3の2カールバルト教会教義学 神の言葉Ⅱ1 神の啓示> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕 十五節 啓示の秘義 二 まことの神にしてまことの人間〔「啓示の秘義としてのイエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」―「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>である」〕についてその2

 

 まさにイエスキリストは、<先ず以て>「自己自身である神(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性秘義性隠蔽性において存在している父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神であるそれ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「ご自身の中での神」における「神の自由の概念の積極的側面」を、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中で見ているそれからまた>「われわれのための神としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質おけるところの詳しく言えば神の起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の<語り手>」・「創造者」としてのイエスキリストの父>、神の第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の<言葉>」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエスキリスト自身>、神の第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、コリント310-11、エフェソ214以下)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体におけるところのその神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神(換言すれば、神の顕現」、「キリストの永遠のまことの神性」、「<神の言葉」、「<永遠の言葉」、それ故に神性を<内在的本質>とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉>の受肉この肉人間、「自己自身である神としての三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての神の子あるいは神の言葉の、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉受肉この肉人間であるから、「<神の言葉であった、<永遠の言葉であったにしてのまことの人間(換言すれば、神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その<内在的本質>である神性の受肉ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉の受肉この肉人間」、人間存在、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在」)である(それ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「われわれのための神」における「神の自由の概念の消極的側面」を、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」の中で見ている)。このような訳で、バルトは、『神の人間性』において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<神の神性において>、また<神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた<神の人間性>〔キリストの人間性、まことの人間〕もわれわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について認識し自覚していないような人は〕、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている)――ヨハネ一一四の(神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>は肉〔、人間〕となって、わたしたちの間に宿られた。……」)いささかの制限もなしに神の本質と存在に与り給う神的な創造主和解主救済主なる言葉〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「三位一体の神」としての〕神の永遠のみ子である〔何故ならば、この「み子」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>」が、「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるし、その「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からである〕」。神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「言葉〔、人間〕となったということは、……人間に対して人間として帰せられるべきところのすべてのこと誕生と死の間に挟まれている時間〔人間の個の時間性、自己史、個体史〕の中でからだと精神が個人的に一回的に一つであることとしての被造物的な現実存在ということがいまやまた神の永遠のみ子についても言われなければならないということの中でそしてそういわれなければならない仕方で〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉〔その<内在的本質>である神性の受肉ではなく、その<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」において、〕まことの実在の人間となり、またわれわれのものであるような同じ人間的本質と存在、同じ人間的性質と形態、同じ歴史性〔人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕にあずかるようになったということであり〔そのような仕方で、〕われわれに対する神の啓示は出来事として起こるということである」。この「われわれに対するイエス・キリストにおける神の啓示の出来事は、われわれだけでわれわれの時間〔人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間である」、すなわち「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間である」。人間としてのこの神の永遠のみ子の存在について奇蹟的な仕方で生起したとして証言されているところのこと換言すればその中心的なこととして甦りの歴史Geschichte啓示そのものの本来的な行為としての四十日ノ福音〔すなわち、「キリスト復活の四十日」(使徒行伝一・三)、「キリスト復活四十日の福音」、「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、先ず以て徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたギリシャ語原典ローマ322、ガラテヤ216等の「イエス・キリスト信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」)そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>」そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの、新約聖書の証人たちは、このキリスト復活の四十日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を想起する時、光を得たのである。彼らは甦えりの証人である」さらにそれに付け加えてイエスキリストの歴史的な現実存在〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕のはじめにおける処女からの誕生という〔啓示の秘義の〕しるし>、また彼の歴史的な現実存在の終わりにおける空の墓というしるし>、それに加えてすでにこの始めと終わりの間で神の国をすなわち甦りの歴史Geschichteを宣べ伝えているしるしと奇蹟それらすべてのことは福音記者と使徒の意味では〔「真に罪なき、従順なお方」である〕まことの人間イエスキリストが問題であるわれわれ自身と同じような〔しかし、われわれとは違って「真に罪なき、従順な」〕一人の人間が問題であることの中でその意味とその力を持っているここで実際に〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の言葉が現に〔その「<受肉>」において〕人間となったし人間であったそれであるからまさにこの実在の人間の生こそが神のあのもろもろの行為の対象であり舞台であった世に来た啓示の光であったということが啓示を啓示たらしめ奇蹟を奇蹟たらしめる」。

 

 そのような訳で、「まさにパウロこそがキリストは女から生まれ(ガラテヤ四・四)、肉によればダビデの子孫から生まれ(ローマ一・三)、人間の姿になられたその有様は人と異ならず(ピリピ二・七)ということを強調している」。このように、「子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらを備えておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた者たちを解き放つためである。確かに、イエスは、天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは罪を贖うためにあらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった(へブル二・一四以下)。古代の信仰告白の中での聖霊ニヨッテ宿リ〔すなわち、神性を内在的本質とするところのキリストの永遠のまことの神性〕と三日目ニ甦リ〔<復活の力>、<神の>勝利の行為〕の間にある告白の言葉オトメヨリ生マレ、ポンテオ・ピラトノモトニ苦シミヲ受ケ、十字架ニツケラレ、死ニテ葬ラレは、それがそのほか意味していることと並んで、いずれにしてもまたマコトノ人間〔キリストの人間性〕を強調するという意味を持っている」。このように、「『神はキリストの中にい給うた(Ⅱコリント五・一九)そのようにイエスキリストは世に来たまことの光であった(ヨハネ一・九)肉において現れ(Ⅰテモテ三・一六)肉体をとって来られた(Ⅰヨハネ四・二、Ⅱヨハネ七)このことを否定する者はⅡヨハネ七によれば惑わす者であり反キリストである何故ならば〔「第二の形態の神の言葉」である〕聖書が〔「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕啓示と呼んでいることはこの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「言葉の<受肉>」において〕肉をとって来るということと共に立もすれば倒れもするからである〔「神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる<偉大な可能性>である」ところの「存在者ただ神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)における神の言葉の受肉>、この肉人間」、「最初の起源的な支配的なしるし>」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在だけだからである〕」。「そこで、……まことに〔神の「第二の存在の仕方」における〕<神の言葉が人格をとって>行動しつつ現臨し給うということに反対しての留保であれ、……神が人格的存在して行動しつつ現臨し給うということが現実にその<肉の中で>、<人間と等しくなることの中で>起こるということに反対しての留保であれ、何らかの留保をつけることは、啓示および和解を不可解なものにしてしまうことになる」。何故ならば、「キリストの神性は啓示および和解におけるキリストの行為〔神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・語ら起・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕の中で認識することができるしかしその外在的本質である神の第二の存在の仕方における啓示と和解がキリストの神性の根拠ではなく」、その内在的本質であるキリストの神性が啓示と和解を生じさせる」のであって、「赦す<神>は〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>」における肉、〕人間に内在することはないのである」。したがって、この「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストは、教会の信仰告白、教義における一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提である」。したがってまた、第三の形態の神の言葉である「教会の教義は、<人間的な>教育的な威厳はあるとしても、いかなる<神的な>威厳も持ってはいない」。したがってまた、第三の形態の神の言葉である「教会は、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書・〕使徒たちや古代教会の教義が言っていることを、そのまま言うことができるし、言わなければならないのである」。

 

バルトは、「神の言葉の三形態」について、次のように述べている――「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」(最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」)としての第二の形態の神の言葉である聖書、「イエスキリストと共に直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性」――すなわち「権威」<と>「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの人間性」――すなわち「自由」によって「賦与され装備された権威自由を持つところの〔「啓示との間接的同一性〔啓示との区別を包括した同一性〕」において存在している第二の形態の神の言葉である」。したがって第二の形態の神の言葉である聖書、第三の形態の神の言葉である「教会に宣教を義務づけている第二の形態の神の言葉として、第三の形態の神の言葉であるただイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところの、それぞれの時代、それぞれの世紀、その時代と現実に強いられた教会(すべての成員)の宣教およびその一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学の思惟と語りにおける原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「基準」・「標準であるしたがってまた、第二の形態の神の言葉である「聖書こそが、〔第三の形態の神の言葉である〕教会を支配するのであって教会が聖書を支配してはならないのである」。このような訳で、キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代(「中間時」)における第三の形態の神の言葉であるイエス・キリストの教会(すべての成員)におけるイエス・キリストに対する感謝の応答としての奉仕の務めは、具体的には聖書を「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」・「基準」として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に対する<他律的>服従とそのことへの決断と態度という<自律的>服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める神への愛(「教えの純粋さを問う教会教義学の問題、<福音主義的な教義学の問題)と、そのような神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う特別的な神学的倫理学の問題、それ故に一般的倫理学の問題ではないまたヨハネ8・1以下の「『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。それを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」というわれわれ人間すべての「内面の普遍性に届く」イエスの言葉に対して自覚していないところの、またわれわれは理性的にだけ生きているわけではないということに対して自覚していないところの、またわれわれの内面においては道徳だけでなく法も犯しているということに対して自覚していないところの、またそれだけでなく宗教者、知識人、善人、誰であろうと、現実的な戦争とか利害対立とか愛憎問題とかの不可避な契機さえあれば、自分が意志しなくとも人一人だけでなく多数の人を殺し得るという還相的な究極的な観点を持たないところの、「自己欺瞞に満ちた市民的観点市民的常識における隣人愛ではないすなわち純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世の<すべての>人々が、純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができる>ためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという連関と循環において、ただイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指して行くという点にあるのである。このことは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のことである」(『福音と律法』)。のような訳で、第三の形態の神の言葉である教会における権威と自由」は、あくまでも「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの神性」――すなわち「権威」<と>「直接的な、絶対的な、内容的なイエス・キリストのまことの人間性」――すなわち「自由」とによって「賦与され装備された権威と自由を持っている聖書の権威と自由に基礎づけられている」ところの「間接的・相対的・形式的な権威〔「神的権威によって限界づけられた、あくまでも<人間的な>教育的権威」〕と自由〔「神的自由によって限界づけられた、あくまでも<人間的な>自由」、すなわち聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性における人間的な自由〕として、徹頭徹尾、限界づけられている」。何故ならば、「〔第二の形態の神の言葉である〕預言者および使徒たち>〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」である〕イエス・キリストとの出会いの直接性における直接的、絶対的、内容的な権威と自由――すなわち、「イエスの弟子たちがキリストの後に従う随従は、「直接的な唯一回的特別なそれである」からである、すなわち繰り返され得ないものである」からである、換言すれば第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たち」<>「起源的な第一の形態の神の言葉」である「主なるイエス・キリストとの関係は、「啓示そのものが一回的であるのと同じように、一回的な関係である」からである。したがって、そうした第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たちの現実存在」<>第三の形態の神の言葉である「教会その成員の現実存在とは、本質的に同一ではない」、本質的に同一視することはできない。それだけでなく、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)からして、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)、「起源的な第一の形態の神の言葉」(イエス・キリスト自身)および第二の形態の神の言葉(すなわち、「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、聖書)先行させることはできない」。また、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)、第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・基準・標準とすることなし(媒介、反復することなしに)、すなわち絶えず繰り返し聖書に聞き教えられることを通して教えるということをすることなしに、「起源的な第一の形態の神の言葉」(イエス・キリスト自身)と出会い関わることはできない。すなわち、第三の形態の神の言葉である教会(すべての成員)第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエスキリスト自身と、「その最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエスキリストについての言葉証言宣教説教としての第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理規準法廷審判者支配者基準標準とすることを通して(媒介、反復することを通して)、すなわち絶えず繰り返し聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「間接的に出会い関わることができるだけである。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』および『啓示・教会・神学』によれば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」ということに基づいて、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における〔教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoに関わる〕教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求めた」のである。

 

 神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としてのただキリストの人間性だけが永遠の言葉の啓示>、すなわちヨハネ一一四によればその中でその〔神としての〕栄光が見られるところの神の言葉が宿った天幕であるわれわれ人間の「精神ハ、近ヅキ難イゴ威光ノ輝キノ中ニイマス神ヲソノママ見テトルコトガデキナイノデ、人間ノ姿デ現ワレ給ウタ神ヲ見、見ツツ認識シ、認識シツツ愛シ、愛シツツ最大ノ努力ヲ払ッテソノ栄光ニ到達シヨウト努メル〔それ故に、われわれは、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を尋ね求めなければならない〕……アンセルムス」、「<福音記者たち地上を歩まれた肉と血と取り組み、そのような肉と血について語ることなしに、神の神的にして全能な永遠の言葉と取り組んだり、そのような永遠の言葉について語ろうとはしない福音記者たちは、ちょうどプラトン主義者たちがするように、神によって造られた被造物世界を経巡って神を追い求め、尋ね、神について思索するということをしない。福音記者たちは、そのような遠出しつつさまよい歩く思想からわれわれをキリストへと集中させようと望んでいる……。神はただ単にわれわれを支配し給うだけではない、またわれわれの中に住み給うだけではない、神はさらに自ら〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の<受肉>」において〕人間となろうと欲し給うたのであるキリストが神われらと共にと呼ばれ給うのは、……神はわれわれが現にあるところのもの〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕となり給うたからである(ルター)」。

 

 まさにイエスキリストは、<先ず以て>「自己自身である神(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性秘義性隠蔽性において存在している父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神であるそれ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「ご自身の中での神」における「神の自由の概念の積極的側面」を、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中で見ているそれからまた>「われわれのための神としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質おけるところの詳しく言えば神の起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の<語り手>」・「創造者」としてのイエスキリストの父>、神の第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の<言葉>」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエスキリスト自身>、神の第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、コリント310-11、エフェソ214以下)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体におけるところのその神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神(換言すれば、神の顕現」、「キリストの永遠のまことの神性」、「<神の言葉」、「<永遠の言葉」、それ故に神性を<内在的本質>とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉>の受肉この肉人間、「自己自身である神としての三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての神の子あるいは神の言葉の、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉受肉この肉人間であるから、「<神の言葉であった、<永遠の言葉であったにしてのまことの人間(換言すれば、神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その<内在的本質>である神性の受肉ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉の受肉この肉人間」、人間存在、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在」)である(それ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「われわれのための神」における「神の自由の概念の消極的側面」を、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」の中で見ている)。このような訳で、バルトは、『神の人間性』において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<神の神性において>、また<神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた<神の人間性>〔キリストの人間性、まことの人間〕もわれわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について認識し自覚していないような人は〕、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている)――ヨハネ一一四の(神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>は肉〔、人間〕となって、わたしたちの間に宿られた。……」)いささかの制限もなしに神の本質と存在に与り給う神的な創造主和解主救済主なる言葉〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「三位一体の神」としての〕神の永遠のみ子である〔何故ならば、この「み子」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>」が、「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるし、その「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からである〕」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉〔、人間〕となったということは……〔その神の<子>あるいは神の〕言葉人間となったということである」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>が肉〔、人間〕となることの中で、〔<子>あるいは〕<言葉>であることをやめることなしに、しかし<ただ>〔神の<子>あるいは神の〕<言葉>で<だけ>あるということをやめたことによって、言葉は何になったのかとわれわれが問い、それに対して〔神の<子>あるいは神の〕<言葉>は肉〔、人間〕となったと答えるならば、その時には、『肉』ということでもってさし当って人間そのもののことが語られているのではなく、むしろ人間的な<本質>と<存在>、人間的なあり方と性質、人間性、一人の人間をして神、天使、動物と違って人間たらしめるところのことが語られているということによく注意しなければならない」。このような訳で神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の<子>あるいは神の「『<言葉が肉〔、人間〕となったということでもって、……〔神の<子>あるいは神の〕言葉は人間的な本質と存在にあずかるようになったこの人間的な本質と存在がそのまま言葉の本質と存在になったということが意味されている。「そのことは、<一人の人間の具体的な実在聖書の中で証しされているあの「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕の中で起こるのでなければ現実のことではなのであるからそのことは引き続いて直ちに……〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉人間となったということを意味しなければならないこの一人の人間のこの実在はそれ自体〔神性を内在的本質とするところの神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における神の<子>あるいは神の〕言葉の業であって〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」、その肉、〕その一人の人間その実在が〔神の<子>あるいは神の〕言葉の業の前提では決してない換言すれば養子縁組的にあたかもまず第一に人間がそこにいて、それから神の子がこの人間になられたといった具合では決してない神の子〔神性を内在的本質とする神の子、キリストの神性〕に相対して神の子の業その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての神の業働き・行為・行動・性質〕の前提としてそこにあったところのことそれは、……人間的な本質と存在の概念は言うまでもなく人間的現実存在が〔一人の〕個人であることとその一回性とが含まれているのであるからマリヤの最初の息子の個人的な特定の可能性であったような人間存在であった〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉その可能性を自分自身の可能性として自分のものとしたことによってそしてその言葉がその可能性をかかるものとして実現させたことによってその〔神の<子>あるいは神の〕言葉がイエス「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕となったことによってその言葉はそれが以前にあったものであることを〔すなわち、神性を内在的本質とする<神の>子、<永遠の>み子、<永遠の>言葉、キリストの神性を〕やめることなしに同時にそれが以前にはなかったものしかし今は事実あるところのもの、……その人間となったのである〔したがって、神性を内在的本質とする神が、その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において、「肉、人間となること」、「僕の姿を取ること」、「自分を空しくすること」は、「神的姿の隠蔽、覆い隠し、神の隠蔽」であって、その内在的本質である「神性の放棄や神性の減少を意味しない」〕」。神性を内在的本質とする「<神の>子が〔あるいは<神の>言葉が〕、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において〕人間存在のその特定の可能性を自分のものとされ、その特定の可能性を実現されたことによって、その〔外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕人間は<なった>のであり、〔神性を内在的本質とする神の<言葉>あるいは〕<神の>子は、<その>人間となったのである。このような訳で、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、〕<その人間は決して自分一人で実在だったのではないが故に、<その人間は、〔神性を内在的本質とする<神の>言葉あるいは〕<神の子がその〔外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕人間となることによってイエスキリストにあって神の子と並んでほかのもの第二のものであるわけではないのである」。

 

 イエスキリストはまことの神にしてまことの人間であるということはイエスキリストの中で神と人間が相並んで実在であったということを意味しておらずイエスキリスト〔神性を内在的本質とする〕神のそれ故に自らまことの神である方がまた〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕まことの人間であり給うということを意味しているしたがって、『神の人間性』では、「区別と単一性」において、区別を包括した単一性において、「〔神性を内在的本質とする〕神の神性においてまた〔神性を内在的本質とする神の神性と共に、ただちにまた〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕神の人間性われわれに出会う」と語られている。「この人間は、そのようなものとして、〔「単一性と区別」において、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕神の<子>が……人間であり給うが故に、この人間であり給うことによって、<いる>のである。それ以外の仕方でいるのではない。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」〕この人間がいるのは〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に関わる、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕神のが人間としてのその特別な可能性をご自身の可能性となし給いかかるものとして実現されたからであるこの特別な可能性の中での〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕人間的本質と存在が、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神「第二の存在の仕方」における〕神の<子>を通してご自分のものとされること、あるいは人間的本質と存在のこの特別な可能性が、神の<子>の可能性として受け取られ取り上げられること、この可能性が神の<子>を通して神の<子>の中で実現されること、このことがこの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」、〕人間のそれであるからキリストの肉の創造であり保持でありそれこそがこの人間のそれ故にキリストの肉の唯一の存在根拠である」。われわれは神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「『<言葉は肉となったという命題の中で〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉が主辞であるし主辞であり続けなければならないということを、……〔神性を内在的本質とする<神の>〕言葉の神性からして基礎づけた」。これと同じことは、「人間性からも結果として生じてくるその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての人間性はただ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉造ったものとして自分自身言葉であるそういう人間〔イエス・キリスト〕の中でだけ存在する」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉が肉〔、人間〕となることの中で言葉につけ加わって来るところのものそれは決して神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉と並んでの第二の実在ではなく、<言葉そのものに対してなされた言葉自身の業であって〔すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての業であって〕、……まさに言葉〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕人間存在を受け取ることから成り立っている「アウグスティヌスは、この肉あるいはキリストの人間的性質という概念の精密規定を手がかりにして、言葉の受肉が義認の原型であるということをすぐれた仕方で明らかにすることができた。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕人間的性質に対してもっている関係は恵み〔「神の恵みの啓示」、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「実在の成就された時間」、「キリスト復活四十日の福音」、神的な然り〕〔生来的な自然的な〕罪深い人間〔「神の裁きの啓示」、律法、死、神的な否の対象である「生来……神の恵みに敵対し神の恵みによって生きようとしない」、「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという「不信仰」、「無神性」、「真実の罪」のただ中にある「罪深い人間」〕に対して持っている関係と同じようである(中略)キリストガ〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」、〕人間トナッタ最初ノ瞬間カラシテ、キリストハ神ノミ子以外ノホカノ方デハアリ給ワナカッタ……」。このような訳で、「イエスキリストの実在とは、〔神性を内在的本質とする〕神ご自身が、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において、〕自ら人格をとって行動しつつ肉の中に現臨されるということである。〔神性を内在的本質とする〕神ご自身が、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において、〕自ら個人的に実在の人間的存在と人間的行動の主体であり給うそれであるから、〔神性を内在的本質とする〕神が、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において、〕人間的存在と人間的行動の主体であり給うことによってまさにそのような仕方においてこそその存在と行動は実在であるその存在と行動は純粋にまことに人間的存在でありまことに人間的行動である。〔このような訳で、〕イエスキリストは、決して半神ではあり給わないまた天使でもないまたいかなる理想的人間でも〔また道徳的<人間>、倫理的<人間>の模範でも〕あり給わないイエスキリストは、〔われわれ人間と違って「真に罪なき、従順なお方」であるが、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において、〕われわれのような一人の人間であり被造物として一人の人間的個人としてわれわれと同じでありまたわれわれの不従順〔神的否の対象としての「否定的判決〔、裁き〕の時間」・世、「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・世、「攻撃された時間」・世〕がもたらした時間と世の状態と場所〔「罪に堕ちた人間によって惹き起こされて生じたわれわれが知り持っている時間」・世、「罪にそまった時間」・世〕の中にい給うという点でもわれわれと同じであるイエスキリストは、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは「<言葉>の受肉、この肉、人間」において、〕われわれが現にあるところのものであることによって、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の言葉であり給うこのような訳で、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において、〕われわれのうちの一人としてしかしわれわれのうちで自ら個人的に〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の言葉である方として、〔まことの神にしてまことの人間〕イエスキリストはわれわれの〔時間と世の〕もとで、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において、〕神のために仲裁され神の下でわれわれのために仲裁し給うこのようにしてイエスキリストはわれわれに対する〔神性を内在的本質とする〕神の〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕<啓示であり、〔神性を内在的本質とする〕神と〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な人間である〕われわれとの和解である」。

 

 

 新約聖書のという語は、……ただ単に一般的に人間という概念を含んでいるだけでなく、……この一般的概念を前提とし含んでいることによってまたそれは〔『福音と律法』によれば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」のただ中にある人間、また『教会教義学 神の言葉』によれば、「神に敵対し神に服従しない人間」、それ故に「そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない人間」、また『福音主義神学入門』」によれば、生来的な自然的な「自分の理性や力によっては、全く信じることができない人間」として、〕神の判決裁き〔神的な否〕の下に立っており神を認識し愛することができなくなった人間神の怒りの前で消え失せなければならない人間神に対して罪を犯したのでので……死の手に陥った現実存在となった人間という精密概念を含んでいる」。したがって、『福音と律法』によれば、次のように言われている――「神は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」のただ中にある〕神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答え〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は、裁きであることによって、恵みである」ところの、恵みであることによって裁きであるところの答え〕を聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそイエスキリストがその地上における全生涯にわたってことにその〔復活に包括された〕最後〔神的な否としての十字架、死〕に当たって我々のためになし給うたことである彼は全く端的に信じ給うたのであるローマ三二二ガラテヤ二一六等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰の属格明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕主格的属格〔「イエスキリスト信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)〔このことが、「福音と律法の真理性における福音の内容>」である〕」――またこのことに基づいた福音と律法の現実性における勝利の福音の内容」は、次の点にある。すなわち、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格を<目的格的属格(「イエス・キリスト信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは現実ではない。……部分的にも現実ではない。〔すなわち、〕そのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」という点にある、それ故に「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる……闇のこの世以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、このように啓示認識され理解されなければ「ルターの翻訳の絶対化>」に基づくローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等のギリシャ語原典『イエス・キリスト信仰』の属格の<目的格的属格理解(「イエス・キリスト信じる信仰」という)において、「神人協働」、「神人協力という「『自然神学に根拠を与えることになるこのような訳でわれわれのイエスキリスト<を>信じる信仰――すなわち、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)からして、<「神人協働」>、<「神人協力」>によるのではなく徹頭徹尾あくまでも神のその都度の自由な恵みの神的決断による<客観的な>その「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて、換言すればそのような神のその都度の自由な恵みの神的決断による啓示と信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられるものであるこのことからしてそのことに対するわれわれの感謝の応答としての奉仕の務めは、<客観的な>「存在的な<必然性>」<><主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とする<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)における「起源的な第一の形態の神の言葉」、具体的にはその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)および聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした「第三の形態の神の言葉」である教会の<客観的な>信仰告白・教義<><主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち徹頭徹尾聖霊とは同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性に基づいて、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)の下で聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、「聖書に対する<他律的>服従」と「そのことへの決断と態度という<自律的>服従」との全体性において、終末論的限界の下での途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)>そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、それ故に一般的な道徳学や倫理学におけるそれではないし、「自己欺瞞に満ちた市民的観点や市民的常識」からする隣人愛でもない、すなわち全世界としての教会自身と世の<すべての人々>が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えであるという連関と循環において、イエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指して行くところにある。ここにおいては、イエス・キリストにおける神の自己啓示の場所は、われわれ人間の個と現存性(人間の個の時間性、個体史、自己史)および人間の類と歴史性(人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史)の生誕から死までのすべてを見渡せる場所であるということからして、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であるし、聖書の中で証しされているキリストあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「『自然』神学」や教会の宣教における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもある。したがって、たとえ拙くとも自分なりの世界的な思想家に依拠しての人間学等に対する知的研鑽の努力は、不可避的なものとして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリストに対する感謝の応答としての奉仕の務めに<付随して>やって来るものである。何故ならば、神学も類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使しての知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」からである、それ故に「われわれが哲学的〔等の〕用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的〔等の〕試みが終わるところから始まる」 (『バルトとの対話』)。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、このアダムの堕落のしるしの下に立っているところの〔前述したような〕人間的性質の具体的な形態でありキリストの十字架の死からしてすでに過ぎ去った世として見られなければならないあの古き世〔「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、この「まことの現在」に包括された「まことの過去」としての古き世、時間〕全体の具体的形態であり破壊されそれ故に改めて〔前述した『福音と律法』にあるような仕方で、〕神と和解させられなければならない人間の本質と人間存在の形態のことである」。「福音書の中ではすべてのことが受難〔十字架、死〕の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難〔十字架、死〕の歴史を超えて〔すなわち、「まことの現在」に包括された「まことの過去」を超えて〕甦り、復活の歴史に向かって進んでいる〔すなわち、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」に向かって進んでいる〕。すなわち、「旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死、神的な否〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生、神的な然り〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔・時間、「まことの現在」に包括された「まことの過去」〕は、復活〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕へと向かっている。このキリストの復活、実在の成就された時間は、新しい世〔・時間〕」のはじまりである。「〔「まことの過去」としての〕敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間〔、世〕は、〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」としての〕本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間〔、世〕であるキリストの復活における神の勝利の行為によって克服されてそこにある」。「この勝利の行為は、〔キリストの復活と復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの間の聖霊の時代、中間時においては、〕敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「『<言葉>は肉となった』ということは、精密な意味では、その神の<言葉>は、〔「神の啓示は、裁きであることによって恵みである」ということからして、〕自分自身の敵対者の味方となり給うたということを意味している」。「自分の創造者としての言葉に対して、全く理不尽にも抵抗してやまない世〔・時間、われわれ人間〕に対して、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉>が持っている関係は、もちろん<対立的な>関係(ヨハネ一・五)ではあるが、その対立的な関係は、ただ単に対立的な関係であるだけではなく、その<言葉>がまさに人間がいるところにい給うということによって克服されたのである」。したがって、その「<言葉>が、まさに人間がいるところにい給うということによってその対立的な関係は克服された」ことにおいて、「〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕<啓示>の光としての神の理解を絶した現臨と、闇、世がその神の恵みを受け入れようと欲しないことを通して造り出された対立は克服されたのである」。「まことの光は現実の……世にあって闇の中で生きている人間に対して神の子となるという人間がもともと自分からは持っていない力を与えることができるのである(ヨハネ一・一二以下)」。「イエスが、聖霊の特別な働きとして約束したものは、<慰め主としての霊>と<真理の御霊>であるが、聖霊は、聖書の中のキリスト教原理を、覆いをとって明らかにする、キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)であり、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断に基づいて贈り与えられる〕上からのよき賜物である。〔「聖霊は人間精神と同一ではない。人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、……そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が生じてはならない」し、聖霊によって更新された人間の理性性も徹頭徹尾聖霊と同一ではないところの(『教義学要綱』、『バルトとの対話』)〕この聖霊を持つということは、キリストにおいて起こった和解にあずかることであり、キリストと共に、死から生命への方向転換におかれることである。この二つの方向転換において<客観的な>イエス・キリストにあっての神の啓示の要素〔その<主観的な>側面〕としての霊の本質は、キリストにある自由を意味している。このキリストにある自由とは、キリストの奴隷となることである。この聖霊が、教会をみ言葉の奉仕へと向かわせるのである。また聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊であるから、われわれは、聖霊を受けることによって、イエス・キリストが神の子であるという概念を根拠として、われわれは、神の子供、世つぎ、神の家族であり、『アバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)ことができる。和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示の受領者たちは、神の子供なのである」。ここでも、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>が貫徹されている。

 

 それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、自然の一部としての身体(肉体)とその身体を座とする精神(意識)との総体において存在しているのであるから、「万一、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉が人間でないならば言葉は啓示ではないであろうまたもしも言葉がこの正確な意味で神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」としての〕でないならば言葉は人間ではないであろう――「この正確な意味で〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉となったということが神の言葉の啓示である」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、その内在的本質である神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠しを意味している」ことからして、「ヨハネ一・一四を、……神ノ子ガワタシタチノタメニ、ソノ天ノ栄光ノ高ミカラ、ドンナニイヤシク低劣ナ状況ニマデクダッテ来タカヲ、明示シヨウトシタノデアル。聖書デハ、人間ノコトガ軽蔑シテ語ラレル時ニハ、肉ト呼バレテイル。ダカラ、神ノ言葉ノ霊的ナ栄光トワタシタチノ肉ノ腐臭ニミチタ汚穢トノアイダニ、カクモハナハダシイヘダタリガアルニモカカワラズ、神ノ子ハ、カクモ多クノミジメサニヒタサレテイルコノ肉体ヲマトウマデニ、ソノ身ヲイヤシイモノトサレタ。キリストハカギリナイ恩寵ニヨッテ、汚レタ、イヤシイモノノ仲間トナリ給ウタ。要スルニ<肉>トイウ名称デモッテ、タダ単ニマコトノ、棄損サレテイナイ、完全ナ人間ノコトガ理解サレテイルダケデナク、(ワレワレト同質ナ)、人間ノ卑シイ、アワレナ、以前ノ状態……ノコトガ意味サレテイル、とカルヴァンは、正しくも注釈した」。「ピリピ二・七、……ローマ八・三、……Ⅱコリント五・二一、……マルコ三・二一-二二、……マタイ一一・一九、……ヨハネ七・一二、……マタイ九・三(マタイ二六・六五参照)、……マタイ一・一九、……マタイ三・一五、……、マタイ二七・三八、……ヨハネ一・二九」――「これらすべてを、ガラテヤ三一三の恐ろしい言葉で要約することができる、彼はわれわれのために呪いとなり給うた。〔「真に罪なき、従順なお方」である〕彼はいかなる意味でも罪人であり給わなかった。しかし、彼の状況は、内的にも外的にも罪深い人間の状況であった」。「彼はアダムが、そしてアダムの中でわれわれすべてがしでかしてしまったことを罪なくして身に受け給うた彼は自由の中でわれわれの失われた現実存在との連帯責任性の中で、困窮を共に分かち合う交わりの中に入り給うたただそのようにしてだけ明らかに彼の中で彼を通してわれわれに対する神の啓示が神とわれわれの和解が出来事となって起こることができたのである(へブル二・一八、へブル四・一五、へブル五・二以下)」。ただ新約聖書だけがまさに人間とのその神的連帯責任と困窮を共にする交わりについて語っていることに対してわれわれはよく注意を払わなければならない」。そのことから逸れるどんな逸脱も、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>の〕受肉を単に神が人間となることにしてしまうどういう美化も、ましてや神が英雄〔ヘーゲルの世界史的個人のような英雄〕になることにしてしまうどういう美化も、〔「イシスとオシリスの受肉が、仏陀とゾロアスター教における受肉が存在する」ということからして、その時には、〕一般的な宗教史の平面に堕してしまう」。

 

 とにかくわれわれ〔イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられる啓示認識(啓示信仰)に依拠した信仰の類比を通して自己認識・自己理解・自己規定させられた〕堕罪のしるしの中で神の前に立っている〔神性を内在的本質とする〕神のみ子は〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において〕ただ単にわれわれの本質をおとりになっただけでなく〔その「肉」において〕われわれ自身が神の前に立っているところの換言すれば断罪され失われた罪人として神の〔神的な否定の〕前に立っているところのわれわれの本質の具体的な形態の中にまで入られたのである」。したがって、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神がキリストの中でご自分に取り給うた性質は、<堕罪の前提のもとでのわれわれの性質と同一であるという救いとなる真理は〔「イエスの無罪性についての命題と折り合わせるために」、〕決して弱められたり曖昧にされてはならないものであるこのような訳で、われわれは、「ニュッサノグレゴリオスが、受肉は神にふさわしくないものであるという命題を、……人間の性質そのものは確かによいものであって誕生および死それ自体は本来的な厳格な意味での苦しむことを自分の中に含んでいない、ということでもって基礎づけたことに対して同意することはできない〔ここで生来的な自然的な人間の性質の「よいもの」とは、例えば道徳的倫理的感情、またヨハネ8・1以下の「『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい』。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。それを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」というわれわれ人間すべての「内面の普遍性に届く」イエスの言葉に対して自覚していないところの、またわれわれは理性的にだけ生きているわけではないということに対して自覚していないところの、またわれわれの内面においては道徳だけでなく法も犯しているということに対して自覚していなところの、またそれだけでなく宗教者、知識人、善人、誰であろうと、現実的な戦争とか利害対立とか愛憎問題とかの不可避な契機さえあれば、自分が意志しなくとも人一人だけでなく多数の人を殺し得るという還相的な究極的な観点を持たないところの「自己欺瞞に満ちた市民的常識や市民的観点」からする「よいもの」のことであるだろう(例えば、私も2011311日の東日本大震災の時仙台市に住んでいたが、大きな災害時には、自由主義国家の成熟と資本主義の高度化が生み出した恣意的自由および私的利害の優先意識が蔓延しているこの社会においても、その持続性はないとしても、確かに「村八分」という負の側面を持つ農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における農耕村落共同体が育んだ<相互扶助>の感情や意識のようなものが生まれるということを体験したし、人は、過渡的緊急的部分的相対的に「自分が現に身近に接している食物の飢えで困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって助けようとする」という意味での「よいもの」のことであるだろう)形而上学的な木を見て森を見ないという仕方での「よいもの」、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化した「よいもの」と言えるであろう〕」。そのような「<われわれの>性質は、それ自体よい人間的性質ではないということが言われなければならない」。人間は、人間的な意味では、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、宗教的人間であれ、知識人であれ、教育者であれ、善人であれ等々、誰であれ、ただ理性的・道徳的・倫理的・公正的にだけ生きているのではないのであって、ある歴史的現存性のその時代と現実に強いられたところで、それ故に恣意的自由と私的利害の優先意識が蔓延した現存する現実的な社会の中での利害の対立と争いの世界、また政治的には紛争や戦争の世界、また情念や喜怒哀楽や嫉妬や嘘や裏切りや騙しの世界も生きている、また人間の内面の世界に引き寄せて言えば道徳や法も破って生きている。しかし、聖書の中で言われている「真実の罪」は、『福音と律法』に引き寄せて言えば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという「不信仰」・「無神性」にあるしたがって、『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」では、次のように述べられている。すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事――この「イエス・キリストにおける出来事の内容は、生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であったということを、われわれ人間に自己認識〔・自己理解・自己規定〕させる」、と述べられている。われわれは、神のその都度の自由な恵みの神的決断による<客観的な>その「死と復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」に依拠した信仰の類比を通して、「神の選びをイエス・キリストの復活において認識し〔信仰し〕、神の放棄をイエス・キリストの十字架において認識する〔信仰する〕ことができる」。このようにわれわれがイエスキリストにおける啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力総体的構造に基づいて、「本当に神の啓示を認識する時われわれは初めて神に対する人間的反抗神の敵神に相対して自分の力を誇りまさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間として自分自身をまたそのような人間の世を自己認識〔・自己理解・自己規定〕することができる」。復活に包括された十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方である。人間は、そのままでは恵みを受け取る状態にはないし、また自分でそのような状態にすることもできない。したがって、もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みなのである。すなわち、われわれの召命・義認・聖化は、われわれ自身の中に生起するのではなく、〔徹頭徹尾〕イエス・キリストの御業として、われわれのために、われわれ自身の中に生起するのである」。このような訳で、われわれは、「単意論論争において(634)、……事実罪デハナク、ワレワレノ本性ガ、神性ニヨッテ受ケ取ラレタ。スナワチ、キリストガ受ケタ本性ハ、罪ヲ犯ス前ニ造ラレタモノデアッテ、罪ヲ犯シタ後ノ傷ツイタモノデハナイ」という「教皇ホノリウス一世」の思惟と語りに対して、「<われわれの性質はとにかく堕落シタ性質であると言わなければならない」。また、「ヨハネ一一四についての正しくも……注釈したカルヴァン「コノ『肉』トイウ語ハ、ココデハ(聖パウロガシバシバ用イテイルヨウナ)腐敗シタ本性ノ意味デハナク、死スベキ人間ノ意味ニ用イラレテイルと付け加えをして正しくも……注釈したその注釈の意味を著しく弱めてしまった時われわれはそのことにも同意することはできない」。何故ならば、「罪ニソマッタ人間ノ性質ガ神ノ子ト結ビ合ワサレルトイウコトハ……実際……適当ナコトデナカッタ」と言えるとすれば、「キリストは、まさにわれわれの現実存在の決定的な定めにおいて、われわれと同じ人間ではないことになる」し、「実際にわれわれのところに来、われわれの代理となり給うたのではないことになるだろう」からであり、その明らかに神の名誉を汚点から守ろうとした適当ナコトデハナカッタの中には神の卑下の奇蹟のひそかな否定がそれと共に聖書によれば神の卑下の中でこそその最高の勝利を祝うところのまさに神の名誉のひそかな否定がひそんでいる……」からであるまた、「ルターがイザヤ五二一四五三二の言葉がキリストご自身の姿と関わっているとして受け取ろうとしなかった時やはりそのような緩和が問題であった」。また、「ルター派の教義学者たちがリストの人間的な性質に対して、詩篇四五・三やコロサイ一・一八のような箇所に基づいて、まさにホカノ人間ニマサッタ、精神トカラダノ特有ナ優秀サト卓越性、最高ノ健全サ(カラダノ最高ニヨイ、カタヨラナイ組織アルイハ状態)、不死性オヨビ形姿ノ最高ノ優雅サト美を帰そうとした時、やはりそのような緩和が問題であった」。このような緩和するという「控え目な態度は、Ⅱコリント五・二一、ガラテヤ三・一三のような箇所が持っている躓きを弱めるのに適していたのである、それと同時に、そのような箇所が持っている高度な積極的な意味を弱めてしまうのに適していた」。また、「近代の神学がその特有な道徳主義の故に全体としてそこで自分を変えて行くことができなかったということは明らかである

 

 神性を内在的本質とする「<神の子が〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間、啓示の時間」として、〕われわれが現にあるのと同じものとなり給うことによって神の、<われわれとは全く違う仕方で>、その同じものである言い換えれば〔「神に敵対し神に服従しない……肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」、それ故に生来的な自然的な「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」〕われわれの人間的存在の中でわれわれがなすことをなされずわれわれがなさないことをなされるという仕方で神のわれわれが現にあるのと同じものであるこの人間が、……<まことの人間としてしかもまことの変わることない完全な〔神性を内在的本質とする〕神ご自身であり給わないならばわれわれに対する神の啓示そしてまた神とわれわれとの和解ではないことになる……。まことの人間的存在を受け取ってご自分のものとされるというこがまことの神のみ心に適ったが故にそしてまたそのことがまことの神のみ心に適った限りこの人間は、<まことの神であるこのことでもって〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」としての〕罪を排除するこの人間存在が要求され聖化され恵まれるということが言われている〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは「<言葉>の受肉、この肉、人間」、〕この人間存在の中では言うまでもなく〔神性を内在的本質とする〕神ご自身が主体であり給う〔それ故に、バルトは、『神の人間性』においては、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、「神の神性においてまた神の神性と共に、ただちにまた神の人間性われわれに出会う」と述べ、また聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている」〕。どうして神が罪を犯すはずがあろうか、換言すれば神が、自ら自分自身に対して反抗するはずがあろうか、自分自身に対して一人の神であろうと欲して……自分自身から堕落するはずがあろうか」。「〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉、<われわれの人間存在をとる肉をとる言い換えれば〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉罪深い人間のもろもろの条件呪い刑罰〔、神的な否、死〕の下での状態と状況の中で存在する〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉われわれがいるところに存在するただ単に被造物が神から隔てられている全くの隔たりの中だけでなくむしろ堕落した被造物が聖なる創造主から隔てられている全くの隔たりの中で存在するもしもそうでないとしたら〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉がとる行動〔・性質・働き・業・行為、様態、外在的本質、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕啓示する行動和解させる行動ではないことになろう」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉がとる行動は啓示する行動和解させる行動である」。このような訳で、バルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。現存する利害の対立や争いのある現実的な社会の中で具体的に自己資質・職業・生活・喜怒哀楽の感情・信条・思想・意志・構想をもって生きているわれわれ人間は、ただ単に道徳的、倫理的、法的観点からする一般的な罪や市民的観点や市民的常識からする一般的な罪としての罪だけでなく、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」としての「真実の罪」を犯し続けている、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神から遠ざかり遠ざかり続けている、罪を新たな罪を犯し続けているところの「われわれのきよくない汚れた人間存在は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉によって受け取られ取り上げられることによって聖化されたそれ故に罪のない人間存在であるわれわれのきよくない人間存在の中で〔神性を内在的本質とする〕永遠の言葉は、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において〕われわれに近づき給うわれわれのきよくない人間存在がきよめられることの中で、〔神性を内在的本質とする〕<永遠の言葉は、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において〕たちまさった助けに満ちた仕方でわれわれに近づき給う」。「ローマ八・三の〔神性を内在的本質とする〕神がご自身のみ子を〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において〕罪の肉の様でつかわしということは、罪のために、罪の事柄の故につかわし給うたということである。それから続いて主節は、〔神性を内在的本質とする〕神は〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」としての〕肉において罪を罰せられたのである、それであるから肉の、きよくない罪によって特徴づけられた肉の様で、比較を絶した新しいこと、助けとなることが起こる、換言すれば罪が裁かれるのである。しかも罪が犯されないということを通して、罪が起こらないということを通して、そのほか必然的に不断に罪が起こっているところで今や完全な服従〔「真に罪なき、従順」〕が生起するというということを通して、罪が裁かれるのである」――このことが受肉の意味であるそれはいまや〔その〕肉の中ですべての肉がなしていることがなされないということである」。「『神はわたしたちのために彼を罪とされた』(Ⅱコリント五・二)ということは、……神は彼を交換しつつ、……罪を知らない方を罪人の立場に置き給うた」ということである。キリストにあっての神としての「神の啓示は裁き〔律法、死、神的な否〕であることによって恵み〔福音、生、神的な然り〕である」ということからして、「罪を知らないこの方〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」〕罪とされたが故にこのされたということは罪の故に>、われわれのために>、神的犠牲をささげる行為を罪に対する裁き〔神的な否〕、罪を取り除くことを意味しているソレ故ニ、彼ハ罪トサレ、ワレワレハ義トサレル。シカモ、ソノ義ハワレワレノ義デハナク神ノ義デアリ、ソレハワレワレノ中ニアルノデハナク彼ノ中ニアル。ソレハ、チョウド彼ゴ自身ガ罪トサレタソノ罪ハ彼ノ罪デハナク、ワレワレノ罪デアルノト同様デアル(アウグスティヌス)」――このことが神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」の側面におけるマコトノ人間の自明的な規定であるそれとして、まことの人間存在そのものには、言うまでもなくそれが神を通して創造されたという観点の下ででも、あるいはまたそれが堕罪に基づいて『肉』であるという観点の下ででも、それとしての罪の行為そのものは属していない。それ故にこそ、こう言われている――彼は聖にして悪も汚れもなく罪人とは区別されているからこそわたしたちにとってふさわしい大祭司であるへブル七・二六)、世の罪を担い取り除くところの神の小羊は〔「真に罪なき、従順なお方」、〕きずもしみもない小羊』(Ⅰペテロ一・一九)であり罪を犯さないⅠペテロ二・二二)、彼は罪を取り除くために現れたのであって彼にはなんらの罪もないⅠヨハネ三・五)へブル四・一五、ヨハネ一四・三〇、ヨハネ八・四六。古代教会は、〔その聖書証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として〕考えをすすめ、ソノ性質ハ人間ノ中デハイツモ罪深イトコロノ肉ガキリストノ中ニアッタトイウコト、シカモキリストノ中デハ(人間ノ中デハ罪ナシハアリ得ナイ)肉ガ罪ノナイ仕方デ存在シテイルソコデ罪ガ取リ去ラレタコトヲワレワレハ確信スルノデアル(テルトゥリアヌス)と教えた」。

 

 そのような訳で、「キリストの無罪性あるいはキリストの服従が見て取られるべきであるかとわれわれが問うならばそこでの〔「道徳的な理想的人間」という〕人間のこれやあれやの性格上の長所や徳やよい業を探し求めようとすることは正しくないのである何故ならば無罪性あるいはキリストの服従は〔「共観福音書のイエスにおいても、ヨハネ福音書のイエスにおいても」、〕……一つのこと〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕肉をとった神罪人としての人間が担わなければならない重荷の神的担い手であろうと欲したし実際にそのような重荷の神的担い手であり給うたということであるからである」。したがって、例えば、形而上学的な木を見て森を見ないという仕方で、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化した「人間的な余りに人間的な」(『福音と律法』)「模範キリスト論の道徳主義」は、人間を中心に置いたところでの「錯誤」と「誤謬」に陥っているそれである。ここでも「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>が堅持されなければならない。「ピリピ二八によれば、『おのれを低くして死に至るまでしかも十字架の死に至るまで従順であったということがその人間的な形態の中で見出されたのである。へブル五・八、へブル一二・二、ヨハネ一〇・一七」。「それと反対が何であるかということをすなわちイエスがなし給わない罪をわれわれはゲッセマネの出来事からして知る〔すなわち、その客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて知る(信仰する)〕。罪はイエスが神のみ心に逆らうことを欲するということ、『この盃がイエスから過ぎ去ること(マタイ二六・三九)を欲することから成り立っている……。またそれと反対が何であるかということをすなわちイエスがなし給わない罪をわれわれは誘惑の出来事からして知る罪はイエスがご自分が神のみ子であるということを人間的な英雄の意味とスタイルで自分自身の利益と栄光のために(そうなるとこのことは悪魔を伏し拝むことを意味する)行使するということとそのことでもってご自分が神のみ子であることを否定するということ(マタイ四・一以下)から成り立っている……。したがって、イエスを、エルサレムに向かう道から引きとめようとしたペテロ〔「人間的な余りに人間的な」ペテロの善意〕は、『あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている』(マタイ一六・二三)という答え〔それは罪だという答え〕を受け取るのであるまた、それだからこそ、〔「人間的な余りに人間的な」仕方で〕『よき師よ』と呼びかけた富める青年ははねつけられるのである――『なぜわたしを善き者と言うのか。神一人のほかに善い者はいない(マルコ一〇・一七)神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠しを意味している」ところの『人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためでありまた多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである(マルコ一〇・四五)この規則が力を奮いつつイエスの生の上に立っておりこの規則が守られるということが人間イエスの聖化であり服従である」。神性を内在的本質とするところのおの外在的本質である神の「第二の存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における啓示と和解がキリストの神性の根拠ではなく、〔その内在的本質である〕キリストの神性が啓示と和解を生じさせるのである」。「イエスの無罪性は彼が受肉の意味を告白すること換言すればアダムと違って、『第二のアダムとして神のようであろうとは欲し給わないことむしろアダムの性質の中でアダムであること神の前にあって堕落した人間の状態と状況に対して告白し>〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、「神に逆らう」「神なき……」人間の状態と状況に対して、「無神性の……喪われた」人間の状態と状況に対して告白し〕、その人間の身に適中になければならない神の怒り〔神的な否〕を自らの身に負い>、しかも運命としてではなく、むしろ正しい必然的な怒り〔神的な否〕として身に負いその人間の状態と状況が含みをもっている重荷を避けようとしないでむしろそれのもろもろの条件と結果をご自分のものにし給うということである」。このことこそが、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「われわれがなそうと欲しないところのことである」。このことからして、「その中で人間がアダムの古い反逆を日毎に一時間毎に繰り返すところの罪の反逆〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」〕が成り立っている。何故ならば、ちょうどアダムが<楽園>における秩序を、すなわち彼が<造られた者である>ということが含みをもっている限界を守ろうとしなかったように、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、〕人間はアダムの子として、<回復>の秩序に服そうとしないからである、人間は自分が肉であること・裁き〔神的な否、死〕の下に立っておりただ恵みによってのみ生きることができるということを理解し認めようとしないからである、それから人間は徹頭徹尾その神のあわれみによりすがるために、人間に対して下される神の判決〔神的な否、死〕において神を正しいと認めようとしないからである〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は、裁き〔律法、死、神的な否〕であることによって恵み〔福音、生、神的な然り〕である」ということを理解し認めないからである〕」。したがって、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「人間は、少なくともまた、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神だけでなくわれわれ人間も」、「われわれ人間の自主性」・「自己主張」・「自己義認の欲求」もという仕方で、〕なお、自分自身の足の上に立って進もうとする〔換言すれば、そのような<自然的な>信仰、神学、教会の宣教に立脚して進もうとする〕。人間は少なくとも神がことをなし給う際にその傍らにいて共に働きながら〔「神人協働」、「神人協力」しながら〕『自分の生命を救おう(マルコ八・三五)とするしかしまさにそれと共に人間は自分の生命を失ってしまうのであるまさにそのことでもって人間の試み〔企て〕は挫折してしまうのである何故ならばまさにそのことでもって罪が肉にあって裁かれないで>、まさにそのことと共に罪が新たに起こって来るからである」。イエスはこれと別様であるイエスはアダムが転倒させたことを償い修復し給うたイエスは和解の秩序を承認したことによって換言すればご自分を罪人の場所に置き神の裁き〔神的な否〕の下に服しただ神の恵み〔神的な然り〕にのみ身をゆだね給うたことによって肉にあって罪を裁き給うたそのことがイエスの聖化であり服従であり無罪性である」。このような訳で、「イエスの無罪性〔「真に罪なき、従順なお方」「イエスの服従」〕は、<倫理的な英雄>〔、「道徳的な模範」〕であるということから成り立っているのではなく、……何らかの意味で英雄であろうとすることを、それであるから倫理的な英雄〔、「道徳的な模範」的人間〕であろうとすることをも断念することから成り立っている。イエスは、取税人や罪人の仲間であり、犯罪人の間で死に給うたにも拘らず罪がないというのではなく、むしろまさに取税人や罪人の仲間であり犯罪人の間で死に給うが故に罪がないのであるこの無罪性の中で、イエスは、パウロによれば『第二のアダム』(Ⅰコリント一四五以下)であり、そのものの服従によって多くの人が神の前で義とされ、その者の義なる行為が多くのもの、アダムの後に従って救いようもなく死の手に陥っている者たちの違反に対して、和解させつつ相対して立っている一人の者である。それは、その中で義認へと来るところの、しかも命を得させる義がすべての人に及ぶ義認へと来るところの義なる行為である(ローマ五・一二以下、Ⅰコリント一五・二二)。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の言葉がアダムとなることによってこの〔古い〕アダム存在の連続性は打ち破られ、<新しいアダム存在の連続性が開かれるのである」。したがって、キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの中間時、聖霊の時代においては、人間的存在は、終末論的限界の下で、次のような人間的存在である――「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)このことが聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は、裁き〔律法、死、神的な否〕であることによって、恵み〔福音、生、神的な然り〕である」ところの、イエスキリストにあっての神の啓示である何故ならば、〔神的な否、死の対象であるところの、〕人間が自分の失われ駄目になった状態を公に認めて責任をとり、徹頭徹尾神のあわれみに頼りつつ生きるところで神ご自身が啓示されるからであるが、しかし、そのことを何人もしなかったのであり、ただ一人神であり人であられるイエス・キリストだけがなし給うたところで神ご自身が啓示されるからである。また、そのことでもって、神は、世をご自分と和解させ給うた。何故ならば、人間が、自分に対して何の正しさも要求せず、むしろただ神のみを正しいとするところのことを、実は誰もしなかったのであり、ただ一人神であり人であられるイエス・キリストだけがそのことをなし給うたのであり、そこで世は神に対する敵対関係からつれ出され、神と和解する者となったからである」。したがって、『福音と律法』では、次のように述べられている――「神は、〔キリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある〕神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答え〔キリストにあっての「神の啓示は、裁き(「神の<裁き>の啓示」、律法、死、神的な否)であることによって、恵み(「神の<恵み>の啓示」、福音、生、神的な然り)である」が、その恵みであることによって裁きである答え〕を聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答え〔キリストにあっての「神の啓示は、裁き(神の裁きの啓示、律法、死)であることによって、恵み(神の恵みの啓示、福音、生)である」が、その恵みであることによって裁きである答え〕に屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそイエスキリストがその地上における全生涯にわたってことにその〔復活に包括された〕最後に当たって我々のためになし給うたことである彼は全く端的に信じ給うたのであるローマ三二二ガラテヤ二一六等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰属格明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕主格的属格〔「イエスキリスト信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)〔このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である〕」。「新約聖書はマコトノ人間を……真剣に受け取っているので新約聖書は全線にわたってイエスの服従を服従と取り組んでの現実の格闘として換言すれば服従を尋ね求め見出すこととして記述した(ルカ二・四〇、二・五二)。〔それ故に、〕マタイ四一以下に出てくる誘惑の出来事もただ単にサタンが外面的にだけ悩ますこととして受け取りイエスが内面的に誘惑され攻撃され給うことを否定することはよくないであろうマコトノ人間には、……われわれが人間の内面性と呼んでいることも含まれている」。したがって、「『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである』(マルコ一五・三四)という言葉および『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』(マルコ一五・三四)は、同様に真剣なものである。へブル五・七以下――新約聖書は、そのへブル五・七以下にある『学ぶ』ということが何を意味するものであるかをどこででも具体的に描き出していない、それ故にもしも人がそのことを何とか後から埋め合わせようとするならば、侵害の過ちを犯すことになる。新約聖書は、ただそのイエスの『学ぶ』ということの事実性を指し示しているのである」。「『主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができる』(へブル二・一八)のであって、決してそれと別様ではない」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、この「イエスが罪を犯すことが<でき>ないということ、〔神性を内在的本質とする〕神の永遠の言葉は〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」、この〕肉において誘惑されはしないということこのことは、確かに新約聖書が言おうとしていることである事情がそうであるということは、新約聖書によって証しされている啓示の秘義である。言い換えれば、そのことは、イエス・キリストという実在の出来事の真理であり、またただそのような出来事となって突然起こって来る真理〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての啓示の真理〕としてだけ理解されることができる」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、この「イエスは実際に何の罪も知り給わなかったそのように事実マコトノ神は力を奮うのであるこのことを新約聖書は語っている何故ならば新約聖書はその方の甦り〔「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、「実在の成就された時間」、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」〕について知っているからである言うまでもなく甦りはマコトノ神の啓示であるここでも、いたるところそうであるように、キリストの十字架から甦りへと通じるところのあらかじめ呈示されている道を共に進みゆかなければならない」――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り、復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死、神的な否〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生、神的な然り〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている。このキリスト復活の実在の成就された時間は、新しい世〔、時間〕のはじまりである」。「敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間〔、世〕は、キリストの復活の実在の成就された時間、本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間〔、世〕、キリスト復活の神の勝利の行為によって克服されてそこにある。また、その勝利の行為は、〔キリスト復活から「まことの未来」としての復活されたキリストの再臨、終末、「完成」――すなわち、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和完成までの中間時、聖霊の時代においては、終末論的限界の下で、〕敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」。したがって、このような終末論的限界の下で、「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性〔人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕にとっての<いまだ>であり、〔徹頭徹尾神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実として<すでに>ということである」。

 

 まさにイエスキリストは、<先ず以て>「自己自身である神(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性秘義性隠蔽性において存在している父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神であるそれ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「ご自身の中での神」における「神の自由の概念の積極的側面」を、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中で見ているそれからまた>「われわれのための神としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質おけるところの詳しく言えば神の起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の<語り手>」・「創造者」としてのイエスキリストの父>、神の第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の<言葉>」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエスキリスト自身>、神の第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、コリント310-11、エフェソ214以下)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体におけるところのその神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神(換言すれば、神の顕現」、「キリストの永遠のまことの神性」、「<神の言葉」、「<永遠の言葉」、それ故に神性を<内在的本質>とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉>の受肉この肉人間、「自己自身である神としての三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての神の子あるいは神の言葉の、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉受肉この肉人間であるから、「<神の言葉であった、<永遠の言葉であったにしてのまことの人間(換言すれば、神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その<内在的本質>である神性の受肉ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉の受肉この肉人間」、人間存在、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在」)である(それ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「われわれのための神」における「神の自由の概念の消極的側面」を、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」の中で見ている)。このような訳で、バルトは、『神の人間性』において、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<神の神性において>、また<神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた<神の人間性>〔キリストの人間性、まことの人間〕もわれわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について認識し自覚していないような人は〕、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている)――ヨハネ一一四の(神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>は肉〔、人間〕となって、わたしたちの間に宿られた。……」)いささかの制限もなしに神の本質と存在に与り給う神的な創造主和解主救済主なる言葉〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「三位一体の神」としての〕神の永遠のみ子である〔何故ならば、この「み子」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>」が、「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるし、その「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からである〕」。

 

神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉となった(ヨハネ一・一四)」――このキリスト論的な問い全体にとって決定的な要素にわれわれは今立ち向かわなければならない神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の『<言葉がなった>』というこのことは中心的な仕方で啓示の秘義すなわち神がわれわれのもとにわれわれと共にい給うという理解を絶することが出来事として起こったことを言い表している(中略)〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の言葉が自分の神性を放棄しないとするならば、……<言葉がなるということは……一つの奇蹟の行為>、神のあわれみの行為である〔すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である〕」。「事情がこうであるということは注釈的にヨハネ一一四の文脈から結果として生じてくるその前のヨハネ一三でロゴス〔言葉〕について述べられていることは、〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、この出来事としての神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉あった>、はじめにあった神と共にあったしかも彼自身が神であるという具合にあった(一・一)ということである『神の人間性』においては、次のように述べられている――「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「起源」・「根源」としての「は、子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が<根源>である。したがって、その区別された子は、父が<根源>であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が<根源>である。この神は、子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する。したがって、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」ところの「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性〕と共にただちにまた神の人間性〔キリストの人間性〕われわれに出会う」。「それからまた力を込めて力説しつつ、<彼によってすべてのものがなったなったもののうち彼によらないでなったものはなかった(ヨハネ一・三)と述べられている。それであるから、まさに<なる>ということが、彼、創造者と違って、その被造物に帰せられているのである。彼ら被造物がすべて、彼、創造者を通してなったのであれば、われわれは、彼自身が<なった>の主体となることができるであろうということ、彼自身が、彼によって創られたものがあるのと同じ仕方でそこにあることができるであろうということを、聞くことを期待することはできない」。「それからなったさらにヨハネ一・六以下において、証人ヨハネの歴史的な登場のことを言い表している。そこではっきりと、ヨハネは、光ではなく、換言すれば啓示ではなく、ただ啓示の証人であるところの『神から遣わされた人』としてロゴス〔言葉〕と区別されているそれにも拘らず、ロゴス〔言葉〕が歴史の中に現れたちょうど少し前に洗礼者が現れたし、またその前と後でもほかの多くの者が現れたように、ロゴス〔言葉〕についても<なった>と言われている最後にヨハネ一・一二以下において、彼らが明らかに現にあるところの者、神の子供、しかも生まれながらにしてではなく、ただ神の恵みによってのみ神の子供となるべき力を与えられたところの、彼の名〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕を信じた者たち〔換言すれば、神のその都度の自由な恵みの神的決断による、<客観的な>その「死と復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に基づいて「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が贈り与えられた者たち〕、そのようにして彼を受け入れた者たちについて語られているここにきて今や与える者が受け取る者の傍らに現れ与える者自身に対してなるということが帰せられている。そのような訳で、ヨハネ一・一四の謎全体は、〔命題の主辞と賓辞を繋ぐ〕繫辞の中で表現されている。(中略)〔神性を内在的本質とする〕神的な言葉が、〔その神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間において〕ご自分の永遠の王座を捨てて、〔しかしその内在的本質である神性を堅持しつつ、〕被造物・彼の証人たち・彼によって召され選ばれた者たちがいるところへと降り給う。……神的な言葉が、言わば〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>としての〕その方の行為の対象〔すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事の対象〕でしかあり得ないところの者たちの間に身を置くことによって自分自身を失い給うということが〔すなわち、「神の隠蔽」としての、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、この「自己卑下と自己疎外化」ということが〕、神的な言葉の〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>の〕行為である」。「もしも人が、それらの言葉が文脈の中で持っている意味をそのまま受け取るならばそれであるからもしも人が、言葉からも、<なった>からも、意味を軽くし弱めてしまう削除をしないならば、その時人は、その厳格に対立する内容をもったそれら両方の概念を〔神性を内在的本質とするところの区別を包括した単一性における〕同一の主体の規定として一緒に合わせて考えるよう要請される――神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性、まことの人間〕もわれわれに出会う」(『神の人間性』)その主体はまさに……その栄光をヨハネ福音書がそもそも新約聖書が証ししようとしているイエスキリストである――この主体に直面してのみ言葉はなったというその命題にまで来たのであるこの命題でもって、……この主体のみが指し示されるべきなのであるしたがって、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、「われわれは、〔発展段階的に、<概念>構成の高度化、<学的>・<学問的>構成の高度化を目指すヘーゲル弁証法のように〕それら二つの概念を第三のより高い概念の中で綜合し、それら二つの概念の対象を止揚するように要求されていない」。類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)に過ぎない「そのような第三のより高い概念の代わりにイエスキリストのが立っている」。したがって、われわれは、九州大学の神学者・寺園喜基が『バルト神学の射程』で紹介していたところの「<混合神学」としての、戦後の1946年に出版された日本キリスト教団立東京神学大学の教授だった北森嘉蔵の神の痛みの神学を要求されてはいない――すなわち、ヘーゲルの弁証法およびバルトの教会教義学 神の言葉の中にある「まさしく神に対して罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」としての「イエス・キリストの事実の中の神の愛」という言葉ならびに日本に戦前まであった日本的なナショナルなもの>(共同体至上意識がいつも個体性を超え行くところの滅私奉公の意識)とを<混合>させたところの北森の「<土俗神学を要求されてはいない――寺園の紹介している記事によれば、北森のそれは、次のように言うことができる――「『神の痛みの神学』において福音の心」は、日本の庶民の『つらさ』や『痛み』に通底している」・「他者を愛して生かすために、自分を苦しめ死なしめ、もしくは自己の愛する子を苦しめ死なしめる」・まさに日本的なナショナルなもの、すなわち共同体至上意識がいつも個体性を超え行く「滅私奉公」に過ぎないところの「浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』の『寺小屋』における〔観念の共同性を本質とする支配共同体の〕主君の子供を救うために、〔現実的な社会の中で具体的に生き生活している〕自分の息子を身代わりに殺された松王丸が、〔主君の息子のための、自分の〕息子の死を聞いたときにいった、『女房喜べ悴は主君の御役に立ったぞという言葉で表現できる」「神の痛みのことである」。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>を持たないところで、形而上学に木を見て森を見ないという仕方においてこのように思惟し語る北森における「『神の痛み』は、『神の愛』に一旦既に背いた者への愛である。この『神の愛』は<直接的な>『神の愛』〔すなわち、直接性におけるそれ、第一項のそれ、即自的なそれ〕をば<否定的媒介契機>〔すなわち、媒介性におけるそれ、第一項の否定のそれ、第一項の否定であると共に第三項への媒介であるそれ、対自的なそれ〕として自己の中に止揚しているもの〔すなわち、即自かつ対自におけるそれ、第二項の否定のそれ、否定の否定のそれ、即自かつ対自なそれ〕であって、〔「神の痛み」は、即自かつ対自のそれとして、<直接的な>〕『神の愛より一段高次のもの>」、すなわち「十字架における神の愛のことである」。このような神学者北森教授の土俗神学を神学生が「そのまま鵜吞みにしたり模倣したりした」まま牧師になり教会の宣教に携わったとしたら、その牧師の宣教、その神学、その信仰は、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」――すなわち啓示の類比・信仰の類比・関係の類比、啓示神学に依拠しないところのそれであって、それ故にそれは、ただ単なる一般的啓示、一般的真理、「存在ノ類比」、「『自然』神学」に依拠したところのそれであることになるだけである。それだけでなく、その北森の「<土俗神学」は、戦前の観念の共同性を本質とする天皇制国家の帝国<憲法>上の統帥権を持っていた主君である天皇のために死ぬことを喜べということを意味することになるから、その北森の「<土俗神学」は、戦後過程においてもなお依然として戦前における「<教会の宣教の敗北の構造の問題、それ故にその一つの「補助的機能」・「教会的な補助的奉仕」としての「<神学の敗北の構造の問題、「<教会知識人の敗北の構造の問題、教会のキリスト信者・「<成員の敗北の構造の問題を明確に提起することができていないことを意味しているーーまさにその通りであるが、マルクスは『ユダヤ人問題によせて』で、「問題を明確に提起することは、その問題の解決である」と述べている。このような訳で、日本キリスト教団の戦後過程>において、<徹底的に>、そのような北森神学に対する異議申し立てや批判が根本的包括的に原理的になされないままそれ故に戦前の体質のままなお依然として単なる外皮的な口先だけの「戦争責任の告白」や「平和のための祈り」がなされたということが、日本キリスト教団の戦後過程における問題なのである。戦後においてバルトは、『バルト自伝』で、次のように述べている――第二次世界大戦において、「私は教会のなかに破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造党派〔党派性、党派思想、党派主義〕、支配的傾向を見出した。公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心を見出した。私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」、と。このような訳で、われわれは、ただ徹頭徹尾神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な<自己証明能力>」の<総体的構造>にだけ感謝をもって信頼し固執し固着する以外にはないのである。このような訳で、「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性〕われわれに出会う」というように「『一緒に合わせて考えるということはただわれわれがわれわれにあらかじめ与えられていることを堅く取って放さないでいようとする時いつも〔聖書の中で証しされている〕イエスキリストのに対して負っているところの応答ということでのみあり得る。それであるから、『一緒に合わせて考えるということは、〔「神の神性においてまた神の神性と共に、ただちにまた神の人間性われわれに出会う」というように、〕ただ〔第三の形態の神の言葉である教会の成員としての〕われわれに対して〔第二の形態の神の言葉である〕聖書を通して同様に厳格に〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉が肉なったがあらかじめ与えられているということに基づいて同時に考えるということを意味することができるだけである」。

 

 われわれはその神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の言葉その受肉において肉人間となるということ(Werden)が奇蹟の行為であることを理解するために、……その奇蹟の行為はご自身〔神性を内在的本質とする〕であるところの言葉の行為〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>の行為、換言すれば「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕として理解されなければならないという認識に立ち返らなければならないちょうど人間性が自分自身からしては、それが言葉の人間性となるのに適した能力、力、威厳を持っていないように、またそれとしてそのまま言葉が<なる>ということであることができるような<なる>は存在しない。(中略)言葉がなるということは……神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の言葉の意志であり、<言葉の業であるのであって、……それは〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、〕働きかけを身に受けることの中でもあくまで働きかけであり〔「神の隠蔽」としての〕覆い隠しの中ででも〔「神の顕現」としての〕尊厳の行為なのである言葉低くされたのではなく自分自身を低く〔「自己卑下と自己疎外化」〕し給うたのである〔それ故に、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠しを意味している」〕」。したがって、「その奇蹟の独一無比な行為、言葉の受肉とは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の<言葉>が<なる>ということそのものの中で、神の<言葉>が<なる>ということそのものと共に、……<言葉>自身の存在と単一性の中へと、人間存在それ自身が<なる>ことによって、人間存在として神の<言葉>の存在となるという仕方で、<取ること>・取り上げること・受け入れることである。したがって、われわれは、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>としての「神的な言葉の理解を絶した<なる>を表現するために、必然的に、われわれによく知られている意味での<なる>ということを、ただわれわれの人間存在について語ることができる。『とるという表現をわれわれは、<なったの適切な言い換えとして昔から伝わった概念の伝統に結びついて用いる(「ピリピ二・七、へブル二・一六――『助けられた』と訳されたところは、『とる』の派生語である。この概念を強調することは、すでに二世紀に遡ることができる――テルトリアヌスの『肉ヲ着ル』」、オリゲネスの『受ケトッタ人間性』等)」。

 

 われわれが〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕『<言葉は肉となったという命題を、『言葉は肉をとったという命題で言い換える言い換えでもって、……概念の完全な意味で神であることをやめてしまったかのように考える第一の誤解が生じることを防ぎ守っている」。したがって、バルトは、この<第一の誤解>が生じることを防ぐ守るために、『神の人間性』において、「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性、まことの人間〕われわれに出会う」と述べている。〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神は神であることをやめてしまうことはできない」。したがってまた、バルトは、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている(『神の人間性』)。このように神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>の「受肉は理解を絶したものであるが、しかし、受肉は決して背理なことではないし、それ故に背理なこととして解釈されてはならない」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である神の言葉がそれとしてそのままそれであるから〔神性を内在的本質とする〕神であることをやめることなしに〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕被造物である人間存在を自分自身の存在に加えその限り自分自身の存在とするといった仕方でわれわれのもとにいるということが〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕受肉の理解を絶した事実である神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の言葉その〔内在的本質である〕起源的な神性の賓辞であり〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>は、神性を内在的本質としているということからして、換言すれば起源的な神性が主辞であるから、神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>は、起源的な神性の<賓辞>であり〕それと共に、自分自身〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>〕の賓辞として人間存在〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、人間性〕自分自身との〔区別を包括した単一性の中へと取り入れるのである」。すなわち、「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性〕われわれに出会う」のである。さらにまた〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕『<言葉は肉となったという命題を、『言葉は肉をとったという命題で言い換える言い換えでもってあたかも受肉においては神的存在および本質と人間的存在および本質が一つに結びつくことによって第三のものが発生したかのように考える第二の誤解が生じることを防ぎ守っている」。言い換えれば、バルトの『神の人間性』における「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性〕われわれに出会う」という思惟と語りは、この<第二の誤解>が生じることも防ぎ守っているのである。したっがってまた、バルトは、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」、と述べているのである。このような訳で、神と人間の間の仲保者としてのイエスキリストは神的存在および本質と人間的存在および本質が一つに結びつくことによって発生した第三のものではない」。何故ならば、「万一、両者の間の第三のものということになれば、神が神であることをやめてしまったことになるし、またわれわれのような人間でもないことになってしまう」からである。そうではなくてイエス・キリストは仲保者であり〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において〕彼が神であり〔神性を内在的本質としており〕また〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」として〕人間であるという仕方で神人〔まことの神にしてまことの人間〕であるこのまた受肉のあのなるの理解を絶した行為なのである〔それ故に〕それは、人間的存在と本質の行為ではない。しかしまた、それとしての神的存在と本質そのものの行為ではない。神が行動し給うところでは、言うまでもなく神的性質が行動するのではない。〔すなわち、〕神的性質の中で〔その神性を内在的本質とする〕三位一体の神が〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>において〕行動されるのである「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのために神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)としての〕聖霊なる三つの存在の仕方の中での〔「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての〕一人の方であり給う神が行動されるのである〔神性を内在的本質とする〕永遠の言葉によって〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において〕人間的存在が取り上げられる〔「この肉、人間」を〕とることにおいても事情は同様である〔「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の子なる<神>としての〕<永遠の言葉が父および聖霊の意志と力によってと同様にご自分の意志と力によって、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において〕肉となるのであるそれであるからその〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉の中へと〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」において〕人間的性質が取り上げられるところの単一性は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉との単一性でありただその限りこの〔神性を内在的本質とする<神の>子としての、その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉、<永遠の言葉であることからして〔その<言葉>は神性を内在的本質としていることからして〕、〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、〕人間的性質〔キリストの人間性〕が神的性質〔キリストの神性〕と一つとなる単一性である」――「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性〕われわれに出会う」。この神性を内在的本質とする<神の>子としての「<永遠の言葉は父および聖霊と共に、〔「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、〕変わることのない神ご自身でありそれ故にそこではいかなる変化あるいは混同もあり得ない方である」。このような訳で、「言葉と一つになること〔神性を内在的本質とするところその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉〔その神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」と〕なるというなるその言葉〔その神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての〕肉の間第三のものが発生するということではなくてただその言葉によって肉がとられるということを意味することができるだけである」。「一六世紀および一七世紀には、ルター派的キリスト論と改革派的キリスト論の間で公の対立が起こるようになったが、両者の立場を極端にまで推し進めるならば、改革派的キリスト論の最後には両性の分離を伴ったネストリウス的逸脱が、ルター派的キリスト論の背後には両性の同一視を伴ったエウテュケス的な逸脱が現れてくる」。したがって、われわれは、「ルター派の者たちも、改革派の者たちも、その出発点において、……イエス・キリストは、起源的に本来的に、神的な<言葉>が、それによって取られた人間的存在と一つである単一性〔区別を包括した単一性〕のことであるという点で一致していたということを確かめることでもって満足することにしようしかしその単一性は神的存在がそこで受け取られた人間存在と一つである単一性〔すなわち、「神の神性においてまた<神の神性>と共に、ただちにまた<神の人間性>もわれわれに出会う」、その主辞(神の神性、キリストの神性)と賓辞(神の人間性、キリストの人間性)の「ひっくり返すことのできない等置」、区別を包括した単一性〕、両性の単一性換言すれば〔区別のない〕一様性と考えてはならずまた〔分離された〕二重性として考えてはならないところの単一性〔「原則的にはただそれら<両方の命題の共通的なものとして前提された地盤の上でだけ起こるであろう」、換言すれば「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性、まことの人間〕われわれに出会う」。したがって、「議論は、原則的にただ互いにそれら両方の命題の<妥当性>を問い合い、問わしめ合うということから成り立つだけである。ここでは、二つの<学派>の伝統の間での対立が問題であって、<信仰>の対立が問題ではない。この対立は、共観福音書的なキリスト証言とパウロ的―ヨハネ的キリスト証言の間の相違にまで遡ることができる」。「キリストにあっての神と人間が一つであるという単一性は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉が人間的な存在をとるところの言葉の行為のことであり〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において、<言葉>が「肉、人間」を<とる>ところの、神の<子>あるいは神の<言葉>の行為のことであり〕、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉の位格の中で神がなし給う行動〔・働き・業〕、<言葉〔その「<言葉>の受肉」において「肉、人間」と〕<なるということでありそれ故にこの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉〔その「<言葉>の受肉」において「肉、人間」と〕<なるということの中で人間存在の身に及ぶところのことであるが故に神と人間創造者と被造物はこの単一性の中においてはそのほかの人間の中のようにあるいはそもそも被造物の中でのように互いに関係し合ってはいないのである」。「イエスキリスト神人〔まことの神にしてまことの人間〕にあっての神と人間との単一性は〔換言すれば、「神の神性においてまた神の神性と共に、ただちにまた神の人間性われわれに出会う」という区別を包括した単一性は〕、その人間イエスキリストは、……〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉が肉となったということに基づいて神と同一であるということであるしたがってイエスキリストはただ単に神を通して神と共に生きるだけでなく、<ご自身が〔神性を内在的本質とする〕であり給いそれであるから神と並んでいかなる実在いかなる現実存在も持ち給わずまた彼は自主独立的に自分だけでそこにい給うのではなく彼の実在彼の現実存在彼の現存在は徹頭徹尾神ご自身のすなわちその〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉の中で〔すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事の中で〕行動れる〔神性を内在的本質とする〕ご自身の実在神ご自身の現実存在神ご自身の現存在であるということであるイエスキリストの人間性はただ〔<主辞>である〕彼の神性賓辞であるもっとよく具体的な言い方で言うならば、イエス・キリストの人間性は、ただ主であるところの〔すなわち、ただ神性を内在的本質とする神であるところの〕われわれに働きかけ給う〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉>の理解を絶したへりくだり〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕の中で受け取られた<賓辞>である」。「人は、言うまでもなく、すべての造られた存在の中での〔神性を内在的本質とする〕神の現臨について、すべての造られた存在の中での神の〔その「三つの存在の仕方」における〕人格的な現臨についても語ることが許されるし語らなければならない。しかし、そのような時、すべての造られた存在は、神に相対して独立した現実存在を持っている。そのすべての造られた存在は、確かにただ創造と保持の力によってのみ、神を<通して>、そしてまさにその限り、ただ神との単一性の中で実在する〔何故ならば、「イエス・キリストにおける神の愛は、神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」からである〕。しかし、その場合そのすべての造られた存在は、その単一性の中で自分自身が神であるといった具合では決してなく、むしろその存在は、神の中に存在しつつ、神とは違った者であり〔換言すれば、神の被造物として、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>下にある者であり〕、換言すれば神を通して、神とは違ったそれ自身の存在を持つといった具合である。また、〔第三の形態の神の言葉である教会の宣教としての〕<説教の言葉>およびそのことでもって人が言葉と要素の<外面的な>被造物的<しるし>を理解する限り、<聖礼典>の中での神の恵みの現臨〔「人間的な語り、水、パン、葡萄酒が、ただ単に神を通してだけでなく、……神<と共に>実際に結び合されているということを意味している」それ〕に関してもそして<信仰>を通して選ばれ召された者たちの<心の中>での神の恵みの現臨〔「信じる人間が、単に神を通してだけでなく、……神<と共に>生きることが許されているということを意味している」それ〕に関しても、事情はそれと同様である」。

 

昔の教義学者たちは、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉〔その神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としてのその〕人間的な性質が一つであるというこの単一性の特徴をもっと詳細にわたってそのほかのあらゆる種類の単一性から区別しそれによってその特徴を明らかにしようと試みた」。「キリストの人間性についてのアンヒポスタジーキリストの人間的な性質が、<なったの故に換言すればトルコトの故に自分の存在を神の存在の中で換言すれば〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」としての神の<子>あるいは神の〕<言葉の存在の仕方実体位格の中で持つことによってキリストの人間的な性質は自分の存在を自分自身だけで抽象的ニ持っておらず、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」、「<言葉>が肉となった」、「<言葉>が肉をトルコト」としての〕その神的な存在の仕方〔その神の「存在の仕方」〕の現存在をキリストの人間性は手に入れるようになるその神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の言葉」としての〕神的な存在の仕方〔その神の「存在の仕方」〕を度外視していかなる自分自身の存在も持っていない、換言すればキリストの人間的な性質は結合の出来事の中で生起する神の中でのその具体的な存在〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは「神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、人間存在〕を度外視して決してそれ自身の存在を持っていないと消極的なことを語っている」。それに対して、「<エンヒポスタジー>キリストの人間的な性質は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において「この肉、人間」と〕<なったのおかげで換言すればトルコトのおかげで神の存在の中ですなわち〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>としての、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての〕神の存在の仕方実体位格の中で存在を入手するようになるこの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」、〕神的な存在の仕方がキリストの人間的な性質に対して結合の出来事の中で存在を与えるのでありそのようにしてキリストの人間的な性質は具体的な自分自身の存在を持つと積極的なことを語っている」。「キリストの人間的性質はエンヒポスタジーである。この命題は、すでにヒッポリュトスの下で見出される――確カニ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「<言葉>が肉となった」、「<言葉>が肉をトルコト」としての〕肉ハ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉ヲ離シテ自分カラシテ実体をモツコトハデキナイ何故ナラバ〔その賓辞としての〕肉ハ〔主辞としての〕言葉ノ中ニ本性ヲモッテイルカラデアル」。主辞としての神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは「『神の言葉そのものが〔その賓辞としての〕肉の存在の仕方となった』。……ソノ〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「<言葉>が肉となった」、「<言葉>が肉をトルコト」としての、この賓辞としての〕肉ハ主辞としての〕神ノ子ノ外デハソレ自身の実体(独立シタ存在)をモッテオラズムシロ〔主辞としての〕神ノ子カラシテ、神ノ子ノ中デマコトニ支エラレ担ワレル」。「五五三年の第二コンスタンティノポリス総会議において教義にまで高められたこの教えの関心事は、仮現論およびエビオン主義にまで遡らなければならないところの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉としてのキリストおよび>〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「<言葉>が肉となった」、「<言葉>が肉をトルコト」、この〕人間としてのキリストという二重の存在についての考え方を防止することであった」。「われわれは、すでになした論述の中で、〔<神の>子としての、神性を内在的本質とする〕<永遠の言葉は人間を自分のものとしたのではなく、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<子>あるいは神の「<言葉の受肉この肉人間」、<言葉>が肉となった」、「<言葉>が肉をトルコト」において、〕人間の性質人間の存在を自分のものとした、ということを見て取った。それであるから、第二の存在者を自分のものとしたのではなく何故ならば、神の側の真実としてある、すなわち神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる<偉大な可能性>である」存在者、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉の受肉>、この肉、人間」、人間存在としての<「存在者」>だけだからである、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのただイエスキリストのだけだからである〕、……人間の第二の存在可能性を自分のものとし、それと同時に、人間に対して、それ自身の存在を与えたということである――「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)ルカ一三二(三五節参照)で言われている彼はいと高き者の子と唱えられるであろうような言葉は真剣に力を奮わなければならない」。「その後一七世紀になって、まさにそのところで、ルター派の神学と改革派の神学の間の意見の相違がはじまったし、キリストの人間的な性質のアン・ヒポスタジーおよびエン・ヒポスタジーについての教えは、近代において、〔近代的な感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して、〕時折次のような素朴な議論でもって攻撃された。それは、もしもキリストの人間的な性質が、自分自身の人格性を持っていないとすれば、キリストのまことの人間性は、そのことのためにおしまいになってしまうし、実際昔のキリスト論の仮現論が姿を現すであろう、というものである。われわれ現代人は、まことの人間存在には……まさに人格性こそが属しているということを知っているという議論である。そのような素朴な議論は、全くただあの時折アン・ヒポスタジーの代わりに用いられたラテン語の概念individualitas〔個体性〕の誤解に基づいている。昔の教説に従ってキリストの人間的な性質と考えられたものにとって欠けているところのものは、われわれが人格性〔すなわち、「他との関係なしにそれ自身で存在している近代的な個体」〕と呼んでいるものではない。〔それとは違う〕人格性ということを、昔の人々は、individualitas〔個体性〕という言葉で言い表していたのであり、それが、キリストの人間的な性質に欠けているということ決して教えなかったむしろ、昔の人々は、まことの人間存在には事実またこの特質も属しているということを教えたのである昔の人々はわれわれが現実存在あるいは現存在と呼ぶところのことをpersonalitas〔「他との関係なしにそれ自身で存在している近代的な個体」としての人格概念ではないところ」人格位格、「存在の仕方」(バルト)〕と呼んだのである。キリストの肉〔、人間〕がそれ自身いかなる現存在も持っていないという命題を、キリストの肉〔、人間〕は、その存在を〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」において〕啓示および和解者として行動する〔神性を内在的本質とする〕神ご自身であるところの、〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、すなわち神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉>を通して、<言葉>の中で持っているという積極的な命題の故に主張した。このように起源的な意味で理解されるならば、……聖書によって証しされた実在、イエス・キリストを、その一回性と独一無比性の中での神的支配の行為の実在として、すべてのそのほかの出来事と比べて、その特質を明らかにし、それと共に、啓示を通し信仰に対して提示された実在としての特徴をあきらかにするのに適していた。〔<神の>子としての、神性を内在的本質とする〕<永遠の>言葉の力によって、イエス・キリストは、肉と血を備え〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「<言葉>が肉となった」、「<言葉>が肉をトルコト」において〕、われわれの領域の中にいます人間として、われわれに等しい者として・歴史的な人物〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕として存在し給う。しかし、イエス・キリストは、そのような方として、<ただ>神的な言葉の力によってのみ存在し給う」、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性、まことの人間〕われわれに出会う」(『神の人間性』)

 

 神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」としての「<言葉が肉となった>」、「<言葉が肉をトルコト>」――この神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉の受肉実体的な結合の出来事は〔その主辞としてのキリストの神性における〕完成された出来事としてしかしまさに〔その賓辞としてのキリストの人間性における〕完成された出来事として理解されなければならない」。何故ならば、「新約聖書がわれわれに対してイエスキリストなる実在に関して語っていることは疑いもなく完了した事実についての報告として聞かれることを欲しているからである言い換えれば、その完了した事実>」「〔神性を内在的本質とする〕神が〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉」において〕人間となりそのようにして〔神性を内在的本質とする〕永遠の言葉がわれわれ人間の間で聞かれるようになりそのようにしてわれわれ人間は神と一度ですべてにわたって力を奮う仕方で和解されたところの成就された時間の中で〔すなわち、<客観的な>その「死と復活の出来事」における「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」の中で〕……まこととなったのであるイエスキリストなる実在は客観的な事実であるそのことを通してキリスト論のいわゆる〔聖書によれば、「神の選び(「神の恵みの啓示」、福音、生、神的な然り)をイエス・キリストの復活において認識し、神の放棄(「神の裁きの啓示」、律法、死、神的な否)をイエス・キリストの十字架において認識することができる」ということからして、「イエス・キリストにおける出来事の内容」は、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」という〕存在的な興味が生かされ保持されている新約聖書がイエスキリストについて語っていることは言うまでもなくその最後の言葉に至るまで復活日〔使徒行伝一・三〕と昇天〔使徒行伝一・八以下〕からして語られている」。「旧約聖書的な<待望>の時間と新約聖書的な<想起>の時間との間の実在の成就された時間〔「イエス・キリストの受難と死および復活」、「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕とは、イエスがご自分をお示しになった復活のあの四十日(使徒行伝一・三)のことである。新約聖書の証人たちは、このキリスト復活の四十日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を<想起>する時、光を得たのである。彼らは甦えりの証人である。そして彼らは、既に来た方はまたこれから来たり給う方であることを語る〔換言すれば、彼らは、復活されたキリストの再臨、終末、「完成」を語る――すなわち、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的属格として理解されたローマ322ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格、すなわち「イエス・キリスト信ずる信仰」、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『福音と律法』、『ローマ書新解』)、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>」そのものの「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのものの「完成」を語る〕」。言い換えれば、「新約聖書がイエスキリストについて語っていることは一度ですべてにわたって力を奮う仕方でなされた〔<神の>子としての、神性を内在的本質とする〕<永遠の言葉その言葉によって受け取られた人間存在〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての人間存在〕が一つに結び合される結合の認識からして語られている。したがって、「神の神性においてまた神の神性〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性、まことの人間〕われわれに出会う」と思惟し語らなければならない〕。〔「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四十日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」である〕神のみ子は、……今やすべての時間にとって、いや永遠にわたって、われわれが現にあるところの者である。イエス・キリストは、インマヌエルであり、彼は『世の終わりまで、いつもわれわれと共に』(マタイ二八・二〇)います。すなわち、われわれも、『いつもともにいるであろう』(Ⅰテサロニケ四・一七)時まで、共にいますのである」。「実在の成就された時間」としてのキリスト復活の四十日に伴う「キリストの高挙は、……その低さの除去取り除き受肉の撤回を意味していないそしてその低さの中でのキリストの高さの啓示、<十字架につけられた方の甦りまさに人間存在の中での〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」としての神の<子>あるいは神の〕<言葉の勝利を意味している」。まさにその限りキリスト教の使信にとって〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉の受肉は、<完成された出来事であるキリスト教の使信はこの側面から見るならばパウロ的ヨハネ的な問いに対して答えているキリスト神の子はまことにナザレのイエスと呼ばれナザレのイエスである、と〔キリスト、神の子は、まことに「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」である〕」。バルトは、『教義学要綱』で、インマヌエルについて、次のように述べている――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉は〔すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」は〕、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子〔神の顕現〕にして人の子〔神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」〕、真の神〔神の顕現〕にして真の人〔神の隠蔽、「神の自己卑下と自己疎外化」〕、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、〔聖書の中で証しされている〕イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「啓示の<しるし>」)としての第二の形態の神の言葉である〕聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(すなわち、イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者および使徒の証しとして〔すなわち、イエス・キリスト自身によって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」として〕、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合〔すなわち、われわれが、第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教を神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによってイエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」、と。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは「神の<言葉>は、その都度、全く特定の一回的な、独一無比な言葉である。しかしまた、時の全くの厳格な相違性の中で、その神の言葉は一つである。この神の<言葉>は、神の口を通して語られて同時的である」、「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」。したがって、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマとなる」。「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っている、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<言葉>自身がその<言葉>自身の出来事の自己運動を持っている――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)を持っている。

 

「実在の成就された時間」としての「キリスト復活の四十日(使徒行伝一・三)」に伴うキリストの高挙は、……その低さの除去取り除き受肉の撤回を意味していないそしてその低さの中でのキリストの高さの啓示、<十字架につけられた方の甦りまさに〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としてのその〕人間存在の中での〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉の勝利を意味している」、「まさにその限りキリスト教の使信にとって〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉の受肉は、<完成された出来事である――この神性を内在的本質するところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、肉、人間」、「言葉が肉と<なった>」、「言葉が肉を<トルコト>」としての受肉実体的結合の奇蹟はその局面の下では〔神性を内在的本質とする〕神の言葉がその神性の自由尊厳さ栄光から降りてこられたということの中で見て取られるしたがってその受肉実体的結合の奇蹟神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事に関わる神の<子>あるいは神の言葉〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕ご自分と等しくなることなしにわれわれと等しくあるあの等しさを受け取られたということ〔神の<子>あるいは〕神の言葉われわれのために……徹頭徹尾……その〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉の受肉、この肉、人間>」、〕人間存在の中で尋ねて見出されることができるということ「天上および地上におけるほかのどのような形態や事象」は、われわれが、「耳を傾けなければならず、また信仰と服従をささげなければならず、堅く取って離してはならない」<言葉>ではなく、それに対してわれわれが、「耳を傾けなければならず、また信仰と服従をささげなければならず、堅く取って離してはならない」<言葉>は、飼い葉おけの中での幼子〔復活に包括された〕十字架上の一人の人間徹頭徹尾〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間、人間存在、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕ナザレのイエスキリストの人間存在何故ならば、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉それと共に〔神性を内在的本質とする〕神ご自身はわれわれにとって〔聖書の中で証しされている〕キリストの人間存在の外にいまさないからであるということの中で見て取られる……」。人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって対象され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界(人間の観念的生産物)としての「存在者」ではないところの「存在者」、すなわち神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉受肉>、この肉人間」、人間存在としての<「存在者」>、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」――まさに「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である」。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)を要求するのである。

 

 ルターのキリスト論的立場は、かつてカンタベリーのアンセルムスがなしたように、神の恵みは、われわれに対して、実際に具体的に確実に、飼い葉おけの中で、十字架上で、イエス・キリストの人間存在の中で現れ、神ご自身によってまさにただその人間存在の中でだけ、すべてのことがわれわれのためになされ、なしとげられ、神の前で力を奮うわれわれの義認は遂行され、そのことは信仰の中でただそのまま受け取られるべきであるというパウロ的ヨハネ的キリスト論の答えを全心をかたむけてつかもうとしたという点にある、「わたしは、処女マリヤより生まれ、苦しみを受けた方以外には、神の子について何も知ろうとは思わない」、「神的な人格であると同時に人間的な人格であり、このほかのすべての場所では単なる切り離された神であって、人間性を持たない神的人格であるようなものは、わたしにとっては悪しきキリストであるであろう」というこの「ルターの大胆な主張は、ルター派正統主義によって、教育的な意図をもって、……神の言葉とキリストの人間性の間の相互<内在性>を、それであるからキリストの人間的性質のエン・ヒポスタジーの命題を逆転させ〔換言すれば、「キリストの人間的な性質は、<なった>のおかげで、換言すれば<トルコト>のおかげで、神の存在の中で、すなわち神の存在の仕方(実体、位格、「存在の仕方」)の中で、存在を入手するようになる」、この神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神的な存在の仕方が、キリストの人間的な性質に対して結合の出来事の中で、存在を与えるのであり、そのようにしてキリストの人間的な性質は、具体的な自分自身の存在を持つ、と積極的なことを語っている」ところの「キリストの人間的性質のエン・ヒポスタジーの命題を逆転させ〕、ちょうど人間性がただ言葉を通して、そして言葉の中でのみ実在を持つように、また言葉はただ人間性を通して、人間性の中でのみ実在を持つ」という主張に仕上げられた。したがって、バルトは、『ルートヴィッヒフォイエルバッハそのようなルターやルター派正統主義の思惟と語りに対して、<否定的に媒介するという意味で次のように述べている――「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄し後景へ退けたところの、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてのその人間の意味世界・物語世界・神話世界(「存在者」)、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」、「存在者レベルでの神への信仰」は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)〔それには、〕あらゆることが可能であり、(中略)〔またそれは、〕人を義とする……、……〔恣意的独断的な「わがまま勝手な」〕愛と善き業を生み出す…、〔恣意的独断的に「わがまま勝手に」〕罪や死にも打ち勝ち、人を救う。〔その〕信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し〔たが、それは、〕……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地、神と人間を顚倒する可能性を意味しており〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を揚棄することを、あるいはそのことを認識し自覚していないことを意味しており〕、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態、無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に顚倒不可能な関係だということ――そのことについて〔すなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>について〕、人々は、フォイエルバッハ〔の客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)〕を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、「……神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」、「市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の<無神性>は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。そのときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである」、と。

 

 前段のルターの大胆な主張ルター派正統主義によって教育的な意図をもった主張が持つ問題性は、神の言葉の<自由>、尊厳さ、栄光に対して、十分な考慮が払われていない、また神の言葉が肉となったことによって、それは、決して消え失せたり、埋没してしまわないような仕方で十分な考慮が払われていない」という点にある「ルターとルター派の者たちがキリストの人間性のエンヒポスタジーについての命題を逆転させようとした時換言すれば言葉のただ排他的に理解されたエンサルキー(肉の中にのみ存在している)についての命題でもって補充しようとした時そのことはあまりにも大胆な企てであった〔前段で引用した『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を参照されたし〕」。

 

 われわれは、「新約聖書がわれわれに対して、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」としての「この肉、人間」と〕『なったイエスキリストなる実在を〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」を〕、完成された出来事として完了した行為的事実〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としてのかみの自由な愛の行為の出来事〕として記述しているということに強調点が置かれているのを見出すことができる――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの<名>からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない〔何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史におけるアジア的段階の日本において、天皇を含めて「芸能者、宗教者、鍛冶屋、ハンセン病者、ざるやかごを生産する竹細工師、海部民」――これら非農耕民は神人と呼ばれていたからである〕。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの<名>だけであり、そのイエス・キリストの<名>がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの<名>だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉』)。〔神性を内在的本質とする〕神が、〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において〕人間となったということ、〔それ故に〕神の言葉が聞こえ得るようになったということ、〔徹頭徹尾神の側の真実として〕われわれが神と和解せしめられたということそのことはそれがまこととなったことによって換言すればそのことがわれわれの目と耳の前で聖書の証言の中で聖書が証ししている啓示への歩みの中で〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方の中で〕、約束から成就への十字架から甦りへの歩みの中でまこととなることによってまことである>。この出来事の進行の中で、われわれがこの進行の後に続いて行くことによって、われわれは、われわれに対して証しされている実在を認識する〔したがって、バルトは、Ⅰコリント310-11、エフェ214以下で語られていることからして、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」と述べている〕。キリスト論の関心はここからして、<認識的な性格〔すなわち、あの<客観的な>「存在的な<必然性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<必然性>」を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」とその中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」という性格〕を得てくるのであって、それがまた、重要な意味を持つ関心であるということを、人は否定することはできない……」。「新約聖書は、徹頭徹尾復活日および昇天からして語っているとしても、……それとしての復活日と昇天は、新約聖書の証言の、そこへとわれわれは特定の道を通って導かれるところの終わりと目標点を形づくっているということを見逃すことはできない」。「先ず第一に、われわれに対して、そのあと解明がはじめて<続>かなければ謎がかけられる。その謙虚さの中での人間とその高揚の中での神、あるいはその覆われた姿の中での神人とその現れた姿の中でのその同じ方〔すなわち、イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間である〕、それこそここで〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において〕関連し合っている、切り離せない仕方で結びついている、しかしはっきりと区別されている二つの歩みである。神と人間の<出会い>のような何ものかが新約聖書のキリストの形姿の中で起こっている。この出来事の中で新約聖書的証言の対象であるところのマコトノ神ニシテマコトノ人間が出来事として起こるそれであるから十字架につけられた方の甦りその出来事の啓示として換言すればその人間存在の中での〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉の勝利として重要なのであるキリスト教に使信、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉」において神の〕<言葉>は肉となったは、実にそのことを語っている。このキリスト教の使信はナザレのイエスはまことにキリスト神の子であるのかという共観福音書記者たちの問いに対する答えである今やこの人間的な存在が神の言葉以外の何ものを通してもその存在と力を得たのではないということこの人間存在の中でほかならぬ神の言葉が受け取られ把握され信じられ理解されることを欲しているということすなわち言葉が肉の秘義としてしかし肉は言葉のおおいおよび形態として受け取られ把握され信じられ理解されることを欲しているということにすべての強調点が置かれているのである」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉の奇蹟は、この局面の下では……自ら身を落としてわれわれのところまでへりくだり、すべての点においてわれわれと等しくなられた方はその神性の自由、尊厳さ、栄光の中での〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の<言葉>であったのであり、その〔その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」における〕人間存在、キリストの誕生と十字架の中にいます神の<言葉>は〔すなわち、キリストの人間性の中にいます神の<言葉>は〕、同時にその全き高さの中で〔すなわち、キリストの神性の中にいます<神の>言葉の中で〕尋ね求められ見出されなければならない神が人間であるという奇蹟を見て取ることの中で、それであるから信仰の中で、いわば『神が人間となる』という行為が<繰り返される>のでありそこで閉じられた秘義から開いた秘義へ、十字架〔「神の隠蔽」〕から甦り〔「神の顕現」〕へと理解を絶した道が共に<進みゆかれる>のである。〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」としての〕信仰は、この人間が神であるということをいわば発見する〔認識する〕のである。それとしての神の人格的な行為そのものが〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の<言葉>が、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事が〕信仰の対象である。ここで見られているところのイエスキリストの実在は啓示でありその啓示は信仰の対象でありしたがって啓示の認識は信仰の認識である〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」〕。よく注意せよ。まさに、それらが一つであることを理解させるためにこそ、神と人間の間で区別がなされるのである。それは、神と人間が一つであることが、あくまでも神の行為として、それと共に、この行為の中で〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事として、それと共に、この行為の中で、〕神ご自身が〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」が〕主として洞察され続けるためである」。この関心事に基づいて一六世紀および一七世紀において、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉はただキリストの人間性の中でのみ存在するというルターおよびルター派の者たちの命題に対する改革派神学の異議申し立てがなされるようになった。その異議申し立てにおいて、『……のみ』は否定され、言葉が肉となることによって、言葉はまた、それが自分自身で現にあるところのものであるし、あくまでそのようなものであり続ける、言葉はまた、肉の外でも存在する、と言われた。何故ナラバ、ミ言葉ノ無限の本質ガ、人間ノ本性ト結ビツイテ、ヒトツノ位格トナッタトハイエ、ワレワレハソレガソコニ閉ジコメラレタトハ想像シナイカラデアル。スナワチ、神ノ子ハ、奇蹟的ニ天カラクダリ、シカモ天ヲ放棄シ給ワナカッタ。彼ハ、奇蹟的ニ処女ノ胎カラ生マレ、地上ヲ経メグリ、ソシテ十字架ニカケラレ給ウタガ、シカモ、世ノハジメカラソウデアッタヨウニ、ツネニ世界ヲ満タシ給ウタノデアル(カルヴァン)。この異議申し立ての意味を理解するためには、人は、特に……改革派の者たちは、ギリシャ正教のキリスト論をも含めて、それ以前のキリスト論全体の伝統の線を受け継ぎつつ語ったということを念頭に置いていなければならない。したがって、ルターおよびルター派の者たちの改革派の神学は『いたるところ神的なものと被造物的―人間的なものを分離しながら』考えていたというふうに主張することは、ただ単に事柄から見て正しくないばかりでなく、また歴史的に見ても正当ではない何故ならば、改革派の神学は、分離スルでなく区別スルという意味で理解されることを欲していたからである。しかし、彼らは、「単一性と区別」、区別を包括した単一性という観点を持っていなかった〕。カルヴァンが解明したのと同じ意味で、すでにアタナシウスは、ソノ方ハ、実際カラダノ中ニ閉ジコメラレテイ給ワナカッタ。ソノ方ハ、カラダノ中ニ閉ジコメラレテイ給ワナカッタシ、ホカノ場所ニ閉ジコメラレテオラレタワケデモナイ。最モ驚嘆スベキモノ、言葉ハ、何カニヨッテサシ押エラレテシマワナイ。ムシロ言葉自身ガ、万物ヲ保ッテオラレル。……ソレデアルカラソレハ、コノモノノ中ニアッタガ、スベテノモノノ中ニ見出サレタ、マタソレハ世界ノ外デ存在シ、マタ父ノミモトデ休ライデイ給ウタ、と書いている」。「同様に、ニュッサのグレゴリオスは、あたかも神の無限性は、受肉に基づいて、ちょうど容器によってのように肉の制限によってめぐり囲まれているかのように受け取る考え方を拒否し、それに対して人間性をおおっている言葉の神性は、燃料と炎の間の単一性および区別でもって例証することができると考えた」。「アウグスティヌスは、彼ハ、下僕ノ姿デ仲保者デアルタメニ、天使ヨリ下デアルコトヲ欲シ給ウタ。シカシ彼ハ、神ノカタチニオイテハ天使ヨリ上デアリツヅケ給ウタ。彼ハ、同時ニ、地上ニオイテ生命ノ道デアリ、天上ニオイテ生命ソノモノデアリ給ウタ、というように区別している」。「トマス・アクィナスは、キリストが天からくだられたのは、ソレニヨッテ神性ガ天上ニオイテ存在スルコトヲヤメテシマウトイッタ仕方ニオイテデハナク、ソウデハナクテ、新シイ仕方デ、換言スレバソコデ彼ガトラレタ性質ニシタガッテ、ココ、低イトコロニ存在シハジメ給ウタメニ、キリストハ天カラクダラレタノデアル、と述べている」。「改革派の命題は、決してルターの言葉の積極的な内容に反対しているわけではなく、ましてやパウロの言葉(コロサイ二・九)に反対しているのではなく、むしろそこから引き出される否定的な結論に対して向けられている。それであるから、改革派の命題は、全面的に肉ノ内部ニ対してではなく、むしろ肉ノ外部デハイカナル時モ、ドコニモ存在シナイに対して向けられている。改革派の者たちにとっては、昔の教会の教師たちにとってと同様に、その否定の否定でもって、換言すればただ<マタ>外部デモという意味だけを持っていた。彼らの外部デもって、言葉の位格の中での両性のカルケドン的単一性を、それと共に実体的結合そのものを、ネストリオス的逸脱の意味で問いに付すというようなことは思ってもみなかったことである。彼らは、外部デが分離スルという意味でではなく、区別スルという意味で理解されることを欲していた〔しかし、彼らは、「単一性と区別」、区別を包括した単一性という観点を持っていなかった〕。〔それ故に〕、彼らは、外部デと並んでまた全く真剣に内部デも主張していたのである。彼は、ルター派の者たちと共に、肉の中での言葉の最モ内部デノ、遍在的ナ現在のことを主張していた。それであるから、ルターが言おうとしていた意味で、高揚の神にして人なる方の栄光アルミ業の故に、人間性ガ遍在スルコトさえ主張した。彼らは、ただ内部デを超えてまた外部デを堅持しようとしたのである。言い換えれば、一方において神にして人なる方の神性を、他方においてその人間性をそれとしてかたくとって放すまいとしたのである」。彼らは、ちょうど受肉の目標として肉ノ中デノ言葉を真剣に受け取ったように、受肉の出発点として肉ノナイ言葉を真剣に受け取ろうと欲したのである。したがって、彼らは、エン・ヒポスタジーをひっくり返す作業を拒否した」。カルヴァン派の者たちの「この見方も、明らかに特有な問題性によって圧迫されている。確かにこの見方は、<なった>の動的な姿をありありと描き出し、キリスト論の認識的な興味を守っている。しかし、この見方は、<なった>の静的な姿が、それと共にキリスト論の存在的な興味が守られ続けていない、という問題性を持っている。肉をとった言葉言葉によって取られた肉とを区別しつつなされるこの見方は、〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性という観点を持たず、区別を包括した単一性において〕二つのものが一つであるということが不明瞭になってしまった」。「ルター派の者たちは、彼らが切に望んだように外部デが削除され、……マコトノ神もマコトノ人間も両方とも堅持されることができるということを明示することができなかった。また、改革派の者たちにおいては、外部デを主張し、しかも二重のキリスト、肉ノナイ言葉と<並んで>肉ノ中デノ言葉を認めるということを、それと共に、性質の単一性と実体的な結合の解消を招来することにならないということを、同時に明白なインマヌエルおよびそれに基づく信仰の確信および救いの確信の動揺を引き起こしてくることにならないということを、十分に納得がゆく仕方で示すことができなかった」。このような訳で、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神の神性においてまた〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」において――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において〕神の神性〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた神の人間性〔キリストの人間性、まことの人間〕われわれに出会う」というように思惟し語るべきである。

 

 われわれは総括する――「<福音主義的な>神学になるためには」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)におけるその<客観的な>「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)を前提条件とするところの、<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として<客観的に>存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)<と>その中での主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性、このような静的な原理<と>動的な原理存在的な原理<と>認識的な原理が両立しなければならずしかも……相互的な呼びかけおよび問いかけとして並んで存在しなければならない(中略)イエス・キリストの実在の真理の故に、事情はどうしてもそうでなければならない……」。したがってそこにおいて教会の宣教およびその一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての福音主義的な神学が、具体的には、終末論的限界の下でのその途上性において、絶えず繰り返し、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である「聖書への絶対的信頼」に基づいて、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」との全体性において、聖書を自らの思惟と語りにける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連関と循環において、イエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指す時、「啓示の秘義としてのイエスキリストはまことの神にしてまことの人間であるというキリストの両性」――「イエスキリストは人となり死んで甦り給うたという復活の力>、<神の勝利の行為による和解の言葉であるところの啓示の秘義そのもの、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕<言葉は肉となったが反映するという具合である」。

(文責:豊田忠義)