2の2.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中> 言葉の受肉新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」 十四節 啓示の時間 二 待望の時間「旧約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間」』について

 

 「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子――この「啓示」・「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」)、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、すなわち「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」である。このことからして、「イエスキリストの啓示の待望についての証言の時間旧約聖書の時間は〔すなわち、「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての旧約聖書の時間は〕、例えば一般的に人が紀元前および紀元後として呼んでいるキリスト降誕前の時間のことではなくそのようなわれわれの時間の中で出来事として起こっている特定の歴史の時間すなわち〔客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての実在の〕成就された時間の以前の時間のことなのである何故ならば〔『啓示は歴史の賓辞ではなく、歴史が啓示の賓辞である』ことからして、〕啓示そのものは〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕歴史の最後的な継続先端であり同時に目標であってそれ以外の何ものでもないからである」。「実在の成就された時間」としてのあの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としてのイエス・キリストの「啓示の時間は、その「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕歴史の時間の成就の時間として神の唯一の啓示の一回的な出来事としてその〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕歴史の時間と全く異なっている>」。しかし〔客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としてのあの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」――このイエス・キリストの〕啓示の時間〔区別を包括した単一性において、〕その〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕歴史の時間の実在の成就の時間としてその〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕歴史の時間と密接に<関連しており>その特定の歴史の時間と結びつけられている>」。客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としてのあの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」――このイエス・キリストの「啓示の時間以前の時間が、<旧約聖書の時間あるいは〔イエス・キリストの〕啓示の待望についての証言の時間である」。したがって、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時の時間」を含めて「この〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕以前の時間は、実在の成就の時間に共に属している」。したがってまた、「この〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕以前の時間は、全く別な時間であるが、しかし、実在の成就された時間に付け合わせられている」、「同時にまた、実在の成就された時間」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時の時間」を含めて「この〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての特定の〕以前の時間について語ることなしに語ることはできない」。したがってまた、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としてのあの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」――このイエス・キリストの「啓示の時間の<待望の時間>として啓示の時間〔すなわち、「神の裁きの啓示」(「律法」、「死」)の時間〕である」。したがってまた特定の「『以前ということは〔すなわち、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としてのあの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」――このイエス・キリストの啓示の〕待望がまことであるところでは、『まだないということを意味しない――このことは〔「まことの現在」に包括された「まことの未来」としての特定の〕以後ということがキリストの復活と共に初まりただキリストの復活を想起する形においてのみある想起がまことであるところでは」、換言すれば、「新約聖書における啓示証言の時間、新約聖書の時間、〔第二の形態の神の言葉である〕使徒の時間であり、すでに出来事として起こった啓示から……由来していた歴史のことであり、実在の成就された時間である」ところの「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」と切り離せない仕方で結びついている<想起>の時間がまことであるところでは、新約聖書における啓示証言の時間新約聖書の時間〔第二の形態の神の言葉である〕使徒の時間の後に続く時間〔第三の形態の神の言葉に属する時間〕実在の成就された時間〔すなわち、「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」〕に属した新約聖書の信仰における想起の時間〔「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」〕聖霊降臨日の後の時間がまことであるところでは〔すなわち、第三の形態の神の言葉である教会の宣教(説教と聖礼典)が、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)に連帯し連続しているところでは〕、もはやないということを意味していないのと同様である」。このような訳でこの「<まことの待望まことの想起啓示の証言であるこの二つのもの、<待望想起〔単一性と区別において、区別を包括した単一性において、〕違っている〔相違し区別されているが〕、しかしそれらの内容においてそれらの対象においてそれらの証しされているものにおいて、<一つでありまたそれらにとって証しされているもの、……<復活されたキリスト>の再臨、すなわち終末、すなわち究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一の平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」を待望するところの、「まことの現在」に包括された「まことの未来」における特定の〕未来的なものおよび〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」における特定の〕過去的なもの』として、〔それ故に、「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」に包括されたものとして〕現在的であるという点においても一つである」。

 

 そのような訳で、旧約聖書は〔客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」――このイエス・キリストの〕啓示のまことの待望の証言であるキリスト誕生前の時代の中におけるほかの時間と比べて高く抜きん出させている〔すなわち、「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての旧約聖書の特定の時間、イエス・キリストの啓示の待望についての「その証言の時間を、啓示から見てあるいは啓示を念頭において」、「キリスト誕生前の時代の中におけるほかの時間と比べて、高く抜きん出させている」〕」。「イスラエルの歴史的な特殊性、特にその宗教史の特異性は、それ自体〔歴史的な〕一つの事柄である」が、そこに「旧約聖書の中で証言されている〔特定の〕歴史そのものにもともと含まれている自主独立的な意味」を見出すとすれば、「われわれは、ただ非本来的な意味で、……〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間である〕旧約聖書の中での神の啓示について語ることができるだけである」。われわれは、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間であるイエス・キリストの啓示」は、われわれ人間の時間である「歴史の賓辞ではない。歴史が啓示の賓辞である」。したがって、われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間である「啓示が、〔われわれ人間の時間である〕歴史の賓辞である」という思惟と語りをするならば、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」である「イエス・キリストの受難と死および復活」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」を待望するところの、「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての旧約聖書の特定の時間の中での神の啓示について語ることはできない、そのイエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間の中で証しされている旧約聖書の中での神の啓示について語ることはできない。すなわち、「啓示が歴史の賓辞である」という思惟と語りにおける啓示は、「神の啓示の問題を、まさに旧約聖書の中で承認し、例えばバビロン、ペルシャあるいは古ゲルマンの伝承の中で承認しないということが適当なことかどうかという歴史的な判断の領域の問題〔歴史的な比較考量の領域の問題〕」に転化されてしまうことになる。このような事情の下で、啓示として承認していると考えているところのものは、全く啓示ではない」。「啓示は、〔それが世界史的個人であれ、世界史的な民族的特性であれ、〕歴史的な実在に対して与えることができるあるいは与えないことができる賓辞ではない」。「われわれが、旧約聖書の中での啓示について語るならば、そこでは、旧約聖書にあるいは旧約聖書の中で証しされている歴史そのものに、固有な、あるいは〔民族的な〕特性のことが意味されているということはあり得ない。イスラエルの歴史は、確かにそれぞれの民族がそれぞれの民族の特性を持っているように、そのような特性を持っている」が、しかし、「その特性の故に、われわれは、旧約聖書の時間の中に、キリスト降誕前ノ時代におけるほかの時間と比べて見て、顕著に目立った時間を見て取るのではない」。旧約聖書の中での啓示は実際に啓示の待望であるあるいは待望された啓示である〔すなわち、イエス・キリストの啓示の待望についての証言である〕」。すなわち「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子――この「啓示」・「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「実在の成就された時間」としてのあの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、イエス・キリストの啓示そのものは旧約聖書そのものの現状態と内容の彼岸において起こるのである」。「そしてまた、一般的な、歴史的な標準に照らして測ってみて最も意味深い旧約聖書の現状態と内容の中にも、〔それが、ただ「同時に、啓示を指し示すその方向性から成り立っている限り」、〕われわれは、啓示を認識する〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で啓示を認識し信仰する〕」。この時には、われわれは、「旧約聖書を、それに対して厳格な意味で特殊性を帰することなしに、何ら神学的な強調なしに、古代オリエントの敬虔性の世界の内部でのそのほかのものの間での、注目に値する現象として理解することでもって満足する」。これと全く同様なことが後にまた〔客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」を想起する〕新約聖書の時間についてそして新約聖書そのものについても語らなければならない」。「そこで正確にはただ……啓示の待望が起こっており啓示の待望について証しされているということからしてだけ旧約聖書の実際の特殊性は成り立っている」。このような訳で、「旧約聖書の実際の特殊性は、ただ〔イエス・キリストの〕啓示からしてだけ、あるいは〔イエス・キリストの〕啓示を念頭においてだけ見られ主張されることができる」

 

 われわれは、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子――この「啓示」・「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、イエス・キリストの啓示からしてあるいは啓示を念頭において述べる時」、「そもそもこの概念を取り上げて遂行し口に出して述べる時〔われわれ人間の時間、われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、〕歴史の中で起こった〔客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、イエス・キリストの〕啓示そのものの隠れについて〔すなわち、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における神の<言葉>の「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」――この啓示そのものの隠れについて〕そこで表現されている奇蹟について語られたすべてのことを思い出さなければならない」。イエス・キリストの「啓示は、決してそこからしてあるいはそこに向かって、しかじかのところに啓示のまことの待望が<ある>ということを確かめるために、コンパスを用いて円を描きさえすればよいような立脚点や目標点……ではない。〔イエス・キリストの〕啓示そのものと共にまた〔イエス・キリストの〕啓示のまことの待望も隠れによってめぐり囲まれている」。「ここでもまた〔イエス・キリストの〕啓示そのものだけが〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいて、〕隠れを突き破ることができるし実際に突き破るであろう啓示が自分自身について決断を下すように啓示はまた啓示の証言についても決断を下すであろう啓示こそが啓示の証言を実際に啓示の証言たらしめるそしてまた啓示が啓示の証言をそのようなものとして確証する〔そのようなものとしてはっきりと自己証明する〕」。このような訳でわれわれはイエスキリストの啓示の待望についての証言としての旧約聖書の中で啓示が起こっているという命題換言すれば〔イエス・キリストの〕啓示のまことの待望が起こっているという命題を基礎づけようとする時最後的根本的には〔イエス・キリストの〕啓示そのもの換言すればイエスキリストご自身以外のほかの法廷〔・原理・規準・審判者・支配者〕に訴えることができない〔言い換えれば、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、<具体的には>、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・標準とする以外にはない〕」。イエスキリストの十字架の死があの命題はまことであるということを証明する〔すなわち、「神の裁きの啓示」律法、死)としての旧約聖書の中で啓示が起こっているという命題、換言すればイエス・キリストの啓示のまことの待望が起こっているという命題は、まことであるということを証明する〕それはそのことをイエスキリストの甦りの力〔「復活の力」〕を通して証明する〔それは、そのことを、「神の恵みの啓示」(福音、生)としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」、イエス・キリストの復活の力を通して証明する。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が…て啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っており、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、客観的なその「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)としての客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての主観的な「認識的な<ラチオ性>」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)に基づいて自己証明するからである〕」。言い換えれば、もしも「旧約聖書の中で〔イエス・キリストの〕啓示が起こっているという命題、換言すれば〔イエス・キリストの〕啓示のまことの待望が起こっているという命題がまことである」ならば、「その時には、それは、イエス・キリストが待望されたものとして、事実また、旧約聖書の中ででも<啓示されて>いるが故に、まことである」。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている」。この「キリストの復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」は、「新しい世〔、時間〕のはじまりである」。「<どの程度まで>、旧約聖書の中で啓示が起こっているという命題、換言すれば啓示のまことの待望が起こっているという命題はまことであるかということを示そうとするすべての試みは、それは、ただそれ自身がそれ自身を基礎づける事実であるであるが故に、それ自身の中で基礎づけられた事実〔すなわち、「イエス・キリストは、待望されたものとして、旧約聖書の中でも啓示されているという事実」〕の証明であろうと欲することができるだけである」。したがって、「そのような試みは、もしもそれが本当に神学的説明である時には、決していかなる意味ででも、自主独立的な〔「わがまま勝手な」恣意的独断的な〕基礎づけや証明であろうと欲することはできない」このよう訳でわれわれは、「旧約聖書の中でのイエスキリストを問う問いをそこでは〔復活された〕キリストを振り返り見る想起の証言が含まれている新約聖書に向かって尋ねることによって〔すなわち、そこでは、「キリスト復活の四〇日をおぼえる<想起>において、キリストの死とキリストの生涯を振り返り見る時に光を得た、甦りの証人である新約聖書の証人たち」の証言が含まれている<新約>聖書に向かって尋ねることによって〕この最後的に唯一の証人を指し示す指示として〔すなわち、イエス・キリストを指し示す指示として〕それであるからあの命題の公理的な性格を指し示す指示として〔「イエス・キリストは、待望されたものとして、旧約聖書の中でも啓示されているという事実の証明であろうと欲する」という仕方で、〕再吟味をなすことができるのである」。

 

 その時われわれは〔「実在の成就された時間」としての「キリスト復活四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、区別を包括した単一性(「単一性と区別」)において「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての〕イエスキリストの啓示が旧約聖書の中でのその待望の歴史と一つである単一性は、……新約聖書の宣教教え物語描写の至る所に均等に出てくる自明的な前提であるという事実に出会う」。「そのことが、さらに引き続いて、……われわれの前にあるあるがままの新約聖書は、歴史的に言えば、徹頭徹尾ヘレニズム的な精神運動の文書の集大成であって、そのヘレニズム的な精神運動そのものにとってはユダヤ教とその以前の時期はいずれもほかの関係点とならんでの一つの関係点であり、この運動の個々の代表者たちによってただ多かれ少なかれ妥当性を認められたあるいは全然妥当性を認められなかった一つの関係点でしかなかったという事実に直面して、何を意味しているかを、われわれはよく考えてみなければならない」。「しかし、新約聖書の著者たちは、……ユダヤ教の中ではないが(新約聖書の著者たちのうちの誰にとってもユダヤ教が問題だったのではない)旧約聖書正典の中で証しされているイスラエルの歴史の中で、まさにキリスト教についての彼らの宣教、教え、物語描写の関係点を見ると共に、また逆に、キリスト教についての彼らの宣教、教え、物語描写の中に、イスラエルの歴史の真理を換言すれば会堂の中で読まれていた聖書の成就を見て取るという点で〔すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づく、啓示の、起源的な第一の形態の神の言葉の自己運動を見て取るという点で〕、意見が全く一致している」。「例えば、そこで証しされているキリストの啓示が旧約聖書の中で<待望>されている啓示と同じであるという同一性〔区別を包括した同一性〕が、ただ単にそれらの文書の特別な証言の前提となっているだけでなく、それらの文書の一つ一つがまたそれぞれ違った仕方でそれらの特別な証言の主題と実体を形づくっていると言わなければならない、それであるから今ここで問題となっていることを例証するためには、厳密に言って、それらの文書をほとんど一節ごとに引用しなければならないところの、そういう三つの文書、すなわち<マタイ福音書>、<ヤコブの手紙>、とりわけそのよきギリシャ風の文体の故に新約聖書の内部で卓越した場所を占めている<へブル人への手紙>のような新約聖書の文書が存在する」。しかし、「そのような関連性があるという主張は、『ギリシャ的』と言われることのあるあるいは実際に『ギリシャ的な』<ヨハネ福音書>の中でも、一見そう見えるよりはるかに中心的な地位を占めているまさにヨハネによれば弟子たちはイエスの中にモーセが律法の中に記しており預言者たちも記していた(四一四五)ところの、イスラエルのメシヤを見出したのであるまさにここでこそイエスご自身がほとんど躓きを与えるほどはっきりと救はユダヤから来る(二二)と語っておりまた逆に聖書はイエスご自身について証しているものとして主張され(三九)モーセのことがイエスに逆らうユダヤ人たちを訴えるものとして述べられている、『もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか』(五・四五-四七)。まさにヨハネに従ってこそ、イエスは、アブラハムについて、……『彼はわたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ』(八・五六)という言葉を語り給う。一二・三七-四一において福音記者自身は、なぜユダヤ人たちが不信仰であるかを明らかにするために、啓示の隠れについて述べているイザヤ五三・一および心をかたくなにすることについて述べているイザヤ六・九以下を引用し、その箇所に対して注を加えて、イザヤがそう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエスのことを語ったのである」。「ヨハネにおいては特に彼の福音書の始まり全体を特徴づけ支配している洗礼者ヨハネの姿の中でヨハネにとって一方においてイエスご自身の言葉と業〔子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉の自己運動〕他方において、〔第二の形態の神の言葉である〕イエスについての新約聖書的使徒的証言が、〔第二の形態の神の言葉である〕旧約聖書の証言と結びついているいわば体系的な結びつきが実行に移され表現されている」。「さらにまた、〔ルカの思惟と語りを誤解した〕マルキオンのお気に入りであったルカにおいてこそ、マリヤの讃歌の中で福音の要約として語られている、『主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました。わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに』(一・五四以下。なお七二節を参照)。また、弟子たちが見ていることを見ようとしたが見ることができず、聞いていることを聞こうとした聞くことができなかった多くの預言者や王たち(一〇・二四)についての言葉が含まれているし、とりわけエマオ途上の弟子たちの身に起こった出来事が述べられている。エマオ途上の弟子たちが甦った方〔復活されたキリスト〕を知るようになる認識は最高に具体的にその途上で彼らに加わった見知らぬ方が彼らに対して聖書を説き明かされ(二四三二)彼らに対してモーセやすべての預言者からはじめて聖書全体にわたりご自身について記してある事どもを説き明かされた(二四三〇)ことによって彼らの愚かさと心のにぶさから預言者たちが説いたすべての事を信じる信仰(二四二五)へと彼らを呼び覚まされる出来事の中で遂行される〔ここでは、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、客観的なイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」が起こっている〕」。このことに基づいて、「今や彼らに向かって……『キリストは必ずこれらの苦難を受けその栄光に入るはずではなかったのか(二四二六)と語られる彼らに対してイエスが、<そのことを語られたということそれが甦りについての彼らの証である」。またルカの使徒行伝に従っても、預言者たちはみな、イエスを信じる者は、ことごとく罪のゆるしが受けられると証している(一〇・四三)。女王カンダケの宦官がイザヤ書五三章を読みながらも、その内容を少しも理解せずにいた時、ピリピが来てこの聖書の言葉を注釈しつつ、宦官に向かって、イエスについてのよき使信を語る (八・二六以下)パウロはアグリッパ王に向かって、『預言者たちが今後起こるべきだと語ったことをそのまま述べてきました(二六二二)と言い切っている。ベレヤの人たちは、『果たしてそのとおりかどうか知ろうとして』日々聖書を調べていた(一七・一一)そして降臨節におけるペテロの説教の中での特に顕著な箇所によればただ単にイエスキリストの生涯の日だけでなくまたその再臨〔すなわち、復活されたキリストの再臨、終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の「完成」〕と共にはじまるあらかじめ告げ知らされている救いを完成するしたがって啓示から見てまだ来ていない未来の生気を与える慰めの時神が聖なる予言者たちの口を通して昔から預言しておられた万物更新の時(二〇以下)である」。新約聖書の著者たちの間で……ギリシャ的教養を身につけたユダヤ人として会堂のユダヤ人と最も鋭い仕方で対立しわたりあった人物であるパウロの教えこそがキリストの福音は神が預言者たちにより……『あらかじめ約束されたものであったマ一)。の福音の本来的な内容を形づくっているところの、律法によらない神の義〔『福音と律法』および『ローマ書新解』によれば、「神人協力」に全く依拠しないところの、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト信ずる信仰」)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの〕の啓示は、『律法と預言者とによって証しされている』(ローマ三・三一)〔それ故に、律法は、「律法の成就」・「律法の完成」そのものとしてのキリストの福音を<内容>とする福音の形式である。すなわち、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式である律法は、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすところの、「律法の目標」である「律法の成就」・「律法の完成」そのものとしてのイエス・キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えにある〕」。このような訳で、「マタイ五一七以下と顕著な仕方で対応しつつパウロにとってもこのことが大切であるすなわち信仰のゆえにわたしたちは律法を無効にするのであるか断じてそうではないかえってそれによって律法を確立するのである』マ三三一」。神についての深い知識によらないで、ただ神に対して熱心であり、自分の義を立てようとして結局神の義に従わないユダヤ人に対してパウロは、……彼ら自身の律法の目的、意図、意味はまさにキリストである(ローマ一〇・四以下)ということを指摘する。彼らの律法は、『キリストに連れて行く養育掛』(ガラテヤ三・二四)であって、それ以外の何ものでもない。彼ら律法の民が、そのことを見て取らないというこが、彼らの無理解である」。したがって、「Ⅱコリント三一四以下によれば会堂の中で古い契約を朗読する際覆いが取り去られないままにユダヤ人たちの心に残っておりキリストご自身がその覆いを取り除いて下さらない限り彼らがキリストに立ち返らない限りその覆いはそのままそこに残るであろう。『キリストは、神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは、父祖たちの受けた約束を保証するためである』(ローマ一五・八)」。また、「すでに旧約聖書の中でキリストが約束されているということが、パウロによればあの以前における時〔あの「まことの現在」に包括された「まことの過去」〕におけるキリストの実際の現臨を意味しているということを、Ⅰコリント一〇・一-四が示している。そこでは、洗礼と父祖たちが、荒野で霊の食物を食べ霊の飲物を飲んだことについて語られているが、同時に、彼らが、そこから飲んだ岩について、この岩はキリストにほかならないと言われている。そこでは、いかなる『比喩あるいは霊的な解釈』も入り込む余地がない。事実真剣な意味で生かしめるものは比喩ではなく、〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、自らが自己証明能力をもって自己運動する〕神の言葉でありそこにはまことの信仰があったそのことは彼らにとってただ見かけだけ起こったことではなく現実に起こったことである」。因みに、バルトは、次のように述べている――「単なる知識と認識とを厳密に区別して」、「全く特定の領域で、ある特定の状況において、ある特定の人間が、神の言葉を聞き、認識し、信仰し、語る責任ある証人となる時」、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断による、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられる時、その「出来事、確証は、単なる知識ではなく、認識〔信仰〕である。その時、初めて、神の言葉は、われわれに対して実在となり、われわれもそれを実在として理解することができる」、それ故に人間学的な学業的なただ「単なる知識に過ぎないある最高存在、最モ完全ナ存在」としての人間の「意味世界」・「物語世界」・「神話世界」、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神の言葉」は、キリストにあっての神としての神のそれではない。何故ならば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」からであり、それ故にキリストにあっての神としての神、その啓示、その言葉は、「人間の現実存在の内部、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはない」からである。すなわち、「言葉を与える主は同時に信仰を与える主であることからして、「神の言葉が人間によって信じられる……出来事信仰の出来事は徹頭徹尾人間自身の業ではなく神の言葉自身の業によるのである」。したがって、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である「聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストにおける啓示の出来事の宣べ伝えを目指すことのない単なる知識としての〔学業的な〕形而上学的な教義学は、それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は、教義学としては非学問的なのである」。「最後に、わたしたちは、特に豊かな動きに富んだ箇所Ⅰペテロ一・一〇-一二において、使徒行伝三・二〇以下におけると同様に、未来的な、しかもすでに教会の中で喜びをもって信じられている救いについて、この救いについては、預言者たちも、尋ね求めかつつぶさに調べ、……自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難と、続く栄光とをあらかじめ証しした時、それは、いつの時、どんな場合を指したのかを調べ、彼らは、自分たちのために啓示を受けたのではなく、教会のために啓示を受けたのである……すなわち、天から遣わされた聖霊に感じて、福音を宣べ伝える人々によって、今や告げ知らされているその同じ啓示を受けたのである」、と言われている。これらの旧約聖書の時代においてもキリストは待望されたものとして啓示されていたという命題が含みを持っている公理的に自明な性格を同じように示す指し示しとして新約聖書の想起〔その中で「キリストの生涯」、「キリストの受難と死」を想起したところの、「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」の<想起>〕の線に沿いつつわれわれはその命題はまた二世紀から宗教改革および宗教改革によって規定された一七世紀の正統主義に至るまでの昔の教会全体にとって旧約聖書の釈義と用い方の上でのあらゆる変遷にも拘らず全く自明的な命題であったということを確認する。昔の教会にとって、キリストは、旧約聖書の中でも〔待望されたものとして〕啓示されていたという認識は、それほどまでに自明的であった」。

 

そのような訳で、「この認識の妥当性を認めようとしなかった〔近代主義的自由主義的神学者の〕Av・ハルナック」の「一九世紀以来のプロテスタント主義の中で、旧約聖書を正典的な文書として保持することは、宗教的および教会的な麻痺の結果である」から、「……ここで懸念を一掃し、告白と教育の中で〔啓示の真理ではない一般的な〕真理に対し誉れを帰することは、今日……プロテスタント主義によって要求されている偉大な行為である」という思惟と語りに対して、「福音主義教会は、ごく簡単に、そのような意味での『偉大な行為』をなすことによっては、最初の一七世紀の教会との同一性を失ってしまうであろうという注〔異議〕を加えるべきである」。何故ならば、そのような行為は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(すなわち、「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)、そして聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての第三の形態の神の言葉である教会の宣教(説教と聖礼典)の現存というその連帯性と連続性を喪失させてしまうからである。言い換えれば、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯し連続して、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は〔それぞれの時代、それぞれの世紀における、その時代と現実に強いられたところでの類としての個体的自己の成果の世代的総和は〕、根本的には……真理が来るということのしるしである」ということを、すなわち「キリスト教に固有な」類と歴史性を喪失させてしまうからである。その時には、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハの次のような根本的包括的な原理的なキリスト教批判は客観的な正当性と妥当性を持っていると言わなければならない――「神とはまさに、〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟の能力、〕人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)から、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、それ故に「(中略)神の啓示の内容は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した〔換言すれば、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」でしかない〕……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)。

 

 「福音書は、『キリストの肉であり使徒は教会の祭司職であるとアンテオケのイグナティオスは書いている。『しかしわれわれはまた預言者たちをも愛することにしよう何故ならば彼らの宣教も福音〔イエス・キリストの受難と死および復活における「神の恵みの啓示」、生〕を目指しているからであり彼らもまたキリストを待ち望んでいるからでありキリストを信じる信仰によって救われているからである彼ラハイエスキリストト結ビツキ、……イエスキリストニヨッテ証シサレタ者、……共ニ数エラレタ者デアル彼らはキリストイエスに従って生きたのであり彼らは霊にあってキリストの弟子であり自分たちの教師としてのキリストを待ち望んでいた〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下ということからして、「まことの現在」に包括された「まことの過去」の中で思惟し語る第二の形態の神の言葉である彼らは、「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身を待ち望んでいた〕。彼らはキリストの故に迫害を受けキリストの恵みによって動かされていた』」。待望と想起という区別を包括した同一性における旧約聖書と新約聖書の本質的な同一性についての認識を換言すれば旧約聖書の中でもイエスキリストが啓示されていることについての認識を最も大胆率直に述べた代表者の一人はイレナエウス次のように語っている――「キリストがその受肉の中でもたらしたところの新しいことは、確かに最大の新シイコトであった。言い換えれば、ただここでだけ、キリストは、あらかじめ告げ知らされたものとして自ら来たり給うたのである、恵ミノ贈与が出来事として起こる。しかし、イレナエウスによれば、それによって何も認識ノ変化が起こったわけではないのである。キリストハ、タダ単ニテベリウス帝ノ時代ニキリストヲ信ジタモノタチニダケ来タリ給ウタノデハナカッタ。アルイハマタ、イマ生キテイル人間ノタメニダケ来給ウタノデモナイ。むしろ初めからして神を認識し、キリストの来臨を預言した人たちがいた。彼らがそのことをなしたのは、〔その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕啓示をみ子ご自身からして受け取ったからであるすなわち預言者たちは啓示を、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子――この「啓示」・「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この子としてのイエス・キリスト自身からして受け取ったからである〕。キリストハ、ワレワレノ罪ヲ赦シ給ウノト同様ニ、彼ラノ罪ヲモ赦シ給ウ。父祖タチトワレワレノ間ニハ、……蒔クモノ刈ルモノ共ニ、神ガ、彼ラヲ助ケルタメニソノミ言葉ヲ贈ラレタコトニヨッテ、ヨキコトヲ欲シ給ウタスベテノモノタチノタメニ、ソコニ存在シテイルキリストノミ国デ、善ブベキデアルという関係がある。『キリストの日を見るのを楽しみしていたそしてそれを見て喜んだアブラハムのあの喜び(ヨハネ八五六)いわばキリストを実際に見信じた彼の子孫へと伝わっていった」。

 

 

 アウグスティヌスは、……今ヤ、キリスト教宗教ニヨッテ宣ベ伝エラレテイル事柄ソレ自体ハ、世の始めからそのまま欠けていたわけではない。イスラエルの民全体は、すべての民族から集められるべき神の国を預言シ予告スルためにあった。キリストの体、換言すれば教会の一部は、族長たちと預言者たちの中で、出現という点では頭に先行した。(中略)それであるから、人は、それらの先駆者たちの独立した威厳と意味について語ることはできなかった。それは覆われ隠された仕方においてであったが、すでにキリスト以前に恵みが存在していた。しかし、その場合でも、恵みは、キリストを信ジル信仰の外で存在していたのではない。将来起コルデアロウキリストノ受難ヲ信ジル信仰ニヨッテ父祖たちもまた救われたのである。それは、われわれが過去ニオイテ起コッタキリストノ受難ヲ信ジル信仰ニヨッテ救われているのと同様である。(中略)〔「救われるにふさわしいとされた」〕アベル、エノク、ノア、アブラハムを生んだのと同じ教会が、またモーセと預言者たちを生んだのであり、また主が到来された後使徒たちと殉教者たちおよびすべてのよいキリスト者たちを生んだのである。旧約聖書と新約聖書は、……旧約は新約ヲ覆ウモノであり、新約は旧約ヲ顕ワスモノである、あるいは旧約ノ中ニ新約ハ隠サレ、新約ノ中デ旧約ハ顕ワサレル。そして、回心しないユダヤ会堂については、ユダヤ人ガ聖典ヲ運ビ、キリスト者ガ信ジル。ユダヤ人ハワレワレニ書物ヲタズサエ運ンデクルモノトナッタ」。

 

また、「宗教改革の時代に、あの古代教会にとって自明的であったことを、自分の言葉で誓を込めて強調したのは、カルヴァンであった。〔キリストにあっての〕神は、父祖たちに対して、われわれに対してと同じ形デご自身を認識すべく与え給うた。カレラガソレヲ待チ望ム確カサニハ、何ノ欠ケルトコロモナカッタ。われわれがその方の中で父を認識するその同じ一人の子が、またイスラエルにとっても啓示されていた」「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子――この「啓示」・「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このキリストご自身にあっての啓示は奥義ノ明ラカナ顕ワレ約束サレタ真理である洗礼者ヨハネは、両方のこと、約束<と>成就を宣べ伝える。そのようにして、洗礼者ヨハネは、旧約聖書的預言者であると同時に、また新約聖書的証人である父祖たちは、ワレワレト<同一ノ>嗣業ニアズカルモノデアリ、<同一ノ>仲保者ノ恵ミニヨッテ<共通ノ>救イヲ待チ望ムモノであった。彼らと結ばれた神の契約は、ソノ実績ト事柄ソノモノニオイテハ、われわれと結ばれた神の契約と異ならない、むしろ同一である。それら両方の契約の類似性についてだけでなく、同一性についても語ることができる。何故ならば、ここでもあそこでも同様に<永遠の>希望が、神と神に属する者たちの間の<恵みの契約>が、<一人の仲保者キリスト>が問題であるからである。キリストハ、旧約聖書の中で、ただその〔内在的本質である〕永遠の神性の故に啓示されてい給うばかりでなく、むしろ〔その外在的本質である第二の存在の仕方における〕啓示された言葉としてのその特別な意味の故に、あるいはキリストがわれわれに対しても現実にその場にいまし給う聖礼典的現臨の中で啓示されてい給う。また、父祖たちは、聖霊を、ただ単にすべての造られた者の中に現臨するところの一般的な生命の息として受けたばかりでなく、むしろソレニヨッテ敬虔ナ人タチノ魂ハ、神ヲ知ル知識ニ照ラサレ、ソシテアル程度カレラヲ神ニ結ビツケルモノデアルトコロノ特別な賜物として、そのすべての部分において確実ニ神ニアズカルコトヲ自分の中に含んでいるところの み言葉ノ照明として受けたのである。『わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となるであろう』という旧約聖書の約束は、無制限な内容を持つ約束である。ダカラ、ワレワレハ、悪魔ノドノヨウナ策略ニヨッテモ破壊サレナイモノトシテ、確信ニ満チテコウ結論スル。主ナル神ガイスラエルノ民トノ間ニ立テ給ウ契約ハ、……霊的な、ソシテ永遠的ナ約束ヲ含ンデオリ、マタコレニ対スル期待ハ、コノ契約ニ真実ニアズカッテイタスベテノモノノ魂ニ印銘サレテイタ、ト。旧約と新約の相違は、実体ノ相違ではなく、むしろ神ガソノ教理ヲ配置シ給ウタ『処理法』に関する相違である。約束は、旧約の中では、感覚的、比喩的、律法的、文字的、特殊形態を持っており、そのようなものは、新約の時代には脱落してしまった。しかし、その内容は、新約の時代になって違った内容となったわけではない。むしろココデコソ、〔それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれの世代における〕アラユル時代ヲ通シテ同一ノ教エヲ与エ給ウタ神ノ首尾一貫性ガ明ラカデアル。同じ意味で、ハイデルベルク教理問答書質問一九は、神自ら、はじめに、楽園において啓示し、次に聖き先祖たちと預言者によって宣べ伝えさせ、犠牲、律法、その他の儀式によって、象らせ、最後にはその愛するみ子によって成就された聖なる福音について語っている」。

 

 「ルターは、ローマ一三・一一の言葉、『なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである』を注釈しつつ、……『わたしたちが初め信じた時』というのは、『あなたの名によって地上のすべての民が祝福されるであろう』というアブラハムの約束を信じる信仰のことを指している、と論じた。『この神の約束は、その後、預言者たちを通して主張され、さらに続いて伝えられ、預言者たちは、<ことごとくキリストの到来について、キリストの恵みと福音について記したのである>』。聖ペテロが使徒行伝四章で述べているように、〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」における〕キリスト誕生以前のすべての聖徒たちも、同じ神の約束を信じたのである。それであるから、将来来るべきキリストの中で、将来来るべきキリストを通して、そのような信仰を堅持し、それによって救われたのである。それであるから、キリストもまた、この同じ約束をアブラハムのふところ〔すなわち、「アブラハムからキリストに至るまでの聖徒たちが集められているアブラハムのふところ」〕と呼んでいる(ルカ16)ローマ一三・一一で聖パウロが『わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいている』と言っている時、聖パウロは、まさにそのことを言おうとしているのである。すなわち、アブラハムに対して与えられた神の約束が、現実に起こり、それは、もはや〔「まことの過去」の中で〕<未来のこととして>待望されるべきことではなく、実際に〔「まことの現在」として〕<成就した>、と言おうとしているのである。……そのことでもって、使徒は、〔「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」〕聖霊降臨日について記しているのであり、それについてパウロは、後で、それは、本来福音の現れであり光であると述べている。しかし、それだからと言って、信仰が除去されてしまったのではない。それどころか、むしろそれによって信仰が確認されたのである。何故ならば、彼らが、以前には神の約束を、それは〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」において〕必ず<成就されるであろう>と信じたように、〔第三の形態の神の言葉に属する〕われわれは、その同じ神の約束を、今や〔「イエス・キリストの受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、すなわち「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」を<想起>することで光を得、そして「既に来たり給うた方」、復活されたキリストは、「またこれから来たり給う方」、再臨される方であることを、それ故に復活されたキリストが再臨される時には究極的包括的総体的永遠的な救済が「完成」されるということを、それ故にまたその時にはその包括的な救済概念と同一である平和が「完成」されるということを語った第二の形態の神の言葉である使徒たちの証言を通して〕<成就された>として信じているからである。いずれの場合ともそこでの信仰はあの方ご自身を信じる信仰であるすなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子――この「啓示」・「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエス・キリスト自身、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト<>信ずる信仰」)、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である)そのものとしてのイエス・キリスト自身<信じる信仰であるそれら二つの信仰についてパウロはマ一章で神の義はその福音の中に啓示され信仰に始まり信仰に至らせると語っているここで信仰に始まり信仰に至らせると言われているのは、……父祖たちの信仰われわれの信仰〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」における〕キリストの未来における到来を信じる信仰〔キリスト復活から復活されたキリストの再臨、終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の「完成」までの聖霊の時代、中間時おいて、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「実在の成就された時間」を<想起>することで「光を得た」新約聖書の福音記者たちと使徒たち、新約聖書の証人たちの証言を通して〕キリストの出現を信じる信仰ということは、<同じ一つの信仰であるということを言っているしかも福音はあの信仰からこの信仰へと至らせる換言すれば今や神はただ単に約束によってだけでなくすでに起こった成就よっても信じられなければならないということを言っている彼は〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての〕キリスト以前に生きたのでありわれわれはキリスト以後に生きるのであるしかし〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして〕そこでの信仰は〔区別を包括した同一性において〕一つ霊は一つキリストは一つすべての聖徒の交わりは一つなのであるこのことは、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいたところの、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)――この聖書に連帯し連続して、聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての第三の形態の神の言葉である教会の宣教(説教と聖礼典)の現存を意味している。言い換えれば、第三の形態の神の言葉である教会の宣教(説教と聖礼典)が、その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)に連帯し連続して、終末論的限界の下での途上性で、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」教会の宣教における「教会的な補助的奉仕」としての<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわち、区別を包括した単一性において、教会教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、すなわち「自己欺瞞に満ちた市民的常識、市民的観点」における過渡的緊急的部分的相対的な慈善的隣人愛とは異なる、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指した・目指している連続性を意味している。何故ならば、「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」からである。このような訳で、『福音と律法』によれば、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、「神の命令・要求・要請」を、「人間的な自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて、神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて、人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げたところでの隣人愛ではない、「自己欺瞞に満ちた市民的常識、市民的観点」における過渡的緊急的部分的相対的な慈善的な社会的奉仕、慈善的な隣人愛ではない。何故ならば、そのような恣意的独断的な人間的な「無数の儀文は、偶像崇拝、神冒瀆を生じさせる」からである。すなわち、「ある者は盲目的に仕事へと没頭し、ある者は人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する。また、ある者はその時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う。また、ある者は大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する。また、ある者は大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」という意味での隣人愛ではない。そのように、「われわれはそしてわれわれと共に父祖たちも同じ共通の信仰の中で一人のキリストを信じたのであり今もなおキリストを信じているその場合両者はただ〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」の中でのイエス・キリストの啓示についての<待望>の証言の時間における父祖たちの信仰<と>またキリスト復活から復活されたキリストの再臨、終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の「完成」までの聖霊の時代、中間時おいて、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「実在の成就された時間」を<想起>することで「光を得た」新約聖書の福音記者たちと使徒たちを通したわれわれの信仰、新約聖書の福音記者たちと使徒たちの証言に連帯し連続する仕方でのわれわれの信仰という〕違った仕方で信じているだけであるそこで、われわれは、共通の信仰と〔「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがないところの〕キリストの故に、……父祖たちがそのことを信じた時にまだ生きていなかったにも拘らず、それを信じた、また逆に、父祖たちはわれわれの生きておらずわれわれだけがそのことをするにも拘らず、キリストの語ることを聞き、キリストを見、信じるであろうと語り行動するのである。ルターによれば、新約聖書を記したすべての使徒と福音書記者たちの意図は、われわれを、……新約聖書は、本来ただからだ的に生ける言葉であって、まだ書物ではなかったから、彼らが唯一の聖書と呼んでいた旧約聖書へとうながし導いて行くことであるわれわれはルターに従って使徒たちが教え書いたすべてのことは聖パウロがローマ一章でこの福音は神が、<預言者たちにより聖書の中であらかじめ約束されたものであってみ子に関わるものであると語っている通り使徒たちは旧約聖書から引き出したと言う。使徒たちは、すべての彼らの宣べ伝えを旧約聖書に基づかせているのであり、新約聖書の中には、前もってそのことが宣べ伝えられている旧約聖書を振り返り見ていないような言葉は一語もないのである。何故ならば、……新約聖書は旧約聖書の〔「まさに顕ワサレタ神こそは隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの〕啓示以上の何ものでもないからである」。このような訳で、「旧約聖書は、キリストの遺言の手紙であり、それを、その死後、キリストが開け給い、福音を通して読まれ、至るところ宣べ伝えさせ給うたのである。黙示録五章において天にも地にも地の下にもそれを開くことのできるものは一人もいない七つの封印で封じてあった巻物はそれを開いて見るにふさわしい唯一人の方である神の小羊によって開かれたと書いてある通りである。『旧約聖書全体は、福音によって宣べ伝えられるところのキリスト以外の何もののその中に含んでいない』。ルターによれば、神を畏れるユダヤ人たちのキリストの来臨を<信じる>信仰は、彼らが律法あるいは割礼によって祝福されるということではなかった、むしろ彼らが新しい洗礼の洗いおよび教えをもたらすであろう<メシヤ>へと、割礼を通して導かれることであった。誰もが、生まれ死んでいったが、いずれも来るべき<キリスト>への望みの故に救われたのであり、キリストはまだ世界の中に生まれ給わなったにも拘らず、キリストを信じたのであり、彼ら自身の義の上に打ち立てようとしたのではなく、キリストが教え給うであろうことの上に打ち立てようとしたのであり、そのことを、彼らは、キリストの来臨<以前に>信じたのである(ヨハネ三章および四章の釈義)(中略)キリストはわれわれの未来的な救い主であると同時に現在的な救い主であり続ける。キリストの前を進んで行く子供たちは、族長たちのように、ホサナを歌うのである。われわれは全世界と共に後に従う、しかもそこで歌われるのは、皆同じ<一つの>歌である。そのように、われわれは、すべてをキリストからして持つ」。このような訳で、「定められているものは皆、キリストを目指して定められているのである。また、われわれは、使徒行伝一七章でも、パウロが、どのようにテサロニケの人たちに信仰を宣べ伝え、彼らを聖書へと導き、彼らに聖書を説き明かしているかを読む。そして、そこにいる人たちが、果たしてパウロが教えた通りであるかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていたかを読む」。このような訳で、「われわれもまた、〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学もまた、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準である旧・新約聖書<全体>において、〕<新約聖書を、徹底的に旧約聖書からして学ば>なければならない。したがって、われわれは、旧約聖書を軽蔑し、それがもう必要がないかのように語る無駄なおしゃべりを止めなければならない、むしろそこからしてのみ、信仰の土台を受け取らなければならない。何故ならば、神は、預言者たちを、来るべきキリストについて証しするようにとユダヤ人のもとに遣わされたからである(聖ペテロの手紙)」。

 

そのような見方は、それからまた少なくとも内容的に見た場合、ルター派正統主義の基本的な見方であったし、基本的な見方であり続けた。(中略)旧約聖書と新約聖書の間の形式的な違い以上の違い例えば律法と福音という視点の下で旧約聖書と新約聖書を対比させるということについては古プロテスタント主義の領域においては事実誰も真剣に考えたわけではなかった律法と福音という視点の下で旧約聖書と新約聖書を対比させるという仕方で事実真剣に思惟し語った書物はバルトの福音と律法である〕」。

 

 われわれは、「イエスキリストは待望されたものとしてすでに旧約聖書の時代に啓示されてい給うという命題を個々にわたって説明することにする(中略)ここでもまたわれわれはごく単純に、……われわれに対してあらかじめ考えられあらかじめ語られている真理の後に続いて考え語るようにと呼び出されている」。何故ならば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(すなわち、「イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)である聖書、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての第三の形態の神の言葉である教会の宣教の現存からして、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は〔それぞれの時代、それぞれの世紀、それぞれ世代における、その時代と現実に強いられた類としての個体的自己の成果の世代的総和、「キリスト教に固有な」類と歴史性は〕、根本的には……真理が来るということのしるしである」からである。

 

 「イエス・キリストは、待望されたものとしてすでに旧約聖書の時代に啓示されてい給うという命題を個々にわたって説明する課題」は、「われわれが今日旧約聖書のテキストを読み理解しようとする際に用いる眼と方法は、その時以来提起され論じられたテキストについての文献的、歴史的、特に宗教史的な雑多な問題を通して、昔の教会全体の眼と方法と比べて全く別なものとなってしまった」し、「それらのテキストと取り組んでのわれわれの解釈は、昔の教会全体の眼と方法よりももっと動きのある多岐にわたる具体的な、同時にまた広い範囲にわたってもっと後退した控えめなものとなってしまったから、容易なことではない。そのことは、それ自体、われわれの聖書の認識が豊かになり深められることを意味するはずである」。例えば、ちょうど「〔キリストにあっての〕啓示は歴史〔すなわち、われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史的現存性〕の賓辞ではない歴史が啓示の賓辞である」にも拘らず、「歴史主義は、人間精神が生み出したものを問題とする限り、〔聖書の中で証しされている〕啓示を問おうとしないで人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも〔類的機能を持つ自由な人間精神が対象化し客体化した人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、〕神話を問う」が、それ故にその時には、ハイデッガーから、客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に、「『今日まさにこのマールブルク〔ブルトマン、ブルトマン学派〕では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』と「揶揄」されてしまうし、またフォイエルバッハからは、「(中略)神の啓示の内容は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなく、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」と批判されてしまうのであるが、「啓示の<証言>としての聖書の理解と、神話の証言としての聖書の理解は、相互排除の関係にある」し、イエス・キリストにおける神の自己「啓示は、〔われわれ人間の時間、われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、〕歴史の枠にはめ込まれてしまうような歴史的出来事ではないから〔換言すれば、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間、イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストの啓示の出来事である」から〕、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の一般的な歴史性Geschitlichkeit〔出来事史性〕を問題化することは、<証言>としての聖書の実体を攻撃しないが、聖書記事を神話として受けとることは、<証言>としての聖書の実体を攻撃する」ということを認識し自覚していないことを知らされたという点で、われわれの聖書の認識が豊かになり深められた。そして、「聖書の歴史は、その歴史を、一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語、古譚として受けとる点にある」ということを知らされたという点で、われわれの聖書の認識が豊かになり深められた。また、「<中立的な>観察者として聖書の中で証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問いは、聖書にとっては全く縁遠いものであり、聖書の証言の対象にとって異質なものである」が、「その聖書的証言に対して、それを聞くもの、見る者、信じる者である<非中立的な>観察者にとっては、啓示、聖書、教会の宣教の中に同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」ということを知らされたという点で、われわれの聖書の認識が豊かになり深められた。このような訳で、「その<非中立的な>観察者だけが、聖書の中の歴史について、史実的には全く何も確かめられないということ知らされたし、啓示の出来事にとって重要でないものだけ、啓示とは別の何かだけしか確認できないということを知らされた」という点で、われわれの聖書の認識が豊かになり深められた。また、「哲学、歴史学、心理学等は、神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった。神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった。したがって、その時には、哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる。キリスト教哲学は、それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった。それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」、それ故に「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」ということを知らされたという点で、われわれの聖書の認識が豊かになり深められたこのような訳で、「新約聖書の領域において、……その同じ近代の解釈方法は、新約聖書のテキストが立っている諸関係の内容と力を、最後的には、もっと曖昧にしてしまうものではなく、むしろ明瞭にするのに適していたのであり、……学問としての神学の側から全く否定的な批判した予期することができなかったことについて、ただ嘆くことだけであった時代は全体としてみれば克服されてしまった」しかし、それに対して、「旧約聖書の領域においては〔「旧約聖書の中での神の啓示について語らなければならない」領域においては〕、それはまだ克服されていない。まさに<それらの>テキストにふさわしい観点の下で、換言すれば<神学的な>観点の下でなされた旧約聖書の探求は〔「旧約聖書の中での神の啓示について語らなければならない」領域における探求は〕、それ自身有望であるはずの探求に役立つ言語的、文書的、歴史的材料の増加というものと少しも歩調を合わせていなかった」。「旧約聖書は確かに(ちょうどルターが外典に関して語ったように)、そこに含まれている建徳的な部分の故に『よい有益な仕方で読む』ことのできる書物の先頭に立っているが、しかし、キリスト的なことを人は旧約聖書から読み取ることができないから、『キリスト教の聖書正典』には属していない、と旧約聖書についての自分の判断をAvハルナックが語る時、一八世紀から現代までの旧約聖書学の業績全体に照らしてみて、人は反駁されていると見做すことはできない」。また、「シュライエルマッハーは、旧新約聖書は『特別な歴史的関係』を持っているから、旧約聖書は、『新約聖書を理解するに当たって、最も一般的な意味で役立つ補助書物』として学ばれ評価されなければならないが、そのことは、結局また、キリスト教が、その本質に関して言えば、ユダヤ教に対して、ちょうど異教に対してと同じように、中立的に相対して立つことを排除していないとして、旧約聖書がキリスト教の正典から遠ざけられてしまうのを見たいものだと願った」。しかし、「旧約聖書の中での神の啓示について語らなければならない時に、「そこでは、『ユダヤ教が問題なのでもなければ、『キリスト教が問題なのでもなく旧約聖書の敬虔性が問題なのでもなければ新約聖書の敬虔性が問題なのでもなく旧約聖書および新約聖書の証言の対象としてのイエスキリストが問題であるということが洞察されない限り、有効適切な異論をさしはさむことはできない」。このような訳で、「そこでは二つの宗教の間の歴史的関係が問題なのではなく、また『共属性』と『同質性』という概念でもって特徴づけられるべき関係が問題なのでもなく、むしろ二つのいわゆる宗教の区別を相対化するところのこことあそこでの啓示の単一性〔待望と想起という区別を包括した単一性〕が問題である昔の教会全体の中で生き生きと認識されていたこの単一性の認識および再認識ということが主要な課題として今なお旧約聖書的学問の前に立っている。『どんな立派な歴史的研究の成果も結局は真剣な意味で、〔対象としてのイエス・キリストについての証言としての〕旧約および新約聖書の間での本質的な関連性を理解することの代用となることはできない(W・アイヒロット)」。

 

 旧約聖書の啓示と新約聖書の啓示が、<待望想起の関係の中で一つである単一性〔区別を包括した単一性〕を見て取ることができると思われる三つの線がある」。

旧約聖書は新約聖書と同様に、……決定的に、<自由な徹頭徹尾一回的具体的な神の行為として理解されなければならない〔イエス・キリストの〕啓示についての証言である〔詳しく言えば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、換言すれば起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における第二の存在の仕方(すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子――この「啓示」・「語り手の言葉」、起源的な第一の形態の神の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)イエス・キリスト自身、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト信ずる信仰」)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「成就と執行、永遠的実在としてある」、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である。それ故に、この包括的な救済概念は、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、「成就と執行、永遠的実在としてある」、「この世の神との和解、人間相互の間の和解を、直接その内に包含している和解である」)そのものであるイエス・キリスト自身 についての証言である」。したがって、「この理解の線からそれることに対しては、全線にわたって戦いが挑まれなければならない」。このような訳で、「人間が人間自身の力によって、自然的な能力・その悟性・その感情に応じて、認識しうる……最高の実在・絶対的存在のようなもの・絶対に自由な力の精髄・一切の事物を超越する存在の精髄、そのような絶対最高の存在・究極最深のもの・『物自体』」(『教義学要綱』)、「理念的に基礎づけられたところの啓示されてあること、<特定の>人種・民族・国民・国家の特性・社会機構・政治機構・哲学原理・道徳原理・政治原理、イスラエルの民の民族としての存在・統一・特質に拘束されていると見做している神の現臨」、「個々の宗教的人格というものに拘束されていると見做している神の現臨」、「一度知れば何時でも通用する超越的な真理についての教えあるいは知識、思想、最高の習慣に拘束されていると見做している神の現臨」等、包括的に言えば自然の一部としての自己身体を座とする類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって「対象的な仕方で基礎づけられた」ところの「啓示されてあること〔人間の意味世界・物語世界・神話世界、「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」〕に拘束されていると見做している神の現臨」の理解に対しては、「全線にわたって戦いが挑まれなければならない」。神の啓示は旧約聖書の中において終始神的な行為の主権的自由の中で神のその都度の自由な恵みの神的決断によってなされ実際に生起する神の態度のこと神がその都度特別にとり給うことであるそれは、<民>に対して、神がその都度ある特定の個々の人間を通して働きかけ給う態度のことである。それは、範例的な意味で神に向かってただその民の代表として、具体的に相対して立ち仕えることができるある特定の個々の人間に対して取り給う神の態度のことである。それは、個人と共同体の対立をも、自然と歴史の対立をも相対化し最後に去らせるところの神の態度のことである」。すなわち、「神ご自身の何ら制限されない主導権からして、その都度、その決断の絶対的な今の中でなされる唯一の神が態度をとり給うことである。この神的決断の絶対的な今が、それであるから神の啓示が、旧約聖書の中では、神によって始められ可能にされ導かれたエジプトからの脱出の中で遂行され、一回的な律法授与の中で宣言され、同様に一回的なシナイ山での契約の犠牲の中で保証された<ベリース・契約>である。……この契約こそが民族的な統一体としてのイスラエルを造り出すのでありただこの契約を念頭においてだけ旧約聖書の証言はまさにこの民に対して関心をよせているのである」。したがって、<特定の>「イスラエルの民の民族としての存在・統一・特質に拘束されていると見做している神の現臨」は「神の現臨」ではない。「イスラエルは、先ず以て<集められたもの>であり<教団>であって、それからかかるものとして、自主独立にではなく自己目的としてでもなく〔旧約聖書の証言の中で関心が寄せられている〕<民>である〔なお、客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される人間学としての<哲学的な>国家共同性に価値をおくヘーゲルは、「神自身にとって最高に必要であり必然的であるのは教団であって、教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」と述べたことに対してバルトは、ま「神の民、教団、教会、その奉仕と宣教の任務、その政治的・社会的課題」を後景へと退けて、「単独者と個人救済主義」を前景へと押し出し強調するキルケゴールを否定的に媒介して、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題ではあるが、しかし、イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べて<神学的な>共同性価値論に立った (『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1)。バルトは、次のように述べている――「神の霊と人間の精神の全面的な区別〔その「無限の質的差異」〕が強調されなければならない。そして、その啓示の主体的現実化〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断によるその「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕を、人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない。その上で、聖霊と密接に関連して記されている真理の柱、真理の基礎とは、神の教団、イエス・キリストの教団、使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同ノ教会のことであって、イエス・キリストと個人的関係を持つその肢々としての一人一人のキリスト者、キリスト者個人のことではない」、「……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」(『バルトとの対話』)。イエス・キリストにおいては、個と共同性は逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。それだけではなくさらに、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉、キリスト教使信の中心は、〔教会共同性、教団共同性のような〕狭い共同体からその事実をまだ知らぬすべての他の人々〔不信、非キリスト者、非知、個体的自己としての全人間、全世界、全人類〕、広い共同体に向かっての運動において完全に開かれている」(『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1)〕。「契約はそこでは神はただ民族精神や民族的な自己意識があるいは秘義に満ちた仕方で民族的な血と民族が住む土地の根底にある自然力が人格化されたものの役割しか帰せられていない民族宗教の教義の言葉に遡って翻訳されはしない」が故に、「そのように遡って翻訳してはならないということから神のよって命じられている契約の遵守は成り立っている」。

 

 そのような訳で、「契約は〔第一に、〕人間を神に向かって聖化し要求し抑留し引き留めておくことであって決して神を人間のために聖化し要求し抑留し引き留めておくことではない」。したがって、「トーラー、祭儀的―道徳的<律法>は、それを手段にして、人間が神を支配する、あるいは神の善意と助けを自由に処理することができるであろうところの道具ではなく、神が人間に対して<あわれみ>を表し給う際の道具である」――神は、神なき者がその状態から立ち返って<生きる>ために、ただそのためにのみ彼の<死>を欲し給う(『福音と律法』)。「それは第一に、それが、自由にするところの『あなたはわたしのものである』を人間に向かって実存的に<遂行する>と同時に、第二に、その『あなたはわたしのものである』を神的な主張としてそのほかの『あなたはわたしのものである』から区別し、人間が自分勝手に自分で自分を助けようとして、その土地の神々を自分に向かって語ろうとするすべての『あなたはわたしのものである』から区別し、抜擢するという二重の意味でそうである」。「契約は律法〔「神の裁きの啓示」、死〕として恵みである。契約は、神の善意と救助の中におけると同様に、怒りと裁きの中ででも、効果が表れてくることができる」。「神が、契約を解消し給わないとすれば、そのことは、神の自由な真実であり、神が罪を罰すると共にまた罪を赦し給う時換言すれば神が罰せられた後で常にまた祝福し給う時そのことは〔区別を包括した単一性における<裁き>と<恵み>は〕、神のいつくしみである神の啓示は裁き〔律法、死〕であることによって、恵み〔福音、生〕である〕」。「民が自分の側として忠実である時、民が神の命令を守る時、民が神のみ名を崇める時、民が神に<犠牲>〔この「犠牲」は、ただ契約に基づいてだけ可能なのであって、決してその逆ではない〕を捧げる時、民は、そのことでもって……神からその都度赦しと助けを受けとることが許されているということを承認しているのである」。また契約は〔第二に、〕律法〔神の命令・要求・要請〕でもある」。「神の人は、常に神の下僕である。そして、自分の神から徹頭徹尾要求された民として、……その場合、民が実際にどの程度服従するかはとにかくとして、その神の変わらざる意志であるところの服従を念頭において、民は、<このもの>、<神の>民である。契約が成り立っているということは、常に新たに神が命じ給うということである〔ちょうど、われわれが、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼し」、その<総体的構造>に信頼し、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に基づいて「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわち、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くことを命じられているように〕」。この旧約聖書の中で証しされている契約が神の啓示である何故ならばそれは、<イエスキリストの啓示を待ち望む待望であるからである〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間であるからである〕それはその厳格なまことの歴史性の中で〔「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「まことの現在」に包括された「まことの過去」としてのまことの歴史性の中で〕イエスキリストを待ち望む待望である〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間である〕。事実、旧約聖書の契約の中で起こったように、そのように自由に、具体的に、一回的に、神は、〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「われわれの時間の中で実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」である〕イエス・キリストの中で歴史となる……。そのようないつくしみの中で、そのような厳格さをもって、人間は、キリストの中で、神によって取り上げられる……。そのようにしてその限りイエスキリストはすでに〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての〕前歴史旧約聖書的契約の内容であり主題である」。前歴史としての旧約聖書的契約の内容であり主題としての〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」である〕<イエスキリストの啓示を待ち望む待望の中での啓示としての旧約聖書の契約の特徴は先ず〔時間を遡及するという仕方で、〕事実同じ一回性の特徴を賦与され互いに並んで存在する多くの契約に分けられるという点にある。われわれは、シナイ契約以前に、イスラエルの選びを基礎づけているアブラハムとの契約を見出す。さらに遡って、アブラハムとの契約の前に、そこではイスラエルとの特殊契約が出来事として起こる以前に、そのイスラエルとの契約の特殊性において、すでに凌駕され普遍性にまで高められているように見えるノアとの契約を見出す。このような訳で、すでに原始の時代からイスラエルの選びは、現在的な実在なのである」。「申命記の中で、われわれは、契約を、いわば持続的な、しかしまたそのようにしてこそ、神の自由な愛と支配の中に基礎づけられた秩序の下に現在のイスラエルが立っている秩序として見出す。また、「前歴史としての〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」であるイエスキリストの啓示を待ち望む待望の中での啓示としての旧約聖書の契約の特徴はそれとは逆にますます厳格にますます深く未来的に理解された実在としてすべての時代にとって目前に差し迫っておりただそのようにしてだけすべての時代に対して現臨しそこで再びもろもろの民の世界へと超え出て拡がって行く実在として現れているし、それらすべてと並んで救済の時の来るべき契約との特別の関係の中でダビデおよびその家と結ばれた特別な契約が思い出されなければならないし祭司の家系であるレビと結ばれた契約も思い出されなければならない」。「それらの契約のうち旧約聖書が終始証ししようとしている契約、根源的な、中心的な、本来的なものとして証ししようとしている契約は……〔区別を包括した単一性において〕それらの契約が常に同一の方向と秩序をもった唯一の契約であることからしてそれらの契約はそれぞれの場所におけるそれぞれの仕方での契約である〔それぞれの形態の中での契約である〕。このことは、まさに旧約聖書的なことであるが、そのそれぞれの形態の中で、契約が、全く違った形態を自分の傍らに持っているということを通して問題化されている」〕。ここでもまた〔木を見て森を見ないという仕方での、その一部分だけを抽象し固定化し全体化する形而上学的な観点においては、それぞれの形態の中での〕、……ノアの契約も、アブラハムの契約も、申命記の契約も、預言者エレミヤ、エゼキエル、第二にイザヤの下での未来の救済の契約も、そしてまた歴史的に見て中心的なシナイ契約も、本来的な契約でないように見える。あるいは、それらの形態の中ででも、彼岸的な仕方で現臨しており、それらの形態のいずれの中ででも約束であって、それ故にただそのような具合にだけ、それらの形態のうちのどの形態の中ででも現在的であるように見える」。このような訳で旧約聖書が終始証ししようとしている契約根源的な中心的な本来的なものとして証ししようとしている契約はそれらの形態の中で、「多くのまことのいま多くのまことの一回性それぞれの場所でそれがまことであることが確認されるのを待っている明らかに常に意図されているが……決して到達されていない一度ですべてにわたって力を奮うということを待っているこの限りわれわれは旧約聖書の中で証しされている契約の実在を念頭に置いて確かに……<ただ神と人間の間の本来的な契約としてのイエスキリストの啓示の待望についてだけ語ることができる」。

 

 しかしながら、「旧約聖書の中で証しされている旧約聖書的な契約がイエスキリストに対して持っている関係はあるいはむしろイエスキリストが旧約聖書の中で証しされている旧約聖書的な契約に対して持っている関係はそれよりももっと密接でもっと直接的である」。「詳しく言うならば、旧約聖書の契約にとっては、……特定の人間的な『道具』なしに基礎づけられ・更新され・保持され・育成され・防御されるのではないということが特有なことである。したがって、もしも旧約聖書の契約が、いわばむき出しの仕方で、『神―民』関係の中で見られるとしたら、それは始めから正しく見られていないのである」。したがってまた旧約聖書の契約にとって、<神の人という第三の仲介するしるし的な要因の現実存在は副次的な意味でではなくむしろ主要な意味で本質的である」。「そのような神の人は、……神のみ名の啓示の受領者として、律法の宣教者として、エジプトからカナンの国境へと民を導いた、しかも自分自身が導かれた指導者として、それはモーセである。また、神の人は、『われわれの父』として、かつて原始の時代に、あらかじめ、まだ生まれていないそのすべての子孫の世代と結ばれた神との契約の最初のただ一人の人間的な相手として、アブラハムである。また、神の人は、勝利の担い手としてダビデであり、栄光の担い手としてソロモンである(その勝利と栄光の中で、契約の祝福は反映されている)。また、神の人は、第二にイザヤにおいては、終わりの時の名をあげられていないイスラエルの民ともろもろの民に対して、勝利と栄光の中でではなく、卑賎と苦しみの中で神のみ心を宣べ伝える『神の僕』である。また、これらの神の人と呼ばれる個々の偉大な・仲介する人物と彼らのしるし的な機能の間に、それよりももっと小型の、いわば規則正しい仕方で呼び召されている人物・類型として意味深い仲介する士師たちが、そして後には<王たち>が立っている〔すなわち、「王たちがなす民の外面的な歴史の指導は、政治的な性格よりも、むしろ彼らが人間的な権利と力の領域において、神の王政の権利と力のしるしを立てていることによって、イスラエルの唯一の王であり給う神を代表している限り、最も厳格な意味で聖礼典的な執行という性格を帯びている<王たち>が立っている」〕。また、彼らと並んで、民の中の普通の人々がただ持ってくることができるだけである犠牲を執行するために、選び分かたれただ彼らだけがそのような犠牲の執行に対して権限を与えられている、しかもただ神だけが、そこで犠牲が模写している出来事の主体であるということのしるしとして、そのような権限を与えられている<祭司たち>が立っている。最後に、契約そのものの抜擢された見守る者として、彼らの告訴・脅かし・慰めをもって契約が繰り返し問われ・繰り返し覚えられるよう気を配るところの、そしてその者たちの下で契約は最後にイスラエルの未来的な実在として現わしてくるところの<預言者たち>が立っている。彼らもまたその人間的な言葉と行為をもって創造し支配する神の言葉のしるしを立てるという仕方で神の代理者である」。

 

 旧約聖書の中で証しされている旧約聖書的な契約はまさにその特別な既定の中で、<イエスキリストの啓示待望である限りにおいて〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言である限りにおいて〕神の啓示である〔その限り、〕神は人間の姿を取りつつ啓示されるであろう〔したがって、〕人は〔キリストにあっての〕神の唯一の代理者としての契約の本来的な担い手および宣教者としての〔イエス・キリスト、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間としての〕人間と関わりを持たなければならないであろう〔したがってまた、〕人は〔真実の本来的な〕唯一の預言者祭司「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストと関わりを持たなければならないであろう〔「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間としてのイエス・キリストにおいて、すなわち「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の子としてのイエス・キリスト自身、「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において、〕啓示の務めが打ち立てられ行使されるであろう」――「このことを旧約聖書は知っている〔認識し信仰している〕したがって人はこの点においてもまさにイエスキリストは旧約聖書の内容であり主題であると言わなければならない」。このような訳で、例えば「イスラエルの王たちは、……神政政治という普通の概念がそのことを推測させるように、彼らの権利でもってヤーヴェの権利を遂行し、彼らの力でもってヤーヴェの力を行使したのではなく、むしろヤーヴェは、彼らに対しても、いやまさに彼らに相対してこそ、ご自分の権利と力を保持し給うたのである。また、祭司たちは、民のために犠牲をささげた時、罪を赦し、神と民との間の和解を打ち立てたのではなく、むしろ彼らは、祭司としての人間的な行為でもって、その神的行為を、ただ指し示すことができただけである。また、〔第二の形態の神の言葉である〕預言者たちも、確かに全くの現実性の中で、主の言葉を受け取り伝えたのであるが、しかしその時まさに受け取り伝えたのであって、決して自分自身からして、自分自身の言葉として語ったのではなかった。〔したがって、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における神の<言葉>の受肉としての〕神の言葉が人間自身となった、そのようにして肉となったということを、旧約聖書は、その最大の〔第二の形態の神の言葉である〕預言者についても敢えて語っていない。すなわち、人間の下で〔われわれ人間の時間、われわれの世の中で〕、神ご自身がその代理者であり給う〔「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての神の第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストがその代理者であり給う〕」。したがって、「アブラハム、モーセ、ダビデ、彼らはすべて、ただ神的な行為の道具でしかないのであって、決して彼ら自身が、自分からして、神的な仕方で行動する者ではない。〔したがってまた、〕彼らは、明らかに、実際に、神的に行動する方、換言すれば人間的な現臨の中での神ご自身、神ご自身のみ子のことを言おうとしているのである」――この限り、「み子は彼らの中ででも啓示されているのであり、すでに旧約聖書の中で人間は『神の子たち』と、いや時々『神々』と呼ばれることができるのである。しかし、彼らは、〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕神ご自身、神ご自身のみ子のことを、そこで言われているものに対して言おうとしているものが持っている<無限の隔たり>の中で言おうとしているのである〔すなわち、<神ご自身、神ご自身のみ子>と<神の子供たち、神々>との間にある<無限の隔たり>の中で言おうとしているのである〕」。キリストにあっての神が人間となることによってその民と結ばれた神の契約は、<実際に奥義でありそれこそ実際に旧約聖書の奥義>、秘義である」。「われわれは、ここで、旧約聖書的な啓示の実在に関して<と>旧約聖書的な啓示が暫時的なものであるということに関して、〔区別を包括した単一性において、〕旧約聖書的な啓示が、新約聖書的な啓示と一つである単一性、しかもこの一つであることの中でまた違っている相違性について語られたすべてのことを、へブル人への手紙一・一の言葉、『神は、むかし、<預言者たちにより>、<いろいろな時に>、<いろいろな方法で>、先祖たちに<語られたが>……でもって要約することができる』」。

 

旧約聖書は新約聖書と同様に、……神は、<隠れた神であり続けるいや神がご自身を啓示されること〔神の顕現〕によってこそご自分が隠れた神であること〔神の隠蔽〕を実証し給う〔「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて自己証明し給う〕ところの啓示についての証言である」。「ここで、証言されている啓示の中で、啓示と共に、神が、世界全体を〔すなわち、「神は、神なき者がその状態から立ち返って<生きる>ために、ただそのためにのみ彼の<死>を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う」(『福音と律法』)ところの世界全体を〕、……神を知らないものとして宣言し給うことによって、神の啓示を巡り囲む世界全体に対して一つの判決を下される〔すなわち、「死」、「死滅」、「過ぎ去り消え失せることへと定められる」〕」。したがって、「もしもそのような神の啓示を巡り囲む世界が希望を持っているとすればそれは自分自身の中で自分自身からしてではなくただ啓示の中で現れ出た新しい唯一の実在的な神の現臨との関わりの中で希望を持っている」。「部分的には高度な文化民族であったパレスチナ在住の民にとっては、その民自身が誡命をどのくらいよく理解しそれに従ったかははなはだ疑わしいものであったが、とにかく第一および第二の誡命を携えて砂漠から侵入してきた遊牧の民の前で非常な不審と驚愕が起こった」。何故ならば、「そこで突然起こったことは、原則的には自然、歴史、文化の徹底的な神性剥奪であったし、契約を結ぶ出来事の中での神の現臨以外のすべてのほかの神の現臨を容赦なく否定することであった」からである。「もしもそこに敬虔なカナン人がいたとすれば、……彼らにとっては、イスラエルの神は、肉体を備えた死の権化のようであり、イスラエルの信仰は、無宗教性そのもののように見えたに違いない」。「旧約聖書の契約の神の隠れを考慮に入れる時、ヨシュアと士師たちの時代からサムエルの時代に至るまでイスラエルに対して立てられた問いは、……神の現臨指導助けそれ故に民の側からも契約に対して示される忠実さと服従か、<それとも平和のうちにその土地の自然歴史文化の中に溶け込んで住みつくことその住民たちとの人道的な共存〔神に対する忠実、不服従〕かという板挟みから成り立っていた」、「契約を破棄し、それと共に神の現臨と助けを失うか、<それとも>その土地の自然、歴史、文化の中で神の現臨と思われていたすべてのものと手を切るか、しかもその土地の住民たちを肉体的に皆殺しにするまで徹底的に手を切るかという<板挟み>から成り立っていた」。このことは、「ヤーヴェとバアルの間の対立、一方において預言者たちと『偽りの』預言者たちの間の対立、他方において民と王たちと『偽りの』預言者たちの間の対立、それが申命記的な改革に至るまで、さらにそれを超えて、イスラエルの歴史の主題を形成していたところのあの対立の仮借ない鋭さ全体は、伝承によれば、荒野の彷彿の終わりと自分の父祖たちの国での、むしろヤーヴェの国での、イスラエルの歴史に始まりを形成していたところのあの<範例的な二者択一の光>に照らしてみるならば、よく理解できるのである」。「(中略)旧約聖書の一致した証言によればイスラエルの民は自分自身の意志を貫徹させて行こうと試みつつも、〔「民族主義的な狭量さ、宗教的な狂信、人間憎悪、血に飢えた残忍さとは対立する」ところの、「むしろ出来れば、同化して溶け込み……そのほかのカナンの文化民族の間の一つの文化民族となり……宗教的に開かれた……柔軟な態度をとり……寛大でありたい」という〕自分たちの意志に反して>、苛酷な非人間的な道へと駆り立てられるのであるすなわち苛酷な非人間的な二者択一板挟みの道へと駆り立てられるのである〕」。このことからすれば、「サムエルが相手として逆らったサウロ王、そしてその後においては、エリヤが逆らわなければならなかったアハブ王は、彼らなりの仕方で、その自然的―人道的な〔人間の自然な感情からする道を求める〕イスラエルの輝かしい代表であった」。しかし、「イスラエルは、自分たちが欲するようにすることは許されなかった。預言者たちの声が鳴り響き聞かれたところではどこでも、その土地の神々と人間、聖なる民の間に深い溝が大きく口を開いた〔すなわち、苛酷な非人間的な「二者択一」の「板挟み」の道へと駆り立てられた〕。すなわち、その時には、あの自然的―人道的な〔人間の自然な感情からする道を求める〕イスラエルは告訴され、むしろあの〔「二者択一」の「板挟み」の中での〕無条件的な抵抗、躓きとなる態度をとるようにと呼び戻された。そこではイスラエルの民の宗教的民族的な特性が逆らっているのではなく、……むしろ隠され給うことなしに啓示されるようになることがあり得ないイスラエルの神が〔その隠れの中で顕わされるイスラエルの神が〕、逆らい給うのである。その土地は、イスラエルの神に属しているのであって、それであるからバアルに属しているのではない、バアルに<全く>属しては<いない>。イスラエルの神への忠実さほかの種類の忠実さは折り合えないのである」。「イスラエルが、それを巡り囲む世界に対して、その現実存在を通して啓示を告げ知らせたことによって、イスラエルは、まわりの世界の神々を、換言すればそのような世界が持っている最も深いもの、最上のもの、最も生命あるもの、その世界が自ら立っていると考えていたもろもろの絶対関係と思われているものを、おしなべて否定しなければならなかった」。「ヤーヴェの啓示は、実際に、〔われわれの〕<世>〔、われわれの時間〕の頭上に下されようとしている裁き〔、死〕を告げ知らせるということは、アモスのところでも、またイスラエル自身に対してのほかはただ近隣の諸民族に対してだけに向けられていた預言者の告訴と脅かしが、後の預言者たちのところでは、それを遥かに超えて、ナイル川とエフラテ川に沿って建設されていた偉大な世界国家に向けられるようになるということで明らかになる。人は、この後期の裁きの使信に照らして、それ以前の裁きの使信の意味と方向を読み取らなければならない……」。「旧約聖書が指し示しているイエスキリストにあっての神の啓示は目標であり裁きであるそれは隠れた神の啓示であるキリストの十字架の中で神は、〔われわれの〕〔、われわれの時間〕に対してこの時代に対して、<実際に決定的に、>隠れていますであろうそれと共に、この時代〔、世〕に対して判決が下されるであろう古きものは、〔「イエス・キリストの受難と死および復活」、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の受肉として〕肉となった神の言葉の中で過ぎ去ってしまうであろう。この言葉に向かって、それであるからその過ぎ去り行くことに向かって、イスラエルの歴史は進んで行く。それは、ただそれに向かって進んでいるだけである」。「まことの現在」に包括された「キリストの死〔、十字架〕とともに終わる<まことの過去>」としての「イスラエルの歴史は、〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの受難と死および復活」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての〕実在の成就された時間の中での世界の裁きを宣べ伝えることを意図している」。「まことの現在」に包括された「キリストの死〔、十字架〕とともに終わる<まことの過去>」としての「イスラエルの歴史は、〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの受難と死および復活」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>としての〕実在の成就された時間を待望する時間である〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間である〕。しかしそれは、<実在の成就された時間を待望する時間であるが故にそれ自身啓示の時間である」――「福音書の中ではすべてのことが受難〔、死〕の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難〔、死〕の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、〔区別を包括した単一性において、新約に包括された〕旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕へのキリストの十字架〔、死〕でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている〔すなわち、「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」へと向かっている〕。〔<まことの過去>と<まことの未来>を包括した<まことの現在>としてのこの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、〕実在の成就された時間は、新しい世〔、時間〕のはじまりである」。しかし、「キリスト復活」から<復活された>「キリストの再臨」(すなわち、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」)、「終末」までの聖霊の時代、中間時においては、徹頭徹尾神の側の真実として、それ故に「成就と執行、永遠的実在として」、<すでに>、「完全な敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間〔、世〕は、本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間、実在の成就された時間、キリストの復活における神の勝利の行為によって克服されてそこにある」が、同時にまた、「その勝利の行為は、〔<いまだ>、〕完全な敗北者も依然としてそこにいるところの神の勝利の行為である」。

 

 イスラエルの歴史はイスラエルの民が、「旧約聖書の歴史書の記述によればほとんど引き立て役であった勝利と全盛の短い時代におけるそうした幸よりも繰り返し存在しなければならない艱難と困苦あらゆる側から受け取らなければならない打撃そして最後的に避けられない確実さをもってやって来る滅亡という不幸の方が身に及ぶ歴史である」。「エジプトとアッシリヤ、バビロンの間に挟まれたイスラエルの民の民族的・国家的存在は、言うまでもなく、〔世界史的に見れば、〕ただ限界づけられた幕間の出来事であることができるだけである。それであるから、神とイスラエルの契約は、決して、そのためにイスラエルにとって万事がうまく行くということの中でその真価が実証されるものではない。イスラエルの民をして世界史の中で一つの場所を獲得し保持することを可能とする健全さ福祉安全保証政治的な統一と力というものをこの民の律法も預言者も目指してはいなかった預言者たちは、……イスラエルが〔ただ単なる一般的な世俗的政治的な〕<であることを欲しているのではなく〔すなわち、現存する世界史的尖端性における概念に引き寄せて言えば、<経済的な>側面からすれば、経済的尖端性としての資本主義国家、<政治的な>側面からすれば、政治的尖端性としての自由を原理とする国民国家、近代主義国家、自由主義国家における法的<政治的な>共同的観念によって統一された公的共同性の一員としての・公民としての<国民>概念のような、古代における尖端性としての一般的な世俗的<政治的な>王国の<民>であることを欲しているのではなく〕、……〔そうした民族である資格を犠牲にしてこそ、<の民であることを欲するのである。〔したがって、〕王たちが、〔世俗的な政治家としては〕全体として、〔第二の形態の神の言葉である〕預言者たちを畏れ、拒否し、預言者たちに張り合い戦ったということは、世俗的<政治的に>見れば全く正常なことであった。〔したがってまた、〕王たちは、彼らが政治家である限り、当然聞きたいと望んでいた言葉を〔当然聞きたいと望んでいた世俗的な法的政策的言語を〕、〔第二の形態の神の言葉である〕まことの預言者たちからは聞くことができなかった〔したがってまた、〕ただ偽りの預言者だけが、……〔<神>の民としての「この<民>に関わる」〕ヤーヴェの関心事<と>〔世俗的な政治的な〕民族の関心事に対して気を配り注意を払おうとしたし、また気を配り注意を払うことができた。〔しかし、〕まことの預言者は〔第二の形態の神の言葉であるまことの預言者は〕、全くただ〔「例えば外的な事情がうまく行かないということであるいは自分たちの矮小さや弱小さの故にあるいは外国のもろもろの民の弾圧の下で苦しまなければならなかったのではなく、疑いもなく自分たちの<神>のもとで<苦しま>なければならなかった」〕この自身に関わるヤーヴェの関心事だけに対して気を配った」。「〔ただそのように気を配るところでだけ、また〕預言者たちは、民に向かって、それらをすべてを粉砕する力を持ち給うイスラエルの神は、いつもご自分のその力を実証し給うということを念頭に置いて、<政治的にも>、勇気を出し信頼するようにと呼びかけ激励叱咤するところの者である」。このような訳で、「イスラエルは主要なこととしてほかならぬ自分たちの神が自らあの留保なしのもしも信じないならばあなた方は存続しないであろうでもってイスラエルに対し持ち出し給う神の抵抗の下で苦しむのである」。「この民の歴史は、……ただ単に人間と戦っただけでなく、むしろ神と戦わなければならず、神によってびっこにさせられたものとして、それにも拘らず神を相手に夜明けまで格闘し、『わたしを祝福してくださらなければあなたを去らせません』と言った先祖の歴史の繰り返しである。この民の滅亡と没落は、そのイスラエルの神の本来的な勝利であるように見える。そして、ただこの民が、繰り返し溺れる者は藁をつかむように、自分をあのように恐ろしく打つみ手にすがりつき、繰り返しそのみ手の中にかくまわれることがゆるされるということの中にだけ、この民の救いがあるように見える」。「契約とその成就の間には契約が成就すべきはずのものにとって苦しみと死が介在しているこのような秩序は個々の点にわたってまた多かれ少なかれはっきりと旧約聖書の特別に神から遣わされた者たちの身においてこそ繰り返される。彼ら預言者のうちの誰もが、自分の召命を自分の最も愛すべき最高のものとしてつかみ、また当然自分自身のところにも跳ね返ってくる輝きを発散させる偉業をなし遂げる天才とか英雄とか偉人という概念には属していない。彼ら預言者のうちの誰もが、往々にして、まさに彼らの個人的な苦しみをもって、その民に関わる神のみ心は何であるかを実証しなければならないかのように、ただひたすら神の意志に従い、神の名誉のために用いられ用い尽くされてしまうように見える」。「エレミヤの名は、ここで、すべてのほかのまことの預言者たちにとって模範的である。(中略)彼らは皆、ヤコブと違ったふうに祝福されることは<ない>。その最もよい例は、第二イザヤに出てくる終わりの時の『彼にはわれわれの見るべき姿がなく……われわれの慕うべき美しさもない』ところの『神の僕』である」――このことは、「すべてのまことの預言者の姿に関して妥当する。彼らについての新約聖書の描き方によれば、彼らは皆、迫害され石で打たれ殺されることによって、ただ単に民の不信仰と不従順を告訴しただけでなく、とりわけそれ以上に、神の道がはかり知るべからざるものであるということを身をもって個人的に描き出している。まことの預言者である彼らは、……彼ら自身の宣べ伝えがまことであるということすなわちイスラエルをいつも愛された神はあのように隠れた神であり給うということが本当であるということのために苦しまなければならない最初の者>であり、また彼ら自身が、そのことでもって<最も多く>苦しまなければならない者なのである。この同じ秩序は、それから……詩篇の中で、また記念碑的に特にヨブ記の中で、またそれとは全く違う仕方で伝道者ソロモン〔コヘレトの言葉〕の中で、すなわち特別な役職なしに神の前にあってのイスラエルの姿を具体的に生きる義人一人一人の姿の中で繰り返される」。

 

 「旧約聖書の義人はヨブと伝道者〔コヘレトの言葉〕によれば、……全く仮借ない仕方で、神を畏れ、神に仕えることは全く無益ではないのか、人間がなすことができるすべては、よしんば最上の、最も賢い、最も従順な生活においても全く空しいのではないかという<問い>の前に自分自身が置かれているのを見るだけではなく、また同様に仮借ない仕方で、われわれ人間は、その問いに対して、文字通り何も答えることができ<ない>という答えの前に置かれているのを見るのである。すなわち、すべての人間的な答えが持つ力と慰めは、それが人間的な答えであって、全くただ〔キリストにあっての神としての〕神のみが善でいまし、全くただ神だけが何が善であるかを語ることができ・語ろうと欲し給う神の答えではないが故に、挫折してしまうという答えの前に置かれているのを見るのである」。「イスラエルの神はまさにその最も忠実な友人に対してもいや最も忠実な友人に対してこそ隠れた神でいます彼らの最悪の敵の業の中に隠れています彼らは、イスラエルの神ご自身のことを意図し尋ね求めなければならない彼らは、天および地において何ものも問わず、ただイスラエルの神の下に留まって、神ご自身によりすがらなければならない。彼らは、神ご自身を愛さなくてはならない何故ならば彼らは神ご自身の語るのを聞いたからであるそして彼らが神ご自身の語るのを聞いたのは神ご自身が彼らに向かって語り給うたからである〔彼らは、神語り給う故に神語り給うことを聞いたからである〕。また、イスラエルの神は、彼らをいつも愛され、それ故にご自分の下に引き寄せられ、語りかけ給わなければならなかった。それは、結局、彼らを義とし、それと共に、まさにご自身を彼らの友人として立証するためである。み言葉が事実語られるという出来事の中で明らかであるような神の自由な善意のおかげでだけ神を畏れることは空しくないのでありすべてのことがおしなべて空しいわけではないのであり特に〔「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、客観的なその「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」として〕神を認識し畏れることこの一つのことは空しくないのである」。そのようにして、「世の終わり世界の裁きはまさにイスラエルのところで可視的となるまさに、〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての〕イスラエルにとってこそ神は隠れた神でい給うまさにイスラエル愛され選ばれきよめられた民神の家こそが来たり給う神とその新しいみ業の前で〔すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の<子>としてのイエス・キリスト自身、「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としてのあの「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」の前で〕、古い代が過ぎ去るということが始まる場所でなければならないのである〔すなわち、「まことの現在」に包括された古い世、古い時間、「まことの過去」〕が過ぎ去るということが始まる場所でなければならないのである〕」。

 

しかしながら、「苦しむイスラエル苦しむ預言者苦しむ義人はキリストではない〔すなわち、苦しむイスラエル、苦しむ預言者、苦しむ義人は、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の<子>、「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としてのイエス・キリスト自身ではない〕。すなわち、〔「まことの過去」としての〕古きものは決してイスラエルの民が奇しき仕方で難渋な道を通って導かれるということでもってヤコブエレミヤヨブが神の故に死ぬほど苦しまなければならないということでもって過ぎ去りはしないのである〔言い換えれば、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」に包括され克服されて過ぎ去るのである〕」。神の啓示は神の言葉が神のみ子ご自身が、肉となり給い肉のその際限のない困窮全体をご自分の身に受け取り取り上げ給うところで実在となるであろう」。すなわち、神の啓示は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「受難と死および復活」における「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、その神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、その神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)イエスキリスト自身、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト信ずる信仰」)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である)そのものとしてのイエスキリスト自身においてのみ実在となるであろう。「神は、実際に、……<神ご自身がご自分にとって>、ちょうど神がそこでイスラエルとイスラエルに属するそれらすべての<人間>にとって隠れてい給うのと同じように隠れています神でいまし、まさにその隠れの中でこそ啓示されるであろう〔ちょうど、まさに、イエス・キリストは「顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ように〕、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』――ここで隠れた神でいまし、まさにその隠れの中でこそ啓示されるであろう〔ちょうどその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」ように〕。ここでまた、われわれは、ヤコブ、エレミヤ、ヨブそしてイスラエルの中で、イスラエルに対して起こった暗い出来事全体は、その〔「隠サレタ神」としての〕神の実際の隠れを、それと共にその〔「顕ワサレタ神」としての〕神の実際の啓示を望み見ているということの中で〔待望しているということの中で〕、また旧約聖書のほとんどすべての章の中で、何らかの仕方で可視的になってくると言ってよいであろう……イザヤ書五三章の『神の僕』の姿全体は、苦しみ十字架にかかり給うたキリストをあらかじめ描いているということである、と言うであろう」。「旧約聖書が、ただ単に謎であるだけでなく、また解かれた謎でもある限り、ヤーヴェが、実際にいつくしみを施し、その民にあふるる永遠の恵みを示し給う限り、それら悲しむ者たちが皆、神の隠れにも拘らず、その神の隠れの中で、なおかつ実際に限りなく神との出会いを通して慰められる限り〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識(啓示信仰)」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を通して慰められる限り〕、神が彼らをして無駄に苦しみを受けさせ給うことはなく、彼らが神に向かって無駄に忠実であることはない限り結局まさにキリストが苦しむイスラエル苦しむ預言者苦しむ義人であったしかもキリストの理念ではなく〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)イエスキリスト自身、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト信ずる信仰」)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である)そのものとしてのイエスキリスト自身、「啓示」・「語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者としての父なる神の子としてのイエスキリスト自身――この実在の歴史的な(geschichtlich)キリスト〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの、その<客観的な>「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」におけるキリスト、出来事史的なイエス・キリスト〕あのポンテオピラトノモトデ苦シミヲ受ケタキリストがそうであったのである」。しかし、「それとしての旧約聖書そのものはその謎が説かれたということどのようにその謎が解かれたのかということを語っていない」。したがって、「それとしての旧約聖書それ自体だけではまだ本当に隠れた神を知らないのである〔もちろんまだ本当に「隠サレタ神」としての「自ら隠れた神となり給うた神を知らないのである」〕」。したがってまた、「それとしての旧約聖書それ自体は実際に〔「顕ワサレタ神」としての〕啓示された神を知らないのである」。したがってまた、「それとしての旧約聖書だけというようなものは決して実在ではないのでありそれは〔木を見て森を見ないという仕方での形而上学的な〕ユダヤ的な抽象でしかないのである」。

 

 実際の旧約聖書はそのような抽象ではない〔「神の<恵み>の啓示」に包括された「神の<裁き>の啓示」としての〕実際の旧約聖書は、<神の裁き律法の秘義を厳格な全面的なしかしまさにそのようにしてこそまた神の恵み福音として明らかにされた秘義を証している」。したがって、「それは、ただ単にその裁きの下に立つ人間の苦悩だけでなしに、その裁きを自ら自分の身に受け負い給うた神ご自身の苦しみを証している。また、それは、……ベツレヘムの馬小屋での、ゴルゴタの十字架上での神の隠れの前奏であり序曲であるものを証している〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」を証している。何故ならば、神の隠れと顕われを証しするものは、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、われわれのための神の時間」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神であるまことの神にしてまことの人間イエスキリスト自身であるからである〕。したがってまた、その限り旧約聖書は概念の全き意味で〔イエス・キリストの啓示を待望するという仕方で、イエス・キリストの〕啓示を証している」。しかし、「われわれは、旧約聖書の証言の中での神の隠れと裁きに関してさらに、神が旧約聖書の中で証しされている歴史の中であのように隠れていまし、その歴史があのように人間とその世が滅び失せるものであるという秩序のもとに立っていて、まさにキリストの十字架を指し示さなければならないという事実の秩序人間は契約の中で神との出会いの中でまさに神に逆らってやまない神の道から際限なく免れて行こうとする罪深い人間として示されるという事実との厳格なまぎらすことのできない関りの中で力を奮う」ということに注意を向けなければならない」。「この神との契約の中でのイスラエルの歴史は、ただ単にイスラエルが病気である歴史、自分たちが選ばれ愛されている主にぶつかって座礁する歴史であるだけでなく、またイスラエルの絶えざる誤解、絶えざる恣意、絶えざる反逆の歴史でもある。その際、その第一のことと第二のことは、互いに対応し条件づけ合っている。反逆が金の子牛を造って拝んだ出来事の中で典型的に示されているように、隠れた神の支配という酷しい現実と関連している。反逆は、……イスラエルの神がご自分に属する者に信実であり愛を示そうとされるあの理不尽ト見エル業に対しての〔人間の自然な感情からする〕至極もっともな抗議や抵抗感から由来している。また、逆に、〔反逆は、〕神が、うなじこわくかたくなな民であるイスラエルの民に対して信実であり愛を示し給う際に持つことができる唯一の形式である。そのイスラエルの罪は、いわば神的隠れの人間的な側面である」。「神が契約を結び保たれる際に相手にされた者は、純粋な、正しい、道徳的な人間を目指す人間ではない、それ故にそれは、むしろ違反者であり、繰り返し違反者として自分を示すところの人間である。旧約聖書の歴史記述の中に出てくる最大の英雄たちと言えども、またモーセやダビデのようなものでも、周知のようにその主張に対する例外ではない。旧約聖書の第三部に出てくる『義人』は、(中略)自分のことをただ単に罪人として告白しているだけではない」し、「彼が実際に罪人で<ある>ということを、人は手でつかみ得るほど明らかに見て取ることができる」人間である。このような訳で、「人は、神がご自分に属する者と呼び給う者たちの人間的な優れた性質、立派さという回り道を通って、何とか旧約聖書の神に近づくことはできない」し、「そのようなことは全く問題とならないことである」。また、「イスラエルの罪は、何かある一つの『悪』ではないし、『不徳』とか『不道徳』といったたぐいのものでもない」。「神は旧約聖書の中では、……人が道徳的に判断して全く罪であると見て取ることができないところで罰し給いまたそれとは逆に多くの場合人が道徳的に判断して実際に重い罪を見て取ることができるところで罰せられないかあるいはひどく目立った仕方で軽く罰せられるのである」。このことは、「旧約聖書の中では罪そのものが秘義契約を破るという秘義であるということ、「罪は契約そのものの地盤で起こるということを意味している。「罪は、神的な意志と行為の経綸の中に編み入れられるのである〔父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>の中に編み入れられる〕」――このことは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間が「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」のただ中にあって罪を新たな罪を犯している・犯し続けていることを存知されているイエスが「姦通の女」に対して「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない(ヨハネ811)と言われているように、親鸞に義絶された善鸞のような造悪論を意味しない。すなわち、「何も罪を軽減したり言い逃れさせることにはならないましてや罪を正しいとすることにはならないそれとは逆であるそれだからこそ罪はペリシテ人やモアブ人が彼らの迷信や不信仰すべてをもってしても犯すことができないようなまことに重大な致死的な現実の罪なのである」。このような訳で、「まさにただ神のみが、<その方に対してここで罪が犯され得る唯一の方である限り罪に対する神の反応刑罰契約相手に対してみ顔を隠し給うことが神ご自身の契約に対する忠実さの行為であって決して契約の除去ではない限り罪と罰両方のものは神がそれらに対して与え給う限界の内部でそれ故にまた神がそれらに対して与え給う意味と目的をもって起こる限り神はまたイスラエルの罪に対しても主であり給うことからして、「神と契約を結んでいる人間神との契約の中に神によって移された人間は罪人でなければならないという命題が〔「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を通して、信仰の類比を通して〕……主張されなければならないちょうど「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり生来的な自然的な『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等々〕によっては』――全く信じることができないことを知っており〔すなわち、『教会教義学 神の言葉』と『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』および『福音と律法』によれば、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を通して、信仰の類比を通して、「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」のただ中にあることを知っており〕、それを告白する〔福音を聞く私は、自分が不信仰・無神性・真実の罪のただ中にあることを告白する〕。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ(マルコ九・二四)、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)と告白しなければならないように〕。兄エサウを出し抜くようにして選ばれた者となったヤコブは、創世記の中で描かれている通りの全く問題的な人物で<なければならない>。神によって奇蹟としるしの下でエジプトから導きだされた民は、実際に振舞ったように、あれほど御しがたい強情な仕方で振舞う民で<なければならない>。神の主権制を宣べ伝えるという委任を与えられたはずの王たちは、サウロとヤラベアムとアハブがそうであったように、そして彼らなりの仕方で結局またダビデ、ヒゼキヤ、ヨシアもそうであったように、あれほどふさわしくないその任に絶え得ないもので<なければならない>。イザヤは、『穢れた唇』のもので<なければならない>。ヨナは、愛する神の全くの奉仕拒絶者として振舞わ<なければならない>。彼は、その後も、ニネベに対する我慢できないいらいらした気持ちでもって、あのように喜劇的に奉仕拒絶者として振舞おうとする。エルサレムにおける神殿においては、明らかにカナン主義への『自由主義的な』滑り落ち、また多くの申命記主義者とその後の精神的血縁者たちの自信過剰な、根本においては同様に世俗的な『積極主義的』教会主義、これら二つが、そこで問題となってくる唯一の可能性であるといった具合で<なければならない>。イスラエルの民に遣わされる預言者は、迫害され石で打たれ殺され<なければならない>。また、この民に属する『義人たち』も、『義人たち』こそ、神の告訴と裁きの下に立た<なければならない>。ヨブは反抗を、伝道者〔コヘレト〕は懐疑を、とことんまで押し進め<なければならない>彼らは皆、〔不可避的に〕そのようにしなければならないのである何故ならばイスラエルの神はその地盤の上でそれらすべてが起こるところの契約の中で〔区別を包括した単一性において、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において活動されるところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性(神聖性)・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とす「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、〕実際に神でありそれ故にまた〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、〕人間は実際に人間であるからである〔すなわち、「不実な背き去った罪人」としての人間であるからである〕。したがって、そのことは、ナイル川のほとり、あるいはエフラテ川ほとり、ゲルマニアの森で起こるのではない、すなわちどこでもよいとにかくどこかある場所で起こるのではない。そのことは、<なければならないが契約の地盤によって条件づけられているが故にこそ、……神の隠れとそれに対する人間の反抗が逆に言うならば神に向かっての人間の反抗とそれに対し罰として答えている神の隠れは神的な計画の中に編み込まれておりそしてその神の計画は〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、われわれ人間には、その神の計画は〕それとして洞察されることができないから人はその神の計画を〔善因善果・悪因悪果という因果応報思想のように〕罪と罰を綜合するという形で説明しようとすることは決し許されないのでありむしろその神の計画は、……概念としてではなく現に支配権を行使し給う神ご自身がそうであるように究め難いものであるがその神の計画こそがまさに神の現実の支配の出来事の中で、<なければならないなければならないにするところのこととして示される」。しかし、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」に包括された「まこと過去」としての旧約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間の中で、神はその現実の支配の出来事の中で神であり給うが故にそして神であり給う限り神が隠れていますということはその最後の言葉ではない>。ましてや反抗しつつある人間というものがそこで最後の言葉であることはできない>。何故ならば聖降誕日が来なければならないからであり神の現実の支配の出来事の中で、<和解が生じなければならないからである」。

 

 まだわれわれは、「旧約聖書的なねばならないの線上で語らなければならない決定的なこと契約の地盤の上でイエスキリストが〔「イエス・キリストの受難と死および復活」における「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」に包括された〕十字架につけられなければならならなかったということを語っていない」。「神の現実の支配の出来事の中で神がほかの神となり給わずそれ故に人間がほかの人間とならなったのであればそしてそこでのその出来事こそが時間の成就であり〔「実在の成就された時間」であり〕契約の成就であったのであればその出来事の内容はまさに実在の神の隠れそれ故に苦しむ神の僕死ぬ神の僕人間の側では実際に決定的に遂行された反逆と堕落以外の何ものでもないちょうど<予定説>について、われわれは、次のように思惟し語らなければならないように(『福音と律法』および『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)――「<予定説>は、イエス・キリストにある救いの自由な表現そのものである」。すなわち、「それは、真に罪なき、従順なお方イエス・キリスト自らが、われわれ人間に代わって、見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということである、神の恵みに対して、端的に信じ給うたということである。「これが、神の最高の義である」。「このことは、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であったということを意味している。このことを、われわれは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識 (啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を通して、認識することができる」。その時、われわれは、「神の選びをイエス・キリストの復活において認識し、神の放棄をイエス・キリストの十字架において認識することができる」。「われわれが、本当に神の啓示を認識〔信仰〕する時、われわれは初めて、神に対する人間的反抗、神の敵、神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間としての自分自身を、またそのような人間の世を認識することができる」〕。イエスは、エルサレムに上って行か<なければならなかった>、また祭司長と律法学者たちはと民は、杓子定規に伝統に従いつつ、彼らが実際になしたところのことをなさ<なければならなかった>、また弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出さ<なければならなかった>、ペテロは主を否定し<なければならなかった>し、まさに実際に決定的に罪を犯した者として、ここでこそ人間は自分の姿を暴露するのである」――『福音と律法』に引き寄せて言えば、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、〔それが人間論的な自然的人間であれ、イスラエルの民であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、その状態にあるのだが、〕神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、イスラエルの民であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性〔すなわち、「不信仰」、「真実の罪」〕を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、その外在的本質である第二の存在の仕方における神の「<言葉>の受肉」において〕肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリスト<の>信仰』は、明らかに〔<目的格的>属格として理解されるべきではなく、すなわち徹頭徹尾決して<神人協力>において理解されるべきではなく、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。「まさにそのことが起こったということ、人間が神を殺したことによって、人間が実際に決定的に神に対して罪を犯したものとして自分の姿を暴露したということ、それは、実際の神の支配の出来事の中で、正確にそのようでなければならなかったのであり、それと別様であることはできなかったのである」。その出来事の必然性は客観的な「存在的な<必然性>」としての客観的な「イエス・キリストの受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」は〕その出来事を振り返り見つつそれであるから復活日〔実在の成就された時間〕から聖金曜日〔十字架の死〕を振り返り見つつ、……語られることができる――『われわれの咎は、彼に負われ、<それによってわれわれに平安が与えられた>』」。「神と人間の対立は、そこでは、現にまことに<和解>であるならば、それは、キリストは十字架につけられ<なければならなかった>、神は人間に対して隠れたものとして、人間は神に対して反逆者として出会わ<なければならなかった>。また、そこでは、和解が聖金曜日の神の行為としてまことであり、それが復活日あるいは聖金曜日の啓示によってまことであると認識〔啓示認識(啓示信仰)〕されるならば、その時には、その『<なければならない>』は、旧約聖書にとっても妥当するのであり、旧約聖書の中での出来事は、その観点においても、イエス・キリストの啓示の待望についての証言、預言である」。この時、「罪の<赦し>が、旧約聖書の中での神の隠れの真理として、そしてイスラエルの罪についての真理として、可視的となってくるし、また旧約聖書の中での神と人間のあの恐ろしい対立を念頭に置いて、すでに聖徒の交わり、罪の赦し、肉の甦り、永遠の生命があったと言わなければならない……」。このことは、「何の制限や何の差し引きもなしに、<キリスト>を待ち望むということ、そのことがキリストを<待つ>ということ、しかも<全面的に>キリストを待つということを意味している。父祖たちは、キリストを<待った>。よく理解せよここでもまた一つのキリスト理念ではなく〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の受肉としての〕肉となった言葉を待ったのである人間学的な歴史主義におけるただ歴史的事実の中におけるだけのイエスキリスト史実的な(historisch)イエスキリスト史的イエスではなく〕、現実の歴史的な(geschichtlich)キリストを待ったのである〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているところの、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の成就された時間」としての<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」――この出来事史におけるイエス・キリスト、<出来事史的イエスキリストを待ったのである〕」。すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエスキリスト自身、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト信ずる信仰」)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である)そのものとしてのこのイエスキリスト自身、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父なる神の<子>、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」である子としてのイエスキリスト自身を待ったのであるこのことは、「ただ聖降誕日と「実在の成就された時間」としての〕復活日からして明るく照らし出された聖金曜日〔十字架の死〕からしてだけ〔「イエス・キリストの受難と死および復活の出来事」における「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」に包括されたキリストの十字架の死からしてだけ〕言われることができる〔「旧約聖書的な待望の時間と新約聖書的な想起の時間との間の<実在の成就された時間>とは、イエスがご自分をお示しになった復活の『あの四〇日(使徒行伝一・三)』のことである」が、<新約聖書の証人たち>は、そのキリスト復活の四〇日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を想起する時、光を得たのである」〕」。「ユダヤ会堂は、彼らがキリストを十字架につけた時に行ったことを、またまさにそのことでもってイスラエルが常に行ってきたことを、今日に至るまで繰り返し行っている。したがって、〔木を見て森を見ないという仕方で、その一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化して思惟し語る〕会堂は、いわばからだを具えたところの〔可視的な〕硬直し動きのとれない抽象的な旧約聖書そのものである。この限り、会堂が、旧約聖書を、まだ成就していない旧約聖書として、すなわち和解なしの旧約聖書として、自分のものだと主張している時、そのことは、全く当然のことだと言える。何故ならば、「イエス・キリストにあっての実際の神の支配の出来事を度外視して、聖降誕日と〔実在の成就された時間としての〕復活日を度外視して、旧約聖書を会堂のもの、会堂に属しているものとしてみた場合、旧約聖書は、〔木を見て森を見ないという仕方で、その一面だけを形而上学的に抽象し固定化し全体化して思惟し語る〕抽象化でなければならない」からである。したがって、「の時には旧約聖書はもちろん啓示ではない」。

 因みに、史実的イエス(史的イエス)と出来事史的イエスについて言えば、文芸批評家であり詩人であり言葉の専門家であり人間学における思想家である吉本隆明は、次のように述べている「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点を比べていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また、神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、今のところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究においては、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしは思っています。〔したがって、〕自分でそれ以上の打率があると思っているやつはバカだと考えた方がいいと思います」(吉本隆明敗北の構造』「南島論)、「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流の言葉〔文芸批評や思想の言葉〕でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは信仰の書として読んでも文学書として読んでもあるいは思想の書として読んでもどんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすればこれは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉がそのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度鳴く前に三度私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、人間の<心>というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『<非知>へ―<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)。また、第三の形態の神の言葉である教会の宣教における「一つの補助的機能」、「教会的な補助的奉仕」としての神学に関わる牧師であり神学者であり神学における思想家であるバルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――史実的に正しい内容が重要なのではなく重要なことは聖書がシリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事ポンテオピラトと使徒信条というように神の啓示に対してその都度ごとに一つの年代的時間的地誌的空間的地域的との限定性において出来事として起こったもろもろの歴史Gschichtenについて語っているという点にある」、また歴史主義において「<史実的に確定することのできることだけが実際に時間の中で起こり得たに違いないというのは迷信に基づく。〔大学の場等における人間学的領域において、われわれ人間の時間、われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史について研究する〕<歴史家たちがそれとして確証できるすべてのことよりもはるかに確実に実際に時間の中で起こった出来事というものが確かにあり得るのでありそのような出来事の中に特にイエスの甦りの歴史が属していると受け取るべき根拠を持っている」、その啓示の証言としての聖書の理解と、神話の証言としての聖書の理解は、相互排除の関係にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化することは、証言としての聖書の実体を攻撃しないが、しかし、聖書記事を神話として受けとることは、証言としての聖書の実体を攻撃する。なぜなら、啓示は、〔われわれ人間の時間、われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、〕歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではないからである。したがって、重要なことは、聖書の歴史を、一般的な歴史性を含んではいるが史実史ではない歴史物語、古譚として受けとる点にある」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「啓示は、〔われわれ人間の時間、われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、〕歴史の賓辞ではない。歴史が啓示の賓辞である」。 

 

 「誰が実際の旧約聖書を持ち・実際の旧約聖書を読むであろうか、だれが現にあるがままの旧約聖書を、それが語っている通りに・それ自身が理解して欲しいと望んでいる通りの仕方で理解するであろうか。この問いは、今日に至るまで、教会と会堂の間で問われている」――この問いは新約聖書の証人たちにとっては決して〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使してなされるところの、人間学的な〕史実的な(historisch)学問的な問いではないそれは信仰と啓示の焦眉の生命に関わる問いである新約聖書の証人たちは空虚な空間の中でではなく、〔イエスキリストの啓示の待望についての証言である旧約聖書の中で〕、ただ律法と預言者によって証しされたものとして父祖たちによって待ち望まれたものとしてイエス・キリストを認識し信じたのであるイエス・キリストが彼らの主となり給う際の必然性は、解消することのできない『同時に』の中で、また彼らに向かって旧約聖書の中での神の言葉が課したところの必然性でもあった」。したがって、「旧約聖書の中での神の言葉なしには教会は新約聖書の証人たちのキリストとは別なキリストを信じることになるであろう」。何故ならば、「新約聖書のキリストは旧約聖書的待望〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間〕の成就〔「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕にほかならないからであるしたがって、「教会と会堂の間に介在している問いに関して、繰り返し、教会にとっても、……新約聖書のキリストが、教会の中で啓示され、信じられている〔啓示認識され啓示信仰されている〕ということでもって決定が下される」。この時には、第三の形態の神の言葉である「教会は、旧約聖書の中でなされているイエス・キリストの来臨についての証言を、ちょうど新約聖書の中でなされているイエス・キリストが来たり給うたことについての証言を喜ぶのと同じように、心から喜ぶであろう」。

 

〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間としての〕旧約聖書は〔復活されたキリストの再臨(終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済と同一である究極的包括的総体的永遠的な平和の「完成」)を待ち望む聖霊の時代における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「われわれの時間の中で、実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての〕新約聖書と同様に神は人間に対し、<来たりつつある神として現在的であるところの啓示についての証言であるし、来たりつつある方として現在的である――これら両方の要素を強調しなければならない」。旧約聖書的な待望の時間と新約聖書的な想起の時間との間の〔「まことの過去まことの未来を包括したまことの現在としての実在の成就された時間とはイエスがご自分をお示しになった復活のあの四〇日使徒行伝一・三)のことである、その「実在の成就された時間であるキリスト復活の四〇日をおぼえる<想起>において、キリストの死とキリストの受難の生涯を<想起>する時、光を得た」ところの「甦えりの証人である新約聖書の証人たち新約聖書における啓示証言の時間新約聖書の時間、〔<第二の形態の神の言葉>である〕使徒の時間に続く時間〔すなわち、<第三の形態の神の言葉>に属する時間〕、「実在の成就された時間としてのキリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」に属した新約聖書の信仰における想起の時間〔「復活され高挙されたイエスキリストから降下し注がれる霊である」〕聖霊降臨日時間のことである」ことからして、旧約聖書的証言は新約聖書からして……イエスキリストを待ち望む待望の証言〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言〕であるという換言すれば預言であるという側面を言い表しているまた旧約聖書的証言は、……神の契約と神の隠れについての証言としても暗々裡にイエスキリストの待望であり預言である」、イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間である。

 

「ルターとカルヴァンについては言えないが、近代以前の教会の神学は、……一面的に……ただ旧約聖書の中の<顕示的な>預言と取り組んだ。一七世紀後半において、改革派の教会の中で支配権を獲得し、すぐにルター派教会の中にも影響を及ぼしていった契約神学者たちがなした、旧約聖書が新約聖書と一つである単一性〔区別を包括した単一性〕を証明しようとする努力は、……分別ある……包括的な試みであった」が、しかし、その試みは、「神学的な明瞭さを曇らす歴史哲学的思惟〔人間学的思惟〕を混入させた」ものであった。「昔の時代においても、近代においても、事実、キリストのことを指し示している旧約聖書の預言を、決定的にこれやあれやの孤立した直接的に預言している箇所の中でではなく、それとしての旧約聖書そのものの具体的歴史的な脈絡の中で尋ね求め、これやあれやの孤立した直接的に預言している箇所は、ただその特別な脈絡の内部で理解しなければならないということに注意を払わなければならない」――「このことに、注意を払わなかった神学者たちがいたが、その結果は、最上の意図をもってしても、ただ旧約聖書の悲しい空疎化でしかなかった」。「わたし〔バルト〕そのことを強調するために神の契約と神の隠れについての旧約聖書の証言の中で事実型通りの預言を度外視して、〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間としての〕待望として認識できるところのものを前面に打ち出した」。

 

旧約聖書の中にははっきりと言葉に出して待望の証言〔イエス・キリストの啓示の待望についての証言〕である一つの線全体が、……<終末論的な線が存在する」。言い換えれば、「人間と結ばれた神の契約が、まだ依然として契約の実現に向かって進んでおり、神の隠れ〔神の隠蔽〕も、それと共に神の啓示〔神の顕現〕も、旧約聖書の中で証しされている出来事そのものの<彼岸>において、はじめて<未来的なもの>として出来事となって起こるであろうことが、待望の線、終末論的な線上においては、ただ単に事実的に認識されることができるというだけでなく、旧約聖書そのものによってはっきりと言葉に出して語られている線が存在する」。「キリスト復活四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、すなわち「実在の成就された時間」としての「神的な和解と啓示が持つ終末論的性格〔すなわち、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済と同一である平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」は、<復活されたキリスト>の再臨、終末を待たなければならない〕は、決して旧約聖書の中でのそのような現在性の否定を意味していない」。ましてや、<復活されたキリスト>の再臨(終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済と同一である平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」)を待ち望むところの、「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、<実在の成就された時間>」としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」を<想起>する「新約聖書の中ではなおさらそのような現在性の否定を意味していない」。「わたしに対して、ご自身を告げ知らせ給う方、わたしの戸を叩く方、その方は、わたしにとって、そのような方として、わたしにとって『未来的な方』としてまたすでに現在的である、換言すれば『わたしのところにこれから来ようとしている方』としてまたすでに現在的である。わたしは、いまなお一人だけである。ただその方はすでにわたしのもとにい給うという期待の中で、わたしは一人でいるのである。わたしは、時間を持っている。しかし、ただわたしは、もうすぐもはや時間を持たなくなるであろうということをわたしに対して明らかにするために、なお時間を持っているのである」。このことを『福音と律法』では、次のように述べられている――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を、「目的格的属格」(神人協力における「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を、「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト<>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」(このことが、「『福音と律法現実性における勝利の福音の内容」)。したがって、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に人間的存在がイエスキリストの人間的存在である限りは、〔詳しく言えば人間的存在が、<復活されたキリスト>の再臨(終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済と同一である平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」)を待ち望む「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、<実在の成就された時間>」としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」を想起する新約聖書の中で証しされているところの、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)イエスキリスト自身の人間的存在である限りは、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト信ずる信仰」)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(『平和に関するバルトの書簡』にあるように、この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である)そのものとしてのイエスキリスト自身の人間的存在である限りは、「啓示」・「語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者としての父なる神の子としてのイエスキリスト自身の人間的存在である限りは〕、われわれがそれと同様に確実にそれよりもはるかに確実に甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。したがって、その人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りの人間は、次のように思惟し語らざるを得ないのである――第二の形態の神の言葉である「聖書が、〔第三の形態の神の言葉である〕教会の支配を実行に移すところ、そこでは、〔起源的な第一の形態の〕神の言葉の自由を抑圧するところの自律主義、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書を……除去するところの熱狂主義に対しては、律法的に、禁止しようと欲することができるのであり、禁止することを実行しなければならないのである」。三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)に連帯し連続する第二の形態の神の言葉である「教会に宣教を義務づける<聖書>が、〔第三の形態の神の言葉である〕教会の支配を実行に移すところ、そこでは、例えば、教皇と会議、司教と牧師、会議の主権と教会の主権、指導者と霊を受けた者たち、神学者の奉仕と教会の中にいるそのほかの者たちの奉仕、男たちの奉仕と女たちの奉仕」について、また親鸞に引き寄せて言えば、「念仏をとなえて、いちずに仏に成って、大慈大非心をもって思うがままに自在に、衆生をたすけ益することができる<浄土の慈悲>」を後景へと退けたところでの、「思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである」困窮する人々を不憫に思い、悲しみ、助けてやる<聖道の慈悲>」において自分が現に身近に接している『食物の飢え』等で困窮している具体的な一人の人や一部を人を過渡的緊急的部分的相対的に助けようとする救助について、またマルクスの『ユダヤ人問題によせて』に引き寄せて言えば、木を見て森を見ないという仕方で、観念の共同性を本質とする法的政治的な国家の無化<と>社会的な現実的な個体的自己としての全人間の究極的包括的総体的永続的な解放の問題(革命の究極的な問題)を「明確に提起する」ことをしないままになされる社会的政治的な実践について、それらのことを第一義化し価値化し絶対化したりしない限りは、「その都度存在することがあるいは存在しないでいることができる……」。ここにおいて、宮沢賢治の『農業芸術概論綱要』における「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、『よだかの星』の主題における「全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならない」という思惟と語りは意義深いものなのである。言い換えれば、第二の形態の神の言葉である「聖書が、〔第三の形態の神の言葉である〕教会を支配し聖書によって教会が支配されることを教会が実際に真剣に受けとるその時には聖書は教会とその主の間の関係〔教会とその主であり頭であるイエス・キリストの間の関係〕のまことの直接性〔絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという、聖書を媒介・反復する媒介的・反復的な関係性、すなわち「間接的な関係性」〕を破壊することはないしまた聖書は、〔第三の形態の神の言葉である〕教会に対して」、教会が、聖書を自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準」として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学倫理学の問題、すなわち純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち全世界としての教会自身と世すべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環において、イエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会共同性を目指して行くという律法の成就」・「律法の完成そのものとしてのキリストを律法の目標とする律法〔すなわち、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請〕以外の律法を押しつけることもしないのである……」。

 

神の契約と隠れはまさに確かにすでに現在なのでありすでにアブラハム預言者たちは概念の全き意味で〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、<実在の成就された時間>」としての「まことの過去」と「まことの未来」(すなわち、最後的な、<復活されたキリスト>の再臨、終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」)を包括した「まことの現在」としてのイエス・キリストにおける〕神の啓示を受け取ったのである」。したがって、「<そのような具合に>、待つもの、急ぐもの、彼らが来たりつつあるヤーヴェの啓示を受け取ったということが、はっきりと語られなければならない」。旧約聖書の中で啓示の担い手たち、「そのような完成を望み見ることによってそのような完成に向かって進んでいる>。彼らがそのような完成を意識しつつ望み見ている限り旧約聖書の中に終末論的な線が存在しているその終末論的な線は、旧約聖書のそのほかの証言と並んで立っているのではなく、最も内的な必然性をもって、旧約聖書の証言に根差しつつ生え出ているのであり、『イスラエル的な神信仰の不可欠な構成要素』である。また、その旧約聖書の終末論的な線は、その全体の内部で、一つの特別の構成要素として浮かび出てくる」。われわれは、「旧約聖書の世界にとって決定的な仕方で意味深い一連の見方に関してそれらをテキストの意味で正しく理解するために、……その前面に出ている対象はあくまで特定の歴史的時間的現在の中での神の契約と隠れのその都度の特定の様相であるという見方その背後にあるそれらの対象は同じあるいは同様の概念でもって表示されているものの突然の成就された時間に対応する様相である〔換言すれば、「<来たりつつある>神の<完成された>業である」〕という見方との二重の見方で見て取られなければならない」。

 

 「旧約聖書の中で例えばについてあるいはイスラエルについてそれと共にあるいはそれと並んでユダについて語られている時そのことでもって確かに先ずヤコブの子らの子孫全体が意味されている」――この「ヤコブの子らの子孫全体とシナイ山上において契約が結ばれた。しかし、すでに北の十部族が南の二部族から分かたれたということが、『民』についてのあの前景に出てきている見方は、神の民、選ばれた民について旧約聖書の中で語られている時に見て取られなければならないすべてを言い尽くすのに、全く不十分であることを示している。神との契約でもって意図され神との契約の成就にあずかる民はいわば民の中の民である。しかし、われわれが、ユダ―ベニヤミンこそ民であるとして、そしてそれと並んで存在していた北イスラエルの方は時と共に歴史から消え去っていった民として受け取る時、われわれは、まだ依然として前景的な見方のところにいる」。「ユダベニヤミンのうちの立ち返って裁きから免れる聖なる残りの者が民である、「誰がこの残りの者に属しているであろうかそもそも誰が神の民であろうか預言者の弟子集団に属する者であろうか神殿のまわりに群がり集まる信者たちの群れであろうかヴェの命令に従って歩む少数の正しい者たちであろうか然りそして否である……前景において、実際にそのような『民』が見て取られなければならないから、然りである。また、預言者の警告と希望は、その民のところに踏みとどまっていないから、エレミヤや第二イザヤのような後期の預言者は、結局また『民』について、エルサレムについて、いや全体のイスラエルについて語っているから、否である」。「民の中の民まことのイスラエルは明らかにヤコブの子孫全体と同一ではないしその全部のうちからとられた一部とも同一ではないむしろヤーヴェによって選ばれ召され最後に祝福されるまことのイスラエルあの両者の中でただ予示されているだけであるイスラエルは両者の歴史の彼岸においてその目標として立っているまことの民まことのイスラエルは自分自身にとって最も厳格な意味で、<未来的であるここからはじめてどれがまことの民まことのイスラエルであるかということは示されなければならない」。バルトは、次のように述べている――第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会(すべての成員)の宣教、その一つの補助的機能(教会的な補助的奉仕)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」。したがって、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(「祈りの態度」)に対し神が応じて下さる(「祈りの聞き届け」)ということに基づいて成立している」。このような訳で、「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」は、<実体ではない>。すなわち、その現にあるがままの即自的な「イスラエル」が、「まことのイスラエルではない」、その現にあるがままの即自的な「民」が、「まことの民ではない」、その現にあるがままの即自的なキリスト教的建造物および宗教的制度組織としての「教会」が、「まことのイエス・キリストの教会ではない」。言い換えれば、まことのイスラエルイエスキリストの教会」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて神語り給うが故に神語り給うことを「聞くことによって、常に新しく決定される」。したがって、第三の形態の神の言葉である「まことのイエス・キリストの教会」は、あくまでもイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断によるところの、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とする、主観的な「認識的な<ラチオ性>」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)に連帯し連続して、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「啓示との<間接的同一性>」、啓示との区別を包括した同一性において存在している「啓示の<しるし>」)である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、<絶えず繰り返し>、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、それ故に「自己欺瞞に満ちた市民的常識、市民的観点」における過渡的緊急的部分的相対的な全く人間的な社会的奉仕、慈善的隣人愛のことではない)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性(「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」共同性)<となる>ことによって、「まことのイスラエル、民、イエス・キリストの教会」共同性<である>それである。「何人も神の子供であることなしに聞くことはできないが、同時にまた何人も、聞くことなしに、しかも繰り返し聞くことなしに、神の子供であることはできない」。何故ならば、「神に愛された」、「聞くイスラエル」、「聞くイエス・キリストの教会」、聞く民、聞く神の子供たちは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、おのずから必然的に、絶えずくり返し、その「愛の命令の成就に向かって進んでゆく」からである。「イエス・キリストの中で、神は彼らのために味方してい給う。したがって、イエス・キリストの中で、彼らは、命令を聞くことによって、愛するものとしての彼ら自身の未来を、彼らが律法を成就する成就を、つかむのである〔「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することできるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを目指す律法を成就する成就をつかむのである〕」。徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト<>信ずる信仰」)、すなわち「律法の成就」・「律法の完成」そのもの(『福音と律法』)、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念を含んでいる――『平和に関するバルトの書簡』)そのものであるイエス・キリスト自身――このキリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、この包括的な救済概念と同一な平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」)までの聖霊の時代(中間時)において、「新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕<すでに>と<いまだ>において終末論的に語るのである」。ここで、「終末論的とは、われわれの経験と感性〔人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕にとっての<いまだ>であり」、徹頭徹尾神の側の真実としてある「成就と執行、永遠的実在として<すでに>にということである」。

 

 「旧約聖書の中でその民に対して約束されそれから与えられたについて語られている時そのことでもって確かに先ず全く単純に神によって父祖たちに約束されたカナンの国のことが理解されなければならないしかし、「ここでもまた地理学的なものはたとえその当時それがどのような特質を持っていたにせよそれだけで全線にわたって約束の国という概念の中に含まれていた意味内容のすべてを言い表すには全く適していない……。『乳と密の流れる国』という線の上でさらに視線を前方に向け、この土地において実際具合よく事が運ばなかった時代に、その見方と結びついた約束の後に従いつつ、そこで、将来その民の居住地であるであろう、失われその後再び回復される楽園のことを、いやそこでその民が平和裡に幸福に結び合わせられるほかのもろもろの民の間で、いつの時にか暮らすであろう奇蹟的に更新された土地の方に目を向けなければならない」このような訳で、「確かにとはパレスチナことであるしかし、「同様に確かなことはその国の中でその国と共に、……イスラエルの歴史の中で、それの目標であるが故に、換言すればイスラエルの歴史にとって彼岸的であるが故に実際に姿を現すことのない〔終末論的な〕全く別な国が意味されている〔すなわち、<復活されたキリスト>の再臨、終末における、究極的包括的総体的永遠的な救済が「完成」された、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和が究極的包括的総体的永遠的に「完成」された、イエスキリストが支配する神の国が意味されているしたがってその完成の時には、現存する観念の共同性を本質とする法的政治的な国家、その尖端性として現存している国民国家、近代主義国家、自由主義国家、自国の利害の保持と拡大を第一義的に最優先する戦争の元凶である民族国家、経済的な資本主義国家を含めてすべての国家は無化され廃棄されるまたその完成の時には、現存する世界が経済の世界性と自国の利害の保持と拡大を第一義的に最優先する戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている限り、また大国主義の国連も無力である限り、また議会制民主主義もただ<擬制>民主主義でしかない限り、それ故にその中で国民全体の奉仕者あるいは住民全体の奉仕者であるべき国家や地方の政治家、国家官僚、地方公務員も、大多数の被支配としての一般民衆・一般市民・一般国民の生活の幸福や平和をではなく、自分に関わる利害や金や権力、自分の所属する共同性の既得権益、それらの保持や増大や拡大を第一義とする限り、また相互扶助意識を育んだ農耕村落共同体がその背後に「村八分」の世界を持っている限り、また全く人間的な諸々の慈善的事業や社会的奉仕における市民的観点、市民的常識が自己欺瞞と自己満足に満ちている限り、また教会論的なキリスト教的人間であれ、その人間的存在が「無神性」・「不信仰」・「真実の罪」のただ中にあって罪を新たな罪を犯し続けている生来的な自然的なわれわれ人間の人間的存在である限り、またわれわれ人間は、それが、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、善人であれ、カトリックの聖職者、プロテスタントの牧師であれ、医療関係者、教育関係者、法律関係者、警察関係者であれ、大学の場におけるあるいはそれ以外の場における知識に関わる知識人であれ、慈善家であれ、誰であれ、それぞれが、それぞれの、資質を持ち、生活を持ち、自由主義国家の成熟と資本主義の拡大・高度化が育んだ<私的利害>と<恣意的自由>の<優先意識>を持ち、喜怒哀楽の感情を持ち、情念の世界を持ち、嫉妬の世界を持ち、好き嫌いの感情を持ち、競争心を持ち、邪念や邪心を持ちという中で、<現実的な利害対立の問題とか愛憎問題とか窮乏とか戦争とかの不可避な機縁・契機さえあれば、自ら軽薄な明るさの中でいじめや嫌がらせやからかいや脅しや差別や犯罪や暴力や軽薄な思惟と語りと笑いを助長するような番組作りをしている現存するメディアを通して知らず知らずのうちに身につけさせられた外皮的な言葉である平和とか人権とか正義とか思いやりとか絆とか感謝とか恩返しとか(これらの言葉は、現存する世界が、社会が、そうではないことのそれ故に外皮的な裏返された表現の言葉である)等を標榜している人々も、「自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識」における<慈善>事業や政治的社会的<奉仕>に熱心な人々も、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である経済社会構成の拡大・高度化、科学技術の進歩・発達、生活の利便性の向上を十分に享受しながらエコロジーを標榜している人々も、ある主義・主張で反戦を標榜している人々も、自分が意志しなくとも身体的にかあるいは心的にか人一人だけでなく多数の人を傷つけたり殺したりし得るところのそれ故に究極的包括的総体的永続的な救いも平和も永久に訪れることはないところのそのようなわれわれ人間の世われわれ人間の時間、<キリストにあっての神の側からして完全に克服され全面的に更新される。因みに、HL・ドレファス+P・ラビノウ『ミシェル・フーコー 構造主義と解釈学を超えて』、中山元『フーコー入門』、ミシェル・フーコー『全体的なものと個的なもの―政治的理性批判に向けて」』によれば、シシェル・フーコーは、次のように述べている――「権力は、実体ではなく、個人<間>に存在するひとつの個的な関係タイプ」であって、それは、「ある価値基準ある時ある場所において、聖なる者と俗なる者、教えるものと教えられるもの、正常なものと異常なもの、支配されるものと支配するもの等へと関係を規定する政治的合理性の形態である」。すなわち、その「権力」は、「権力的、強制的、弾圧的にではなく」、「すべての個々人の生命に四六時中こころを配り、彼らに助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割とする」<社会的な>「教育・医療・監獄制度」や<政治的な>「福祉政策」やによって生み出されるところの、「その権力的在り方に〔知らず知らずのうちに〕服属させられる関係性〔無意識の共同性〕のことである」、それはまた、「白人(西欧人)と非白人(非西欧人)という<集団的な>人種差別における差別原理、そしてそれに基づく浄化の原理、殺す原理を内包させている、またこの原理は、国家間においてだけでなく、国内においても適用され、価値部分と非価値部分、選ばれる部分と排除される部分、生かされる部分と殺される部分、良い種と悪い種、という人間に対する区別、差別、分離の原理を内包させている」〕。

 

旧約聖書の中で神殿について語られている時、そのことでもって、確かにダビデが主の住居として主のために建てようと欲しソロモンが実際に建てたところの家それであるからその民にとっては礼拝と献げものをする場所であるエルサレムにある家のことが意味されている」――このそれが持っている意義を少しも失ことなしに破壊され建て直されまた破壊されことができる神殿はその背景にある……イザヤによれば人の手によって造られず神ご自身によって建てられたそのところにただ単にイスラエルだけでなくもろもろの民が群れをなして巡礼するであろう全く別な神の山の上に立っている栄光に輝く未来的な神殿によって支配されている、この未来からして、エルサレムにある神殿は、それが現にあるところのものである」。「旧約聖書の中では、『神の支配』は、確かに、先ず第一に、現在的なもの、……そして、その民はヤーヴェに属しており、その運命において、ヤーヴェによって支配され、罰せられ、報いられ、それであるから民全体としても、その一人一人の成員においても、ヤーヴェの指示と命令に聞き従わなければならないということを意味している。たちまさった背景、すなわち『<完全な神の支配という概念の中でこそ人が旧約聖書の終末論全体を集約しようと試みたということをよく理解することができる何故ならば、〔<復活されたキリスト>の再臨、終末、究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」としての〕『<完全な神の支配という概念の中でこそ明らかにすべての現在はただその未来からして理解することができるだけだからである。明らかにそのような希望こそが、神の支配を信じる信仰に対して、すでに現在においても、いやまさに現在においてこそ、可能性と力を与えるのである。神の民はまさにその現在の状況と状態の不完全さの中でその都度完全なものを見ることなしにその未来において実現されるであろう完全なものによって生きる(中略)すなわち、神はすべての敵を足元に置き、その『<完全な>神の支配』は、その民の心の最も内面に対しても、全宇宙に対しても確立されるであろうことを知るに至るように見える」。

 

旧約聖書の中では裁き、〔前景として、〕全く具体的にしかも無気味なほどしばしば荒野において蛇にかまれて苦しめられた事件からエルサレムの破壊に至るまでの国民的災害という形で遂行される。人は、殺害され、焼き払われた町や村々、惨殺された死体で満ちた町、捕囚として連れ去られて行く者たちの長い行列、このような前景()なしには、旧約聖書の中での『裁き』と言われているところのことを知らない。しかも旧約聖書的な裁きの思想は、その真剣さと厳格さをそこのところから得てきているのではない」のであって、「それらすべてのことの背後に、それらすべてのことよりもはるかに恐ろしい神の愛の終焉イスラエルの棄却さらにすべての民に対してもたらされる神の焼き尽くす怒り世界審判が立っているのであるそれらはいずれも現在のことではなく最も厳格な意味で未来のことであるしかしまさにこの未来のことが現在において問題なのである。預言者たちは、敵の軍勢によって火をつけられ、サマリヤとエルサレムを、しかし結局はニネベとバビロンをも焼野原にしてしまう炎の彼岸に、全く別な消えることのない炎を見ている。預言者たちは、あの前景()について語ることによって、その背景からして、その未来の裁きからして、脅かしつつ、断固として語っているのである」。「ここであげられるべき見方の中で最も重要なものは、『についての見方である」。「王とは、先ず、その当時近東においてそれに類する者が多くいた中で、どちらかと言えば弱小の者あるいは最小の独裁君主の一人、その都度の現在においてエルサレムで支配する独裁君主のことである。しかし、王は当時神の契約の最も傑出した道具の一つであるまた、もしもそこで何かある姿が、また抜きん出た仕方で、神的隠れの影のもとに立っていたとすれば、それこそまさに王の姿である。このことでもってまた、すでにその姿も、自分自身を超えたところを指し示しているということが言われている。伝承によれば、すでにダビデ自身が自分のことを、……『人を正しく収める者、神を畏れて治める者は、朝の光のように、雲のない朝に、輝き出る太陽のように、地に若葉を芽生えさせる雨のように人に臨む』(Ⅱサムエル二三・一-七)と言われている義人の予型として理解した。この義なる王同時にその都度支配したすべての現在的な王の脅かすと同時に約束する将来である義なる王こそメシヤイスラエルの王であるいや彼は、『終わりの日に世界に君臨する王である」。「ここでもまた、『民』の場合と同じように、選択が力を奮い、サマリヤの王はその希望にあずからず、ただエルサレムの王だけが、その希望にあずかるのである。<政治的な称号>である天使あるいは油を注がれた者という言葉は、来るべき平和の君に関して語る時に、預言者たちがいつも用いていた言葉である。王権という政治的な見方は、いずれにしても預言者たちの待望の中心的な<形式>である。したがって、その政治的な見方の延長線上にいつの時か来るべき終わりの時に神から遣わされた〔究極的包括的総体的永遠的な〕人間的な助け主慰め主主の姿が立っている」。このような訳で、「その政治的な見方は、……全く世俗的な見方であるとか世俗的な見方になってしまうということはあり得ないのである」。確かに、「王が神の子と呼ばれ、また王に対して神の使いの知恵・油注がれたことに基づく聖なる不可侵性および特別の賜物を与えられることによって霊の力が帰せられ、また王の姿が……神に似た支配者、救助者、善行者の姿として描かれ、また王のことを歌った詩篇の中で王がなす戦いと勝利のことがあたかもそこでは完全な神の国を導入する神的顕現が問題であるかのように祝われている時、そのことは、言語と比喩の材料に関する限りは、古代東洋的な、特にバビロンにおける宮廷で用いられていた文体である」が、しかし、「まさに……十二枚折り判でしかないユダの王が、政治的には、事実ただ傀儡的な王でしかなかった時代に、例えばバビロン王のような現に世界の支配者であるものを崇めるのにふさわしいような言語的および比喩的な材料を譲り受けているということは、宮廷型の文体とか、その背後にある神話とは全く無関係な一つの見方が働いていたということである。すなわち、そこでは、その都度経験された政治的な現在を程度を強めせり上げるということが、メシヤの待望において問題なのではなく、徹頭徹尾それを<超え出て行く>ことが問題である」。何故ならば、「王についての見方こそがメシヤ待望の中心的な形式として表示されなければならないのであるが王についてのそれらの見方は待望する救いをもたらすものについて語らなければならないすべてのことを語るにしては〔すなわち、待望する究極的包括的総体的永遠的な救いの「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である平和の究極的包括的総体的永遠的な「完成」をもたらすものについて語らなければならないすべてのことを語るにしては〕、明らかに余りに狭すぎるからである第二にイザヤに出てくる神の僕王というよりも預言者であるそして詩篇一一〇に出てくるダビデの子およびゼカリヤ六章に出てくる人物は祭司であると同時に王であるダニエル七章の天の雲にのって現れる人の子確かに支配者の特徴を帯びているが彼はまさに世のもろもろの力いや世の力そのものを奪い取って終止符を打つ支配者の特徴を身に帯びているここで、エノク書の解釈を引き合いに出せば、〔「先行するメシヤ的な苦しみ……が終わった時に現れる」〕彼は、全く栄光の中で戻ってくる最初の人間である。この人間は、終わりのない平和の支配、罪を払拭すること、世界審判、ただ単に人間の精神に対して力を奮うばかりでなく更新された自然の世界に対しても力を奮う主権、これらすべては支配するという概念で総括されている。このような背景の下で、〔世俗的な〕ユダの王は、その前景において、その都度彼が現にあるところのものである」。「旧約聖書の終末論がメシヤ待望の中で尽くされてしまうというのは確かにそうであるしかし、「ただ間接的にだけ言えることである」。何故ならば、「旧約聖書の待望が王の見方と並んで、……土地神殿神の支配裁きといった見方があるからであるまた、「それらと結びついた旧約聖書の待望は、……終わりの時の王の見方と待望の中で絶頂に達し具体的となるからである。「イスラエルのすべての希望が、地上における一つの出来事を目指しており、歴史のことを意図している限り、メシヤは、確かにイスラエルの希望である。そこで目指されているものは、確かに徹頭徹尾、神によって導き入れられ、すべてのそのほかの歴史とまさに上から入り込んで来る>ところの、それ自身歴史的な出来事である。来るべき実在も、神の名において別な仕方で支配する人間であろうという点で、現在的な予型と来るべき実在の間の類比が壊れてしまいはしないのである。<その方の>出現と共に、今待ち望まれているほかのすべてのもの、まことのイスラエル、約束の地、神の山の上の神殿、終わりのない国、世界審判もそこにある」

 

 そのような訳で、「そのことが旧約聖書のはっきりと言葉に出しての待望である〔「イエス・キリストの受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、<実在の成就された時間>」である「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての旧約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間である〕。したがって人はそのような待望を結ばれたがまだ成就されていない神の契約>、啓示されたがまだ実現されたわけではない神の隠れについて旧約聖書の中で語られていたことと比較してみなければならない>。われわれは、啓示〔神の顕現〕また神の隠れ〔神の隠蔽〕について語られたことも、その確認を、そのようなはっきりと言葉に出しての待望が存在しているということを通して受け取るのである」。「旧約聖書が待望に関してもはっきりと言葉に出しての神の啓示の証言であるということそれであるから旧約聖書の待望は、決して単なる幻想ではなく、……待ち望まれた方が、すでに戸を叩き、まだ外におられるとはいえすでにそこに来ておられるからには、それであるから、単なる抽象的な待つことは終わったということ、換言すればそれだけで独立して存在する時間としての以前の時間は終了したということ、〔換言すれば、イエスキリストの受難と死および復活の出来事におけるキリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、<実在の成就された時間>」であるまことの過去まことの未来を包括したまことの現在に包括されたまことの過去の中での待望であるということ〕――このことをわれわれは、「『既ニ起ッタ出来事からしてすなわち〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」としての実在の〕『成就された時間想起からしてそれ故に新約聖書からして語るのである」。「それの文書が旧約聖書の正典の中に取り上げられなかった後期ユダヤ教は、……旧約聖書の公認の専門家たち、聖なる伝承の召された代表者たちによって代表されつつ、まさにイエス・キリストを見過ごしてしまって、イエス・キリストを拒否し、十字架につけたのである。啓示は、確かにその最も明確な証言からしてこそ、直接的にではなく、それ故に決して実験と論理を手がかりにしてなされるべき論証の形ではなく語っている」。言い換えれば、神の啓示はその啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力総体的構造を持っていることからしてそれに基づいて語っている。したがって、「啓示の待望は、旧約聖書の中では預言であって、実験と論理を手がかりにして吟味されるべき予告ではない」。このようなわけで、「人は、それを見過ごすことができたし、また見過ごすことができるのである、またそれを拒否することができたし、拒否することができるのである」――このことの中で、旧約聖書の中での「待望された啓示は、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕実際にそれ自身啓示であり、旧約聖書的な現在は、実際に神の将来であるところの将来にあずかるということがまさに確証されるのである」。したがって、「人は、この待望された啓示に躓くこともできるし、この待望された啓示を〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、〕信じることができる。言い換えれば、それは、まさに啓示が語るような具合に語るのである」。ユダヤ会堂の待つ仕方とは違って、「父祖たちの待つことはまさに単なる抽象的な限りなく続く待つことではなくてすでに成就された時間にあずかる待つことであった〔すなわち、「イエス・キリストの受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、<実在の成就された時間>」である「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての旧約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間における、成就された時間にあずかる待つことであった〕」。われわれは、イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間における「啓示は、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉>の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエスキリスト自身、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」(「真に罪なき、従順なお方」「イエス・キリスト信ずる信仰」)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「成就と執行、永遠的実在としてある」成就され完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この包括的な救済概念は、平和の概念と同一である)そのものとしてのイエスキリスト自身、「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」として父なる神の子としてのイエスキリスト自身「イエス・キリストの受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「われわれの時間の中で、<実在の成就された時間>」としての「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」であるイエス・キリストの啓示ということからして、〕それをすでに起こった啓示として信じる換言すればイエスキリストを信じる教会の中でこそ、〔「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、〕ただまさに啓示が語るような具合に語るだけであるということを思い出さなければならない啓示の認識は〔すなわち、啓示の認識は、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>、すなわち客観的な「存在的な<必然性>」とその主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面である主観的な「認識的な<ラチオ性>」に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる、――この啓示認識(啓示信仰)は〕、それが旧約聖書の中での啓示証言に関わっていようとあるいは新約聖書の中での啓示証言に関わっていようといずれにしてもいつも決断を意味している教会が啓示を認識し〔教会が啓示認識し啓示信仰し〕啓示によって生きる時そのことは、パウロがローマ一一章二〇節以下で述べているように値なしに与えられる全くの神の恵みである」。「まさに啓示の秘義こそが、新約聖書の教会を、引き裂くことのできない仕方で、それが恵みを受けたことが、イエス・キリストの待望として旧約聖書の中で証しされているあの民と結びつけているまさにこの啓示の秘義こそが、教会<と>心のかたくなな姉妹としてのあの民が実際にイエス・キリストを待望していたしその待望の中で恵みを受けていたことを見る目を持ちながら見ようとしない会堂を、ただ単に切り離すだけでなく、また結びつけて立っているのである」

 (文責:豊田忠義)