3の3.カールバルト教会教義学 神の言葉Ⅱ 神の啓示> 言葉の受肉新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」 十五節 啓示の秘義 三 クリスマスの奇蹟「啓示の<秘義>の<しるし>」としての「イエス・キリストは<聖霊によって宿り給うた>」(第一の条項)、「イエス・キリストは<処女マリヤより生まれ給うた>」(第二の条項)という「クリスマスの<奇蹟>」についてその1

なお、引用個所の〔〕書きはすべて、バルトの思惟と語りを理解するために、私が付け加えた私の加筆である

 

 ちょうどバルト自身が、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてるという私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊邦訳の『神の言葉』Ⅰ/1、Ⅰ/2、Ⅱ/1、Ⅱ/2、Ⅱ/3、Ⅱ/4を、ある程度研究する必要がある」と述べていたように(『バルト自伝』)、バルトの思惟と語りをトータルに正しく理解するためには少なくとも先ず以ては次のことをよく理解しておく必要がある

 

 まさにイエスキリストは、<先ず以て>「自己自身である神(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性秘義性隠蔽性において存在しているそれ故に、ここにおいてわれわれ人間は、「神の不把握性」の下にある父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神であるそれ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではないし、「神についての聖書的な証言」は、その「ご自身の中での神」における「神の自由の概念の積極的側面」を、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中で見ている、<それからまたわれわれのための神としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での三度別様な三つの存在の仕方様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質におけるところの詳しく言えば神の起源的な第一の存在の仕方である啓示者言葉の<語り手>創造者としてのイエスキリストの父神の第二の存在の仕方である啓示語り手の<言葉>起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子としてのイエスキリスト自身神の第三の存在の仕方である啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」の関係と構造秩序性、コリント310-11、エフェソ214以下救済者としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体におけるところのその神の「第二の存在の仕方」――すなわち啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」<まことの神換言すれば、「神の顕現」、「キリストの永遠のまことの神性」、「<神の言葉」、「<永遠の言葉」、それ故に神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉の受肉この肉人間、「自己自身である神としての三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての神の子あるいは神の言葉であるところの、その<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉の受肉この肉人間であるから、「<神の言葉であった、<永遠の言葉であったにしてまことの人間換言すれば、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その<内在的本質>である神性の受肉ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の「<言葉の受肉この肉人間」、人間存在、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在であるそれ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「われわれのための神」における「神の自由の概念の消極的側面」を、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」の中で見ているこのような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において、先ず以て、「第二の問題」である「神の本質の問題」――すなわち、「神の本質を問う問い」を包括した「第一の問題」である「神の存在の問題」――すなわち、その「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいてなすところの「神の存在を問う問い」を要求するのである。バルトは、『神の人間性では、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての神の神性においてまた「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において神の神性>〔キリストの神性、まことの神〕と共に、ただちにまた神の人間性>〔キリストの人間性、まことの人間〕われわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人はすなわち、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)について理解し自覚していないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている。ヨハネ一一四の神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>は肉〔、人間〕となって、わたしたちの間に宿られた。……いささかの制限もなしに神の本質と存在に与り給う神的な創造主和解主救済主なる言葉「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「三位一体の神」としての神の永遠のみ子である何故ならば、この「み子」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>」が、「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるし、またその「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からである」。神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「言葉が肉〔、人間〕となったということは……人間に対して人間として帰せられるべきところのすべてのこと誕生と死の間に挟まれている時間〔人間の個の時間性、自己史、個体史〕の中でからだと精神が個人的に一回的に一つであることとしての被造物的な現実存在ということがいまやまた神の永遠のみ子についても言われなければならないということの中でそしてそういわれなければならない仕方で〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の〕言葉まことの実在の人間となり〔換言すれば、その<内在的本質>である神性の受肉」ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉の受肉において、実在の「この肉、人間」となり、すなわち実在の「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」となり〕またわれわれのものであるような同じ人間的本質と存在、同じ人間的性質と形態、同じ歴史性〔人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕にあずかるようになったということであり〔そのような仕方で、われわれに対する神の啓示は出来事として起こるということである」。この「われわれに対するイエス・キリストにおける神の啓示の出来事は、われわれだけでわれわれの時間〔人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕を持っていた時に生起したわれわれのための<神の時間>である」、すなわち「<イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間>である」。人間としてのこの神の永遠のみ子の存在について奇蹟的な仕方で生起したとして証言されているところのこと換言すればその中心的なこととして甦りの歴史Geschichte啓示そのものの本来的な行為としての四十日ノ福音すなわち、「キリスト復活の四十日」(使徒行伝一・三)、「キリスト復活四十日の福音」、「実在の成就された時間」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたギリシャ語原典ローマ322、ガラテヤ216等の「イエス・キリスト信仰」(「イエス・キリスト信ずる信仰」)そのもの、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>」そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの――「新約聖書の証人たちは、このキリスト復活の四十日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を想起する時、光を得たのである。彼らは甦えりの証人である」。このような訳で、キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代(中間時)において、「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての〔すなわち、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての〕<いまだ>であり、〔神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」さらにそれに付け加えてイエスキリストの歴史的な現実存在〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕のはじめにおける処女からの誕生という啓示の秘義しるしすなわち、「まことの神にしてまことの人間」という「キリストの両性」としての啓示の秘義>」を言い表している処女からの誕生の出来事という「啓示の秘義しるし>」〕また彼の歴史的な現実存在の終わりにおける空の墓という秘義の啓示しるし〔すなわち、キリストの甦りの出来事・キリストの復活の出来事という秘義の啓示を言い表している<空の墓>という秘義の啓示しるし>〕それに加えてすでにこの始めと終わりの間で神の国をすなわち甦りの歴史を宣べ伝えているしるしと奇蹟それらすべてのことは福音記者と使徒の意味では〔「真に罪なき、従順なお方」である〕まことの人間イエスキリストが問題であるわれわれ自身と同じような〔しかし、われわれとは違って、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「真に罪なき、従順な」〕一人の人間が問題であることの中でその意味とその力を持っているここで実際に〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは〕神の言葉が現に〔その「<受肉>」において〕人間となったし人間であったそれであるからまさにこの実在の人間の生こそが神のあのもろもろの行為の対象であり舞台であった世に来た啓示の光であったということが啓示を啓示たらしめ奇蹟を奇蹟たらしめる」。

 

 その客観的な実在の中での神の啓示は神性を<内在的本質>とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神のあるいは神の言葉の受肉であるその受肉に基づいて、<唯一のまことの永遠なる神〔すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は〕同時にわれわれと同じように〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)におけるところの、すなわち神性を<内在的本質>とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」においてまことの人間であり給うその客観的な実在の中での神の啓示は、<イエス・キリストという人格であるすなわち、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在である。神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における「神の<子>あるいは神の<言葉>の受肉、この肉、人間」、人間存在、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在であるしかし、そのようなことをわれわれが確かめたからといって、われわれが啓示を説明したわけではなく、啓示を洞察できるものにしたわけでもなく、われわれの認識のそのほかの対象の系列の中に啓示を編み入れたわけでもないのであってそのような主張でもってわれわれは啓示を秘義として言い換え、<秘義としてその特徴を言い表しているのであるしかもただ単に一つの秘義としてだけでなく、<それこそが秘義であるとして言い換え特徴を言い表しているのである」。「確かに〔イエス・キリストにおける神の自己〕啓示は〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書、すなわち「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」をわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、〕われわれの認識の対象となりわれわれの経験とわれわれの思惟の内容となる道を見出しわれわれの直観と概念にとって把握し得るものとなるしかし〔そのキリストにあっての神としての神の特別〕啓示はわれわれがわれわれの経験および思惟が及ぶ範囲としてわれわれが直観と概念をもって把握できる可能性として理解することができることの外部すなわち、一般的な啓示、一般的な真理、「存在の類比」、「<自然>神学」の<外部>で、彼岸で〕われわれの直観と概念にとって把握し得るものとなるのである〔すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)からして、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、神のその都度の自由な恵みの神的決断によるその<総体的構造>に基づいて可能となるのであるから、啓示は、キリストにあっての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、啓示神学に立脚することを通して、われわれの直観と概念にとって把握し得るものとなるのである。したがって、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であってわれわれ人間の決定事項ではないのである」。したがってまた、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立しているのである」〕」。言い換えればそれが〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書、すなわち「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」を通して、〕われわれにとって対象となることによって、……そのほかの以前の事実の中に結びつき点を持たない一つの事実としてわれわれの直観と概念にとって把握し得るものとなる〔キリストにあっての神としての神の特別〕啓示はわれわれ人間自身の能力に基づいてではなく〔「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」としての〕啓示自身の能力に基づいてわれわれの認識の対象となる」。類的機能を持つわれわれ人間の自己意識・理性・思惟を駆使しての啓示を認識する行為は確かにわれわれが事実遂行することができる行為であるが、しかし、それは、「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力総体的構造におけるあの客観的な>「存在的な必然性>」<その主観的側面としての主観的な>「認識的な必然性>」を前提とするところの客観的な存在的なラチオ性>」<その主観的側面としての主観的な>「認識的なラチオ性>」に基づいているものであるわれわれの認識は、すなわち第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」としての神学における思惟と語りは、徹頭徹尾、啓示に支配されるのである具体的には、イエス・キリスト自身によって唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」である聖書に支配されるのである――この「聖書は、先ず第一義的に優位に立つ原理としてのイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理〔・規準・法廷・審判者・支配者・標準〕である。なぜならば、聖書こそが、教会に宣教を義務づけているからである。したがって、聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」」。「もしもわれわれが、<イエスキリストの人格を知らないならば換言すれば<「『まことの神にしてまことの人間という実在」を知らないならばわれわれは確かにそのことを語りはしないであろうし神の啓示を認識する可能性を平気でわれわれ自身〔われわれ人間自身の能力〕に帰してしまうであろう」。このような訳で、「まさしく〔「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕啓示を認識する認識の中で〔信仰の中で〕こそ啓示はわれわれにとって秘義であり、<秘義であり続け繰り返し秘義となる」――「このことがいまやわれわれのキリスト論的基礎づけの結論としてこれから言葉に出して語られそれ自身において理解し得るものとならなければならないことである」。

 

 その<内在的本質>である「神性の受肉ではなく、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)――すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における「神の<>あるいは神の「『<言葉の受肉〔、「この肉、人間」〕ということは〔キリストにあっての神としての〕神がわれわれの世界〔われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕の中に現臨し給うということしかもこの世界の一つの構成要素として人間の間の一人の人間として〔われわれ人間の間の、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」として〕われわれの世界の中に現臨し給うということそのことの中でそのことと共にわれわれに対する神の啓示神とわれわれとの和解であり給うということを言っているのであるそのような啓示と和解が出来事として起こったということが、<クリスマスの使信の内容である」。「しかし神と世界が神と人間が〔換言すれば、神と人間の類としての世界、神の時間と人間の類の時間性としての人類史、世界史、歴史が、また神と人間の個、神の時間と人間の個の時間性としての自己史、個体史が〕イエスキリストの人格〔すなわち、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」〕の中で出会うということを〔換言すれば、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」の中で出会うということを〕ただ単に出会うだけでなくむしろ〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において〕一つになるということをすなわち、神の神性において〘何故ならば、「子としてのイエス・キリスト自身」は、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「<父>」が、「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるし、またその「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からであるまた〘「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」において、〙<神の神性>〘キリストの神性、まことの神〙と共に、ただちにまた神の人間性>〘キリストの人間性、まことの人間〙われわれに出会うということを人はまさにこの実在イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在を認識しつつクリスマスの使信の聞き手として語る場合にこそ〔そのことは、キリストにあっての神としての「神に敵対し神に服従しない……肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」生来的な自然的なわれわれ人間の能力では〕理解できないことだとしてその特徴を言い表さなくてはならない……したがって、そのことを理解するためには、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>――すなわち、<客観的な>その「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」(客観的な「存在的な<必然性>」)<と>その「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(主観的な「認識的な<必然性>」)を前提条件とする<客観的な>「存在的な<ラチオ性>」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)<と>その主観的側面としての<主観的な>「認識的な<ラチオ性>」――すなわち、徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性を必要とするのである」。神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた受肉を知る知識「啓示認識」(「啓示信仰」)、「信仰の認識としての神認識」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の中でイエスキリストの人格〔「まことの神にしてまことの人間という実在」、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕を知る知識の中で「啓示認識」(啓示信仰)、「信仰の認識としての神認識」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」の中で、……キリスト論の対象であるところの『まことの神にしてまことの人間』という実在がわれわれにとってまことに存在するならばその時にはわれわれはわれわれの経験とわれわれの思惟に関してただまさに……われわれの経験とわれわれの思惟はそこでは絶対的な〔、彼岸〕あるいは絶対的な上からして限界づけられ規定され支配されているということを理解することができるだけである言い換えれば、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明の能力」の<総体的構造>に基づいてのみ贈り与えられるということを理解することができるだけであるその時にはその認識は受認ということであるだろうそしてその認識を口に出して語るということは告白するということであるだろうわれわれはただ受認しつつだけただ告白しつつだけ〔「イエスキリストの人格としてのイエスキリストはまことの神でありまことの人間であると言うことができるわれわれはこの〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「イエスキリストの人格としての『<まことの神にしてまことの人間という実在が理解を絶したものであるということを受認しつつ告白しつつこの実在……全くただ神ご自身の行為としてだけ言い表すのである――(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの<名>からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない〔何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史におけるアジア的段階の日本において、天皇を含めて「芸能者、宗教者、鍛冶屋、ハンセン病者、ざるやかごを生産する竹細工師、海部民」――これら非農耕民は神人と呼ばれていたからである〕新約聖書の内容とはただ〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての〕イエスキリストのだけでありそのイエスキリストのがたしかにまたそしてとりわけ彼の神人性の真理をその名に含んでいるのであるただまったくこのだけが啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉』)このような訳で、われわれは、そのように「受認しつつ、告白しつつ、また神が世から遠く離れてい給うということ<と>世が神から遠く離れているということ、神の尊厳さ<と>世の不幸を<共に>受認し、<共に>告白しなければならないであろう」。「神、言葉ニ言イツクセナイ方、不死ニシテ理解ヲ絶スル方、目ニ見エナイ方、把握デキナイ方、……スベテノ思イニマサリ、完全ニ人ノ意表ヲツキ、天使タチ、天使ノ長タチ、天上ニオケル知性ヲ備エタモロモロノ力ヲシノグコノ方ガ、人間トナリ、泥ヤ土クレカラ形成サレタ肉ヲトルコトヲヨシトサレタトイウコトヲ聞キ学ブコトガ、ドレ程ノコトヲ意味スルカヲヨク考エテミナサイ(クリュソストモス)」。

 

 われわれは、「クリスマスのこの秘義〔すなわち、「啓示の秘義>としてのイエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」を、その「イエス・キリストの人格」を、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」を〕「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書の中でそしてその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての教会の教義の中でそのような秘義としてほかならぬクリスマスの奇蹟すなわち、「啓示の秘義しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟イエスキリストは聖霊によって宿り給うたということイエスキリストは処女マリヤより生まれ給うたということという奇蹟「啓示の<秘義>の<しるし>」としての<奇蹟>を指し示す指示を通して特徴が表示されているのを見るのである」。第三の形態の神の言葉である「教会の教義が直接そこで関わっており、われわれもそこから出発しなければならない聖書の箇所は、イザヤ七・一四に出てくるインマヌエルのしるしが振り返り見つつ言及されているマタイ一・一八-二五とルカ一・二六-三八(特に三四-三五、「マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』。天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』」)である」。第二の形態の神の言葉である「聖書の中で基礎づけられている命題として、〔第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>〕この教義を告白する時、そのことは、それが〔第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>〕<教義>であって、近代に至るまでカトリック信者の下でも、プロテスタント信者の下でも、<大体一致して、自明的なものとして>信じられ教えられた教義であったという事実に対する尊敬の気持ちと無関係ではない」。しかし、その第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>教義に対する「尊敬の気持ちというものは、そのほかのところにおけると同様に、その教義をわれわれの側でも自分のものとする契機を与えるのに十分ではない……」。何故ならば、第三の形態の神の言葉である教会の「それとしての教義の中では、われわれは、ただ〔第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方での第三の形態の神の言葉である〕教会の声を聞くのであって、〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示そのものを聞くのではない」からである。したがって、「もしもわれわれがその教義をわれわれ自身のものとするならば換言すればわれわれがその〔第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方での第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>〕教義を〔起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示の正しい教会的な解釈として肯定するならばそのことはただ〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいた〕その教義の必然性の認識に基づいてのみ起こることができるのでありまたその認識はその教義を理解しようとする試みの中で確認されなければならない……」。

 

 「啓示の<秘義>」、すなわち「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」――この「啓示の<秘義>の<しるし>」としての「処女降誕の教義が聖書の言葉の中に基礎づけられている基礎づけ方は、いくつかの問題を含んでいることを否定することはできないが、しかし、人は、ここで問われるべき問題に答えることがひどく難しいので、該当する聖書の箇所の注釈からして、どうしてもマリヤにまで及んでいるのではないイエスはヨセフの<肉体的な>子では<なかった>というイエスの系図の決定的な箇所(マタイ一・一六とルカ三・二三)を含めて処女降誕の教義を否定せざるを得ないなどと主張することはなおさらできない……」。「啓示の<秘義>の<しるし>」としての「処女降誕を主張している聖書的な証言があるということを何人も否定することはできない。ここで出されまた答えられるべきというは、もともと文献的な問いである。それらの問いは、伝承、すなわちその証言の年代や資料としての価値に関するものである。その証言が、……ただ新約聖書の使信の、われわれを拘束しない副次的な命題としてだけ聞かれるべきであるのかということについての最後的な本来的な決断は、文献的な問いに対する答えによって一方の意味でか他方の意味で支持されることができる。しかし、そのような決断は、それらの問いの答えの中で、答えと共に下されるのではない」。何故ならば、「啓示の秘義しるし>」としての処女降誕についての報知を福音書のテキストの中にそしてその〔第二の形態の神の言葉である〕テキストからさらに〔そのテキストを自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の〕信仰告白の中に含ませるようにしたところのものは確かにそれとしての年代および資料としての価値そのものではなかったからである、「むしろその報知が〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における〕イエスキリストの人格イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在と関連して持っている何らかの内的事柄的な正しさと重要性というものがその報知を先ず第一にひどく控え目な態度をもってしかし事柄から言って最後的には極めて確定的に告げ知らされている〔第二の形態の神の言葉である〕福音書の証言の構成要素にさせたからである、「それからむしろその報知が〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における〕イエスキリストの人格イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在と関連して持っている何らかの内的事柄的な正しさと重要性というものがその証言の多くの外面的には見たところ内面的にもそれよりずっと重要な要素と区別されて〔第三の形態の神の言葉である〕教会の信仰告白の構成要素にそして教義にさせたからであるその報知が、〔第二の形態の神の言葉である〕正典的な新約聖書が発生した際にさらにまた教義が形成されていった際に持っていたに違いないその正しさと重要さというものがわれわれにとってそれとして有無を言わさぬほど明らかであるかどうかということまたわれわれにとっても正しく重要なものになってこざるを得ないほど明らかであるかどうかということはわれわれが真剣に答えなければならない問いであるわれわれはその際、……〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、起源的な第一の形態の神の言葉である〕啓示そのものの中でその事柄にとって特有でありまたわれわれにとってただ啓示からしてだけ有無を言わさぬ仕方で明らかになってくることができるそういうその事柄が持っている正しさと重要さを後から理解することが問題であるだけである――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」。「文献的研究の背後ででも教義学的な研究の背後ででも、……文献的な研究を通しても教義学的な研究を通しても答えられることのできない事実ノ問題が起こって来るが、しかし、文献的研究にしても教義学的研究にしても、神学の場においてはさし当っては、換言すればそのような取り扱い方が完全に不可能であるということが実証されるまでは事実ノ条件ノ下デ企てられることが適当である」。

 

 「啓示の<秘義>」、すなわち「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」――この「啓示の<秘義>の<しるし>」としての処女降誕についての教義はいやすでにその処女降誕についての教義の新約聖書的前提はそれが啓示のキリスト論的実在そのものを表示しているというよりもむしろその実在が理解を絶したものであるというその実在の秘義啓示の秘義>」、すなわちイエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在を表示されている限りにおいて換言すればそこでは神がただ神ご自身を通して〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」において〕行動されたしまたただ神ご自身を通してだけ〔すなわち、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいてだけ〕認識されることができるそういう事実としての性格を表示している限りにおいて〔「啓示の<秘義>」としての〕イエスキリストのまことの神性およびまことの人間性すなわち、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」〕についての教義換言すれば新約聖書的認識とは別な種類のものでありいわば証言の別な平面の上にあるということである〔いわば第二の形態の神の言葉である新約聖書的証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした別な平面の上にある第三の形態の神の言葉である教会の教義ということである〕このような訳で、「啓示の秘義しるし>」としての「<処女降誕についての教義それが〔「啓示の秘義>」としてのマコトノ神ニシテマコトノ人間〔「イエス・キリストの人格」としての「まことの神にしてまことの人間という実在」〕自分なりの仕方で言い表し……説明し明らかにしているにもかかわらず〔「啓示の秘義>」としてのマコトノ神ニシテマコトノ人間イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在の繰り返しあるいは書き換えではなくいわばあの内容的な教義〔すなわち啓示の秘義>」、イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在を解明してゆくのに必要な形式的な教義であってそれはインマヌエルという名が語っているところのことが起こる時それであるから神がわれわれのところにわれわれの一人として……われわれに代わってわれわれ自身となるために来たり給う時そのことは確かに実在の空間と時間の中で……歴史として起こっている出来事であり〔換言すれば確かに次のような実在の空間と時間の中で――すなわち、自然的空間自然的時間の中で、またある現実的な社会の中でそれぞれが具体的に生き生活するわれわれ人間の生と生活が、一つのある時代や社会や支配の形態としての<時代性>(時代と現実)そういう時代性としてのある異なった時代や社会や個性に対して「決定的な類似性や共通性の中心をもっている<時間的な連続性>」との交点で生きるそういう生と生活であることが確かである限り、人間の<類>(人類)人間の<個>、人間の<類>の時間性としての<歴史性>人間の<個>の時間性としての<現存性>との交点で生きる生と生活であることが確かである限り、その交点の中で、<それが良きものであれ悪しきものであれ>、全自然としての人間の<類>(人類)が蓄積してきた成果である人間化された自然である物質的―観念的な生産物としての<人間的自然>および自然の一部としての<自己身体>、性としての<他者身体>、宇宙を含めた天然自然としての<外界>と身体(肉体)および身体(肉体)を座とする精神(意識)を持つ個体的自己としての<全人間>との相互規定的な対象的活動が行われる場所(空間)としての<世界>その人間の<類>の時間としての人類史、世界史、歴史、そしてその時間性は、例えば文明史的には経済的基盤を農耕に置き自然を原理としたアジア的段階から経済的基盤を資本主義に置いた自由を原理とする西欧近代へと発達させ拡大させて行くという仕方で人間の<類>の時間(人類史、世界史、歴史)を時間累積させていく点にあるところのそれ、という実在の空間と時間の中で、それからまた個―対(一対の性・男女、その性の共同性である家族)―共同性という人間存在の総体性を生きる身体(肉体)および身体(肉体)を座とする精神(意識)を持つ人間の<個>の行動空間(場所)としての<世界>またその<世界>の中で時間を刻んでいくその人間の<個>の時間としての自己史、個体史、そしてその時間性は、人間の<類>の<時間的な連続性>における<時代性>(時代と現実)としての<歴史的現存性>に強いられたある場所(空間)としての世界の中で、ある自己資質・職業・生活・喜怒哀楽の感情・思想および信条・意志・構想を持って人間の<個>の時間(自己史、個体史)を刻んでいくという点にあるそれ、という実在の空間と時間の中で神の側の真実としてある出来事史として起こっている出来事であり〕そこでわれわれに対する神の啓示が起こり、<われわれの和解が起こるところの出来事であるがそこでのすべての何故どこからどのように対してはただ神ご自身でもって〔すなわち、キリストにあっての神としての神が、ただ神ご自身でもって、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」において〕事を始め給うたというふうに答えることができるだけであるそういう出来事であるということである」。このような訳で、「啓示の秘義しるし>」としての処女降誕についての教義は啓示の秘義>」としての〕マコトノ神ニシテマコトノ人間イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在に対するそして啓示の秘義>」としての〕マコトノ神ニシテマコトノ人間イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在を通してわれわれに要求されているところの際限のない驚き畏敬と感謝の告白である」。啓示の秘義しるし>」としてのこの処女降誕の教義は啓示の秘義>」としての〕マコトノ神ニシテマコトノ人間イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在精神的に一つの理念としてあるいは仮現論的キリスト論なしはエビオン主義的キリスト論の意味で勝手に解釈しつつ理解しようとするかもしれない最後の可能性を消し去ってしまう」。啓示の秘義しるし>」としてのこの処女降誕の教義は〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づく〕マコトノ神ニシテマコトノ人間〔すなわち、「啓示の秘義>」、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在の霊的な理解だけを可能なものとして残す換言すればそこでは〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における〕神ご自身の業が神ご自身の光の中で見られるところの解釈だけを可能な解釈として残すのである」。「古ユダヤ教は、そもそも『約束されたメシヤが超自然的な出生という道を通ってこの世に生を受けるであろうなどとは全く予期していなかった。したがって、マタイ一・一八は、ユダヤ教的思惟にとっては絶対的に新奇なことを意味する』。また、それらの箇所を仏教的神話、エジプト神話、ギリシャ神話およびそのほかの神話から受け継いだものとして理解しようとする者に対しては、それらの箇所は、その新約聖書的な文脈の中においてあるいは決定的な個々の動機において、そのような神話とは全く別な方向を指し示しているという事実を指摘しつつ異論を唱えることができる」。「マタイおよびルカ福音書の中でのあれらの箇所が、……イエスの地上的人間的な由来を問う問いに対するそれらの答えとの関連の中で、……イエスの地上的人間的な由来そのものが秘義であり、〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における〕ただ一回的な独一無比な神の行為として理解されるべきでありマコトノ神ニシテマコトノ人間〔すなわち、「啓示の<秘義>」、換言すれば「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在〕はそれと共にそもそも神の啓示は決して〔身体、肉体の座を持たない〕精神的な実在としてではなくむしろ霊的な実在〔「聖霊によって宿り、処女マリヤより生まれ給うた」が故に身体、肉体の座を持つ霊的な実在〕として理解されなければならないと語っているならばその時にはそれらの箇所は、〔第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の中で明らかにその全く特定の他と区別されたしかし必然的な機能を持っておりまさにそれらの言明が〔第三の形態の神の言葉である〕教会の信条の中に取り入れられ教義となったということは理解できないことではないのである」。

 

 われわれの教義は啓示の秘義〔すなわち、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」〕を表示している、ということに強調点が置かれなければならない」。「『ここで神は、その創造の秩序に拘束され給わず、新しい秩序をつくることを欲し給う。おとめが身ごもるであろう。そのことは、『しるしあるいは奇蹟』となるであろう』(ルター)。いずれにしても、イザヤ七・一四はしるしについて語っているのである」。確かに〔「啓示の秘義しるし>」としての処女降誕についての教説はただ表示の仕方すなわち〔第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の中でそして〔第三の形態の神の言葉である教会の<客観的な>〕信仰告白の中で啓示の秘義〔<イエスキリストの人格としてのまことの神にしてまことの人間という実在>〕について語られている形式啓示の秘義しるし>〕である」。「人はそれと似た仕方でまた、……〔第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の甦りについての証言は〔すなわち、「キリストは甦り給うたという秘義の啓示>」としての甦りの出来事・復活の出来事についての証言は〕それが外的な事実である空の墓秘義の啓示しるし>」についての報告である限りはその空の墓の表示は、『キリストは甦り給うたという秘義の啓示を表示しているところの秘義の啓示について語られている形式秘義の啓示しるし>」である」。秘義の啓示しるし>」としての空の墓という〕その外的な事実は隠された神はキリストの中にい給うたということを表すために必要な形式秘義の啓示しるし>」ではあってもそれ自体でイエスの弟子たちに対して隠された神はキリストの中にい給うたということを表す力を持っていると言おうとしているのではないがしかし秘義の啓示しるし>」としての空の墓という〕その形式がなければ主の甦りが主の秘義の啓示としてイエスキリストの神的な主権の啓示として信じられることはできないちょうど全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができる>ためには、「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」、すなわち純粋な教えとしてのキリストの福音を内容>とする福音の形式>としての<律法、神の命令・要求・要請が、換言すれば純粋な教えとしてのキリストの福音の告白証し宣べ伝えが必要であるように。これら「しるしと事柄、外的なことと内的なこと」、形式と内容は、対立させ分離させることはできず、「単一性と区別」、区別を包括した単一性において理解されなければならない。人は確かに最高の断固たる態度で、……処女降誕を〔「啓示の秘義>」、すなわちイエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」、この〕――啓示の秘義しるしとして承認し告白しているかどうかそれとも「単なる外面的なこととして否定しているかあるいはそれについての決断を未決なものとしているか」、それ故に「処女降誕を否定することでもってあるいは啓示の<秘義>の<しるし>としての処女降誕に対して無関心であることを宣言することでもって、また啓示の秘義の<しるし>を通して表示されている事柄に関しても、全く別様に考えているのではないか」と自分に問わなければならない」。「啓示の<秘義>の<しるし>」としての「処女降誕を否定する者が、クリスマスの<秘義>を認める場合には、そこでは〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、「神人協働」、「神人協力」、「『結びつき点』の主張」という〕『自然』神学と関連づけられる」ベクトルを持っており、キリストにあっての神としての神の特別啓示、啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」)、「啓示神学」を脅かし、弱めてしまう力と方向を持っている。「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にある」「ヘーゲルの強力な痕跡をもったシュライエルマッハー」(『ヘーゲル』)は、「啓示の<秘義>の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」における<しるし>について、「確かに『超自然な出生という一般的な概念』で十分であると理解した。もっとはっきり言うならば、〔一般的啓示、一般的真理、「存在ノ類比」、「自然神学」に立脚する〕シュラエルマッハーにとっては、シュラエルマッハーが『新しい創造』と呼んでいるその事柄は、そもそも何の<しるし>も必要としていないのであり、『超自然的な出生という一般的な概念』で十分なのである。シュラエルマッハーが『新しい創造』と呼んでいるその事柄は、その必然性を、人は、はじめから知っており、それが、キリストにあって神的なものが人間的なものと結び合されつつ遂行されることを、人は、当然『超自然な生殖』として要請することができる人類という種族の創造の完成であり、それを、人は何も新しい何かとして特に自分に向かって語らせる必要はなく、したがってそのためにいかなる<しるし>も必要としていないところのものである」。しかし、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下からして、第三の形態の神の言葉である「教会は教会的な秩序として、……まことのキリスト教の信仰にはまた〔「啓示の<秘義>の<しるし>としての〕処女降誕についての教説の肯定も含まれているということである」。したがって、「教会は、いずれにしてもその奉仕者から、その教会の秩序を個人的に理解しない者がいる場合には、彼らの私的な個人的な道をあくまでも私的な個人的な道として取り扱い〔容認し〕、それであるからその個人的な彼らの側でもその私的な個人的な道を教会の宣教としないことを、それであるから少なくとも沈黙を守ってその教会の秩序に敬意を表すことを要求する……」。バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――「われわれは、心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない。すなわち、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、われわれがその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその中に〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は裁き〔律法、死〕であることによって恵み〔福音、生〕である」ことの中に〕置いてい給うことによってである。したがって、われわれは、キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)を持っている。それらはすべて、神のその都度の自由な恵みの神的決断によって贈り与えられるものである。第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であってわれわれ人間の決定事項ではないのである。したがって、それは、『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 啓示を秘義として特徴づけつつ表示いているものはその教義によれば慣習的に一般的な意味で理解された奇蹟ではなく特別な具体的な意味で理解された一つの奇蹟出来事として起こったということであるわれわれは、さし当って先ずはその特別な内容である聖霊ニヨッテ宿リ処女マリヤヨリ生マレについて問わず……その概念の全体性の中での被造物世界の領域の中で、したがって精神的なものと肉体的なものの単一性の中で、時間と空間の中で、認識的な実在と存在的な実在の中で起こる一つの出来事が意味されているということを確かめることにするそのような出来事としてこの世界の中で起こるそのほかの出来事の連続性から理解されることはできないし事実その連続性の中に基礎づけられているわけでもない出来事でありその出来事が尋常ならざるものであるというその出来事がもつ奇蹟的な性格は確かに、主観的には誤謬・欺瞞・勝手に考えだされたものの象徴形式として、また客観的には当分の間は解明され得ないがしかし原理的には解明され得ないものではない被造物世界の神秘として理解されることもできるのであるが、しかし、実際には神ご自身によってしかも神ご自身によってのみ直接的に働かれた神の行為の自由と直接性秘義として来たりつつある神の国の先駆的なしるしとして理解されることができるところのそういう出来事が意味されているということである」。「<しるし言うまでもなく何かを言い表し何かを表示するはずである何かを言い表し表示するためには、<しるしそのものは、それが言い表し表示しているものが持つ性質の幾分かをそれ自体持っていなければならないそれが言い表し表示しているものと認識的および存在的に類比的でなければならない啓示の秘義しるし>」としてのイエスキリストは処女マリヤより生まれ給うたという〕クリスマスの奇蹟それが言い表し表示しているところのことである啓示の秘義>」としての〕クリスマスの秘義〔すなわち、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」、「キリストの両性」―「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>である」に対して類比的であるのは〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神が被造物世界の連続性のまっただ中においてしかし神の行為すなわち、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事を理解しようとするわれわれの理解に関しても神の行為そのものに関しても被造物世界の連続性に少しも依存しない仕方で自ら事を始め給うたということである」。「シカシ神ノ助ケヲ得テ、全ク<尋常ナラザル救イ>ガ人間ノ身ニ及ブベキデアルガ故ニ、ソレ故ニマタ、<神ガ>コノ<シルシヲ与エ>、シカシ<人間ノ方ハ誰モ力ヲカシツツ働カナカッタ>コトニヨッテ、処女カラノ尋常ナラザル誕生ガ起コッタノデアル(イレナエウス)」。

 

 さて、「神の隠蔽」、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」、すなわち「啓示の<秘義>」、「クリスマスの秘義」――啓示の秘義>」しるしとしての「<処女降誕の奇蹟キリストの甦りの出来事」・「キリストの復活の出来事としての秘義の啓示>」、「神の顕現」、「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>である」――この秘義の啓示>」しるしとしての甦りの証言が語っている空の墓の奇蹟は相互に関連し合っているこれら両方の奇蹟は新約聖書の証言のほかのしるしや奇蹟と比べて明らかに特別な機能を持つところの無比な独特なしるしであるすなわちそれら両方の奇蹟は「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「神の神性においてまた「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」において神の神性キリストの神性、まことの神と共に、ただちにまた神の人間性キリストの人間性、まことの人間われわれに出会う」ということからして、イエスキリストの人間性の現実存在を神ご自身が神のみがそして神が直接に主体であり給いそれの時間的な実在はただ単に神の永遠的な実在を通して呼び出され創り出され条件づけられ担われているだけでなくむしろ神の永遠的な実在と同一であるところの人間的歴史的現実存在〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」〕として〔人間の類の時間性としての〕人間の歴史のそのほかの多くの現実存在の間でそのほかの多くの現実存在と並んでその特徴を表示し区別するという特別な機能を持つところの無比な独特なしるしである」。神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「人間存在」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「神の隠蔽」――このクリスマスの秘義>」、「啓示の秘義>」しるしとしてのイエスの生の始めのところにある処女降誕甦りの出来事・復活の出来事としての「秘義の<啓示>」、「神の顕現」――この秘義の啓示>」しるしとしての〕イエスの生の終わりのところにある空の墓そのイエスの生がすべてのそのほかの人間的生とは区別され異なっている事実しかもわれわれの理解とわれわれの解釈を通してはじめて区別される事実ではなくそれ自身を通して区別された事実であるということを証している」。神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「イエス・キリストの人格」としての「まことの神にしてまことの人間という実在」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「神の隠蔽」――このクリスマスの秘義>」、「啓示の秘義>」しるしとしての「<処女降誕特にクリスマスの秘義>」、「啓示の秘義>」しるしとして啓示の秘義を言い表している〔換言すれば、特にイエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在を言い表している〕それは、実在の啓示が出来事として起こるところでは、あくまで神がはじめに立ち給うのであって、人間の勝手な賢さ、有能性、敬虔性がはじめに立っているのではないということを言い表している神がイエスキリストの中でその神性の深い隠れから現れ出給うということこのことは神の顕現」、「秘義の啓示>」としての〕死人の中からのイエスの甦りの出来事・復活の出来事のしるし〔すなわち、「秘義の啓示しるし>」としての空の墓の中で実在となり可視的となる)、神としてわれわれの間でわれわれに対して働きかけ給うためにその神性の深い隠れから現れ出給うということこのことは〔「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」――この啓示の秘義>」しるしとしての処女降誕を通して言い表されていることの中に基礎づけられているイエスの中で、実際に神ご自身が人間であるということの中に身を落とされ〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」〕、〔神性を<内在的本質>する〕ご自身を隠し給うたのである〔この神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、その<内在的本質>である神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」そしてそこで神が隠されてい給うたが故に後でそのことが起こったように神はご自身をあらわにすることがおできになったし〔甦りの出来事・復活の出来事、「神の顕現」、「秘義の啓示>」がおできになったし〕またあらわにし給わなければならなかったのである「イエス・キリストは、まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」」。それに対して、「秘義の啓示しるし>」としての「<空の墓特に〔「秘義の啓示>」しるし>」として秘義の啓示を言い表しているいかなる人間的な力も必要とされない方、すべての人間的な恣意に相対して自由であり給う方にとっては、人間的な現実存在の限界の最後的な困窮状態も、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」である〕彼の存在と働きにとって何の障害ともならないところの方が、そこで、はじめに立ち給う。神ご自身がその全くの尊厳さの中で「啓示の<秘義>」としてのクリスマスの秘義、「イエス・キリストの人格」としての「『まことの神にしてまことの人間』という実在」、神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」における神の<子>あるいは神の「<言葉>の受肉、この肉、人間」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「神の隠蔽」――この「啓示の<秘義>の<しるし>」としての処女降誕がそのことを告げ知らせているように〔神性を<内在的本質>とするところのその<外在的本質>である神の「第二の存在の仕方」において〕われわれと一つになり給うたということは「秘義の<啓示>の<しるし>」としての〕空の墓が〔「神の顕現」、甦りの出来事・復活の出来事としての「秘義の<啓示>」、「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>である」ということを〕告げ知らせていることの中で確証されるところのことであるこのイエスの中で生ける神が聞き逃すことのできない仕方でわれわれ人間に向かって語りかけ給うたのであるここで神が現にあり給う方としてご自身を現し給うたが故にわれわれはクリスマスの使信が語っているところのきょうあなたがたのために救い主がお生まれになったと語ることができるし語らなければならないのであるイエスの生の始めのところでの秘義〔「啓示の秘義>」、「クリスマスの秘義」、「イエスキリストの人格としてのまことの神にしてまことの人間という実在」、「神の隠蔽」〕イエスの生の終わりのところでの秘義甦りの出来事復活の出来事としての秘義の啓示>」、「神の顕現」〕を基礎づけているまた終わりのところでのその秘義甦りの出来事復活の出来事としての秘義の啓示>」、「神の顕現」〕を通して始めのところでのその秘義〔「啓示の秘義>」、「クリスマスの秘義」、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」、「神の隠蔽」〕は力を発揮し認識し得るものとなるそして事情がそうであるということをその啓示の秘義>」、「クリスマスの秘義」、「イエスキリストの人格としての「『まことの神にしてまことの人間という実在」、「神の隠蔽」――この「啓示の<秘義>しるしとしての〕イエスの生の始めの処女降誕処女マリヤヨリ生マレの奇蹟その〔甦りの出来事復活の出来事としての秘義の啓示>」、「神の顕現」――この秘義の啓示>」しるししての〕イエスの生の終わりの空の墓三日目ニ死人ノウチヨリ甦リの奇蹟が言い表している」。したがって、「人は、処女ヨリ生マレを拒否する否定に対して」、「処女降誕を拒否するような否定と共に、使徒信条の中で事実可視的となってくる欠かすことのできない関連性は打ち壊され、それと共にまた〔その関連性にける〕三日目ニ死人ノウチヨリ甦リは事実問いに付されてしまうであろうという懸念が表明されなければならない」。「Eブルンナーは、『仲保者』で、処女降誕についての教説」について、次のように述べている――「処女降誕についての教説は、〔神的な〕『奇蹟』、すなわち受肉の奇蹟の『生物学的解釈』を意味している、いや、それは、『生物学的好奇心』の表現である。処女降誕は〔あの所あの時としての〕空間的―時間的な出来事であって、人は、それが実在であることを信じることなしに知ることができるところの知覚できる事実であるが故に、人は処女降誕に対しては無関心であると宣言しなければならない」、と述べている。しかし、「処女降誕についての教説は、新約聖書の中でも、信仰告白の中でも、受肉についての生物学的『説明』ではなく、処女降誕についての教説が生物学的な過程そのものには一言も触れてはおらず、その上そのことは甦りの出来事と比較され得る仕方で一言も触れてはおらず、むしろ<事実>を前もってあるいは後から振り返り見つつ指し示すことでもって満足していることが確かである限り、処女降誕についての教説は、……受肉についての生物学的な『説明』ではない」、と。「その<事実>は、確かに生物学の問題領域に属している事実であるが、しかし、その生物学の領域で起こるところのことは、それ自体、すでにイレナエウスが語っているように、言葉に出して語ることのできない、すべての人間的な考察領域を限界づけているところの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕啓示の実在、マコトノ神ニシテマコトノ人間の<しるし>でしかないということである」。「もしも<しるし>が生物学的な問いの領域の上で、人間的な問いのそのほかの領域の上で、『空間的―時間的な出来事の領域』の中で起こるのでないとしたら、一体<しるし>は、どのようにそしてどこで起こったらよいのであろうか」。「確かに人は、啓示の<しるし>を、『信仰なしに知る』ことができたし、今も『知る』ことができるが、しかし、信仰なしのそのような知は、甦りの奇蹟に対しては、幻影を見たとか、瞞着されたとか、仮死の状態であったという仮説の形式を持つであろうし、クリスマスの奇蹟に対しては、それによって実際の事実を信仰することなしに知ることができると考えた気まぐれなユダヤ的な伝説の一つの形式を持つであろうし、愚直な世界観的超自然主義が……信仰を必要とすることなしに、その種の事実を知る知識を信じ込ませることを可能としたと考えることもできる。そのような知識は、啓示信仰から見て、邪道に導く偽りの知識としてその特徴を言い表さなければならいないであろう」。「啓示の<秘義>の<しるし>」としての「処女降誕を拒否するブルンナーの否定は、決しよい企てではない。ブルンナーは、イエス・キリストが処女から生まれたということを信じていない」。したがって、バルトはこのブルンナーについて、次のように述べている――処女降誕を拒否する彼が……処女降誕に対して無関心であると言っている箇所まで来た時わたしは悲しくなったそして彼の述べる事柄は退屈にさえ思えてきた何故ならばあたかもすべてのことが取り消されてしまい引き続いて述べられているすべては意味がないように思えたからである」。

(文責:豊田忠義)

 

なお、「啓示の<秘義>」、「神の恵みの実現の<秘義>」、「クリスマスの<秘義>」の<しるし>としての「クリスマスの<奇蹟>」の特別な内容であるところの、()「処女マリヤヨリ生マレ」および()「聖霊ニヨッテ宿リ」についての論稿は、4月中か遅くとも5月上旬までには投稿する予定である。