならば、そして旧約聖書が新約聖書と関連している脈絡の中で読むならば、〔「実在の成就された時間」としての〕神の現在によって実際に震撼させられた時間意識および生活意識の最も鋭い表現として、そのようなものとして理解されなければならないということを見落としてはならないのである」このことは、「新約聖書においてはそれと同じ時間意識が一方においては、<堅忍(このギリシャ語原典をルターは忍耐と訳した)という概念の中で他方においては目を覚ましているという概念の中で圧縮されているこれら両方の概念は共に神の忍耐という概念に対する正確な対応をなしている」。「<耐え忍ぶこと、キリストにあって原則的に完結されたが、しかし、われわれに対して〔<神の忍耐>によって〕なお許容されている時間の中で、決然と<持ちこたえること>である言い換えれば、耐え忍ぶこと人を圧迫し誘う内容全体に対して終わりがあるということでもって自分を慰めることが大切でありそれに対して終わり、われわれの忠実さ貞節を要求してくるそういう人を圧迫し誘う内容全体をもった、キリストにあって原則的には完結されたが、しかし、〔<神の忍耐>によって〕なお許容されている時間の中で、決然と<持ちこたえること>である」。「それに対して目を覚ましていること、……われわれに対してわれわれの時間はまさにただ〔<神の忍耐>によって〕許容されているだけであり、実はそれはキリストにあってすでに原則的に完結されており、それであるからいつ終わりがやって来るかもしれないのであり、それ故にそのような時間の中でのわれわれの存在は、必然的にいつも裁き主の前で弁明できるように用意ができている者でなければならないということに対して、絶えず注意を向けていることである」。このような「時間意識の中で新約聖書の<教会>は生きるのであり、それは、〔復活されたキリストの再臨、「完成」、終末を〕『待ち望むもの』〔「待望」するもの〕および『急ぐもの』(Ⅱペテロ三・一二)の教会である」。「<また>、この教会の中で、宣教(ケリグマ)、洗礼、聖餐、訓戒、医し、信仰、義認が何を意味しているかということ、『使徒』とは何であり、『聖徒たち』とは誰であり、聖霊の『賜物』の性質は何であり、何故『奇蹟』と『しるし』という概念は共に属し合っているのかということ、そしてそのほかさらにいくつかのことは、いずれにしても新約聖書の時間意識からして説明されなければならないし、事実説明される」

 

(文責:豊田忠義)