2の3.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕 十四節 啓示の時間 三 想起の時間〔「新約聖書の時間」、「イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間」〕』について

 

三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示なし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)におけるその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、その「最初の直接的な第一の<啓示のしるし>」、「啓示との<間接的>同一性、啓示との区別を包括した同一性において存在している第二の形態の神の言葉)である新約聖書の時間」、客観的なその「イエス・キリストの受難と死および<復活>の出来事」における「キリスト<復活>の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の<成就された時間>」――このイエスキリストの啓示の想起についての証言の時間われわれだけでわれわれの時間〔われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕を持っていた時に生起した〔子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事としての神の第二の存在の仕方における〕われわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、客観的なその「イエス・キリストの受難と死および<復活>の出来事」におけるキリスト復活の四〇日使徒行伝一」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去まことの未来を包括したまことの現在としての実在の成就された時間ではない>。新約聖書の証人たちは〔区別を包括した単一性において〕この実在の成就された時間であるキリスト復活の四〇日〔「神の恵みの啓示」、「神の選び」、「福音」、生〕をおぼえる想起においてキリストの〔十字架、「神の裁きの啓示」、「神の放棄」、「律法」、死〕とキリストの受難の生涯を想起する時光を得たのである彼らはキリストの甦り>、キリスト復活の四〇日の証人であるそして彼らは、<このすでに来た方はまたこれから来たり給う方であることを語るのである」。すなわち、彼らは、<復活>されたキリストの<再臨>、<終末>、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済「<完成>」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和「<完成>」について語るのである。言い換えれば旧約聖書的なそのイエスキリストの啓示の待望の時間と新約聖書的なそのイエスキリストの啓示の想起の時間〔新約聖書の時間〕との間の実在の成就された時間>」第二の形態の神の言葉である「新約聖書の時間」、新約聖書におけるそのイエスキリストの啓示の想起についての証言の時間ではない>。すなわち、第二の形態の神の言葉である「新約聖書の時間」、新約聖書の信仰の時間」、「新約聖書における<その>イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間」は、キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の<成就された時間>」では<ない>。第二の形態の神の言葉である新約聖書の時間」、新約聖書の信仰の時間」、「新約聖書におけるイエスキリストの啓示の想起についての証言の時間、「実在の成就された時間、聖霊降臨日の時間である」。その成就の待望>〔旧約聖書の時間〕と成就の想起>〔新約聖書の時間〕を持った成就された時間>、〔「神の恵みの啓示」としての〕イエスキリストの啓示の時間はその啓示の待望についての旧約聖書的証言およびその啓示の想起についての新約聖書的証言における神ご自身の時間実在の時間である」――この実在の成就された時間の以前とは、先ず以て出来事として起こっている<特定の>歴史の時間、すなわち〔第二の形態の神の言葉である〕旧約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の<待望>についての証言の時間のことであり、また実在の<成就された時間の以後とは、<すでに>出来事として起こった啓示〔「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕から……由来していた<特定の>歴史の時間、すなわち〔第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間、使徒の時間であり、実在の成就された時間>〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」〕と切り離せない仕方で結びついている時間のことである」。このような訳で、実在の<成就された時間、聖霊降臨日>の<後>の時間である〔第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間、使徒の時間の<後>に続く時間」は、聖書こそが、〔第三の形態の神の言葉である〕教会に宣教を義務づけている」が故に、第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける「原理」・「規準」・「法廷」・「審判者」・「支配者」・「標準」とする教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての教会の宣教における時間である。「キリストの死〔十字架〕と共に終わる<まことの過去>は〔すなわち、<特定の>以前の歴史、旧約聖書の時間は〕、実在の<成就された時間>を<待望>する形においてある。また、<まことの未来>はキリストの<復活>を<想起>する形においてある〔すなわち、<特定の>以後の歴史、<まことの未来>は、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」の<想起>とその「完成」(復活されたキリストの再臨、終末)を<待望>する形においてある〕」――この「<想起の時間は甦られた方キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)キリスト復活四〇日の福音をおぼえる想起の時間として必然的に甦られた方復活されたキリストの再臨を待ち望む待望の時間〔終末、救贖、「完成」――すなわち、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済「<完成>」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和「<完成>」待望する時間であり〕そのようにしてそれは実在の成就された時間に参与する」。ここで、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)の下で、罪に堕ちた人間によって惹き起こされて生じたわれわれが知り持っている時間〔われわれ人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕、罪にそまった時間――このわれわれの時間<と>神によって造られた時間とは同一ではなく、両者には無限の質的差異がある」、ということに対して自覚的でなければならない。何故ならば、そうでない時には、モルトマンのように、「神学と一般の学問との対話を目論見〔神学と人間学との「混合神学」、「人間学的神学」を目論見〕」、類的機能を持つ人間モルトマンの自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間モルトマンの観念的生産物でしかない人間モルトマンの意味世界・物語世界(存在者)である終末論的な将来的なものの力としての御霊」の<概念>によって、終末論〔すなわち、「実在の成就された時間」を<想起>しつつ、その「完成」を<待望>する終末論的信仰〕<と>歴史〔すなわち、「罪に堕ちた人間によって惹き起こされて生じたわれわれが知り持っている時間」、人間の類の時間性、人類史、世界史〕とを結びつけ」、終末論的なものが、そのような仕方で歴史的になることによって、歴史的なものが終末論的になる」、「終末が歴史となり、歴史を動かしている」と考え、〔それ故に、神の時間とわれわれ人間の時間とを「混交」、「混合」、「共同」させ〕、「特殊と普遍、救済史と普遍史とを結びつけることによって、神学的三段階的進歩史観を主張する誤謬を犯し、それ故にその「誤謬に、普遍性と組織性の後光をかぶせて語る」(吉本隆明『カール・マルクス』)ことになるからである、換言すれば「ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念における宗教」<哲学>に基づいて、そして歴史は自由の概念、自由の原理の実現過程であるというヘーゲルの『歴史哲学』に基づいて、「律法、父の国、奴隷状態の歴史〔すなわち、世界史的段階で言えば、自然そのものとしての、自然にまみれた自然生の原始未開の段階〕」、「恩寵、子の国、神の子供の状態〔すなわち、世界史的段階で言えば、農耕を経済的基盤とすることによって自然から対象的になったけれども、その対象的自然を類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって対象化することによって、すなわちその対象的自然から<自覚的に>対象的になり距離を取ることによって自然から完全に超出し完全に自由になっていない自然を内面の原理とするアジア的段階、例えば古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識するように」、「自由、霊の国、神の友の状態〔世界史的段階で言えば、経済的基盤を資本主義に置き、自然から完全に超出し、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟によって<自覚的に>自由の概念を獲得した自由を原理とする西欧近代の段階〕」という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した(山崎純『神と国家』、喜多川信『歴史を導く神―バルトとモルトマン』)モルトマンの思惟と語りにおけるような誤謬を犯し、それ故にその「誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて語る」ことになるからである。因みに、ヘーゲルは、『哲学史序論―哲学と哲学史―』武市健人訳、岩波書店で、次のように述べている――「すべての人間が本来、理性的であり、そうしてこの理性的ということの形式こそまさに 自由だということである……(中略)一方アフリカ民族およびアジア民族と、他方ギリシャ人、ローマ人および現代人との唯一の区別もまた、(中略)後者が自由であることを自分で<知っており>、それを<自覚している>のに、前者は彼らもまた自由であるにかかわらず、それを知らず、自由なものとして実存しないことなのである」あるいは「人間は本来、理性的であると言えば、人間は素質の形で、萌芽の形で理性を持つことを意味する。この意味において人間は理性、悟性、想像、意志を生れながらにもつ。(中略)しかし<子供>は〔例えば、人類史に引き寄せて言えば、自然を内面の原理とするアジア的段階の人間は〕、このような理性の能力〔人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能〕あるいはその可能性を単にもつというだけであるから〔すなわち、その能力あるいは可能性を<認識し自覚していない>から〕、理性をもたないのと同じである。そしてそれ故に、自由でもないのである」と。

 

「独一無比な一回的な」、客観的な「イエス・キリストの<受難と死>および<復活>の出来事」における「キリスト<復活>の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の<成就された時間>」――この成就された時間は〔「聖書の主題であり同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>からして、それ故にイエス・キリストにおける神の自己「啓示は〔われわれ人間の類の時間性としての〕歴史の賓辞ではない歴史が啓示の賓辞である」ということからして、〕ちょうど〔「まことの過去」としての〕成就された時間の以前の〔<特定の>〕時間が〔一般的に人が、われわれ人間の類の時間性としての人類史、世界史、歴史において<紀元前>と呼んでいる〕キリスト降誕前ノ時間とそのまま一致しないように〔一般的に人が、われわれ人間の類の時間性としての人類史、世界史、歴史において<紀元後>と呼んでいる〕キリスト降誕後ノ時間と一致しないところの特定のそれにつけ添わされた後に続く時間を持っている〔すなわち、<特定の>のそれにつけ添わされた<後に続く>「まことの未来」を持っている〕。「ここでもまた〔「まことの未来」としての〕特定の今やこの新しい時間領域の中で出来事として起こっている歴史GeschichteHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕の時間が〔換言すれば「キリスト復活の四〇日」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」の<想起>とその「完成」の<待望>についての証言の時間、すなわち第二の形態の神の言葉である新約聖書の時間、そしてそれからその後に続く第三の形態の神の言葉である教会の宣教の時間(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)――この出来事としての歴史の時間が〕問題である〔ちょうど「まことの過去」としての<特定の>時間の中で出来事として起こるイエス・キリストの啓示の<待望>についての証言の時間、旧約聖書の時間――この出来事としての歴史の時間が問題であったように〕」。このような訳で、「まことの未来としての特定の以後の歴史〔「実在の成就された時間」としての「復活されたキリストの<再臨>、「完成」、終末を待ち望む<待望>を持つところの〕イエスキリストの啓示の想起についての証言の時間新約聖書の時間はちょうどまことの過去としての特定の以前の歴史〔「実在の成就された時間」としての〕イエスキリストの啓示の待望についての証言の時間旧約聖書の時間がそうであるように、<実在の成就された時間とは全く違っているしかもまことの過去としての特定の以前の歴史の場合と同じように、<実在の成就された時間と全く関連づけられており、<実在の成就された時間と切り離せない仕方で結びついている〔出来事としての歴史であるそういう〔出来事としての〕歴史〔「聖書証言の報知における歴史Gschichte、<特殊な歴史的出来事についてはいかなる史実的なhistorisch)』判断もあり得ないから史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなくGeschichte出来事史としてのそれここでは問題である(このような訳で、因みに神学者であり神学における思想家であるバルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――「<史実的に確定することのできることだけがじっさいに時間の中で起こり得たに違いないというのは迷信に基づく。<歴史家たちがそれとして確証できるすべてのことよりもはるかに確実にじっさいに時間の中で起こった出来事というものがたしかにあり得るのでありそのような出来事の中にとくにイエスの甦りの歴史が属していると受けとるべき根拠をもっている」。また、文芸批評家であり思想家である吉本隆明は、『敗北の構造』「南島論」で、次のように述べている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっていますじぶんでそれ以上の打率があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」、また『<非知>へ―<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」では、次のように述べている――「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流の言葉〔文芸批評あるいは思想の言葉〕でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのはあるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけでこれを実在論に還元してしまうと田川健三はそうだとおもいますがこんなのでたらめじゃないかこういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけですしかし言葉としての聖書というのは信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、『鶏が二度なく前に三度私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、人間の<心>というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」第二の形態の神の言葉である「新約聖書的な歴史、福音記者と使徒たちの宣教の歴史が、イエス・キリストの啓示の中にその始まりを持っているということは、旧約聖書がその啓示の中にその目標を持っているのと同じように、奇蹟である。ここでは共に、躓きの可能性があるのである。<待望>されたあるいは<想起>されたイエス・キリストの啓示が、かかるものとして少しも気づかれず、あるいは拒否され、それであるから全く証人や証言の現実存在にまで至らないということがあり得るのである」。したがって、「そもそもそこで証人および証言が存在する時そのことは啓示そのものの力であり〔すなわち、「イエス・キリストの啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)によるのであり、具体的には「神のその都度の自由な恵みの神的決断による」その自己証明能力の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)である客観的な「存在的な<必然性>」――すなわち客観的なイエス・キリストの「生涯と死および復活の出来事」における「啓示の出来事」<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的な<必然性>」――すなわちその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」を前提条件とするところの(換言すれば、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」ことからして、「神のその都度の自由な恵みの神的決断による」「啓示<と>信仰の出来事」を前提条件とするところの)、客観的な「存在的な<ラチオ性>」――すなわち聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)<と>その中での主観的側面としての主観的な「認識的<ラチオ性>」――すなわち徹頭徹尾聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性によるのであり〕恵みを通して起こるのであり全く選びに基づいている」。まさに、第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその教会の宣教の「一つの補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである。したがって、それは、『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立しているのである」。このような訳で、東京神学大学の実践神学者の小泉健「R・ボーレンの説教学の教会論的基礎づけ」におけるルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠したところの、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」という、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を全く無視し認識し自覚しないところでの聖霊や聖霊の言葉を人間の決定事項として<実体化させた>思惟と語りは、全くの誤謬でしかないのであり、それ故にその思惟と語りは、その「誤謬に、普遍性と組織性の後光をかぶせて語る」思惟と語りでしかないものなのである。啓示と啓示証言についての「ここで語らなければならない関連性は、新約聖書的宗教〔「原始キリスト教」〕がその創始者に対して持っている歴史的な関係に基づいているということはあり得ないことである。それは、ちょうどその関連性が、旧約聖書的宗教、その中に根ざしていたイエスの独創的な宗教的人格の間の関係に基づくことがあり得なかったのと同様である。ましてやわれわれは、その関連性を、われわれがそこでイエス・キリストと関わりを持つようになった新約聖書的宗教〔「原始キリスト教」〕の〔「過去の記念物」としての〕敬虔性と生活態度そのものの中にイエス・キリストの啓示を尋ね求めるということはあり得ないことである。さらには、人間の類の時間性としての「歴史的な価値判断と〔人間諸個人の〕嗜好の判断の中に、イエス・キリストの啓示を尋ね求めるということはあり得ないことである」。何故ならば、「新約聖書のイエス・キリストの啓示についての主張は、新約聖書的宗教〔「原始キリスト教」〕を、われわれ人間の価値判断と嗜好の判断に基づいて、ほかの宗教から抜擢し、またそれに基づいて新約聖書的宗教〔「原始キリスト教」〕が創始者に対して持っている特別な関係を受け入れて自分のものとするようわれわれの側で決心しなければならないということとは全く別なことについて語っている」からである。新約聖書は、言うまでもなく、新約聖書の中で文書化されている宗教に味方し、それを支持しようとしているいかなる主張も掲げていない」。すなわち、新約聖書は〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事」、「独一無比な一回的な」<客観的な>「イエス・キリストの<受難と死>および<復活>の出来事」における「キリスト<復活>の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の<成就された時間>」――この「すでに起こった実在の成就された時間」の「完成」、復活されたキリストの<再臨>、<終末>、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済「<完成>」待望>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和「<完成>」待望>を持つところの、その「実在の<成就された時間>」としての〕イエスキリストの啓示の想起についての証言として聞かれるべきことを主張している」。したがってイエスキリストの啓示は第三の形態の神の言葉に属する教会(すべての成員)の宣教にとっては第二の形態の神の言葉である新約聖書の証言〔すなわち、イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言〕にではなくその証言ので実在なのであるⅠコリント310-11、エフェソ214以下したがってまた、そのイエス・キリストの啓示を認識し信仰するためには、その第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準としなければならないのである。何故ならば、「〔第三に形態の神の言葉である〕教会に宣教を義務づけている〔起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である〕聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」からである。「新約聖書の証言」は、「イエス・キリストにおける啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、「そういう<想起>の行為をしていくようにとわれわれに要求している」。したがって、われわれはイエスキリストの啓示の想起についての証言としての新約聖書自身とともにイエスキリストの啓示から見て行かなければならない」。また、「イエス・キリストにおける啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、「新約聖書を正しく読むための換言すればそのまことの想起にあずかるための前提条件であるところのイエスキリストの啓示からして見るということはイエスキリストの啓示そのものの力によるのであってそれ以外のいかなる力によるのでもない〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟力、感性力、悟性力、想像力、意志力、自然を内面の原理とする禅的修行等によるのでもない〕」。「言葉を与える主は同時に信仰を与える主であることからして、「イエスキリストの啓示は、……自ら語って来る自らわれわれの聴従信仰の従順を造り出す」。「イエスキリストの啓示はわれわれに対して新約聖書の啓示主張に関してもイエスキリストご自身に頼るようにすなわち彼が聞くことと服従の聖霊をイエスキリストが与えようと欲する者に与え給うところの主権的行為に頼るように指示されている」。第二の形態の神の言葉である「福音記者たちと使徒たちはただ〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストの言葉の僕であるにすぎない〔第二の形態の神の言葉である〕彼らは〔第二の形態の神の言葉である〕彼らの言葉でもって〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストの言葉にとって代わることはできない。〔第二の形態の神の言葉である〕彼らの言葉の中で、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕イエスキリストの啓示が真理であるということはただイエスキリストご自身を通してだけ基礎づけられ証明される〔ただ「神のその都度の自由な恵みの神的決断による」その客観的な「受難と死および復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいてだけ基礎づけられ証明される〕」。したがって、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使してなされる「神学的な解明は、ここでもまた、その基礎づけの代わりとなることはできない」。したがってまた、「神学的な解明は、ここでもまた、ただその基礎づけを、後から言い換えて述べようと欲することができるだけである」。したがってまた、「神学的な解明においてはどの程度まで新約聖書の中で証しされている想起実際に旧約聖書の中で証しされている待望に対応しつつ立っているかを示すことが大切である」。「旧約聖書と新約聖書が相互に証しし合っていることによってそれらはともども一人のイエスキリストを証しているそこでわれわれはその相互に証しし合っている事実を示そうとするのではなくただその相互に証しし合っている証しの仕方だけを示そうとしなければならない自ら語ってこようと欲している秘義を尊重しなければならない」。われわれは、「新約聖書の証言そのものがそれは旧約聖書の中での〔「旧約聖書的な現在におけるあるがままの姿と内容の<彼岸>において出来事として起こる」「実在の成就された時間」としてのイエス・キリストの啓示の〕待望の対象と同一であると語っているところの〔換言すれば、「新約聖書的な現在におけるあるがままの姿と内容の<彼岸>において、すなわち終末、復活されたキリストの<再臨>、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済「<完成>」待望>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和「<完成>」待望を持つところの実在の成就された時間」としてのイエス・キリストの啓示の〕想起の証言を持っているのであるからどの程度まで旧約聖書の中での待望は事実その対象を念頭においての待望であろうとしているかを明らかにしようと試みた後で今ここにおいては別なもう一つのことを明らかにしようと試みることができるそれは新約聖書の中で証しされている想起どの程度までその同じ対象を思い起こそうとしているかということである」。すなわち、「われわれが示そうと試みた旧約聖書的待望の三つの線が〔すなわち、前回の論稿2の2.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中> 言葉の受肉〔「新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」〕 十四節 啓示の時間 二 待望の時間〔「旧約聖書の時間、イエス・キリストの啓示の待望についての証言の時間」〕』についての<「旧約聖書の啓示と新約聖書の啓示が、<待望>と<想起>の関係の中で一つである区別を包括した単一性を見て取ることができると思われる三つの線」の()()() >が〕イエスキリストの中で成就された時間の彼岸において〔すなわち、<待望としての「実在の成就された時間」としての復活されたキリストの<再臨>、終末、「完成」、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済「<完成>」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和「<完成>」において新約聖書的想起の中ですでに出来事として起こった成就を通して条件づけられた全面的な変化の中でしかも共通的な中心を通して条件づけられた待望想起〔区別を包括した〕単一性の中でどのように継続して行くかということを明らかにすることがここで問題である」。

 

第二の形態の神の言葉であるところの、「〔「実在の成就された時間」としての「イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間」である〕新約聖書は〔「実在の成就された時間」としての「イエス・キリストの啓示の<待望>についての証言の時間」である〕旧約聖書と同様に〔「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、神の起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエス・キリストの父、神の第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、神の第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>における〕人間に対する神の自由な行為を通して基礎づけられ人間に対する神の自由な行為から成り立っているところの〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下での〕神と人間の共存について証ししている証言である」。「旧約聖書の待望の中で神と人間の間の契約であったことは新約聖書の成就の中では神が人間となり給うということである〔言い換えれば、新約聖書の<成就>の中では、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、換言すればその内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>「言葉の受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」――この<客観的な>イエス・キリストにおける「啓示の出来事」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」である〕」。したがって、「人は、会堂(シナゴーグ)からの抗議を何ら考慮することなしに、旧約聖書は神が人間となり給うことについて言おうとしているということができるし言わなければならない」。契約の主としての神によって恵み〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕と律法〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕を通してきよめられ神よって全き憐れみと全き厳格さの中で受け入れられた人間がいるということ――この計画をただ神ご自身だけが換言すれば人間となり給うた神ご自身だけが遂行することができる〔すなわち、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示」・「語り手の言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事であるイエス・キリストだけが遂行することができる〕」。「このことはかかるものとしてそのまま新約聖書の想起の対象でありすでに新約聖書が宣べ伝えている命題の中での主辞である〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉の受肉>としての〕言葉が肉となったというところから由来してきているのではないような命題は新約聖書の中には一つもない」。したがって、キリストにあっての「神が人間と結ばれた契約 (神が、まさにアブラハム、モーセ、ダビデと結ばれた契約)は、ただ〔神ご自身が〕<神の恵みを受け取り、神の律法を成就するために>、〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉の受肉>において〕神が人間となり給うたということの中でだけ実在でありしかもそのことの中では全面的に決定的に実在である。そのことこそが神がイエスキリストの中で人間として自らなし給うことである――『福音と律法』に引き寄せて言えば、キリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕彼の死を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えを〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」の第二の存在の仕方における「言葉の受肉」において〕肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。このような訳で、「そのことの中で〔復活されたキリストの再臨、終末、「すでに起こった実在の成就された時間」の「完成」、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済「<完成>」待望するという仕方で、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和「<完成>」待望するという仕方で、〕イエスキリストにあって神の国が近づいたのである〔その内容としての〕新約聖書は〔その形式としての〕旧約聖書と違うことを語っていない」。言い換えれば、新約聖書はただ成就を振り返り見るという仕方で語っている〔ただ「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」――この「実在の成就された時間」を<想起>するという仕方で語っている〕」。

 

 そのことは、「〔新約聖書における〕想起〔旧約聖書における〕待望と違ってただ暗々裡にだけではなくまた単に旧約聖書的メシヤ待望のあの暗い明示性の中でだけでなくむしろ全く明示的に神の自由な徹頭徹尾一回的具体的な行為〔すなわち、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕が出来事として起こった一つの点を振り返りつつ示しているので今や一つの明確な……イエスキリストの特定の場所と特定の時間を通して境界をめぐらされてすべてを語ることができるということである」。「旧約聖書の中では神の契約は、何回も繰り返される……そこここで更新されなければならない。もちろん旧約聖書は、<一つの>契約のことを<言おう>としているが、しかし、旧約聖書そのものは、その<一つの>契約のことを、ただ多くの契約についての証言を通して預言しようとしているだけである」。それに対して、「新約聖書はただ一つの契約について知っている。(中略)新約聖書はそもそもいかなる意味においてもいかなる仕方においても問題にされることのないただ一つの今を知っている〔すなわち、新約聖書は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、客観的なその「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」を知っている〕」。何故ならば新約聖書も徹頭徹尾希望についての証言である時その新約聖書の希望の対象はまさにその一つの今〔「まことの現在」〕、まことの神でありまことの人間であるイエスキリスト以外のほかのものではないということが言われなければならないからであるまことの神でありまことの人間であるイエスキリストを万物の目標および終わりとして待ち望むためにその方のことを振り返り見ている〔その方のことを<想起する>〕ということが言われなければならないからである」――「ここでは契約が繰り返されるということは問題とならない契約はキリストにあってペテロのためヨハネのためパウロのためコリントおよびローマにある教会〔そのすべての成員〕のためにすでに結ばれたのである」。したがって、「ただ彼らをその唯一の契約と関わらせることだけがそこで問題となり得ることである彼らは一人の仲保者キリストへとそれと共にそのようにして神へと召され心を向けさせられるのであるキリストが彼らの中で生き給うということただそのことだけが彼らにとって問題となり得る――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<の>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<を>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<が>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある<主格的>属格として理解された「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』だけである」――このことが、「福音と律法の<現実性における>勝利の福音の内容」である。したがって、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが」、換言すれば「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世」「以外には、何も眼前に見ないのであるが」、「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)まさにそれだからこそ今や新約聖書の中では神の人契約の道具の多種多様な役職は存在しない福音記者たちと使徒たちはせいぜいのところ間接的にキリストの証人と呼ばれることができるだけである唯一の実在の神の人はまさに何の保留や制限なしに神の人であり給う彼ご自身彼だけである〔すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「永遠の言葉、〔神性を内在的本質とする〕イエス・キリストの〔その神の第二の存在の仕方における神の〕言葉の受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエス・キリストだけである」。旧約聖書の人たち王たち祭司たち預言者たちのすべての機能はそれとしてのキリストの教会に移行して行ったのであり今やキリスト教会の中で教会に委任された聖霊の特別な賜物に基づいて再び現わすことができる。ただし、その場合、階級制度という形態をとってではなく、ただ特別な役職の中での奉仕という形で現れてくるということである。また、それらの特別な役職は、その内のどれか一つの他の役職に対して優越しているということはないし、またそれらの役職を担う者たちが、教会の特に役職を帯びているわけではない会員に対して、何らかの意味で優越しているということもない。何故ならば、もろもろの仲保者は、もはや存在しないからであり、もろもろの仲保者は、新約聖書のただ一人の仲保者の中で成就されたのであって、彼らだけで独立した意味を持ち続けることはもうできないからである」。

 

 そのような訳で、「もしも人が〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「最初の、起源的な、支配的な<しるし>」である〕イエスキリストを神が実際に人間と共にいます共存の単なるしるし表象単なる証人として再び理解するならば旧約聖書をユダヤ教的に受け取る受け取り方の段階に逆戻りしてしまうことになる現にしるしでもって表示されているものがあるが故にしるしおよび証人が存在する。したがって、もしも人が、しるしでもって表示されているものを拒むならば、確かにまた、現にイスラエルが、多かれ少なかれ、はっきりとすべての神の人たちを拒んだことでもってキリストを拒むことをあらかじめ確証していたように、しるしと証人をも拒むことになる」。「まさに旧約聖書のしるしと証人たちは神と人間が現に共にいる共存を指し示すことによって、異教の表象や表象を担う者たちと違って、形而上学的観念的な真理の空虚な空間を指し示してはおらず、これから実際に出来事として起ころうとしている歴史〔出来事史〕を指し示そうとするのである新約聖書のしるしと証人たちはまさにすでに起こった出来事としての歴史をすなわち、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」を〕、振り返りつつ〔想起しつつ〕指し示しているこれら両方の証言にとって共通的な対象は、決してほかのどこかを指し示してはおらず、<わたしは道であり>、真理であり>、生命であるというあのこと〔すなわち、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕を語るのである。「イスラエルの王たちとは違ってその方は〔「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストは〕ご自分の正しさでもって神の正しさをご自分の力でもって神の力を行使し給うイスラエルの祭司たちと違ってその方は〔まことの神にしてまことの人間として「神性」を内在的本質とするが故に〕罪を赦し神と人間の間の和解を造り出し給うイスラエルの預言者たちと違ってその方は主の言葉を受け取ってそれを先に伝えて行くためにそこにいるのではなく〔神の第二の存在の仕方における「語り手の<言葉>」、起源的な第一の形態の神の言葉として、〕主の言葉そのものを自ら語り給ういや〔自ら、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として〕自ら主の言葉であり給うそこではその方は全権を受けた神ご自身がご自分に対し人間のために証人でありまた人間の下でご自身のために証人であり給う神の代理を遂行し給う。〔したがって、〕その方は神的行為の道具ではあり給わないその方は〔「啓示」・「語り手<の言葉>」(起源的な第一の形態の神の言葉)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において、〕自ら神的な仕方でそれ故にまことに仲保者として行動し給うこのように自分のことを旧約聖書の待望証言の確認以外の何かとして理解しようと欲しなかった新約聖書の中での想起の証言は語っている」。「そのしるしが、旧約聖書正典の召された番人および注釈者としてのユダヤ会堂の最も鋭い抗議に直面しつつ立てられたということ、またそれにも拘らず、そのしるしは、ほんの少しでも反ユダヤ主義的な意味でたてられたことはなく、新約聖書の福音記者と使徒たちのうちの誰もが、イエスをまさにイスラエルのメシヤとして以外の仕方で理解した者はいなかったということについて、いくら慎重に熟慮し理解しようとしても十分すぎることはない。彼らの<想起>の対象が、旧約聖書の<待望>の対象と合致するということが、……堅い必然性をもって彼らの<想起>に対して刻印されていた……。まさにキリストがイスラエルによって拒否されていたということが、福音記者と使徒たちにとっては、……彼こそまさに来るべき方で<あり>、彼の〔復活に包括された〕十字架こそ、そこで新しい時間が基礎づけられると共に、また古い時間が成就された出来事であるということを裏づける完全な確証であった。このことは、謎であり、また何時まで経っても謎であり続ける。新約聖書の思惟と語りのこの謎に対しては、いかなる答えもない。新約聖書の証人たちはこの謎そのものに対してまた決定的に彼らの想起に属していたことすなわち彼は十字架につけられ、<そして甦り給うた〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括する「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕ということ以外のほかの答えを与えることができなかったということである」。

 

第二の形態の神の言葉であるところの、「〔「実在の成就された時間」としての「イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間」である〕新約聖書は〔「実在の成就された時間」としての「イエス・キリストの啓示の<待望>についての証言の時間」である〕旧約聖書と同様に隠れた神の啓示についての証言である〔詳しく言えば、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質) における「第二の存在の仕方」、すなわち「啓示」・「語り手の<言葉>」(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――この「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」についての証言である〕」。このことを裏づける決定的な証拠は新約聖書が神の啓示をしかも旧約聖書によって待望された神の啓示を人が、まさに神の啓示が反駁され拒否されていると考えることの中でこそ選ばれた民によって神の子が拒否され〔復活に包括された〕十字架につけられることの中でこそ見ているという事実である」。「ここでも、新約聖書は、内容的には、少しも旧約聖書と違ったことを語っていない。したがって、人は、旧約聖書的な神の隠れは、まさに新約聖書のところに来て、はじめてそのすべての帰結と共に明らかになるということを確認しなければならない」。

 

 「キリストの教会が、教会を巡り囲む滅びへと定められた悪しき世としての世界に対して下されたのを見る神の<判決>〔「裁き」〕は、もろもろの民およびその神々に相対してのイスラエルの排他独占性の中で表現されている判決〔「裁き」〕と比べて、全く同じように厳しいものである。確かに、そこではバアルに対するヤーヴェの血なまぐさい戦いは欠けているが、しかし、そのことは、『この世の様』(ローマ一二・二)を排斥する拒否の徹底性が、少しでも減退したからではなく、それどころかそのような拒否の徹底性が、今こそ全く原理性になったからである。滅びへと定められた悪しきこの世としての世界はそのもろもろの力と権威と共にキリストにあって克服されたのであるキリストは滅びへと定められた悪しきこの世をそのからだと共に十字架に携え行き墓に葬り給うた」。このような訳で、「滅びへと定められた悪しきこの世を常になお実在として前提としているところの旧約聖書的な戦いの形態は今や後退し消えてしまうことができるし消えてしまわなければならないしかかるものとして意味のないものとなったしキリストがすべての敵をその凱旋行列に加えてさらしものとされた(コロサイ二・一四以下)ことによって事柄そのものが舞台に登場した後では消えてしまわなければならないしるしとなった自然歴史文化の神性剥奪は、〔復活に包括された〕キリストの十字架を振り返り見る時今やもはや何の問題でもないのである」、そこで優勢となってきた人道主義、寛容さ、あるいは文化謳歌主義の故にではなく、旧約聖書のプログラムが現に貫徹された故にこそ、教会は、世に向かって、かつてのイスラエルと比べて、……はるかに立ちまさった仕方で、対立しているのである。人が古き世に対して戦う武具は今やエペソ人への手紙六章に記されている純粋に霊的な武具となった〔「神の武具を身につけよ」とは、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に依拠せよということである〕」。このようにしてまた神の民預言者義人が苦しむということは新約聖書の中ではなくならない」。「イエスの生涯の歴史は、その生涯のはじめからして苦しみと死に向かってしきりに迫っており、その苦しみと死についての記述が多くの場所を占めている四福音書が、聖金曜日に起こったことの中でキリストの全生涯の意味としての本来的なキリストの出来事を見て取っていることからして、四福音書の中で……十分展開されることができない……」。しかし、「そのことに、貧しいもの、『心の』貧しいものとして、それであるからキリストの故に迫害され抑圧された義人として、幸いなりと讃えられているところの、キリストの言葉の聞き手たちの姿が対応している。弟子たちを派遣するに当たっての訓戒であるマタイ一〇章も、迫害時にどのような態度を取るべきかについての唯一の指示である。また、新約聖書の手紙の中でも、脅かされ、キリストの苦しみにあずかっており、最後に自分の生命を犠牲にすべく用意している使徒の姿と、艱難に出会い、迫害され、苦しんでいる教会の姿が、繰り返しにじみ出ている。殉教を通しての脅かしとそれに対して用意ができているということは、キリストへと召され、回心した人間の状況に関して、新約聖書が証しているところの自明的なことである」――このことは、「欠けることのあり得ないところのキリストに属することに当然つきまとう付属物である何故ならばまさにキリストこそ十字架につけられた神の子であり給うからである。このことの中では、ヤコブがなした神との戦いが問題であるということは、イエスの受難の歴史の中でさらに簡潔に示されている。すなわち、ゲッセマネの出来事の中で、そして『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という十字架上のイエスの叫びの中で示されている、それ故にヨブと詩篇の作者の答えられない問いの答えが問題であるということを、人は見過ごしにすることができないのである。しかしながら、旧約聖書の中に出てくる苦しむ者たちの疑い、嘆き、抗弁、祈願は、パウロにおいてもヨハネにおいても、そのほかの新約聖書の書物の中ででも、あたかもそのようなものが全く存在していなかったかのように沈黙してしまう。そのようなものを思い出させるものは、例えばローマ七・二四で姿を現しているが、それは、そこで現れたかと思うと直ちに消え失せてしまうのである」――「このことは旧約聖書に相対しての新約聖書における全面的な変化である」。しかし、この変化においては、「明らかに、新約聖書の中では、調和的な楽観主義的な存在そのものに対して喜びを感じる人生観が語られているとか、福音記者と使徒たちが、人は神に向かって叫び声をあげなければならない見捨てられた状態にはないとか、しかも神から見捨てられた状態の深みについてもはや何も知らなくてもよい」ということが問題なのではない。「ヨブと伝道者〔コヘレト〕、そして詩篇の作者は、彼らの痛烈な、いや、さらにもっと痛烈な問いをもって、新約聖書のただ中にいる。しかし、それは、いずれにしても独立した姿としてではないし、一つの問題を提起しなければならないものとしてではない。したがって、彼らの痛烈な抗議や懐疑がさらに引き続いて表現されて行くといった具合ではない。何故ならば彼らの問題も、〔「新約聖書の時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」としての「イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間」においては、〕今ではもはや問題ではないからである人は、新約聖書を理解するためには、ヨブと伝道者〔コヘレト〕、そして詩篇の作者の問題、神に相対して立っている人間の苦難の問題を知らなければならないしかし、人が本当にそれを知りたいと思うならば、新約聖書と共にその問題をすでに片づいた問題として知らなければならない」、ちょうど「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでおり、「旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔神の恵みの啓示」、福音、生〕への〔「神の怒りと死の最後的な仮借なさが罪深いわれわれ人間の身に適中するのではなく、それこそ新約聖書の秘義であるが、<神自ら経験され身に受け給うた>」復活に包括された〕<キリストの十字架〔死〕>でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活へと向かっている」のであり、「このキリストの復活は〔換言すれば「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」は〕、新しい世〔、時間〕のはじまりである」というように、また「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、「神の選びをイエス・キリストの復活において認識し、神の放棄をイエス・キリストの十字架〔死〕において認識することができる」(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)ように。「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの人間性の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」)――この「神の隠れ」としての「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の<恵みの意味の中に含まれている」。この「神の隠蔽としての身をかがめることの中で、この言葉が現れているところの、特に旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように、神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)が、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「神が恵みを与え給うことの<原型>は、神の<言葉の受肉>〔神の内在的本質である神性の受肉ではなくて、神の外在的本質である第二の存在の仕方における神の<言葉の受肉>〕、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」(『ローマ書』においては、「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」と語られている)。ここで、「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、自己卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、覆い隠し、隠れを意味している」。「このようにしてそのことの中で旧約聖書の義人の苦しみについて証ししているすべてのことが指し示していたところの神の隠れが出来事となって起こる」。このような訳で、「そこでは、もはや苦しむ預言者や神の僕の継続はあり得ない。また、あの救いを求める叫び、あの抗議、あの懐疑はもはやあり得ないのであって、ただ自分の十字架を負うて、キリストの後に従うように召されている者たちの厳格な即時性があるだけである」したがって、「キリストの弟子たちが苦しまなければならないということまた主の教会も苦しまなければならないということこのことはただここでキリストとの関連の中でだけ重要なのであってそれだけでは取るに足りないことであるただ一つの例外としてむしろ通則を確認しているステパノの歴史のほかには新約聖書の中には殉教の場面が出てこないということパウロの殉教もペテロの殉教もヨハネの殉教も述べられていないという事実の中に秘義に満ちた仕方で働いている規律がある」。このような訳で、「それに続く何世紀かが生み出した殉教者行伝は、旧約聖書的な伝統、いや、ユダヤ会堂的な伝統を継承しているのであって、決して新約聖書的な伝統を継承しているわけではない」。バルトは、『カール・バルト著作集2』「証人としてのキリスト者」で、次のように述べている――「ステパノを証人とするのは、〔「<恵み>から語り、恵み<について>語る」〕彼の<言葉>であって、かれの苦難(最後的には、殉教)ではない。私は、異教徒に対しても、イエス・キリストがその中にいるということを信じることによってのみ〔異教徒、不信者、非知者も、神の内在的本質である神性の受肉ではなく、神の外在的本質である神の第二の存在の仕方である神の<言葉>の受肉、<神の恵み>としてのイエス・キリストとの連続性の中にいるということを信じることによってのみ〕、呼びかけることができる。私がその人をその中に置くことによってではなく、〔徹頭徹尾〕イエス・キリストがすでにその人をその中に置いて<い給う>ことによってである。したがって、私にとっては、人間そのもののためになされる努力は、すべて空しいものとなるのである。われわれは、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、すべて人々は<神の恵み>としてのイエス・キリストとの連続性の中にあるということからして、〕キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない。そしてその場合、結びつきということは、何ら必要ではない。何故なら、結びつきは、〔すでに<神の恵み>としてのイエス・キリストとの連続性の中にあるということからして、〕すでに起こっているのだからである。そして、<そのような>結びつきを想起せしめるということ――それがキリスト教の証人の任務である」。苦難の問題に対する新約聖書の解答は事実ただその解答だけが鋭く立てられた旧約聖書の問いに対して答えているのであるが、〔復活に包括されたキリストの十字架、すなわち〕<一人のものがすべてのもののために死んだということである」。したがって、バルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕彼の死〔罪―刑罰〕を欲し給うのである……しかし〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕誰がこのような答えに屈服するであろうか。〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えを〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ〕われわれに代わって答え・〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ〕人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、〔「自己自身である神」としての「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としての〕神の永遠の御言葉が〔その内在的本質である「神性の受肉」ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な第二の存在の仕方における「言葉の受肉」において〕肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて〔復活に包括された死において〕死に給うことによって引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。〔われわれ人間のために、われわれ人間に代って〕彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』は、明らかに〔徹頭徹尾神の側の真実としてのみある〕<主格的>属格〔「イエス・キリスト<が>信ずる信仰」〕として理解されるべきものである)」(このことが、「福音と律法の<真理性>における福音の内容」である)。このように、律法と福音を分離し対立させること(ルター『キリスト者の自由』)が問題ではなくて、区別を包括した単一性において、福音と律法の問題を<架橋する>ことが、「教会の宣教における一つの補助的機能(「教会的な補助的奉仕」)としての<神学における思想の問題>である、ちょうど区別を包括した単一性において、信不信、知非知、「単独者および個人救済主義」(キルケゴール)の問題あるいは「食物の飢えで困窮している具体的な一人の人や一部の人を施しや奉仕によって緊急的過渡的相対的部分的に救済しようとする」問題「教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現〔すなわち、<客観的な>その「生涯と死および復活」、「キリスト復活の四〇日」、「実在の成就された時間」としてのイエス・キリストにおける「啓示の出来事」とその「啓示の出来事の中での主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて贈り与えらる「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の問題、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の問題<架橋する>ことが、「教会の宣教における一つの補助的機能(「教会的な補助的奉仕」)としての<神学における思想の問題>であるように。このような訳で、「キリスト教の証人の任務、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする(Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」である第二の形態の神の言葉(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りにける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋な教え>としてのキリストにあっての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(すなわち「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的な>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(すなわち、一般的な倫理学ではなくて、区別を包括した単一性において<教会>教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的な倫理学の問題、<純粋な教え>としてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、全世界としての教会自身と世のすべての人々が<純粋な教え>としてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環においてイエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指して行くという点にあるしたがってこのことを認識し自覚しないところでなされるそれ故に律法の成就」・「律法の完成そのものとしてのイエスキリストが律法の終わりとなられた方であることを聞かず承認しないところでなされるそれ故にまた律法の成就」・「律法の完成そのものとしてのイエスキリストを律法の目標としないところでなされる、「人間的な自然法、抽象的理性や民族法を律法の目標とする」思惟や語りや行動は、全く<本末転倒>甚だしいそれである(『福音と律法』)、また聖書によって義務づけられている教会の宣教の課題である「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」思惟や語りや行動も、全く<本末転倒>甚だしいそれである(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、また「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合おうとする」こと、「ある社会機構、あるいは経済機構の保持、廃止に貢献しようとする」こと、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとする」(『教会教義学 神の言葉』)ことも、全く<本末転倒>甚だしいそれである、また人間的な恣意的独断的な「自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識」からする嗜好的な慈善、社会的政治的実践、具体的に「ある者は盲目的に仕事へと没頭し、ある者は人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜し、ある者はその時代の人間中の様々な敗残者に対して熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行い、ある者は大規模な世界改良の偉大な計画に邁進し、ある者は大衆や時代の傾向と手をたずさえてある種の正義に邁進する」という行為(実践)は、確かにそれらは<人間的な>意味的行為として否定することはできない行為であるから、それらの行為を否定するという意味ではないが、全く<本末転倒>甚だしいそれである。したがって、そのような思惟や語りや行為(実践)は、「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのことが、一体何だろうか」(『福音と律法』)、とバルトは述べている。何故ならば、その時には、われわれ人間は、先ず以て、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間的欲求を第一義性・価値性として思惟し語り行動(実践)しており、まさに不信仰・無神性・真実の罪のただ中にいることを意味しており、それ故にその時には、われわれ人間は、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法を聞いてはおらず、それ故に「律法を悪用する罪の法則によって善きものを反対物に変えるという人間的な巨大な欺瞞を惹き起こしており、神の要求を、人間的な自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて、神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて、人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』をつくり上げ、神の要求を、人間によって曲解された十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告に過ぎないものへと変えており、それ故にその無数の儀文は、偶像崇拝、神冒瀆を生じさせる」からである、そしてそのような「神に対する熱心さの無知は、罪に勝利を収めさせる不従順、虚偽を生じさせる」(『福音と律法』)からである。教会の宣教における社会的政治的領域の問題の扱い方に引き寄せて言えば、例えば革命の問題に引き寄せて言えば、木を見て森を見ないという仕方での、ただその一面だけを拡大鏡にかけて全体化する仕方での、ただ革命の過渡的課題としての人間の観念的な、すなわち政治的な緊急的相対的な<部分的>解放の問題に偏向しただけの、それ故に観念の共同性を本質とするすべての国家の無化を伴う、個体的自己としての全人間の現実的な、すなわち社会的な究極的包括的総体的永続的な<全体的>解放の問題を認識し自覚しないままなされるところの、また戦後自由主義国家の成熟と戦後資本主義の高度化が恣意的自由と私的利害の優先意識をもたらしたことを認識し自覚しないままなされるところの、また現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である自国の利害の保持および拡大を目指す一部国家支配上層の意思によって巨大で強力な国軍(軍隊組織)を動員できる民族国家の一国性を単位として動いており、それ故にいつでも戦争の可能性があるということを認識し自覚していないところの、また戦前における日本の知識人や知的集団の敗北の構造―大衆の敗北の構造を考察し認識し自覚しないままなされるところの、また「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての聖書の言葉は付け足しのようにして、それ故にどのような支配形態の政治権力のそれであれ人間が支配するすべての国家の無化を内容とする「み国を来たらせ給え」(主の祈り)という祈りについて認識し自覚しないままなされるところの、それ故にまた<擬制>民主主義としての普通選挙制度を介した議会制民主義、国民国家、自由主義国家、近代主義国家、民族国家を前提として、事実政治に、国家の言語としての法的政策的な言語に依拠してなされた日本キリスト教団の「戦後70年にあたって平和を求める祈り」(20157月)等々は、現存する政治家や大学知識人や一般知識人やメディアにおける主張と同じ水準の「平和を求める祈り」として、「ただイエス・キリストの<名>にだけ」ある<平和>を求める祈りとは言えないものである。したがって、「戦後70年にあたって平和を求める祈り」(20157月)を、本当の「平和を求める祈り」と信じるならば、それは全くの誤解に基づいている。何故ならば、民族国家を無化する「問題を明確に提起する」(マルクスは『ユダヤ人問題によせて』で、「問題を明確に提起することはその問題の解決である」と述べている)ことをしないままなされるところの、そのような祈りにおいては、永久に平和は実現できないし・実現しないからである。したがって、日本キリスト教団の「戦後70年にあたって平和を求める祈り」(20157月)はもちろんのこと、196610月の「戦争責任の告白」も、バルト主義者や反バルト主義者や中立バルト主義者としてではなく、バルト者としてバルトの思惟と語りを引き寄せている私にとっては、全く首肯することはできないものである。したがってまた、本当に本当の救済、平和、幸福を求めて祈るのであれば、まさに神の側の真実としてある<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」、復活されたキリストの<再臨>を祈らなければならない、終末論的信仰における復活されたキリストの<再臨>を<待望>する祈り、「み国を来たらせ給え」(主の祈り)と祈らなければならない。何故ならば、それは、次の理由による――バルト自身にとっては、神の側の真実としてのみあるローマ書322、ガラテヤ216等の主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(イエス・キリスト<が>信ずる信仰)、すなわち「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのものは、「この世の神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解である」からである。「成就と執行、永遠的実在」として「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され、死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解である」。したがって、「われわれによって初めて完成されねばならないような和解ではなく、〔「成就と執行、永遠的実在」としてある〕神ご自身によって確立された和解である」。「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的なのであり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである」。「イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史〔すなわち、われわれ人間の類の時間性、人類史、歴史〕のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性である」。「この贈り物はただわれわれがこれを受けとることを待っている」。したがって、「われわれがこの事実に向かって眼と耳を閉ざして生きているということが悲惨なのである」。したがってまた、またそうした中で、われわれが、「平和は戦争より善いものであるということを繰り返し断言せねばならない」としても、現存する世界が経済の世界性と戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いている限り、また大学知識人もそれ以外の知識人もその集団や組織もその指導層たちも民族国家を前提として研究し思惟し語り行動している限り、また日本の世界のバルト以外の神学者や指導層を含めて日本キリスト教団の指導層も民族国家を前提として思惟し語り行動している限り、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさないことは明白である」。したがって、やはり、ドストエフスキーの『罪と罰』のマルメラードフのように、終末論的信仰において、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる……神さまは万人を裁いて、万人を赦され……最後の日にやって来て……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く……主よ、汝の王国の来たらんことを」と、すなわち「み国を来たらせ給え」(主の祈り)と祈らなければならない。区別を包括した単一性における、その次元の違いを認識し自覚した親鸞の、「聖道の慈悲」、すなわち「困窮する者を不憫におもい、悲しみ、助けてやることである。けれども思うように助けおおせることは、きわめて稀なことである」という「往相浄土」、過渡的緊急的部分的相対的な救済、平和の問題――それ故に、この道の積み重ねによっては、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和をもたらすことはできない――<>「浄土の慈悲」、「念仏をとなえて、いちずに仏に成って、大慈大悲心をもって思うがまま自在に、衆生をたすけ益することを意味するはずである」という「還相浄土」、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和の問題とを架橋するところに思想の問題はある。したがって、木を見て森を見ないという仕方で、前者の問題だけを拡大鏡にかけて全体化することは、思想の問題にとっては本末転倒なのである。したがってまた、宮沢賢治が、区別を包括した単一性において、究極的包括的総体的永遠的な救済、平和の問題を念頭に置いて、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『宮沢賢治全集第12巻』「農業芸術概論綱要」と述べ、『よだかの星』で全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという問題を提起したことは、意義深いことなのである。

 

 そのような訳で旧約聖書的な神の隠れは新約聖書の中ででも、<刑罰という二重の実在から成り立っている(中略)詳しく言うならばヘロデ王とその死イスカリオテのユダとその自殺使徒行伝に出てくるアナニヤとサッピラこれらはまだ純粋に旧約聖書的な場面である。特に、……直接あるいは間接に、新約聖書の証言のいわば前方に向かっての歴史的な地平線を形成している出来事、エルサレムの破壊と関連している箇所はすべて、ここに属していると言ってよい。この罪―刑罰の問題は、そのほかにも、イエスの語りと譬えの中ででも、ケリグマの教示し警告する展開の中ででも、書簡の中ででも、黙示録の中ででも不断に姿を現しているということ、弟子たちも、キリストの教会も、絶えずその罪―刑罰の影の下に、すなわち旧約聖書的な平行事象に比べて暗さにおいて決して減退しておらず、むしろ増大したと言える影の下に立っていることが確実である限り、不断に姿を現している」――このことは、「〔復活に包括された〕キリストの十字架についての新約聖書の中心的見方と直面する時取り立てて強調される必要のないことである。〔復活に包括された〕キリストの十字架の中で原始キリスト教は神に対して犯した人間の罪の秘義罪深い人間に対し神の刑罰が下される秘義を見て取ったのである今こそはじめてここのところからして人間に対する告訴は徹底的となり全体に及ぶものとなる旧約聖書が証ししている聖なる神と罪深い人間の出会いは、……教育的配慮、教育的な領域からの試みという様相を払拭してゴルゴタの丘の上で直接神に対して罪が犯されその同じ場所で神が自ら刑罰を受け給うことによってその最後的な真剣さとその謎的な経過全体の中での内的必然性を得てくる今や、現実存在と罪の関連、現実存在と死の関連は、新約聖書的宣教の中で実際になされているように、容赦なく厳格に強調されている。旧約聖書の宣教の中ででも姿を現すそのような関連は、新約聖書が引き合いに出しているゴルゴタの丘の出来事の場所にその起源を持っている明らかさの中で、はじめて姿を現すのである」。「旧約聖書の謎全体としての何故この民にとってあれほど事情は悪くゆくのか何故この民はあれほど悪いのかという二重の問いは、……神の一つの隠れの中で属し合っているということ」――「このことは、〔「人間的な謎が問題なのではなく、神的な謎が問題であることからして、〕それが認識されるところではイエスキリストの認識である言い換えれば、『わたしたちの罪過のために死に渡されわたしたちが義とされるために甦らされた(ローマ四・二五)ところのイエスキリストの認識であるまた告訴と裁きの脅かしの真剣さ全体がそこで姿を現すことによってもう一つ別なこと、……告訴と裁きの脅かし〔「神的な否」〕すべて>、人間に対して向けられているということも姿を現してくる。『<一人の人によって罪がこのにはいりまた罪によって死がはいってきたようにこうして、<すべての人が罪を犯したので、<が全人類にはいり込んだのである』(ローマ五・一二)。イエスを十字架にかけるに当たって、その役割が違うとしても、ユダヤ人と異邦人が力を合わせ共に働いたということは、偶然ではない。このことと正確に対応しつつ、彼らユダヤ人と異邦人は、またローマ人への手紙のはじめの二つの章において、並んで同じ判決の下に立っている。刑罰の問題は決してイスラエルの特殊問題ではなかったということイスラエルが自分のメシヤを十字架につけたることによって神の懲罰を受けた罪深い民はそのイスラエルの民と同一である訳ではないということイスラエルの民は罪びとの集まりでしかない来るべき教会のための代理人でしかなかったということが明らかになってくる。『神はすべての人を不従順の中に閉じ込めたのである』(ローマ一一・三二)」。

 

 しかしその「『神はすべての人を不従順の中に閉じ込めたのである、『<神はすべての人をあわれるために>』から得てきているのである」。このように、「新約聖書の中では神の隠れは、……包括的に認識されている」、イエス・キリストにおける「神の啓示は、裁き〔「神の裁きの啓示」、「律法」、死〕であることによって、恵み〔「神の恵みの啓示」、「福音」、生〕である」ようにわれわれは今やまさにキリストの受難>、苦しみキリストが〔復活に包括された〕十字架につけられ死ぬことである新約聖書の偉大な中心を強調しなければならないがしかし新約聖書はキリストの受難について抽象的に語ってはおらずキリストの甦りの実在〔すなわち、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」、「実在の成就された時間〕を通して限界づけられ照らし出され確かめられている」。「イエスの甦りは、……その特別な歴史的な場所をイエスの生涯と死の限界としての終わりのところにもっているがしかしイエスの甦りが果たしている機能は直接にすべてのそのほかのものを包括しつつイスラエルによって拒否されピラトによって十字架につけられた方死人の中から甦られたということを言おうとしている甦りの機能は、その中で〔神の内在的本質である神性の受肉ではなく、神の外在的本質である神の第二の存在の仕方における〕神の言葉の受肉が完成されたキリストの受難を啓示として、神と人間の間の契約の実現として、われわれのための神の行動として、和解として見て取り洞察できるようにすることである。甦りの出来事はキリストの出来事の第二の次元〔すなわち、「新約聖書の証人たちは、キリスト復活の四〇日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を<想起>する時、光を得た」し、その「復活されたキリストは、またこれから来たり給う方であることを〔「実在の成就された時間」としての復活されたキリストの<再臨>を<待望>するという仕方で〕語る」のであるが、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕が明らかになることであるヨハネ一一四で、『わたしはその栄光を見た>』と言われている時キリストの甦りのことが意味されている甦りは〔すなわち、新約聖書の証人たちが、「キリスト復活の四〇日をおぼえる想起において、キリストの死とキリストの生涯を想起する時、光を得た」ところの、その「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」は〕、〔神の内在的本質である神性に受肉ではなく、神の外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉の受肉>において〕ご自分の身を低くされた方十字架につけられた方が、<啓示される出来事であるその方が現にあるがままの方として〔「啓示自身が持っている啓示の自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕ご自分を〔「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方において、〕認識すべく与え給うところではその方は甦られたキリストとして語っている」。「甦りはその方自身に対してすなわち父の永遠の言葉に対して〔「啓示者」(父)の「啓示」・「言葉の語り手」としての父の「言葉」(起源的な第一の形態の神の言葉)「和解者」としての子としてのイエス・キリスト自身、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」に対して〕何も新しいものを付け加えたりはしない甦りはまさにその方に固有であるものその方の栄光を可視的にする〔すなわち、その方の「<神の自由さ、完全さの教説>の中で、神は、(ドイツ語はここで、ほかの国語が持っていない表現能力を持っているのであるが)ただ単に主であり給うだけでなく、そのような方として栄光に満ちてい給い、他方すべての栄光は主なる神の栄光であるという認識〔「栄光」と「主」との全体性においてイエス・キリストは栄光の主であるという認識〕を遂行しなければならない。われわれは、ここで、まさにこの概念でもってはじめなければならない……。Ⅰコリント二・八、ヤコブ二・一によれば、イエス・キリストは、<栄光>〔聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等〕の<主>であり給う。そのような方として、認識され承認されている。したがって、主と栄光とを切り離して認識する切り離しは存在しない」ところの栄光を可視的にする」〕」。「この甦りの出来事を通して、限界づけられ照らし出され確かめられつつ新約聖書は、キリストの受難を、それとは別様な仕方で見ていないが故に、新約聖書は、受難の中に力強く神の隠れを見ている、容赦のない仕方でこの世が過ぎ去ることについて語っている、自明的にこの時間の苦しみの必然性について知っている、特に人間を厳格に普遍的一般的に神的な告訴と神的な脅かし〔「神的な否」〕の下に服せしめている」。「まさにイエス・キリストの<啓示>の力こそが、新約聖書によってそのように証しされている神の隠れの力である」(「受肉、神が人間となる、僕の姿、自分を空しくすること、受難、卑下は、神性の放棄や神性の減少を意味するのではなく、神的姿の隠蔽、神的姿の覆い隠しを意味している」)。このような訳で、「ここで力を発揮しているものは、……実際にキリストの受難〔「神的な否」〕であり、キリストの受難〔「神的な否」〕は、今やその背後に立っている全く驚くべき、徹頭徹尾把握できない、概念的に心に思い浮かべることができない出来事を通して――すなわち、『キリストはすべての苦しみ〔「神的な否」〕に打ち勝って甦り給うたわれらは皆そのことを喜ぶキリストはわれらの慰めとなり給うたという出来事を通してまさにくまなく照らし出され>、語りだし、〔復活に包括された〕まことの十字架の言葉>』(Ⅰコリント一・一八)となったのである」。新約聖書が〔われわれ人間の〕世について苦しみについて罪と刑罰について語っている時、……そこで問題である否は聞捨てることのできない反駁することのできない神的な否〔「神の裁きの啓示」、「律法」、十字架、死〕でありそれは、<啓示神的な然り〔「神の恵みの啓示」、「福音」、復活、生〕から持っている何故ならばその神的な否が由来してくるところの受難は復活日に起こったことによれば恵みとまことに満ちた神のひとり子の受難であるからである――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り、復活の歴史に向かって進んでいる。すなわち、旧約〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕から新約〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕へのキリストの十字架でもって終わる古い世〔、時間〕は、復活〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕へと向かっている。このキリストの復活〔「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕は、新しい世〔、時間〕のはじまりである」。「すべてのことが新しくなったのであるから、古きものは過ぎ去ったのである。イエスが生き給うが故に、キリストの十字架は、主の教会が置かれている<しるし>である。イエスは、世の罪を勝利〔「キリストの復活における神の勝利の行為〕をもって負い給い取り除き給う神の小羊であるが故に、神は、すべての者を不信仰の中に閉じ込められたのである。新約聖書の<神的な否>、<神の隠れ>についての証言は、神の子の啓示された栄光がなす論証として、無益にされることはあり得ない。人は、その同じことを旧約聖書の神的な否についても言うことができる時、そのことを、新約聖書によって教えられつつ言うのである預言者たちは、確かに甦りのことを言おうとしていたのであるが、そして言おうとしていたことによって、使徒たちとは違って甦りの証人(使徒行伝一・二二)ではなかった」。

 

 そのすでに出来事として起こったイエスキリストの啓示からして、「神の隠れについての新約聖書の証言は内容的に旧約聖書におけるほど真剣でなくまた暗いものでないかのように受け取る考え方は拒否されなければならない。〔<すでに出来事として起こった>「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの啓示からして〕正しく理解するならば神の隠れについての証言は新約聖書の中ではいずれにしてももはや人を圧し重荷を負わせ押しつぶす式の証言ではないすなわちそれはその全くの真剣さとその暗さ全体の中でしかも明白に福音、<喜ばしい使信である」。このような「神の隠れの新約聖書の証言からして、いかなる世に対する軽蔑も、いかなる世界苦も引き出すことはできない、また罪についての嘆きやその復讐者としての神をおそれる恐れということも、最後の言葉ではあり得ない。何故ならば、そのようなことすべては、〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」としての〕復活日からして照らし出されて、〔その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である〕新約聖書の証人たちに語りかけさらに〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている〕彼らの証言を通して、〔その聖書を、自らの思惟と語りのける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会に属する〕われわれに語りかける〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉である〕キリストの人格の中で意味のないものとなってしまったからである」――「この証言を聞く人間にとっては、その重荷は、もはや<彼>の上には負わされず、<彼>は、その重荷と取り組んで自分で解決しなければならないことはなく、それ故にその重荷に屈することもあり得ないということが、決定的に重みを得てくる」。「新約聖書の証言に聞く人間こそ、依然としていくばくかのことを意味する世と戦い、世を軽蔑しなければならないが、しかし、それにも拘らず、彼は、その世を相手に戦い軽蔑するようにと召されてはいない、むしろ彼は、その世はキリストの死の中で過ぎ去った世であり、それの神々や偶像はもはや何の力も持っていないということを信じ知るようにと召されている。〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」としての〕キリストが古い世との戦いを実際に戦い給うたのであり人はキリストと共に信仰の中ですでに新しい世〔、時間〕に生きているのであればその時ただあの戦いはすでに戦われということを認め確認することだけが彼のなすべきこと彼の戦いであることができる」――イエス・キリストにおける「啓示自身が…啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っていることからして、またⅠコリント310-11、エフェソ214以下における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)からして、「イエス・キリストが、われわれ人間に対して、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書および〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教を通して同時的となる時と所、『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところにおいては、われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する。したがって、われわれは、世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する。すなわち、自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」。したがって、「イエス・キリストにおける啓示」は、一般的な啓示、一般的な真理、「存在の類比」、自然神学に依拠した教会の宣教における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所であるし、包括的に言えばわれわれ人間の個と現存性(すなわち、人間の個の時間性、自己史、個体史)―われわれ人間の類と歴史性〔すなわち、人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕の生誕から死までのすべてを見渡せる場所であり、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる場所である。因みに、マルクス/エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』で、次のように述べている――「歴史とは個々の世代〔すなわち、個体的自己の成果の世代的総和〕の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力〔および一対の男女、その共同性である家族ならびに言語〕を利用する〔媒介、反復する〕」、またマルクスは『資本論』「第1版の序文」では次のように述べている――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである〔言い換えれば、経済社会構成の拡大・高度化、科学・技術の進歩・発達、その知識の増大・細分化、生活の利便性の向上は、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である。それ故に、農耕等様々な経済社会構成を包括した現存する経済社会構成の尖端に位置する資本主義は、自然史的必然としての自然史的成果である、それ故に停滞させたり後退させたり逆行させたりすることはできない。また、資本主義は必然的に「搾取」や「貧困」やを生み出す「欠陥」や「悪」を持っているとしても、その問題は、その制度的<必然>、システム的<必然>によるものであるから、そしてそれが<制度>としての<資本家>と<制度>としての<労働者>の関係を規定するから、それ故にその問題を包括し止揚するためには資本制的生産様式(交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を明確に提起しなければならない問題であるから、具体的な資本家諸<個人>の責任の問題ではないように、また「貧困」の問題も、<国民>の責任の問題ではなく、その「欠陥」と「悪」の問題を、現実的に、社会的にではなく、あくまで観念的に、政治的に、法や政策によって過渡的緊急的相対的部分的に解決するのが観念の共同性を本質とする国家(具体的には、政府)の責任の問題であるから、国家<政府>の責任の問題であるように、また例えばそれが良きものであれ悪しきものであれ、自然史的必然としての自然史的成果の一つである原子力の開発やその安全性の問題は、もしも安全性の領域で問題が生じた場合には技術的に解決していくほかない問題であるように〕」、またマルクスは、『経済学・哲学草稿』では、自然の一部である人間は、個体的自己として、その身体(肉体)と身体を座とする精神(意識)を介した、普遍的で実践的な全自然(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた天然自然としての外界および人間化された自然としての物質的、観念的な生産物としての人間的自然)との相互規定的な対象的活動を行うのであるが、ここに人間諸個人の身体的肉体的および精神的意識的な間の類的な活動や生活がある、それは、人間諸個人による全自然の対象化であり、自然の人間化であり・非有機的身体化であるが、それはまた同時に、人間の自然化であり、人間的自然としての人間の有機的自然化である、またそれは、人間の歴史的行為である。人間諸個人の全自然との相互規定的な対象的活動によって生み出された人間的自然(物質的、観念的なそれ)は、それが感覚的な客体としては孤立しているが、現実的な生活過程においては<媒介的に>他の人間と関係づけられているから、それは、協働関係としての社会を構成する、と述べている、またルートヴィッヒ・フォイエルバッハは、『キリスト教の本質』で、次のように述べている――「人間の内的生活は自分の類自分の本質に対する関係における生活である人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個人がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない。しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能>‥‥‥を果たすことができる」、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使して対象化され客体化された人間の観念的生産物(人間的自然)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)としての「(中略)神の啓示の内容は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、このことからして次のような認識と自覚は重要である――「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」(『教会教義学 神の言葉』)ということからして、またもちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている」、それ故に「信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」(『福音主義神学入門』)といことからして、322ガラテヤ216等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰属格、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」(『ローマ書新解』)そのもの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの(『教会教義学 神の言葉』および『平和に関するバルトの書簡』)であるところのイエスキリスト信ずる信仰として、<主格的属格として理解されるべきものである(『福音と律法』)。そして、その「イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる<媒介的なそのイエスキリスト信じる信仰」が、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」である。何故ならば、「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」イエスキリストにおいて、「神の用意の中に含まれて人間にとって神に向かってのしたがって神認識〔「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕に向かっての人間の用意が存在する」からである、「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」からである(『教会教義学 神の言葉』および『教会教義学 神論』)。「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固守するという方式>(『ローマ書』)を堅持しないところの神人協力説における神だけでなくわれわれ人間の直接性、<直接的なわれわれ人間の意志や自主性もわれわれ人間の直接的な人間的契機もということを前提とするローマ322ガラテヤ216等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰属格目的格的属格(「イエスキリスト信じる信仰」)として理解するルタ的な信仰およびキリスト論ならびに聖餐論における神はすなわち聖書の中で証しされているキリストにあっての神だけでなく類的機能を持つ人間の自由な自己意識理性思惟を駆使して対象化され客体化された人間の観念的生産物としての人間の意味世界物語世界存在者レベルでの神もというところにおける神は、「……独立的に現われ活動する神的実体として中略)〔それにはあらゆることが可能であり、(中略人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち人を救う。〔その信仰と神とは一団をなし、〔その信仰は心の信頼として!)神と偽神の両方を作りときにはただわれわれ自身の内部においてだけであるが)『神性の創造者と呼ばれるということもあり得るさらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄であるフォイエルバッハはこのキリスト教の教説を神は人となり人は神となるという定式で簡明に表現したがそれは〕……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合にはまったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教えまたかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった中略)。(中略これらすべてのことは、……、……天と地神と人間を顚倒する可能性を意味しており終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略ルターと初期ルター派の人々が天を襲うようなキリスト論を説いてその後継者たちをたえず出現する思弁的人間学的帰結に対しての一種の危険状態無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない神に対する関係があらゆる点で原理的に顚倒不可能な関係だということ――そのことについてすなわち、『聖書の主題であり同時に哲学の要旨である神と人間との無限の質的差異を固守するという方式>(『ローマ書』)について〕、人々はフォイエルバッハをすなわちフォイエルバッハの客観的な正当性と妥当性とを持った根本的包括的な原理的なキリスト教批判を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」(カールバルト著作集4』「ルートヴィッヒフォイエルバッハ」)、またフォイエルバッハは、『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演」で、聖書の中で証しされるいるキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張もという欲求からする類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やにによって対象化され客体化された人間的自然(観念的生産物)としての人間の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)レベルにおける「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された‥‥‥絶対的な本質存在者)、と考えられ表象されたもの以外の何ものでもない」、と述べている。「新約聖書は、自分のことを、自主独裁的であり・世の避けられない苦しみに対して重荷を負うことができる・自ら戦うことができる・自ら英雄として屈服することができると考えるストア主義とは違って、そのような人間のことは考慮に入れていない。新約聖書はそもそも人間のことを考慮に入れていないのであってその戦いをも勝利をもって戦い給うたキリストを考慮に入れているのである〔すなわち、その戦いをも勝利をもって戦い<給うた>「キリスト復活の四〇日」(使徒行伝一・三)、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」としてのキリストを考慮に入れているのである〕」。すなわち、その戦いをも勝利をもって戦い<給うた>「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての「キリストはわれわれのために戦いに勝利をおさめ給うた」。このような訳で、「われわれにとっては、……われわれの痛みと煩いではなく、ただ神の子の痛みと煩い……をそのまま認め確認することだけが残されている」。「最後に、神的な告訴と脅かし(「神的な否」)は、人間が、ただ神の事柄を自分の下で、また自分の事柄を神の下で実践していくことができ・実践すべきだと考えているところでだけ〔すなわち、不信仰・無神性・真実の罪としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もと考えているところでだけ〕、人間に対して重荷を負わせることができる――このような考え方から当然起こって来るところの生きるに当たってのうぬぼれの中で、われわれは、神に対し罪を犯すのであり、神の罰は、われわれに突き当たるのである」。「福音が、そのようなわれわれの思いと対立しつつ、われわれのもとで聞く耳を創り出すことができるならば、そのことは、福音の言葉の中で、<キリスト>が、われわれ自身の代わりになられ、今や実際に神の事柄を<われわれの下>で、われわれの事柄を<神の下>で代わって遂行して下されることによって、『痛みと煩い』が、われわれから取り去られることを意味する。キリストが、神の事柄を、<われわれ罪人の下で>遂行し給うことが、彼を十字架につけたのであり、キリストが、われわれ断罪された者の事柄を<神の下>で遂行し給うということが、あの限りないみ業〔すなわち、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、神性を内在的本質とする「三位一体の神」の、その外在的本質である神の第二の存在の仕方、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「勝利の福音」〕、彼の苦しみと死がもたらした勝利の成果である」。「キリストがまことの神およびまことの人間として、〔その「勝利の福音」、「復活の力」において、〕われわれの下で神のために責任を負い神の下でわれわれのために責任を負い給うということがまことであるならばその時にはわれわれはもはや神の告訴と脅かし〔「神的な否」〕の対象ではないその時には神ご自身によってわれわれから取り去られた重荷は全くキリストに負わされたのである」。この時、「われわれにはキリストの出来事の中で実際に起こったあわれみ〔「神的な然り」〕によってもたらされた自由の中で生きる生活が残っているこの神の隠れについての証言の変化全体はその証言がすでに起こった啓示を思い起こす想起の証言である限り〔すなわち、その証言が<すでに出来事として起こった>「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、その「生涯と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「勝利の福音」としてのイエス・キリストの啓示を思い起こす<想起>の証言である限り〕、それ故に新約聖書的な証言である限り実際に起こっているのであるこの証言を聞く者は正確に理解するならばこの変化の中ではすでに旧約聖書的な証言が語っていたことが明るみに出ていると言わなければならない」。

 

第二の形態の神の言葉であるところの、「〔「実在の成就された時間」としての「イエス・キリストの啓示の<想起>についての証言の時間」である〕新約聖書は〔「実在の成就された時間」としての「イエス・キリストの啓示の<待望>についての証言の時間」である〕旧約聖書と同様に、……神は人間に対して、<来たりつつある神として現在的であり給う啓示についての証言である」。「まさに想起についてはっきり述べている証言である……新約聖書こそが来たりつつある神についての証言である〔言い換えれば、<すでに出来事として起こった>ところの、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、その「生涯と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「勝利の福音」を<想起>するという仕方で、その復活されたキリストの<再臨><すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」終末を<待望>する終末論的な証言である」。「われわれは、旧約聖書の中での特別な終末論的な線〔「実在の成就された時間」としてのイエス・キリストの啓示の<待望>〕について語る。しかし、そのような言い方は、新約聖書を念頭において述べる時には、あまりにも弱すぎる言い方である。新約聖書の中での終末論的な線は、ほかの線と並ぶ単なる一つの線ではない。新約聖書の中での終末論的な線は明確な〔実在の成就された時間としての〕イエスキリストの啓示の想起についての証言であることによって暗々裡にあるいははっきりと言葉に出して終末論的である〔すなわち、<いまだ>「完成」されてはいないが、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>、すなわち<すでに出来事として起こった>「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、その「生涯と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「勝利の福音」を<想起>するという仕方で、その復活されたキリストの<再臨><すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」終末を<待望>する証言として、終末論的である〕」――<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>、この「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け満たされた人は〔すなわち、神の恵みの賜物である聖霊を受け、イエス・キリストの啓示を認識し信仰した人は、信仰の認識としての神認識を起こり与えられた人は、神の恵みの出来事を人間的主観に贈り与えられた人は〕、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての〔人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての〕<いまだ>であり、〔徹頭徹尾神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである。ここで、「四福音書が述べている甦りの歴史Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕およびⅠコリント一五章の中で述べている甦りの歴史Geschichte、史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕」――この一つの偉大な例外が奮ってこなければならないさにこの例外こそが通則を確証している」。「われわれは、弟子たちが甦りの主と出会う出会いについて述べている新約聖書の報告の線の上で、神の純粋な現在〔「まことの現在」〕についての証言と取り組まなければならない〔すなわち、<すでに出来事として起こった>「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、その「生涯と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四〇日」(使徒行伝一・三)、「キリスト復活四〇日の福音」、「勝利の福音」についての証言と取り組まなければならない〕」。したがって、「それ以前に、イエスの生涯について報告されていることは、明らかにまだ全くの待望でしかない。しかも、イエスの言葉に従っても、いや、まさにイエスの言葉に従ってこそそうなのである。イエスの生涯の奇蹟も、言うまでもなく、ただ神の現臨の<しるし>であろうと欲しているだけである。そこでは、ただそれに直面したペテロが直ちに小屋を建てたいと思った山上の変貌だけが、偉大な例外をなしているように見える。キリスト復活の後に来るもの、すなわちキリスト教会の生成もまた、おそらくサウロの回心の際、キリストが現れ給うた出来事を例外として、可能な限り全く統一的なはっきりとした<待望>である。しかし、甦りの歴史Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕は、そして……その前奏としての変貌の出来事とその後奏としてのサウロの回心の出来事は、事実、未来なしの現在について、時間の中での神の永遠的な<現在>について語っている」。甦りの歴史Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕は、終末論的に語っていない甦りの歴史Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕すなわちキリストはまことに肉体を持って甦り給いそのような方として彼の弟子たちに現れ彼らと語り彼らの間で行動し給うということは、……まさにそれにすべての新約聖書的な想起がよってもってかかっておりまたそれにすべての新約聖書的な想起が関わっているところの想起>、それ故にそもそも新約聖書的な想起がなされるようになるところの想起である」。「もしも人が一体どれが本来的な意味で旧約聖書的な待望と新約聖書的な想起間での成就された時間であったのかと問うならばその時人はイエスがご自分をお示しになったあの四〇日使徒行伝一〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」〕であると答えなければならない……」。新約聖書の証人にとってはそのキリスト復活の四〇日を思い起こす想起からしてキリストの死への想起>、またキリストの生涯の想起光を得てくるのである彼らは、『甦りの証人である使徒行伝一・二二、なお使徒行伝一・八「あなたがたの上に聖霊が降ると〔あなたがたの上に、客観的なイエス・キリストの「啓示の出来事の主観的側面」としての、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による主観的な「信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」・「啓示信仰」、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」が起こると〕あなたがたは力を受ける。そして、……地の果てに至るまで、わたしの証人となる」〕および四・三三、ルカ二四・四八、Ⅰコリント一五・一四以下を参照せよ」。われわれは、そのキリスト復活の四〇日の出来事こそが、「まさにイエスの<甦りの出来事>こそが、その受難を、神からしての救いの出来事として明らかにするということ、ほかならぬ<甦り>の力〔「復活の力」〕によって、〔神の内在的本質である神性の受肉ではなく、神の外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の<言葉の受肉>としての〕肉となった言葉の栄光が弟子たちによって見られたということを思い起こす」。この啓示の力を持っている甦りキリストは甦られたという事実〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」〕新約聖書の証人たちの想起の中ででは事実多くのほかの時間部分のただ中における実在的な人間的な時間の一部分となることができない時間換言すれば決して過去となることができない時間またいかなる未来をも必要としていない時間〔「まことの未来」を包括している「まことの現在」として、自分の前に、全く「まことの未来」以外の未来を持たない時間〕人間の間でのまさにの純粋な現在〔「まことの現在」〕であるが故に純粋な現在の時間〔「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、そこに「まことの現在」があり、「まことの現在」に包括された「まことの過去」と「まことの未来」が存在するし、「神の言葉」がある「実在の成就された時間」〕のことを言おうとしている」。ほかの物語はすべて単にそれの賓辞でしかない主辞である甦りの歴史Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕新約聖書のすべてのほかの物語と教えの本来的な対象である出来事を言い表しているまさに甦りの歴史を通して用意されるあまりにも身近な歴史的困難さすべては、……新約聖書の証言がキリストについての証言として、すなわち人間的な語りとして、〔イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」、すなわち「神のその都度の自由な恵みの神的決断による」<客観的な>「存在的な<必然性>」とその主観的側面である主観的な「認識的な<必然性>」、換言すれば「啓示と信仰の出来事」を前提条件とするところの、客観的な「存在的な<ラチオ性>」とその主観的側面である主観的な「認識的な<ラチオ性>」を持っている〕その対象そのものと出会っている点に触れているということの中に、そこではすべてのことは、その対象自らが自ら語って来ることによってもってかかっている点に触れているということの中に、その根拠を持っている」――「ここでは、新約聖書そのものの中で、人間的な語りが口ごもってしまうということは何の不思議もない」。したがって、「甦りの歴史〔Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕が、マルコ福音書(一六・八)の報告によれば、墓が空であったという理解しがたい事実、およびその事実に直面して恐れとおののきが三人の女弟子の身を襲い、それで彼女たちは一言も語ることができなかったということから成り立っている歴史であるということは、意味のないことではない」。「この歴史Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕が語っていることはすべて、もちろんそれが述べられている際の具体性の中でそのまま聞かれ信じられることができるが、……実際にただ信じられることができるだけである〔すなわち、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、実際にただ啓示認識され啓示信仰されるだけである〕。何故ならば、それは、すべての範疇を、それと共にすべての表象性を超え出ているからである」。その純粋なの現在〔「まことの現在」〕への想起>、決して過去とはなり得ないまた全く自分の前に未来を持たない時間への想起>、この想起が明らかにそう欲しているような永遠の時間への想起新約聖書の証人たちがまさにその想起を持っているということ>、しかもただ単についでに持っているだけでなく、それこそがすべてのそのほかのことを基礎づけ結びつけている想起としてその想起を持っているということそれらのテキストの中でのそして直接的あるいは間接的に新約聖書のすべてのそのほかのテキストの中での顕著なまた見過ごしにしたり否定することのできない事実である新約聖書の証人たち自身が、その<想起>をさらに人に伝えて行く際ほとんど適当な言葉を見出せなかったし、決定的な箇所においては全く言葉を見出さなかったということに原因を遡ることのできるその困難さは、彼らの<想起>が<関わっている>ものが含みを持っている独一無比性、彼らが明らかに語り<たい>と<願った>し、そこで明らかに聞かれるべきであった事柄が持っている独一無比性を映し出している」。

 

 さて、<想起>は、過ぎ去った過去に属する事実としてのその出来事を思い起こすことである。しかし、新約聖書の中のイエスの甦りについての証言は過ぎ去ったところの特定の時間の中で起こった出来事を思い出す想起として示している「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、そこに「まことの過去」と「まことの未来」が存在するし「神の言葉」がある、「すでに起こった」「成就」され「完了」されたところの「まことの現在」としての「実在の成就された時間」であるそのイエスの甦りの場合は決して単に過去に属する出来事ではない(中略)そこで新約聖書の証言に従って起こったことはその本質に従えば、<もはやないということがあり得ない出来事であるちょうどそれがまだないということがあり得ないのと同じようにイエスの甦りについての証言は〔<もはやない>ということではあり得ないことからして〕決して過ぎ去り行くことに服していないし同時にまた〔<まだない>ということではあり得ないことからして〕いかなる生成も必要としていない存在のことを言おうとしているしかもそれでいてその存在はあくまでも想起の対象としての存在である」。したがって、「このことをかたくとってはなしてはならないとすればわれわれはこの想起の対象の独一無比性を確認すると同時にそれとしてのこの想起の対象そのものにも全くの独一無比性が含まれているということを確認しなければならないこの想起が属している範疇はまさに想起の対象が属している範疇と同じようにただ神の啓示だけを包含している範疇である神の啓示は〔イエス・キリストにおける神の自己啓示は〕甦りの歴史Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕と甦りの使信の可能性であるまさにここからしてこそ甦りの使信という例外は、……すなわち来たり給うたメシヤを思い起出す想起についての証言である新約聖書の証言は、<来たりつつあるキリストを待ち望む待望の証言である〔復活されたキリストの<再臨>、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」終末を<待望>する証言である〕」。「復活日を思い起こす想起の対象は、……あの四十日(使徒行伝一・三)の内容であるもしも人が新約聖書のキリスト論を絶望的な仕方で仮現論的な哲学に解消してしまうつもりがないならばその完了は〔詳しく言えば、われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、そこに「まことの現在」があり、「まことの現在」に包括された「まことの過去」と「まことの未来」が存在するし、「神の言葉」がある「実在の成就された時間」、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方(啓示・語り手の言葉・和解者としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、換言すれば「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉(「語り手の言葉」)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)――このイエス・キリストにおいて<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>は〕、少しも揺るがされてはならないまた、すべてのキリスト教的な宣教(説教と聖礼典)は、その宣教が、まさにその<完了>を、全力をあげて表現しているかどうかとうことに照らして計られているその〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」としての〕実在の成就された時間の想起同時にまたその同じ時間の待望でなければならない〔すなわち、イエス・キリストにおける「すでに起こった」<成就>され<完了>された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済「完成」、それ故にその包括的な救済概念と同一である「すでに起こった」<成就>され<完了>された究極的包括的総体的永遠的な平和完成待望>でなければならない〕」。その「キリストにあってわれわれのために起こったことをわれわれが聞くことによって、さらに将来われわれに関して起こるであろうことが未決であるということはあり得ない。言い換えれば、そのことが、われわれ人間の裁量とか能力に任せられているということはあり得ない」。「われわれはキリストにあってわれわれのために起こったことをわれわれが聞くことによってわれわれの身に起こるであろうことはまさにわれわれの主であるキリストにゆだねられているということを聞いたのである」。このような訳で、「〔「キリスト復活の四〇日」としての「実在の成就された時間」の<想起>についての証言である〕新約聖書が徹頭徹尾すでに起こった出来事を〔「キリスト復活の四〇日」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」の出来事を〕振り返り見ること〔<想起>すること〕によってこそその使信は〔成就の<待望>についての証言である〕旧約聖書を遥かに超えて徹頭徹尾〔その「キリスト復活の四〇日」としての「実在の成就された時間」の「完成」を<待望>するという仕方で〕終末論的に方向づけられ終末論的に意図された使信となるイエス・キリストは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(神の顕現)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、神の第二の存在の仕方における神の「<言葉>が肉、人間となった」ところの「この肉、人間」、神の第二の存在の仕方における<神の>言葉、「<永遠の>言葉」、「イエス・キリストの受肉」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の第二の存在の仕方における<神の>言葉の「受肉、それであるから、この肉、人間は、神の言葉であった」)ということからして、そして新約聖書が「キリスト復活の四〇日」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」を<想起>することによって、復活されたキリストの<再臨>、終末、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」を待ち望む<待望>についても語っていることからして、「その純粋な現在〔「まことの現在」〕の中での神がソノママまた来たりつつある神として啓示され信じられ知られるのである。新約聖書がすでに来た神について語ることによって、新約聖書は『生ける人と死にたる人を裁くために、再び来たり給うであろう』方について語っている」。「新約聖書の信仰が、厳格に、聖金曜日に起こった出来事に向けられていることによって、その新約聖書の信仰は、本当にすべての日の終わりにあるであろうこと、終わりに力を奮うであろうことを待ち望む希望である。新約聖書の信仰が、エルサレムの城門の前で、紀元三十年頃一度、一度ですべてにわたって力を奮う仕方で起こった義認を受け取ることによって、この信仰は、……〔第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示は、裁き〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕であることによって、恵み〔「神の恵みの啓示」、福音、生〕である」ことからして、〕神の裁きの中での義認を待ち望む」。われわれはキリストは甦り給うたしかも肉体を持って甦り給うたと告白することによってわれわれはまた将来における〔終末、復活されたキリストの<再臨>、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」における〕われわれ自身の甦りを告白しなければならない万一われわれが何らかの理由で〔例えば、近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠することによって、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的キリスト教神学に依拠することによって、〕そのことを告白しないならば、そのことは、Ⅰコリント一五・一三によれば、キリストの甦りを否定するのと同じ意味を持つであろう。もしも新約聖書の証言の中での<想起>がまさにまた<待望>にもなるのではないとするならば、換言すれば新約聖書にとってその証言が由来してくるところの第一のもの〔「キリスト復活の四〇日」、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>>〕が同時にまた、最後のものでないならば〔終末、復活されたキリストの<再臨>、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」でないならば〕、その時には、新約聖書は、一個のエビオン主義的な伝承でしかないことになる……。事実そのように理解されるということはしばしば起こったことであるが、しかし、実際の新約聖書は一致してすでに来た方はまたこれから来たり給う方であることを語っているもしも新約聖書がまさに決定的に完遂された神的啓示と善き業の証言として同時にまた希望の証言として読まれないならば実際の新約聖書は一行たりとも正しく理解されることはできない……。<終末論的でない仕方で>意味し語ろうとしている甦りの歴史〔Geschichte史実的に確かめられるHistorie史実史としてのそれではなく、Geschichte出来事史としてのそれ〕と甦りの使信というアルキメデスの点に照らして計るならば、新約聖書はあるがままの状態と内容において徹頭徹尾終末論的に語ろうとしているまさにそのことの中でこそ新約聖書はただ全く旧約聖書の傍らに歩み寄るのであってすでにイスラエルが生きたところの待望についての鋭く明らかとなった使信でしかないここのところからして、人は、……何故キリストの教会が、自分のことを直ちに会堂の正当な相続人として認識しなければならなかったかということを、特別によく理解する。旧約聖書を教会の正典の中に取り入れるに当たっては、実際、ただ単にキリストは遠い昔の待望の預言の成就であるという確かに歓迎されるべき確認をすることが問題であるばかりでなく、待望と預言〔旧約聖書〕は、まさにキリストの出現に基づいてこそ、キリストの教会が生きたところの要素なのであり、<それだからこそ>、キリストの教会は、自明性をもって待望と預言の書物〔旧約聖書〕を自分のものとして読み主張しなければならなかった」。キリストの中にすべての救いの満ち溢れが現臨しているがそれはまさにキリストの中に現臨しているのであってすなわちキリストが与え給うという行為を離れてそのままわれわれのものであるような救いとしてではない救いの満ちれはコロサイ三三によれば希望ノ中ニ隠サレテイル確かに信仰は不断に死カラ生命ニ移サレルことであるまさにそれだからこそⅠヨハネ三二によればそれはいまだ目標に到達していない」――「聖書によれば、聖霊は、われわれ人間の救済主である。しかし、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第三の存在の仕方、すなわち「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者としての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、神的愛に基づく父と子の交わりとしての〕聖霊は、救済主であるだけではなく、子とともに、子の霊として、また和解者でもあり、また父および子とともに創造主なる神でもある。新約聖書のイエスは主であるという証言は、神性を内在的本質とするイエス・キリストを、事実の承認として思惟の初めとして語っている」。したがって、「イエスは主である、子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰、神との出会いであるイエスとの出会い、信仰の出来事は、聖霊の注ぎによる。この信仰の出来事は、新約聖書において、啓示の出来事の中での主観的側面、聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事である」。「救済を信仰の中で持つことは、約束として持つことである。われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる。この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する。この信仰の確実性は、希望の確実性である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である聖霊を受け、満たされた人は、召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時、<すでに>と<いまだ>において終末論的に語る。ここで、終末論的とは、われわれの経験と感性にとっての〔すなわち、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての〕<いまだ>であり、〔神の側の真実としてある〕成就と執行、永遠的実在として<すでに>ということである」。

 

 新約聖書の信仰は事実繰り返しキリストとわれわれ自身が一つでありつつしかも区別されることの中で遂行されるキリストの信仰の継続ではないましてやキリストご自身の現実存在の一種の延長といったものではない。そうではなくて、新約聖書の信仰はキリスト信じる信仰である」。すなわち、それは、次のようなキリスト<を>信じる信仰である――人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ということからして、また「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)ということからして、<先行する神の用意>に包摂された<後続する人間の用意>ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である、「自己自身である神」としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事〕に向かっての人間の用意が存在する」、すなわち「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」ということからして、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づくイエス・キリスト信じる信仰である――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子<>信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「目的格的属格」(「イエス・キリスト<>信じる信仰」)として理解された信仰に由って生きるのではなく〕、神の子<>信じ給うことに由って生きるのだということである〔すなわち、ローマ322、ガラテヤ216等のギリシャ語原典「イエス・キリスト<>信仰」の属格を「主格的属格」として理解された信仰、まさに徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解された「イエス・キリスト<>信ずる信仰」に由って生きるのだということである〕)』(ガラテヤ二・一九以下)。〔それ故に、〕(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいるしかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではないそのことが現実であるのはただわれわれのために人として生まれわれわれのために死にわれわれのために甦り給う主イエス・キリストが彼にとってもその主でありその避け所でありその城でありその神であるということにおいてのみである」(このことが、「『福音と律法』の<現実性>における勝利の福音の内容」)。すなわち、「人間の人間的存在が〔生来的な自然的な〕われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰〔、「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上での個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)闇のこの世」〕以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。「実在の成就された時間であるキリスト復活の四〇日その想起の時間〔その「キリスト復活の四〇日」、「実在の成就された時間」を<想起>する新約聖書の時間〕である使徒の時代とは二つの違ったものである。使徒とその境界とが、聖霊降臨日の後、直接、復活日のあの直接的な神の現臨の中で生きると考えたというようなことは、全くあり得ないことである。啓示は、キリストと同一であり続けるし、キリストは、たとえ〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて贈り与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識(啓示信仰)、人間的主観に実現された神の恵みの出来事において、〕キリスト者の中で生き給い、キリスト者もキリストの中で生きるとしても、キリストは、あくまでもキリスト教信仰の<対象>であり続ける。キリスト教信仰が持つ真剣さおよびその自由へと開放する力は、……自分自身とは違った、自分に相対して立ち給う他者としての一人の主を持っているということによってもってかかっている。キリストが、われわれの<中で>あり給うところのもの、そのものでキリストは、われわれの<ために>、それであるから、われわれとは違うその区別の中であり給う」――イエス・キリストのその「生涯と受難および復活の出来事」は、「われわれ人間からは、何ら応答を期待せず、また実際に応答を見出さずとも、神であることを廃めずに、何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり、破れた姿の人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように、しかも〔「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという方式の下で、〕混淆〔、混合、神人協力〕されぬように、統一し給うた」ということを内容としている。「このことにこそ、ほかならぬ新約聖書の信仰の終末論的方向を通して保証されていることである」。信仰は〔「実在の成就された時間」としての復活されたキリストの<再臨>、終末、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」を待ち望む終末論的信仰において、〕キリストを待ち望むことによってキリストを持つ」。このような訳で、「キリストを待ち望む希望の中でキリスト教信仰は自分を基礎づける召命を持つのであり義認を持つのであり聖化を持つのであり神の子供であるという隠された姿の保証としての霊を持つのであり現在における患難と試練のただ中で神との平和を持つのであるそれらすべてはあくまでもキリストの中に含まれているのであってキリストを信じる信仰の中で〔すなわち、「キリスト復活の四〇日、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの過去」としての「実在の成就された時間」、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>を<想起>するというキリストを信じる信仰の中で〕それであるからキリストを待ち望む待望の中で〔すなわち、「実在の成就された時間」としての復活されたキリストの<再臨>、終末、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」を<待望>するという終末論的信仰におけるキリストを待ち望む<待望>の中で〕われわれのものである」。まさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における第二の存在の仕方〕、イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた神は〔換言すれば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の神」は〕、ご自身を把握できるものとし給うたしかしそのことは、「決して直接的にではなく、<間接的にである、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界(Ⅰコリント138以下)の下で贈り与えられる「信仰に対してである、「その本質の中においてではなく、<しるしの中においてであるそのようにとにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の第二の存在の仕方、この第二の存在の仕方における神の「<言葉が肉となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである」、換言すれば<それ>は、類的機能を持つ自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としての「存在者」(人間の意味世界・物語世界・神話世界)では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の第二の存在の仕方、この第二の存在の仕方における神の「<言葉の受肉としての<「存在者」>である〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエスキリストの<名>」である〕」――この「<最初の起源的な支配的なしるしに基づいて」、その「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)、その最初の直接的な第一の啓示のしるし>」が存在する、そして「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるし〔すなわち、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoとしての第三の形態の神の言葉〕が存在するし、詳しく言えば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」、客観的な「存在的な<ラチオ性>」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)が存在する。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」――このイエスキリストと地上における可視的なみ国が客観的に存在している」、そしてこれこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性であるところのキリストは常に戸の前に立っておられ戸を叩いている方であり、〔それ故に〕信仰は常にその中で人間がそのキリストに向かって中に入り給えと戸を開くところの決断でありこの決断が下されることによってその人間はキリストをキリストが現にありもたらし給うすべてのものを持つのである」。したがって、例えば、平和についても、バルトは、『平和に関するバルトの書簡』で、次のように述べている――神の側の真実としてのみあるローマ書322、ガラテヤ216等の主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリスト<の>信仰」(イエス・キリスト信ずる信仰)、「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>、そしてこの包括的な<救済>概念は<平和>の概念と同一であることからして、「この世の神との和解、人間相互間の和解を直接その内に包含している和解である」。神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行、永遠的な実在」としてある「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに成就され完了され、死人からの復活においてすでに啓示されているような、和解である」。したがって、「われわれによって初めて成就され完了されなければならないような和解ではなく、神ご自身によって確立された成就され完了された和解である」。「イエス・キリストにおいては神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的なのであり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである」。「イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史〔人間の類の時間性、人類史、歴史〕のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性である」。「この贈り物はただわれわれがこれを受けとることを待っている」。したがって、「われわれがこの事実に向かって眼と耳を閉ざして生きているということが悲惨なのである」。また、「そうした中でわれわれが平和は戦争より善いものであるということを繰り返し断言せねばならないとしても、戦争の元凶である民族国家が現存する限り、そしてその民族国家を前提して思惟し語り行動している限り、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさないことは明白である」。何故ならば、現存する世界は、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いており、自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な国軍(軍隊組織)を持つ戦争の元凶である民族国家が存在しているにも拘らず、その戦争の元凶である民族国家を前提として研究し思惟し語り行動している大学知識人、一般知識人、その集団や組織、メディア、それらの知識や主張から対象的になって距離を取り得ていない人々は、ちょうど形而上学的な木を見て森を見ないという仕方で、すなわちその一面だけを拡大鏡にかけて全体化するという仕方で、個の世界、対・性(一対の男女、その性の共同性としての家族)の世界、共同性の世界という人間存在の総体性の問題およびその関係と構造の問題、また知識人であれ、善人であれ、宗教関係者であれ、教育関係者であれ、医療関係者であれ、平和主義者や慈善活動家やエコロジストであれ、誰であれ、<現実的な>戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避的な<契機>さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を精神的肉体的に傷つけ得るしあるいは殺し得るという意識的な<還相的な>究極的包括的総体的永続的<観点>を持たないで、ただ自然的な<往相的な>過渡的緊急的部分的相対的<観点>(「自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識」の観点)だけに偏向させて思惟し語る問題、また人間はただ理性的にだけ生きてはおらず、ある自己資質、喜怒哀楽の感情、情念の世界、太宰治の『駆け込み訴え』や宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にもある嫉妬の世界も生きているということを認識し自覚しない問題、また人間はただ意志的にだけ生きることはできず、ある不可避的な歴史的現存性の中に生誕しその時代と現実にも強いられてしか生きることはできないという観点を持たない問題、それらの「問題を明確に提起する」ことをしないように、民族国家を無化する「問題を明確に提起」していないが故に、常に戦争の可能性があるからである。したがって、バルトは、人が、そのような世界、そのような時代と現実に強いられて現存し思惟し語り行動しなければならない限り、次のようにも述べている――「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならないが、しかし、このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしないしたがって、われわれは最後の手段のために、〔戦争の元凶である民族国家が現存する限り、〕戦争の可能性はあけておかなければならない」、そして実際にバルトは、終末論的信仰における「み国を来たらせ給え」(主の祈り)という祈りの中には、人間が構成する経済的側面における尖端的な資本主義国家を含めて、政治的な<擬制>民主主義に過ぎない普通選挙制度を介した議会制民主主義に基づく国民国家・自由主義国家・近代主義国家を含めてどのような形態の国家であれ、観念の共同性を本質とするすべての国家は無化されなければならないという内容も含んでいるのであるから、あくまでも過渡的緊急的相対的評価において、自由および直接民主制と武装永世中立の「スイスをナチズムからまもるために私は軍隊に参加し、両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛するために、もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」、「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要な〔第三の形態の神の言葉に属する〕キリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」(『バルトとの対話』)、と。したがってまた、「世界が必要としている革命的認識は、世界はイエス・キリストにおける神の愛〔子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉〕によってすでに解放された世界である」ことに感謝をもって信頼し固執し固着して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、と。

 

そのような訳で、第三の形態の神の言葉である「キリスト教会〔すべての成員〕の責務」、「キリスト者とキリスト教会の責務」は、先ず以ては、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し、具体的には「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書(教会に宣教を義務づけている「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、聖書に対する他律的服従とそのことへの決断と態度という自律的服従との全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」(教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、教会教義学の問題に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、それ故に一般的倫理学の問題ではない――すなわち、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が〔全世界としての〕教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわちすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に>所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという連関と循環においてイエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活ける(『教会――活ける主の活ける教団』井上良雄)ヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指すという点にある〔「キリスト復活の四〇日」、「実在の成就された時間」を<想起>する想起の時間、<成就の時間〔「キリスト復活の四〇日」、「実在の成就された時間」〕ではないしかし、<想起の時間〔<実在の成就された時間>としての〕甦られた方を思い出す想起の時間として必然的に甦られた方を待ち望む待望の時間〔「実在の成就された時間」としての復活されたキリストの<再臨>、終末、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」を待ち望む<待望の時間>〕でありそのようにしてそれは成就された時間に参与するよく理解せよここでわれわれは新約聖書の信仰はそれが〔イエス・キリストにおける「啓示自身が……啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>を持っているその〕キリストに希望を置いていることによって>、キリストを持つと言っているのであってそれが〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使することによって対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)としてのキリスト、その〕キリストに希望を置いているが故に>、キリストを持つと言っているのではない」。後者の在り方に対してハイデッガーは、「『今日まさにこのマールブルク〔ブルトマン、ブルトマン学派〕では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神〔すなわち、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟を駆使して対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)レベルでの神〕への信仰は、結局のところ〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての〕神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)、と客観的な正当性と妥当性をもって根本的包括的に原理的に「揶揄」し批判している。したがって、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――「ステパノを証人とするのは、〔「<恵み>から語り、恵み<について>語る」〕彼の<言葉>であって、かれの苦難(最後的には、殉教)ではない。私は異教徒に対してもイエスキリストがその中にいるということを信じることによってのみ〔異教徒、不信者、非知者も、イエス・キリストとの連続性の中にいるということを信じることによってのみ〕、呼びかけることができる私がその人をその中に置くことによってではなく、〔徹頭徹尾〕イエスキリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってであるしたがって私にとっては人間そのもののためになされる努力はすべて空しいものとなるのであるわれわれは、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、すべて人々は、イエス・キリストとの連続性の中にあるということからして、〕キリストにあるものとしての人間のために努力し得るにすぎないそしてその場合結びつきということは何ら必要ではない何故なら結びつきは、〔すでにイエス・キリストとの連続性の中にあるということからして、〕すでに起こっているのだからであるそして、<そのような結びつきを想起せしめるということそれがキリスト教の証人の任務である」。また、「新約聖書の信仰は、神がご自分を啓示され<た>し、世界をご自分と和解させ給うたし、〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕信じる者は召され、すでに義とされ、すでにきよめられ<た>し、すでに神の子供で<あり>、神との平和を<得ている>ことを認識するが故にのみ、キリストに希望を置くことができる」。この〔「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「実在の成就された時間」を思い起こす〕<想起における信仰は、〔「実在の成就された時間」としての〕復活されたキリストの再臨>〔、終末、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」を<待望>することなしに、「『見よわたしはすぐに来るという約束をつかむことなしに、『アーメン主イエスよ来たりませと祈願すること(黙示録二二・二〇)なしになされることはない、……すでに据えられた土台イエス・キリスト〕の上でこそ打ち立てられる希望という在り方希望という様式の中以外には決して打ち立てられることはできない(Ⅰコリント311)。まさに、実際にキリストによって捕らえられたものこそが、前のものに向かって手を伸ばす(ピリピ三・一三)以外の選択を持たない。まさにそのようにしてこそ、その都度のキリスト教的現在は、それが<想起>するところの成就された時間〔「キリスト復活の四〇日」〕に与るのであり、……キリストの言葉の下に立つのである。すべてのことは、それが、実際にキリストの言葉として聞かれ得るものにすること、……そのようなものとして実際に聞かれるようになることによってもってかかっている。見よわたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』(マタイ二八・二〇)」。

 

「新約聖書の中での待望に関して旧約聖書の中での待望に相対して起こってきた変化は新約聖書の証言が語っている来たりつつあるキリストはすでに来た方として、<想起の対象であるということである〔すなわち、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての実在の成就された時間としての復活されたキリストの再臨>」終末、「完成」、すなわち、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」待ち望む<待望>を持つ<想起>の対象であるということである〕」――このことを、「人は、もっとも旧約聖書の中での<待望>は、まさに新約聖書の中での証言に従ってこそ、すでに来た方以外のほかの方のことを言おうとしているわけではないのであるが、旧約聖書の中で<待望>されているメシアについては言うことはできない。新約聖書の中での待望旧約聖書の中での待望とは違って具体的にははっきりと言葉に出して誰のことを待ち望んでいるかを知っている〔言い換えれば、新約聖書の中での<待望>は、「実在の成就された時間」としての「復活されたキリストの<再臨>」、終末、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」を<待望>するそれである〕。新約聖書の中での<待望>は、その栄光を、新約聖書の証人たちが見たところの肉の中に入れられた言葉を思い出す一八〇度回転させられた<想起>以外の何ものでもない。それは、新約聖書の中での<待望>が待ち望んでいるキリスト〔「実在の成就された時間」としての復活されたキリスト〕が、新約聖書の中での<待望>がすでにまことの神およびまことの人間として知っており、その方からすでに新約聖書の中での<待望>そのものが由来しているところの方以外の方ではないのと同様である。キリストが将来来たり給うということは実際にただ〔復活された〕キリストの再臨>〔、終末、「完成」、すなわち<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>の「完成」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>の「完成」でしかない」――このことは、「確かに変化を意味しているが、しかし、その変化は、その証言が終末論的に方向づけられているその方向づけが少しでも弱められるということを意味しない」。「旧約聖書の中での希望が新約聖書の中での希望に対してまさに新約聖書の中での希望に固有な具体性と明瞭さの故に両方の問いと答えを正しくするところの方は換言すれば預言者が使徒と共にまた使徒が預言者と共に希望していたように、<来たり給うことによって両方の問いを正しくするところの方は彼らがその僕として〔聖書の中で〕証している主イエスキリストである」。「時間の問題という観点の下で、洗礼者ヨハネの説教についての報告は、四福音書のいずれにいても、その記述の始まりを形成している。まさにイエスと同時代人である洗礼者ヨハネが果たした機能は、いずれにしても、共観福音書記者によれば、ほとんど全くと言ってよいほど〔「まことの現在」に包括された「まことの過去」として〕旧約聖書的である。彼は、告訴し、悔い改めを説教し、近づいた<裁き>を宣べ伝える。彼は、マタイ二一・三二で特徴的に言われているように、義の道〔「神の裁きの啓示」、律法、死〕を説きつつ来るのである。彼は、最も厳格に服従しつつ、自分が区別されていることを知っていたメシヤの来臨を約束する(マルコ一・七以下およびその平行記事、ヨハネ一・六以下、一五以下、一九以下)。それであるから、彼は、正しくも預言者と看做される(マタイ二一・二六)」、「福音書記者たちは、一致して、洗礼者ヨハネのことを、主の道を具えるために、主の前に先立ち行く使者、呼ばわる者の声と呼んでいる(マルコ一・二以下、およびその平行記事)」。しかし、「この記述の線は、くすしき仕方で、もう一つ別な線と交差している。イエスは、洗礼者ヨハネのことを、預言者よりも大いなるもの者と呼び給う(マタイ一一・九)。また、ヨハネ一・二〇以下によれば、彼は、ただ単にキリストであると主張していないだけでなく、自分はメシヤの先駆者たちのあの独立した秩序には属していないと主張する――わたしはエリヤではない、預言者でもない、……『呼ばわる者の声』であり、明らかに特定の点で旧約聖書的意味とは全く別な『証人』である。マタイ三・一三以下によれば、彼は、イエスに洗礼を施すことを潔しとせず、イエスから洗礼を受けることを望んだことによって、またヨハネ一・三二によれば、聖霊がイエスに降るのを目撃した証人であることによって、彼は、単にイエスを待ち望んでいた人々の群れから抜きん出ている。この線を、大変強く精力的に強調して述べているのは、特にヨハネ福音書である。ここでも、洗礼者ヨハネは、将来を指し示すものである。『わたしのあとに来る方は、わたしよりもすぐれた方である。わたしよりも先におられたからである』(ヨハネ一・一五、二七、三〇)。洗礼者ヨハネは、大変強調しつつ、『わたしはこの方を知らなかった』(ヨハネ一・三一、三三)。しかし、この同じ「洗礼者ヨハネが、今や実際にキリストを知っているのである。イエスのことを、すでに来たり給うた方として指し示している、『見よ、神の小羊』(ヨハネ一・二九、三六。同じ洗礼者ヨハネは、ヨハネ一・一五以下によれば、まぎれもなく、肉となった言葉をすでに見た者の一人のように語っている、ヨハネ三・二七以下において、『イスラエルの教師』であるニコデモに対して、あたかも彼自身がすでに使徒であるかのように対立している」。「最後に、旧約聖書的な洗礼者ヨハネがすでに教会の礼典であり教会の礼典であり続ける水による洗礼の礼典を施していない彼は聖霊でもって洗礼を施すことはできないこのことは使徒たちもできないことであるそのことができる方は主イエスキリストだけである以前の証人と以後の証人の間の区別は、まさにヨハネの人格の中で現れている。その区別は、隠れたままであり続けないのであるが、同時に、それは、無効にさせられ妥当性を失っている。トコロデ、律法ト福音トノ間ニヨハネガ立ッテイテ、仲介ノ役割ヲ果タシ、両方ニ関連ヲ持ッテイル(カルヴァン)。預言者の準備は洗礼者ヨハネの中で使徒の感謝となる、また洗礼者ヨハネにおいて、使徒の感謝が預言者の準備の中で再認識される……」。このような訳で、「洗礼者ヨハネも、旧約と新約の間に置かれている。それは、人々を、天国へと導き、地獄を取り除くためである。何故ならば、洗礼者ヨハネの声は、文字を生かし、聖書に霊をもたらし、律法と福音を共々導き入れたからである」、「……一方は地獄へ導き、他方は天井へと導き、一方は殺し、他方は生かし、一方は傷つけ、他方はいやすからである。すなわち、彼は、両方のもの、律法と福音、死と祝福、文字と霊、罪と義を宣べ伝えるからである(ルター)」。このような訳で、「もしも人が新約聖書の中で証しされている想起の対象と旧約聖書の中で証しされている待望の対象とを切り離そうとするならばそれであるからそれらの対象からしてそのうちの一方を他方を通して説明する代わりにそもそも新約聖書の中で証しされている「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」を思い起こす想起旧約聖書の中で証しされている「キリスト復活の四〇日」、「キリスト復活四〇日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」を待ち望む〕<待望を分離してしまおうと欲するならばすべてのほかのことを度外視するとしても先ず洗礼者ヨハネを新約聖書の証言から削除してしまわなければならなくなる」。

(文責:豊田忠義)