3の3.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕 十五節 啓示の秘義 三 クリスマスの奇蹟〔「啓示の<秘義>」の<しるし>としての「イエス・キリストは聖霊によって宿り給うた」(第一の条項)という「クリスマスの<奇蹟>」〕』について(その3)
【なお、引用個所の〔〕書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である】
(二)「聖霊ニヨッテ宿リ」(第一の条項)
聖書の中で証されている「啓示の<秘義>〔「クリスマスの<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」、「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>〕」は、その「<しるし>〔すなわち、「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>」(「第一の条項」)、「イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>」(「第二の条項」)という「クリスマスの奇蹟」〕を通して語って来て聞かれる」。「処女ヨリ生マレは、〔「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての〕クリスマスの奇蹟の<否定的な>面〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「メシヤの名に対する『人の子』(マタイ一六・一三)というイエスの自己称号は、覆いをとるのではなくて覆い隠す働きをする要素として理解する方がよい」、「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」〕を記述している。主の誕生は、それに先行する性的過程なしの、すなわち生殖機能を果たす男性なしの誕生である。この点で、主の誕生は、理解を絶したこと、すなわち主の誕生は、〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、ここで子は、この「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」子である。それ故にまた、「子として自分を自分から区別した」父は、「自己啓示する神として自分自身が根源である」)、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」(すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――この神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における<神の>子あるいは<神の>〕言葉の、聖なる方の、万物の主の受肉を表示する<しるし>である」――聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<神の神性において>、また〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において〕<神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた<神の人間性>〔キリストの人間性、「真に罪なき、従順なお方」まことの人間〕もわれわれに出会う」、それ故に近代主義的プロテスタント主義的な教会の宣教者や神学者のように、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について認識し自覚していないような人は〕、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」(『神の人間性』)。このような訳で、「その際、すでに示されたように、<しるし>においてマリヤの人格に対しても、マリヤの性に対しても、独立的な教義学的な意味が帰せられることはできなし、また<内容>においてその人間性に対しても、独立的な教義学的な意味が帰せられることはできない。すなわち、神の同労者〔協働者、共働者〕としては、事実何人も問題とならないのである。処女マリヤ〔人間〕ということは、事実、ただ実際に、神が啓示の中でその者の身に対して、その者と共に行動し給うところの対向者であるということを語っているだけである」。このような「注釈的な正しさをもって語られたことを、第一の条項の<積極的な定式>、〔使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べているというように理解した方がよい」ように、「神の顕現」としての〕聖霊ニヨッテ宿リが証明している。この第一の条項の積極的な定式、すなわち聖霊ニヨッテ宿リは、第二の条項の否定的な定式、すなわちマリヤからの誕生に先行するイエス・キリストの懐胎が、聖霊なる神のみ業であったということを語っている。このような訳で、それは、奇蹟的な誕生であったし、そのようなものとして、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における<神の>子あるいは<神の>〕永遠なる言葉の受肉のまことの<しるし>〔すなわち、「啓示の<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての「クリスマスの奇蹟」〕であった。聖霊ニヨッテ宿リという定式〔第一の条項の積極的な定式〕は、その奇蹟と<しるし>〔すなわち、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての「クリスマスの奇蹟」〕の根拠と内容を言い表している。また、処女ヨリ生マレという定式〔第二の条項の否定的な定式〕は、その奇蹟と<しるし>の形式と形態を言い表している」――「この限り、〔第一の条項の〕聖霊ニヨッテ宿リという定式も、……〔「啓示の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」の〕<しるし>であろうとしているのであるが、〔「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>としての「啓示の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」の〕事柄と<最も近い>関係を持っている。また、〔第一の条項の〕聖霊ニヨッテ宿リという定式それ自身、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉>の受肉〔、「この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、すなわち「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕の<秘義>そのものが、……イエス・キリストに関してその人間的な現実存在が、啓示と和解のあわれみの行為〔すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕に適合しているその自由と尊厳さの中で、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である〕聖霊なる神の最も固有な業〔すなわち、「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕であるということが語られることでもって言い表されることもできる……」。「しかしながら、われわれは、それら二つの定式を、……〔第一の条項の〕聖霊ニヨッテ宿リは<事柄>を、〔第二の条項の〕処女マリヤヨリ生マレは<しるし>を言い表しているといった具合に分けてしまうことはできない」。何故ならば、「聖霊ニヨッテ宿リは、いわば聖書の奇蹟についての報知、マタイ一・一八あるいはルカ一・三五の直接的な引用であり、処女マリヤヨリ生レは、いわばイザヤ七・一四を想起しつつそれを教義的に精密に言い表しているからである。古い方の信条の形式も、それからニカイア・コンスタンティノポリス信条にしても、〔第一の条項と第二の条項の〕両方の要素、聖霊と処女マリヤを単純に並べて置き、両者の間の出来事を動詞形<生まれ>あるいは<肉体ヲ受ケテ人トナリ>でもってまとめて述べたことによって、〔第一の条項の〕聖霊ニヨッテ宿リと〔第二の条項の〕処女マリヤヨリ生レは、二つの定式ではなく、むしろ〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性における〕唯一の定式を提示している」。このような訳で、「人は、注釈的な正しさをもって、いわゆる使徒信条の中で特別な、第一の言明〔第一の条項〕として取り扱われている定式、聖霊ニヨッテ宿リを、確かにキリストの人格の<秘義>〔「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>〕についての独立した言明として、処女降誕との関連なしに取り扱うことはでき<ない>。〔第一の条項の〕聖霊ニヨッテ宿リという定式は、むしろ〔第二の条項の〕処女マリヤヨリ生レに属している〔換言すれば、「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>に属している〕。〔第一の条項の〕聖霊ニヨッテ宿リという積極的な定式は、〔第二の条項の〕処女マリヤヨリ生マレという定式が〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」という〕否定的な仕方で語っていることを、〔「神の顕現」という〕肯定的な仕方で語っている、処女ヨリ生マレが人間からして〔「真に罪なき、従順なお方」まことの人間であるという〕イエス・キリストの人格的な<秘義>の<しるし>について語っているところのことを、聖霊ニヨッテ宿リは神からして〔まことの神であるという〕イエス・キリストの人格的な<秘義>の<しるし>について語っている」――このイエス・キリストの人格的な<秘義>、「神の恵みの実現そのものの<秘義>は、その形式と形態が処女ヨリ生マレから成り立っている奇蹟〔「クリスマスの<秘義>」の<しるし>〕の根拠と内容である」。「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレた神である」ところのまことの神〔「神の顕現」〕にしてまことの人間〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う……この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けた」(『福音と律法』)「真に罪なき、従順なお方」(1936年、デブレッツエンとクラウゼンブルクの神学大学での講義『神の恵みの選び』)〕である。
「聖霊ニヨッテ宿リの説明の頂点のところに、キリスト教の教会の領域〔すなわち、「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「第二の形態の神の言葉」である聖書の中で証されている〕啓示と〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の領域〕において聖霊について意味深い仕方で語られれるところの……神が、神ご自身が、言葉の最も厳格な全き意味での〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての〕神が意味されているということ、換言すればすべての主の主、ほかのものによってではなく、ご自分を通して主であるところの主〔自己還帰する対自的であって対他的な、それ故に完全な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中での「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」〕、……人間はその方にすべてを負うており、いつまでたってもすべてを負うたままであるところの主、人間はその方の恵みに完全に頼らしめており、ただその方の約束の中にだけ、〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、<客観的な>その「イエス・キリストの受難と死および<復活>の出来事」における「キリスト<復活>の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の<成就された時間>」――この<復活>されたキリストの<再臨>、<終末>における<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「<完成>」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「<完成>」としての〕人間の未来があるところの主である方が意味されているということを思い出す想起が属している。その方が、ほかの何者でもなく、ほかの何物でもなく、まさにその方こそが、処女マリヤから生まれるために、その方によってイエス・キリストが人性という面で受胎されたところの聖霊である〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は、父が根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源である」ところの「聖霊」、それから「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「第三の存在の仕方」(「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性⦆・「救済者」なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「聖霊」である〕」――「このことを確かめることは、<先ず第一に>……〔「われわれの世界を徹頭徹尾限界づけている<しるし>、世界の主である神の啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>としての〕キリストの処女降誕についての言葉を、〔現存する「世界の内部での摩訶不思議……異常な出来事、それであるからわれわれの人間的な世界観の対象でしかない」〕異教的な神話の領域にも見られるような、それと似たもろもろの主張と同種の平行現象として受け取ろうとする試みを拒否するという点で、大切である」。「<第二には>、イエス・キリストが受胎されたところの聖霊は、最も厳格な意味で、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神ご自身として、主なる神として理解されなければならないということでもって、……キリストの処女降誕についての言葉に対して、何らかの〔類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使しての〕自然哲学思弁あるいはまた例えば生物学的な種類の多少とも純粋に自然科学的な認識をもって助けに赴こうとするすべての試みが排除されているという点で、大切である」。言い換えれば、「聖霊ということでもって、徹頭徹尾〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての〕処女降誕の創始者としての〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神ご自身のことが述べられていることがはっきりしているならば、その時、人は、……その<しるし>が実在であることを認める告白でもって、はじめからその<しるし>を〔「例えば、自然的な単性生殖の例に照らして」〕自然的な可能性として理解することを断念したということを知るであろう」。「その時、人は、まさに純粋に神的な始まり、すべての自然的な可能性の限界づけのことを告白したのである、果たしてその実在は純粋に神的な始め以外の何ものかであり得るかどうか、一体どのように純粋な神的な始め以外の何ものかであり得るかということについて〔類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使して〕吟味することを、始めからして断念したのである」。「啓示の<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての「処女降誕をクリスマスの<秘義>の<しるし>とするところのものは、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」である〕イエス・キリストが受胎された聖霊の<神性>についてのその厳格な理解である、同時また、〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての〕処女降誕の<奇蹟>としての性格についての厳格な理解である」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉においても、厳格な意味で、神ご自身の行動が〔詳しく言えば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第三の存在の仕方」(「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下⦆・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)が〕、純粋な神的始まりが問題であるが故に、処女降誕は、それが〔「啓示の<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」の〕<しるし>として指し示している事柄の特徴をよく表わしている〔イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の特徴をよく表している〕」。
さて、イエス・キリストの受胎において「名指されているものが、何故聖霊なる神であるのかという第二の問いに対して与えられるべき答えは、まさに第三の位格あるいは第三の存在の仕方が〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち「啓示されてあること」・起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下⦆・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊が、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における〕神的な啓示あるいは神的な和解の行為において持っている意味に関して、〔「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会が、正しい聖書的認識だとして、神の三位一体性についての〔教会の<客観的な>〕教義の中で、特に聖霊についての教義の中で言い表し文書化したことを標準にしながら、われわれが、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」である「第二の形態の神の言葉」である〕聖書から学ばなければならないことから続いてくる」。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の下で、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性⦆・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「神的愛に基づく父と子の交わり」(「父と子より出ずる御霊、これは聖霊の神性の定義である」)としての「聖霊は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解主」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストにおける〕啓示の中で確証されたところの……被造物に対して現臨する、いや〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて〕内住され、ご自分と被造物との出会いをその言葉の中で遂行し、この遂行の中で可能ならしめる神ご自身である。聖霊を通して、ただ聖霊を通してだけ、人間は、神のためにその場におり、人間に働きかけ給う神の働きに対して自由であり、信じ、神の啓示の受領者であり、神的和解の対象であることができる。聖霊の中で、ただ聖霊の中でだけ、人間は、彼が実際に神が啓示する行為・和解する行為〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解主」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕に参与していることに対する証言と保証を持つ〔「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)は、「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての<主観的な>「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて贈り与えられる〕。聖霊を通して、ただ聖霊を通してだけ、神は、われわれに対して、われわれの一人の主、われわれの一人の教師、われわれの一人の導師であるというその主張を力強く働かしめ給う〔「聖霊の働きの本質的なもの、直接性は、聖霊が、一人の主なる神をのみ主として持つ自由をわれわれに与えるが故に、そのように告白することをわれわれに要求するし、またわれわれ人間の中にも、中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することをわれわれに要求するし、また〘生来的な自然的な〙われわれ人間の理性や力〘感性力、悟性力、意志力等々〙ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することをわれわれに要求する」〕」。聖霊の力によって、ただ聖霊の力によってだけ、教会は存在する……神の言葉に対して奉仕がなされ得る教会が存在する〔「イエスが聖霊の特別な働きとして約束したものは、慰め主としての霊と真理の御霊であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、上からのよき賜物である」。神のその都度の自由な恵みの神的決断による「聖霊の注ぎ」により「聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換に置かれることである。この二つの方向転換においてイエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質は、キリストにある自由を意味している。この聖霊が、教会をみ言葉の奉仕へと向かわせるのである。また聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊であるから、われわれは、〘神のその都度の自由な恵みの神的決断による〙聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる。そしてまた、和解者が神の子であるが故に、……和解、啓示の受領者たちは、神の子供なのである」。このような訳で、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教(説教と聖礼典)およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学は、その「キリスト教の<証人>の任務」は、<客観的な>「存在的な<必然性>」<と><主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの(すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による<客観的な>「イエス・キリストの啓示の出来事」<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」、「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの)、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」の中での主観的側面である<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性<と><客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(「聖霊自身の業である<啓示されてあること>」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性)における「第二の形態の神の言葉」である聖書(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの「決断と態度という自律的服従」との全体性において、絶えず繰り返し、「聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で」、聖書の中で証されている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神を、純粋な教えとしてのキリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち、「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわち、一般的倫理学の問題ではなく、また自己満足と「自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識」からする隣人愛でもなく、区別を包括した単一性において<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、換言すれば純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるためになす>キリストの福音の告白・証・宣べ伝え)という連環と循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指していくところにある。このような訳で、このことを認識し自覚しないところでなされる、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのものとしての「イエス・キリストが律法の終わりとなられた方であることを聞かず承認しない」ところでなされる、それ故にまた「律法の成就」・「律法の完成」そのものとしての「イエス・キリストを律法の目標としない」ところでなされる、「人間的な自然法、抽象的理性や民族法を律法の目標とする」思惟や語りや行動は(『福音と律法』)、また「聖書によって義務づけられている教会の宣教の課題である福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」思惟や語りや行動は(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、また「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おうとする」ことは、また「ある社会機構、あるいは経済機構の保持、廃止に貢献しようとする」ことは、また「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとする」ことは(『教会教義学 神の言葉』)、また人間的な恣意的独断的な自己満足と「自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識」からする嗜好的な選択的な慈善、社会的政治的実践、具体的に「ある者は盲目的に仕事へと没頭し、ある者は人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜し、ある者はその時代の人間中の様々な敗残者に対して熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行い、ある者は大規模な世界改良の偉大な計画に邁進し、ある者は大衆や時代の傾向と手をたずさえてある種の正義に邁進する」という実践的行為は(『福音と律法』)、確かにそれらはまさに<人間的な>意味的行為として否定することはできない行為であるから、それらの行為を否定するという意味ではないが、全く<本末転倒>甚だしいそれである。したがって、そのような思惟や語りや実践的行為は、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」(『福音と律法』)。また、「第三の形態の神の言葉」である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」し、その「祈り」を聞き届けて下さるか下さらないかということも「神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」(『教会教義学 神の言葉』)、また「聖霊は、人間精神と同一ではない。人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された人間の理性性(主観的な「認識的な<ラチオ性>」)も聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)〕」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」における「神的愛に基づく父と子の交わり」としての「聖霊が、教会の宣教の領域において、その意味でわれわれに与える自由が聖霊自身の自由であり、この聖霊がわれわれに対してご自分以外の何ものでもないものを与え給う限り、この聖霊の自由が、教会の自由であり〔「教会のまことの実在根拠」であり〕、神の子供たちの自由である〔「神の子供たちのまことの実在根拠」である〕。聖霊のこの自由、聖霊の中でのこの自由こそが、……基本的には〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の<言葉>の受肉、神のみ子が人間の性質をおとりになることの中で問題である〔<主観的な>「認識的な<必然性>」――すなわち、<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」に基づいた「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に関わる聖霊は、<客観的な>「存在的な<必然性>」――すなわち、その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事の中での主観的側面」として、<客観的な>「存在的な<必然性>」(その「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)と「単一性と区別」、区別を包括した単一性において同時的である――すなわち、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」。「聖霊は、〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〙神の子との統一性の中に取り上げられる人間の性質の可能性である。それであるから、まさに啓示のその原点こそ、〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〙神の言葉は〘神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての〙神の霊なしにではない。〘「単一性と区別」、区別を包括した単一性において〙神の霊は、神の言葉と共存する。言い換えれば、被造物、人間が、<神のため>にその場にいるし、<神のため>自由であるということが、神の霊を通して実在となり、それと共に可能となる。神の霊を通して、肉、人間の性質は、神の子との統一性の中へと取り上げられる。神の霊を通して、その人間は神の子であり、同時に第二のアダム、そのようなものとして『多くの兄弟の中での長子』(ローマ八・二九)であることができる、換言すれば彼の故に、〘「神の啓示は、裁きであることによって、恵みである」ということからして、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う救いの答え」を、「われわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けた」という仕方で「全く端的に、信じ給うた」(『福音と律法』)〙彼を信じる信仰の中で、自由とされたすべての者たちの<原型>であることができる」――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(このことが、「『福音と律法』の<現実性>における勝利の福音の内容」)。このような訳で、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「イエス・キリストの中で人間の性質が啓示の<担い手>となったように、……人間の性質は、われわれの中で啓示の<受領者>となる。それは、何も〘生来的な自然的な〙人間の性質そのものの能力によるのではない。むしろⅡコリント三・一七によればその方自身が主である霊によって、人間の性質に与えられる能力からして、啓示の<受領者>となるのである」、すなわち神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「啓示の<受領者>となるのである」〕」。ここにおいては、「信仰者の現実存在が彼らに贈り与えられる力は、彼らの自然的な出生とは違う、神から生まれること、『上から』生まれること(ヨハネ一・一二以下、三・三以下)、また霊から生まれること(ヨハネ三・五以下)に遡られている。それらすべてのことは、それらすべての人間の身に起こるそのような出来事に原則的に先行する。それらすべてのことは、その主要な実現としてのイエス・キリストの現実存在の中で起こる出来事を念頭に置いて言われている。〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>、〕その主要な神の恵みの実現の<秘義>の<しるし>が、特に聖霊による懐胎としてのキリストの処女降誕である。それは、そのほかこの点で、新約聖書の中に二つの重要な平行記事を持っている。そのうちの一つ目の平行記事は、マルコ一・九で述べられているヨルダン川での受洗である。その出来事は、当然のことながら、聖霊なる神が鳩のようにイエスの上に降ったことでもってイエスは神の子となるということを言っているのではなく、むしろ鳩の<しるし>がそのことを証ししているように、霊が降ったその者は〔イエスは〕、神の愛するみ子で<ある>ということを言っている(ヨハネ一・三二以下を参照)〔換言すれば、イエスは、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である神の<子>あるいは神の<言葉>であるということを言っている〕。ヨルダン川での受洗に際しての<しるし>は、そのことでもって、〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての〕処女降誕と同様に、それ自身また、その<しるし>なしにも実在であるところの、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉としての〕その人間の存在の<秘義>を指し示している〔すなわち、「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>を指し示している〕」。そのうちの二つ目の平行記事は、ローマ一・四である。そこでは、人間イエスが神のみ子と定められることの<しるし>としてのイエスの甦りが名指されている。この定められていること自体は、同様に聖霊にまで遡られている」。
「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての「処女降誕を精密に述べるとして聖霊が名指されていることは、<まず第一に>、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕イエス・キリストの人間的な現実存在の<秘義>を〔すなわち、「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>」を〕、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストにおける〕啓示の中で開示されるところの神ご自身の中にある<秘義>、神自らが霊として〔それは、「神自らが、一つの可能性、一つの力強さ、一つの能力を造り出された」ということであるが、「父ト子ヨリ出ズル御霊」として、〕その被造物のもとでご自分のために保証し給うという<秘義>にまで遡らせている限り、特徴的である。また、神の「恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての「処女降誕を精密に述べるとして聖霊が名指されていることは、<第二に>、〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、すなわち神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「イエス・キリストの<神性>が生じさせる」〕われわれの和解が和解者の現実存在と関わっている関連を指し示している限り、特徴的である」。言い換えれば、「そういう〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての〕聖霊が名指されていることは、それが、聖霊の業〔すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕の主要な実現を、そのような主要な実現に基づいて、……人間が神に向かって用意ができていることが神ご自身を通して、われわれの身に起こることができる純粋な恵みとして、しかも〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である〕イエス・キリストの中で現れた、われわれに出会うわれわれに与えられた恵みとして、われわれの身に起こることができる〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての〕聖霊の業〔すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕の主要な実現を指し示している限り、特徴的である」、ちょうど先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に「神の認識可能性」であるところの、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての〔「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に向かっての〕人間の用意が存在する」ように、包括的に言えば「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」のように。
さて、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、すなわち「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下⦆・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「聖霊ニヨッテ宿リという言明は、……イエス・キリストはその人間的な現実存在という面で、聖霊の息子であるということを言っているのではない。聖霊ニヨッテ宿リという言明は、それこそ、それが語っている奇蹟〔「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>〕なのであるが、イエス・キリストは、その人間的な現実存在という面で、〔「内被造世界での〘すなわち、われわれ人間の世界での一対の性の共同性である家族における〙」〕父親を持ち給わなかったということを言っているのである〔何故ならば、イエス・キリストの父は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての父だけであるからである。また、われわれにとっても「本来的な父」は、その父だけである。したがって、「内被造世界での〔すなわち、われわれの世界での一対の性の共同性である家族における〕…父という呼び名は確かに真実であるが、<非本来的なもの>であり、それは、神の<内>三位一体的父の名の力と威厳に依存している」〕」。「聖霊がその奇蹟において男性の代わりとなり給うたということは、聖霊は、男性がなすところのことをなすという意味ではない」。このような訳で、「イエスが聖霊によって<受胎された>ということは、決してイエスが聖霊によって<生み出された>ということを意味していない〔イエス・キリストは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」(すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である〕」。したがって、あたかも〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第三の存在の仕方」(すなわち、「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性⦆・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての〕聖霊と〔人間〕処女マリヤの間に〔われわれ人間における〕結婚のような何かが起こったかのように受け取る考えは完全に排除されている。新約聖書の処女降誕は、ジュピターおよびそのほかの人間の娘たちを欲情をもってみた神々についての神話とは異なっている。したがってまた、それらの宗教史的平行現象を、事実についての全くの誤認に基づいて護教論的な意味で用いたユスティノスは間違いを犯している。何故ならば、処女降誕についての新約聖書の個所は、聖ナル結婚について語っているのではないからである(M・ディベリウス)。それであるから、〔第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>〕すべてのラテン語の信仰告白の表現の仕方の中では、またニカイア・コンスタンティノポリス信条のラテン語版においても、聖霊ニヨッテは、マリヤカラと強調しつつ区別されている。マタイ一・一八、二〇における聖霊ニヨッテは、ローマ一一・三六『万物は<神から>出で』、Ⅰヨハネ三・九「<神から>生まれた人は皆」とあるように解釈されるべきなのである。言い換えれば、世があるいはキリスト者が、神の存在から実体的に発生するということではなく、それらのもの現実存在の効果的原因を言い表している、それらのものの超越的な存在根拠を言い表している。先行する神々との結婚に基づいて、神々の本質から人間が実体的な意味で生まれ出るということについての異教的な思想は、そこで生ませる神々自身についても、そこで生まれ出る人間自身についても、問題化〔「最高に邪道」化〕を意味している。それであるから、そのような思想は、クリスマスの<秘義>〔「啓示の<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」〕を、最高に邪道に導く間違ったしるしである」。したがって、「聖霊ニヨッテは、意味にかなった仕方で、次のように補充されなければならない」――「……聖霊ノ実体ニヨッテ宿ッタノデハナク、聖霊の力ニヨッテ、血統的ニデハナク、命令オヨビ祝福ニヨッテ宿ッタ……。(中略)男ガ普通子孫ヲモツ際果タスソノ同ジ役割ヲ、神ゴ自身ガ果タシ給ウタトイウノハ誤リデアル。何故ナラバ、神ノ働キハ種ノヨウデハナク、ムシロ全ク造物主的デアリ、内的デハナク外的デアリ、形式的デハナク効果的ニ創造シツツ働クカラデアル。……『神はいかなる擬人的見方などなしに、<創造者>として働き給う、決して求婚者としてではない。そのようにして、子に対して神的由来は確認されたのである』(M・ディベリウス)」。
「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第三の存在の仕方」(すなわち、「啓示されてあること」・「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性⦆・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「処女が身ごもるところの聖霊は、何かある一つの神的な霊ではなく、それ故に決して神化された男性ではなく、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神ご自身である。したがって、〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>としての〕その奇蹟的な行為は、霊的な行為として理解されれるべきであって、決して精神的―肉体的な行為として理解されてはならず、多少とも被造物的エロスの業と類似した行為として理解されてはならないのである」。このような訳で、「アウグスティヌスが、キリストについて、主は〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づい贈り与えられるマリヤの〕信仰の中であるいは〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての神の〕恵みの中で受胎されたのであって、その母の性欲あるいは肉欲の中で受胎されたのではないと語っている時、そのことは、決して許されざる精神化を意味していない。それは、〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>としての〕その奇蹟についての必然的な解釈を意味していた。ダマスコのヨハネは、キリストの奇蹟的な受胎に対して一役買った肉体的な器官は〔先行する神の言葉を聞く、すなわち「神語り給う故に聞き、神語り給うことを聞く」〕マリヤの耳であったと述べている時、同様な意味で、内容的に見て正しいと言わなければならない。『イエスの受胎に際して働いた聖霊の働きかけは、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる〕マリヤの信仰を通して仲介された。マリヤは信じる……そして、マリヤが、天使によって語られた神の言葉を信じることによって、マリヤは、そのことでもって永遠の言葉を自分の中に取り入れ〔ちょうど「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的な教会の宣教者および神学者と違って、バルトは、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下の聖書の言葉からして、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」と述べ、聖書の中で証されている「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用した」ように、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における<神の>子あるいは<神の>言葉としての<神の>永遠の言葉を自分の中に取り入れ〕、自主的に救世主の生の始めを措定する能力を与えられるのである』。キリストの受胎が聖霊の業であると言われている時、それは、事実〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理に根拠づけられた「恵ミノ類比」としての〕信仰の類比以外の〔類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された一般的啓示、一般的真理に根拠づけられた「存在の類比」を含めた〕すべての類比から、それと共に……それがどのように起こったかについてのすべての説明から身を引いてしまっている〔類的機能を持つわれわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界としての人間の側からする説明から身を引いてしまっている〕」。
「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・恋・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の「第二の存在の仕方」(すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストにおける「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>としての「処女ヨリ生マレを通して生じた空間を満たすところの<積極的なもの>は、まさに〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕神ご自身である。言い換えれば、(一)〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「起源的な第一の存在の仕方」(すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるイエス・キリストの父として、〕神が、人間に対して、人間存在が自分自身からは持ってはおらず、また自分自身では造り出すことのできない、神ご自身に向かわせる能力を与え給う<創造的な、理解を絶した全能の行為>をなし給う神ご自身、(二)〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」(すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である子としてのイエス・キリスト自身として、〕神が、人間存在を、その不義と汚れにもかかわらず義とし、聖化して、神の言葉の宮となし給い、同時に神の誉れが宿る宮とないし給う和解せしめる理解を絶した<愛の>行為をなし給う神ご自身、(三)〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第三の存在の仕方」(すなわち、「啓示されてあること」・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造⦅秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下⦆・「救済者」としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「神的愛に基づく父と子の交わり」としての聖霊として、〕神が、人間存在に対して、ほかならぬ神ご自身の現実存在を伝達し与え給う理解を絶した<救済する知恵>の行為をなし給う神ご自身である」。「聖書によれば、聖霊は、われわれ人間の救済主である。しかし、聖霊は、救済主であるだけではない。聖霊は、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、〕子とともに、子の霊として、また和解者でもあり、また、父および子とともに創造主なる神でもある。新約聖書のイエスは主であるという証言は、神性を内在的本質とするイエスを、事実の承認として、思惟の初めとして語っている。このイエスは主である、子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰、神との出会いであるイエスとの出会い、信仰の出来事は、聖霊の注ぎによる。この信仰の出来事は、新約聖書において、〔<客観的な>〕啓示の出来事の中での主観的側面、聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事〔「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)〕のことである。救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての〔換言すれば、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての〕<いまだ>であり、〔神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。
「われわれは、〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>としての〕聖霊ニヨッテ宿リの中で言い表されている奇蹟のその<積極的なもの>こそが、『クリスマスの<秘義>』の<しるし>に属しているということを、結論とする」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての「イエス・キリストが肉の中に入れられた神の子であるということは、確かに〔イエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求するように、「そのことの<しるし>が与えられており、そのことをその<しるし>に照らして、その<しるし>の中で認識すべきであるわれわれにとっては」〕<認識的>には、聖霊ニヨッテ宿リの真理と共に立ちもすれば倒れもする。しかしながら、人は、クリスマスの<秘義>は〔すなわち、「啓示の<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」は〕、<存在的>には、聖霊ニヨッテ宿リの真理と共に立ちもすれば倒れもすると言うことはできない。〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕ナザレの人間イエスは、彼が、聖霊によって宿り、処女マリヤから生まれたが故に、まことの神の子なのではない。そうではなくて、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〕彼が、まことの神の子であり給うが故に、そしてまさにそのことは〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて〕そのまま承認されることを欲している理解を絶した<秘義>であるが故に、彼は、聖霊によって宿り、処女マリヤから生まれ給うたのである」。この「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「ナザレの人間イエスが、そのようにして宿り、そのようにして生まれたということに照らして、彼は、現にあり給うところの者として、彼がその中で現にあり給うところの者であるクリスマスの<秘義>の中で認識〔「啓示認識」(「啓示信仰」)〕され、それに従って<名が呼ばれる>べきなのである」。このような訳で、イエス・キリストは、「神の子と<呼ばれる>(ルカ一・三五)。そのことについて昔の教義学は全く一致しているのであるが、イエス・キリストは、たとえその<しるし>が<なくても>、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」として、〕まことの神の子であり、まことに神の子と呼ばれた〔聖書の中で証されているキリストにあっての神としての神は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<神の神性において>、また〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において〕<神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた<神の人間性>〔キリストの人間性、「真に罪なき、従順なお方」まことの人間〕もわれわれに出会う」〕」。イエス・キリストは、そこで〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕肉をとったところの、永遠から父より生まれた子として〔何故ならば、子は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」子であるからである〕、神の子であり給う」。「〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である「イエス・キリスト自身によってただ一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての「第二の形態の言葉」である〕聖書および〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者・標準とする「第三の形態の神の言葉」である〕教会の〔<客観的な>〕教義の意味では、肉体的な神の子はいないし、ビーデルマンが言おうとしているような『宗教的な』神の子がいるのでもなく、ただ一人の永遠の神の子がいるだけである。すなわち、クリスマスの<秘義>の中で〔すなわち、「啓示の<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」の中で〕、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において〕われわれと同じように人間となり、しかもなおかつ神の永遠のみ子であり、神の永遠のみ子であり続け給う方がいますだけである〔何故ならば、子は、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な(それ故に、完全に自由な)「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」子であるからである〕。〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての〕『聖霊ニヨッテ宿リ』という奇蹟は、その<秘義>を指し示す<しるし>である」。
「〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」⦅「起源的な第一の形態の神の言葉」⦆・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)である「イエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」の<秘義>、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」の<秘義>、「啓示の<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」としての〕<秘義>は、〔「啓示の<秘義>」の<しるし>、「神の恵みの実現の<秘義>」の<しるし>、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての、「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>」(「第一の条項」)、「イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>」(「第二の条項」)という「クリスマスの奇蹟」としての〕<奇蹟>に基づいていない。しかし、<奇蹟>は<秘義>に基づいている。そして、<奇蹟>は<秘義>を証ししており、<秘義>は<奇蹟>を通して証されるのである。ソレ故ニ、キリストノ出生ハ聖霊ニヨルモノデアルト言ワレテイルコトニヨッテ、<神ノ恵ミソノモノ>以外ノ何ガ確証サレテイルデアロウカ。ソノ神ノ恵ミハ、アノ驚クベキ、口ニ言イ表ワシ難イ仕方デ、神ノ言葉ト結ビツケラレ結合サレタノデアル。神ノ恵ミデモッテカラダ的ニ満タサレタノデアル(ペトルス・ロンバルドゥス)」。
文責:豊田忠義