3の2.カール・バルト『教会教義学 神の言葉Ⅱ 神の啓示> 言葉の受肉新約聖書の中で聞くことのできる最後の言葉、イエス・キリストの<名>」 十五節 啓示の秘義 二 まことの神にしてまことの人間「啓示の秘義としてのイエス・キリストは<まことの神にしてまことの人間である>というキリストの両性」(「イエス・キリストは<人となり>死んで甦り給うたという<復活の力>、<神の>勝利の行為による<和解の言葉>である」』について(その1

 

 われわれは啓示の秘義としてのまことの神にしてまことの人間であるという命題を、『<イエスキリストは誰であるか>』という問いに対する答えとして理解する」、と同時にまた、「この命題をヨハネ一一四の言葉は肉〔、人間〕となったという新約聖書の中心的な命題を言い換えたものとして理解するまさにイエスキリストは、<先ず以て>「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神である(それ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「ご自身の中での神」における「神の自由の概念の積極的側面」を、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中で見ている)、<それからまたわれわれのための神としてのその外に向かっての外在的な失われない差異性の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)におけるところの詳しく言えば神の起源的な第一の存在の仕方である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としてのイエスキリストの父神の第二の存在の仕方である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子としてのイエスキリスト自身神の第三の存在の仕方である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)・「救済者」としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体におけるところのその神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神であるまことの神(換言すれば、「神の顕現」、「キリストの永遠のまことの神性」、「<永遠の>言葉」、換言すればその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」は、「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を<内在的本質>とする<神の>言葉の「受肉、この肉、人間であるから、<神の>言葉であった、<永遠の>言葉であった」)にしてのまことの人間(換言すれば、「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その内在的本質である神性の受肉ではなくその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の言葉の受肉>、この肉、人間である」、換言すれば神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の言葉が<肉>となったところの神の言葉の<受肉、この肉、人間>である」、すなわち「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエスキリストの」、「イエスキリストの人間性の現実存在」)である(それ故に、「神についての聖書的な証言」は、その「われわれのための神」における「神の自由の概念の消極的側面」を、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」の中で見ている)、それ故にバルトは神の人間性において、「<神の神性において>、また神の神性と共にただちにまた神の人間性われわれに出会う」と述べ、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも決してそれを理解しないであろう」と述べている、それ故にまた「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>(『ローマ書』)が堅持されなければならない)。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉は肉〔、人間〕となってわたしたちの間に宿られた。……」というヨハネ一一四はいささかの制限もなしに神の本質と存在に与り給う神的な創造主和解主救済主なる言葉、〔「三位一体の神」としての〕神の永遠のみ子である」。何故ならばこのみ子、「自己自身である神」としての「三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神「根源」・「起源」としての「<父>」が「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるしの「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し、「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からであるこのような訳でⅠコリント310-11およびエフェソ214以下からして、「この〔すなわち、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書、この〕新約聖書の命題を手がかりにして、<まことの神にしてまことの人間であるイエスキリストという教義学的な命題〔すなわち、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である教会の宣教(説教と聖礼典)における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての教義学的な命題〕は論じられなければならない……」。

 

 まさにイエスキリストは、<先ず以て>「自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神であり、<それからまた>「われわれのための神としてのその外に向かっの外在的な失われない差異性の中での三度別様な神の三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、<外在的本質>)における神の第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神であるまことの神(「神の顕現」、「キリストの永遠のまことの神性」、「<永遠の>言葉」、換言すればその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする<神の>言葉の「受肉、この肉、人間であるから、<神の>言葉であった、<永遠の>言葉であった」)にしてのまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、その内在的本質である神性の受肉ではなく、その外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間である」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉が<肉>となったところの<受肉、この肉、人間>である」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)である。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉は肉〔、人間〕となってわたしたちの間に宿られた。……」というヨハネ一一四はいささかの制限もなしに神の本質と存在に与り給う神的な創造主和解主救済主なる言葉、〔「三位一体の神」としての〕神の永遠のみ子である」。何故ならばこのみ子、「自己自身である神」としての「三位相互内在性>」における失われない単一性」・神性永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神「根源」・「起源」としての「<父>」が「<子>として自分を自分から区別した」<子>であるからであるしの「根源」・「起源」としての「神は、<子>の中で創造主として、われわれの<父>として自己啓示する」から、「<父>だけが創造主なのではなく、<子>と神的愛に基づく父と子の交わりとしての<聖霊>も創造主である」し「<父>も創造主であるばかりでなく、<子>に関わる和解主であり、<聖霊>に関わる救済主でもある」からである。このような訳で、ヨハネ一一四において語られている言葉はヨハネ一一二の文脈によれば確かに……その〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉自身が神であったのでありそれを通してすべてのものが造られまた啓示の光として人間の闇の中に輝く生命の総内容としての言葉であるその光はヨハネではないその光はヨハネの証言の対象であり、……人々を神の子とならせる力を持っている〔何故ならば、「教会の<客観的な>信仰告白および教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである」ということからして、また神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉を与える主は同時に信仰を与える主である」ということからして、その言葉は、人々に対して、神のその都度の自由な恵みの神的決断による「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて、「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」を贈り与えるからである(『教会教義学 神の言葉』、『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)〕」。したがって、「神の子となるということは、……人間が自分でなりたいからとか、自分でなる力があるからなるというのではなく、ただ全くその光自身の力でありその栄光は父のひとり子としての栄光であってその証人たちはただその満ち満ちているものの中から〔神のその都度の自由な恵みの神的決断による〕恵みを受けることができるだけである言葉が神であるからほかのすべてのものにとっては目に見えない方〔何故ならば、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在しているからである、徹頭徹尾「存在者」となることはないからである〕を宣べ伝えるのはご自身ひとり子の神である言葉が父のふところにい給うが故に神を宣べ伝えることができるからである」。

 

 そのような訳で言葉は換言すればヨハネ一一八によれば言葉と同一であるところのイエス・キリストは、『まことの神であり給う。『まことの神とは一人の・唯一の・本来的な永遠の神〔すなわち、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」〕のことであるそして、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の受肉、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的存在」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」は、それとしての神性それ自体ではなく〔すなわち〕言うまでもなく〔「ナザレのイエスという人間の歴史的存在」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」、「真に罪なき、従順なお方」『まことの人間』において、〕そもそも神性それ自体が存在するのではなく〔「ひとりの・唯一の・本来的な永遠の」〕神が聖霊の存在の仕方の中で存在し給う〔すなわち、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)の中で存在し給う〕神のあるいは神の言葉が肉〔すなわち、その内在的本質である<神性の受肉>ではなく、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間〕となり給うたのであるしかも父の神性そして聖霊の神性でもあるところの満ち満ちた神性の中での神の、〔その内在的本質である<神性の受肉>ではなく、その外在的本質である「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>」において、人間、〕肉となり給うたのである」。われわれはここで、「われわれが取り組まなければならないであろうすべての謎と謎の解答の源泉であり根であるところのもの」、「キリスト論の本来的な対象である〔「キリストの両性」、「イエス・キリストはまことの神にしてまことの人間である」という〕啓示の秘義そのものと直ちに触れることになる」。われわれは、「イエスキリストが誰であるかということを語ろうとする時には、……すべての個々の命題の中で、……妥協を許さぬ厳格な意味で、……〔教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoである三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書のヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことであるが、その〕天と地のなる方について語らなければならないその方をして力を奮わしめなければならない」。言い換えれば、「天と地とまた人間を何も必要とされたわけではなかったしいまも必要とされないが〔何故ならば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「自己自身である神」としてご自分の中で自在しているから〕、それでいて天と地とまた人間を自由な愛からご自分の適意に従って〔ご自分のみ心のままに〕創造され人間を人間がそれに値したからではなくただ全くご自分のあわれみの故に、〔人間が全自然との相互規定的な対象的活動を行うという、人間の自己意識・理性・思惟が類的機能を持っているという、人間の感性力・悟性力・意志力・想像力・構想力という、そういう〕人間の能力の故にではなくご自分の奇蹟〔「啓示の秘義の<しるし>」としての「イエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕の力によって引き受け給う主、〔存在的にも認識的にも、内在的にも外在的にも〕そのすべての行為において完全であり不変でありあらゆる混同や拘束から自由でありつつご自分であり〔何故ならば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は、先ず以て「自己自身である神」としての「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」として、「神の自由の概念の積極的側面」、自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」の中で存在し給うし、それからまた「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における「神の自由の概念の消極的側面」、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」の中で存在し給うからである)〕、ご自身であり続け給う主世にあってのそして人間に対するそのみ業の中でいささかも神であることを止め給わない方ご自身の栄光をほかのものに与えることなくまさにそのようにしてこそ創造主和解主救済主として真に愛し仕える一人の神であり給う方〔「神の顕現」〕、『心ひくく柔和であり最も深い隠れ〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕の中で地上を歩まれる時にこそ王の王であり給う方について語らなければならないその方をして力を奮わしめなければならない」。「すべての側に向かってすべてのそこで現れてくることに対してこの方〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕イエスキリストこそがはじめに神と共にあり給うた(ヨハネ一)しかもこの言明がヨハネ一一八に従って確かに意味している通りの明瞭な意味においてはじめに神と共にあり給うたということを真剣ならしめることだけが問題なのである――この真理〔すなわち、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理〕とそれの認識が含みを持っている影響の及ぶ範囲は、〔第三の形態の神の言葉である〕キリスト教の宣教全体に及んでいると同時にそれはまた、〔教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」としての) 教会教義学全体にまで及んでいる」。したがって、「三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事」である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)からしてキリスト論が特にその真理と認識をして力を奮わしめている時、……キリスト論は同心円の中心的な円として、……同じ中心を持ったそのほかの多くの円の中ではその中心的な内側の円が繰り返されておりまたその真理と認識が同様に力を奮い記述されている〔「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」〕」。「われわれはさし当って先ず、……この〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における詳しく言えば「起源的な第一の存在の仕方」である「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての<イエス・キリストの父>、「第二の存在の仕方」である「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての<子としてのイエス・キリスト自身>、「第三の存在の仕方」である「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)・「救済者」としての<神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊>なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)における神の第二の存在の仕方」――この神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の受肉>、この肉、人間」としての〕肉となった言葉〔子としてのイエス・キリスト自身〕実際に〔「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」(「起源」)である「父が、子として自分を自分から区別した」<子>であるということからして、神性を内在的本質とする〕永遠の父〔「言葉の語り手」〕の永遠の言葉〔「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)〕であるということをそれとして説明し確立すべきいくつかの確認をなすことでもって論述を始める」。したがって、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「第一の問題としての神の存在の問題」(「神の存在を問う問い」)――すなわち、聖書の中で証しされているイエス・キリストにおける神の自己「啓示に基づいて神について語る時には換言すれば「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)である聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体について語る時には同時に、その「第一の問題」に包括された第二の問題としての神の本質の問題」(「神の本質を問う問い」)――すなわち、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその「神の本質について語るのである」。何故ならば、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」であるイエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)であるからである。したがって、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人」における「(中略)神の啓示の内容は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟としての〕人間的理性や人間的欲求やによって規定された神〔すなわち、「存在者レベルでの神」〕から発生した〔例えば、ハイデッガー自身が、前期ハイデッガーの哲学原理(人間学的原理)に依拠したブルトマン神学における神は、類的機能を持つブルトマンの自由な自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化されたブルトマン自身の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)としての「存在者レベルでの神」に過ぎないから、その「存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ」、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神を失うことではなかろうか」と客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に批判している(木田元『ハイデッガーの思想』)〕……。(中略)〔このような訳で、〕……この対象に即してもまた、その『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。「まさに〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における、すなわち〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた神は〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の神」は〕、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかしそのことは、「決して直接的にではなく、<間接的にである」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその内在的本質である神性が肉となったのではなく、「われわれのための神」としてのその外に向かっての外在的な第二の存在の仕方における神の言葉が肉となった――これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである」、換言すればそれは、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟としての人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間的自然人間の観念的生産物としての人間の意味世界・物語世界・神話世界(「存在者」)では決してなく徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――この神の「第二の存在の仕方」における神の言葉の受肉>、この肉人間としての<「存在者」>〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態としてのイエス・キリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在」〕であるこの「<最初の起源的な支配的なしるしに基づいてそのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て啓示ないし和解の実在そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的なしるし>」)であるまことの神にしてまことの人間イエスキリスト自身>を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」(すなわち、「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)としての第二の形態の神の言葉である聖書>が「啓示との間接的同一性」(啓示との区別を包括した同一性)においてその最初の直接的な第一の啓示のしるし>」として客観的可視的に存在しているそれから「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉であるただイエス・キリストをのみ主・頭とする<イエス・キリストの教会の宣教>が<「啓示のしるし>」しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)――このイエスキリストと地上における可視的なみ国が客観的に存在している。「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である

 

 「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」のその神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――この神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」としての「言葉が肉となったという命題において〔<神の>〕言葉が主語である〔肉、人間が主語ではない〕したがって〔神の〕言葉に対して何かが身に及ぶのではなく〔<神の>〕言葉が〔<肉となった>というその〕言葉について語られているところの、なるということ (Werden)の中で行動するのである〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉が肉、人間となる」ということの中で<行動する>のである〕」。このような訳で、「この言葉について語られていなるということはそれとしての<人間の>類としての〕世界の動きそのものの一つの要素として理解されてはならないしそれは〔<人間の>類の時間性としての〕人間の歴史に内在する一つの必然性に基づいてはいないのであるしたがってそれはそのような〔<人間の>類の時間性としての〕人間の歴史の内部から出ているものあるいは<人間の>類の時間性としての〕人間の歴史から由来するものとして理解されてはならないのである」。このことからして、人間中心主義的なヘーゲルの『歴史哲学』(人間学)に依拠したモルトマンが、「終末論的な『将来的なものの力』としての御霊」の概念によって、「終末論的なものが〔すなわち、直線的な進歩史観に基づいた、「律法・父の国・奴隷状態」の段階→「恩寵・子の国・神の子供の状態」の段階→「自由・霊の国・神の友の状態」の段階へと進歩する終末論的なものが〕、歴史的になることによって〔すなわち、人類史における自然にまみれた原始未開の段階→人類史における自然を内面の原理とするアジア的な段階→人類史における頂点としての自由を原理とする西欧的段階へと直線的に進歩する歴史的になることによって〕、〔<人間の>類の時間性としての〕歴史的なものが終末論的になる、終末が〔<人間の>類の時間性としての〕歴史となり、歴史を動かしている」と考え、神学的な三段階的進歩史観を展開した時、その時には、まさに「(中略)神の啓示の内容は、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての〕神としての神から発生したのではなくて、〔類的機能を持つモルトマンの自由な自己意識・理性・思惟という〕人間的理性や人間的欲求やによって規定された神〔モルトマンの自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化されたモルトマンの意味世界・物語世界・神話世界としての「存在者レベルでの神」〕から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、〔モルトマン〕『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハの『キリスト教の本質』)水準のものなのである。それだけでなく、現在人類史の尖端性としてある世界普遍性を獲得した「<西欧の危機としての時代と現実がそのような直線的な進歩史観を許さないから、そのモルトマンの直線的な神学的な三段階的進歩史観は、自然時空に死語化していくことが必然であり、実際的に自然時空に死語化してしまったのである。確かにバルトも「哲学的用語を使う」のであるが、しかしバルトは、徹頭徹尾教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「神学は、哲学的試みがおわるところから始まる」、何故ならば、「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての「神学は、方法論的にはほかの学問のもとで何も学ぶことはないからである」という原則をもって思惟し語っている(『バルトとの対話』)。吉本隆明は『共同幻想論』等で、マルクスの『資本論』「第1版の序文」にある自然史の一部としての人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果である「科学・技術や生産様式の発達は、〔それに対する反対運動や政策等で〕遅延させることはできても逆行させたりすることはできない。この意味で、エコロジーの極限に想定される天然自然主義は錯誤でしかないものである。と同時に、人間存在の総体性にとっては、経済的範疇というものもまた部分にすぎず、〔形而上学的な木を見て森を見ないという仕方での〕科学<主義>における科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方は、部分でしかない科学を全体として錯誤するところにある」、「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達に対して、情念、嫉妬の感情、非感覚的部分、喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではない」、「マルクスが、人類の歴史において、経済的範疇は第一次的に重要なものである、そしてその他のものはそれに影響されると述べた時、幻想領域〔観念領域〕の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提で述べている」ので、「マルクスは、経済決定論者ではない」し、それ故に観念の自体的構造、自体的展開やその自己増殖過程を否定したわけではない、唯物論的に思惟し語っていても、唯物<主義>的に思惟し語ってはいない、というように述べている〔マルクス『経済学批判序説』の最後の二つの段落参照。それを、吉本隆明『言語にとって美とはなにか』に引き寄せて言えば、それが古典的な芸術作品であれ、外皮では対他的な関係を拒絶しながらその中心で連帯しており<時間的な連続性>をもつ対自的な言語の<自己表出>と外皮では対他的関係にありながらその中心で孤立している<時代性の殻>をもつ対他的な言語の<指示表出>との構造としてある優れた芸術作品は、対他的な指示表出度に関わる<時代の殻>だけでなく対自的な自己表出度に関わる時間的な連続性を持っている。「ひとつの作品は……もっとも類を拒絶した中心的な思想をどこかに秘しているひとりの作家をもっている」、その「ひとりの作家は、かれにとってももっとも必然的な環境や生活をもち、その生活、その環境は中心的なところで一回かぎりの、かれだけしか体験したことのない核をかくしている」、その「ひとつの生活、ひとつの環境は、もっとも必然的にある時代、ひとつの社会、そしてある支配の形態のなかに在り、その中心的な部分は、けっして他の時代、他の社会、他の支配からはうかがうことのできない秘められた<時代性の殻>をもっている」、「このようにして、ある時代、ある社会、ある支配形態の下でのひとつの作品は、たんに異なった時代のちがった社会の他の作品にたいしてばかりでなく、同じ時代、同じ社会、同じ支配の下での他の作品にたいして決定的に異質な中心をもっている」、「そればかりでなく、おなじひとりの作家にとってさえ、あるひとつの作品は、べつのひとつの作品とまったく異なっている」、このことが「<言語の指示表出>の中心……に対応する。言語の指示表出は外皮では対他的関係にありながら中心で孤立している」――この<言語の指示表出>に対して、「<言語の自己表出>は、外皮では対他的な関係を拒絶しながらその中心で連帯おり、異なった時代の異なった社会の異なった個性にたいして決定的な<類似性や共通性>の中心をもっている」、すなわち「言語の自己表出の歴史として<時間的な連続性>をもっている」。このことは、芸術分野の文学作品だけでなく、同じ言語表現の一つである思想分野についても言えることである。このような訳で、現在「人間存在の総体性にとって部分でしかない科学・技術分野」におけるAI技術が多くの問題をすべてよりよく解決することができるような楽天的な考え方が流布されているが、そのような形而上学的な木を見て森を見ないという仕方での考え方は「錯誤」に基づいていることからして、その考え方は、非常な<危うさ>をもった考え方である。ミシェルフーコーは次のように述べている――「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……。西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものですそうした中で時代を画する哲学者は一人もおりません〔現在もそうである〕。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです〔したがって、現在の問題、すなわち現在を止揚する問題を認識し自覚しないまま、ただ単に欧米に留学したからとってそこで得た知識が世界普遍性を獲得することにはならないのである。したがって、その場合、その知識は、優れた知識であることを保証されず、ただ単に狭小な日本において外皮的な箔をつけることになるだけである〕。西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるものです。その西欧は、〔人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史における頂点、尖端性、世界普遍性を獲得した<西欧的段階>としての〕近代以降において、〔世界〕普遍性誕生の場であるこの意味で西欧思想の危機〔アメリカを含めて西欧の危機〕とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり世界のあらゆる国々の諸思想あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです。たとえばマルクシズムは、(中略)一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構となりました。(中略)マルクシズムは現在、明白な危機のうちにあります。それは西欧思想の危機であり革命という西欧概念の危機人間社会という西欧概念の危機なのですそれはまた〔現在、危機の中にあるとはいえ、人類史の頂点として世界普遍性を獲得している西欧の危機であるが故に、〕全世界にかかわる危機……です(『フーコーと禅』)。したがって、資本主義を経済的基盤とし自由を原理とする<西欧的段階>の問題を明確に提起し、その西欧的段階を包括し止揚しなければ、次の段階へと移行することはできない危機である。したがってまた、ただ単に農耕を経済的基盤とし自然を内面の原理とした<アジア的段階>に回帰・復古・逆行すればよいというような危機ではない。吉本隆明は、アジア的な日本的<特殊性>の自覚に基づいて、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」(世界認識の方法)と述べて、『アフリカ的段階について 史観の拡張』において、危機としての現在を止揚する問題は、世界普遍性としてある人類史の原型・母型・母胎であるアフリカ的(縄文的、北米先住のインディアン的、アボリジニ的等)段階における種々の贈与制の歴史的批判的な調査・解明に基づいたその再構成にある、すなわち民族国家の枠組みを超えた(何故ならば、民族国家の枠組みを超えなければ、それ故に民族国家が現存する限り、相互了解・相互承認等口ではどんなことを言っても、必ず、民族国家間の利害の対立と争いが惹き起こされるからである)<世界的規模>での技術的・産業的・経済的な地域特性化に基づく贈与制の構成、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論の構成にある、それができれば経済社会構成を資本制におく西欧的段階を超え出て、次の段階に超出することができる、と述べている。また、バルトは、『ヘーゲル』で、「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになるために、われわれは、西欧近代を頂点とする歴史の直線的な進歩発展というヘーゲルの思想を、直ちに全面的に放棄しなければならない」、と述べている。

 

日本だけではないのであるが、日本のすべてのキリスト教会も、そのような時代と現実に強いられて現存している。その中で、例えば、真剣な意味で戦前の教会の戦争責任の問題(戦前の「教会の敗北の構造>」の問題を明確に提起して止揚する問題)を引き寄せることに失敗した日本のキリスト教会における何度かなされた平和のための思惟・語り・祈りは、戦争の元凶である民族国家の無化の問題を明確に提起することなく、それ故にその戦争の元凶である民族国家を前提とした(混合させた)、そのような国家の言語(法制的中枢としての憲法の言語、政治的な法的政策的な言語)を前提とした(混合させた)思惟・語り・祈りに過ぎないから、それ故にそのような思惟・語り・祈りにおける平和は幻想であり絵に描いた餅でしかないから、永久に平和は訪れないことは自明的なそれなのである。しかし、なお依然として、そのことを認識し自覚することができないで現存している日本のキリスト教会は、戦争の元凶である民族国家、国家を第一義性・価値性とする<国家主義的>国家である社会主義国のロシアや中国のような国家、また<擬制>民主主義でしかない普通選挙制度を介した議会制民主主義に基づく国家を第一義性・価値性とする<国家主義的>国家である国民国家、近代国家、自由国家、経済的側面から見れば資本主義国家の日本や欧米等の諸国家(例えば、日本においても、第一義性・価値性を国家に置く<国家主義的>国家の下で、三里塚闘争問題にあったように、国家は必要ならば、当事者の農民に対して有無を言わせない仕方で権力を行使し、土地収用による<行政的な>強制代執行を行うし、また結局は当事者に有無を言わせない仕方で、沖縄の基地行政は行われている。それに対して、自らの農地等の生活基盤を守るためであっても、国家の暴挙を許せないとして国家に対して激しい抗議行動を行えば、公務執行妨害罪で、権力側の恣意性における公序良俗違反で、逮捕されるということがあるのである。それだけでなく、さらに悲惨なのは、三里塚農民においては土地を収用されて大金を得たために、堕落した農民もいたと聞いている)、そのような観念の共同性を本質とするすべての国家を無化する問題を包括しているそれ故に個体的自己としての全人間の現実的な社会的な究極的包括的総体的永遠的な救済の問題を包括しているそれ故にまた究極的包括的総体的永遠的な平和の問題を包括しているところの「<み国>を来たらせ給え」(主の祈り)という聖書の言葉に徹頭徹尾信頼し固執し固着して思惟し語り祈ることをしないのである何故ならば現存するキリスト教会はなお依然として聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神から遠ざかることを恐れるのではなくまたただイエスキリストをのみ主頭とするイエスキリストの活けるヒトツノ聖ナル公同ノ教会共同性を目指すのではなく先ず以てはただ現存する知識人知的集団一般大衆時流から孤立することを恐れているだけだからである。したがって、時流が民族主義であれば即自的にそれに迎合して民族神学が発生し、時流がフェミニズムであれば即自的にそれに迎合してフェミニズム神学が発生し、時流がコミュニケーション論であれば即自的にそれに迎合してコミュニケーション神学が発生し、時流が多元主義であれば即自的にそれに迎合して多元主義神学が発生し、時流が共生主義であれば即自的にそれに迎合して共生主義神学が発生し、時流がエコロジーであれば即自的にそれに迎合してエコロジー神学が発生する等々、包括的に言えば「自然神学」が発生するのである。このようにして、彼らは、キリスト教会は、それらから対象的になって距離を取るということをしないままに、それらと即自的に迎合し同化しようとするのである。そのことが問題なのである。例えば、エコロジーと神学との「混合神学」、エコロジー神学、人間学的神学、包括的に言えば「自然神学」は、『資本論』「第1版の序文」の「経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものである〔すなわち、経済社会構成(経済的基盤)を狩猟採取に置いた人類史のアフリカ的段階および農耕に置いた人類史のアジア的段階を包括したところの<資本主義>に置いた人類史の西欧的段階、またそうした社会に見合った地代形態で言えば先行する労働地代および生産物地代を包括した<貨幣地代>という経済社会構成の拡大と高度化、科学や技術の進歩・発達、その知識の細分化と増大、生活の利便性の向上は、自然史の一部である人類史の自然史的過程である自然史的必然としての自然史的成果として理解しようとするものである〕」という客観的な正当性と妥当性のあるマルクスの立場(問題の明確な提起)を認識し自覚しないで、ただ神学を時流に合わせるために、極限に天然自然主義を想定できる「錯誤」としてのエコロジーを即自的に神学と混合させようとしたに過ぎないものである。また、例えば、東京神学大学の実践神学者の小泉健がWeb上で紹介していたコミュニケーション論と神学(説教論)とを混合させる「混合神学」――すなわち、「聞き手の生の現実を顧慮する説教〔それは、あくまで牧師自身が、形而上学的に木を見て森を見ないという仕方で、恣意的にだけ聞き手の生の現実を考慮する説教〕と牧会との統合コミュニケーションの出来事としての説教エンゲマンの混合神学)、コミュニケーション神学包括的に言えば自然神学後述する人間の現実的意識である人間的意識」(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)実践的意識」(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)の構造における他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識」(自己意識の対自的意識、言語の自己表出に対する無知と無自覚に基づいたものに過ぎないものである。吉本隆明は、『言語にとって美とは何か』で、「他のための存在という面で言語の本質が拡張されることによって交通の手段、生活のための語り言葉や記号論理は発達してきたし、自己にたいする存在という面で言語の本質を拡張したとき言語の芸術(文学)が発生した」、と述べている。また、『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』では、次のように述べている――「現実の社会ではほんとうのことは流通しないという妄想は、<あるひとつの思想の端緒であるそれとともに〔、批評文、文学〕のなかに現実ではいえないほんとうのことを吐き出すことによって抑圧を解消させる〔自己解放〕というかんがえは、<詩の本質についてある端緒をなしている。抑圧は社会がつくるので、吐き出しても、またほんとうのことを吐き出したい意識は再生産される。だから、詩〔、批評文、文学〕は永続する性質をもっている。 (中略)ここで辛うじていえることは、詩の場合には、ほんとうのことは〔内発的な〕<こころ>のなかにあるような気がし、批評文の場合にはある事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)に伴った〔事実に反応する〕<こころ>にあるような気がすることである。だから詩作が途絶えがちであった時期、わたしは<内発的なこころ>よりも、<事実に反応するこころ>から、ほんとうのことを吐き出してきたということはできる」、と。バルトは、『説教の本質と実践』で、次のように述べている――「説教の無条件的な出発点と目的は、新約聖書において聞く啓示、和解、インマルエル、神われらと共にいますである。したがって、われわれは、キリストからすべてのことを期待しなければならない。このことが終末論である。キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない。ここで説教は、感謝と確信と共に期待の態度と行動である。第一の来臨〔誕生、受難・死と復活〕と第二の来臨〔終末、復活されたキリストの再臨、「完成」〕との間〔聖霊の時代、中間時〕に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体とがある。説教は、説教者の自由事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、<聖書への絶対的信頼>に基づく、聖書講解であることの義務を負っている。したがって、説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない〔換言すれば、聖書は、現存する人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や情報が不足している〕と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていないのである。福音は、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な〕われわれ〔人間〕の思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にあるから、われわれは、思想、最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさいを、聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない。〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕聖書は神の言葉となる所で聖書は神の言葉なのである。したがって、聖書に聴従するために、〔「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント3・10-11、エフェソ2・14以下)からして、第二の形態の神の言葉である聖書の中で証しされている「啓示ないし和解の実在」そのものとしての起源的な第一の形態の神の言葉、この〕言葉の出来事の〔自己〕運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示の真理は〕、神がすでになしたわれわれの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られたということである。そこにおいて、説教は、会衆、特定の場所と時における全く特定の現在の人間の生活、彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ることである。その時、説教者は、ただ聴衆にだけ目をとめてはならないのであって、〔全世界としての教会自身と世の〕すべての人々にも眼をとめて語らなければならないのである。また、説教者は、説教として語る場合、〔聖霊や聖霊の言葉を説教者の自由事項のように思惟し語る小泉のように〕霊があるいは別の霊であっても、言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない。説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののことである。また、説教者における会衆の状況認識について、会衆は〔現在すべて<知的>大衆であって〕、その生活を十分に知っており、実際のところ、牧師によって手ほどきされる必要はないのである」、と。また、吉本隆明は、『心とは何か 心的現象論入門』等において、次のように述べている――「現実の意識は、対自的となった人間的意識自己意識の対自的意識、言語の自己表出〕<と>対他的となった実践的意識〔自己意識の対他的意識、言語の指示表出〕の構造としてある。この自己意識における人間的意識<と>実践的意識、言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は現実的人間との関係の意識いわば対他的意識〔実践的意識〕の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。この時<表現>された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。「外化されたその実践的意識は確かに他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識という意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である」。ここのところで、J・ハーバーマスは「事実性と妥当性」で、「脱中心化された公共的意識」により百人百様の分裂と動態化を惹起させた西欧社会の中で、近代主義的法概念の再構成によって、観念の共同性を本質とする法制的な共同体の統括力の回復を試みようとして、観念の共同性を本質とする憲法を法制的中枢とする法体系の中での、「生得的に有する自然権である自由と平等〔自己意識の対自性、理性としての個人、その主体的な関わり方〕と国民主権〔自己意識の対他性、意思における普遍妥当的な相互承認と相互制約による共同性〕との内的連関づけ、すなわち討議によって産出されるコミュニケーション的権力」を主張したが、先ず以て人間は理性的にだけ生きているわけではなく情念の世界や喜怒哀楽の世界や嫉妬の世界や利害の世界も生きているし、それからまた人間は<個体的>自己が社会と関わる「<社会的な>個人」(共同体の一員)としての世界、すなわち具体的には、「仕事、納税、消費、選挙行動等において自分はどう振舞うかという世界」を生きているだけではなく、人間は自己が自己自身に関係する<個体的>自己の世界、すなわち「他人には理解できない内面を含めた、その人の心のもち方の世界」、「他人と通じ合うことは第二義的な個体の内面世界」、「指示表出の世界」とは違う「自己表出の世界」、「他者の意見は参考にしかならないから、……各人で解決していくよりほかない各人の内面の世界」を生きているし、また人間は<個体的>自己が「一対の男女(性)として振舞う世界」、その「対の共同性である家族の世界」、その「対幻想の共同性である<家族>の一員としての個人として振舞う世界」を生きている、というようにそのような<人間存在の総体性>を生きている。それら人間存在の総体性における三つの世界は次元が違うものであるからそれぞれの世界における問題の究極的な解決の仕方にも差異がある。例えば、「一対の男女(性)として振舞う世界」、その「対の共同性である家族の世界」における問題は、究極的にはその領域において解決されるべきであって、観念の共同性である国家による法的制度的な解決は第二義的で部分的な相対的な解決の仕方でしかないし、それ故にその時には家族を含めた対の世界が自立でき得ていないことの証左でもある。また例えば、「老人問題は、<自己の死の迎え方>の問題を有する老人それぞれの諸個人の個人領域における問題を本質としている」ということからして、それ故に、その個人領域における問題は、家族における関係意識が希薄化している中での「家族的領域における問題」とも関係しており、また「経済的生活の面では共同的な法的、制度的、行政的問題」とも関係しているのであるが、ただ単なる「法的、制度的、行政的解決は、〔相対的な緊急的な〕部分としての解決でしかない」ものとしかならないのである。したがってその個人領域における老人問題の究極的解決のためにはその問題を人間存在の総体性において自覚的に扱う必要があるのである。それぞれが次元の違う世界としての個、対(その共同性としての家族)、共同性という人間存在の総体性を生きるところの、「専業主婦は、その個体が家族の一員としての個人の部分に重点を置いている」ということからして、「社会的な個人としての部分には比重をかけていない」在り方を生きているのである、また「仕事人間は、社会的な個人の部分に比重をかけているということからして、家族の一員としての個人の部分には比重をかけず家族問題に対して無関心である」在り方を生きているのである 。この事例とは異なって、「個体の内面の問題に比重をかけることで、家族領域や社会領域における問題に無関心な在り方もある。個体の自己幻想を本質として創作活動をする太宰治や夏目漱石等の優れた文学者はいつも痛ましさの感じを伴っている。文芸作品を読むものにじぶんだけのためにかかれているように感じさせる要素は文学者が創作のためにたんに労力や苦吟を支払ったからではなく恋人か家庭か社会の序列か現実にいきてゆくために必要な何かを棒にふってしまったことと対応している」(『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」、『マルクス―読みかえの方法』、『吉本隆明全著作集4』「文芸的な、余りに文芸的な」)。バルトも、個体の意識領域、表層面、無意識領域あるいは人間存在の総体性という観点からではないが、『教会教義学 神の言葉』で、「われわれ人間の間の伝達は、〔それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な〕われわれが人間一般として互いに相対立して立つ限り、事実いかに問題的であるかということを念頭におくならば、一体、誰が誰を知っているのであろうか」と述べている。形而上学的な木を見て森を見ないという仕方での、ただ往相的観点の言葉にだけ依拠する人たちは、すなわちただ外面だけの律法の言葉および「自己欺瞞に満ちた市民的観点と市民的常識」における言葉にだけ依拠する人たちはすべて、イエスの「人間の内面の普遍性に届く言葉」によって、自分の内面の罪を暴露され意識させられて、「年長者から始まって、一人また一人と〔律法学者たちやファリサイ派の人々を含めてすべての人が〕立ち去って」いかなければならないように立ち去っていかなければならない(ヨハネ8・1以下)。いずれにしても、人間存在の総体性は、「個体であり、それから対・その共同性としての家族であり、そしてまた共同体の一員であるというふうに存在」 している点にあることからして、また人間は生来的に自然的に自己意識を持った存在であるということからして、その<個体的自己としての人間>」 は、自己が自己自身に関係する自己関係や、一対の男女の対関係およびその共同性である家族関係や、社会における共同的関係において、それぞれ自己幻想(自己観念)および対幻想(対観念、その共同性である家族意識)ならびに共同幻想(共同意識)を生み出していくことになるのである。いずれにしても人間には他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識があることも確かなことである」。このことは、「心・精神の働きである意識と無意識の関係から根拠づけることができる」、「人間の心精神の世界は、<意識領域無意識領域との構造としてある」、「その<無意識領域>は、意識領域無意識領域との間境界の表層面との構造としてある」。したがって、<無意識領域が現実世界と接しているという時それは無意識領域の表層面を指している。そして、「<無意識領域の核の出自は胎児期と生まれてから一年間の乳児期における母親との関係の在り方によって形成される」。したがって、この無意識領域の核に負った傷その個体史を胎児期と生まれてから一年間の乳児期における母親との関係の在り方にまで遡らなければ究明することはできない」。「このような構造的把握は、個体の問題や家族問題を扱う上で重要なものである」。何故ならば、「家族問題を扱う場合、そのことに自覚的でない時、家族問題を<無意識の表層面>の問題として錯誤したり、<無意識の表層面>と<無意識の核>を混同して論じてしまう錯誤に陥るからである」。言い換えれば、「病的な異常さを呈した個体的自己、個体における自己の問題あるいは家族的自己、家族における自己の問題の究極的総体的永続的な救済は、当事者の心・精神における<無意識のに負った傷>を治癒することにあるから、その<無意識のに傷を負った>当事者の個体史を生まれてから一年間の乳児期と胎児期にまで溯って究明していくところにある」。しかし、「コミュニケーション論のほとんどは実践的意識と現実的人間との関係の意識いわば対他的意識の外化としての表現された言語に偏向しており部分を全体とする錯誤のもとにある。すなわち、コミュニケーション論のほとんどは、「他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識〔対自的意識、言語の自己表出〕に対して無自覚である」。いずれにしても、日本のキリスト教会は、「聖書によって宣教を義務づけられている」教会における戦争責任の問題(換言すれば、戦前の教会の敗北の構造の問題)を、戦後過程においても、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、本当に真剣に、明確に提起しようとしなかったのである。ただ単にその時々の時流に迎合し同化しようとしただけなのである。キリスト教会は、現存する知識人や知的集団や一般大衆や時流に即自的に迎合し同化することが、ある歴史的現存性におけるその時代と現実に強いられたところでの教会の宣教の務めだと勘違いしたし、そして今もそう勘違いし続けているのである

 

そのような訳で、教会として、キリスト者として、真剣に平和の問題、それ故に戦争の元凶である民族国家の無化の問題を思惟し語る時には、私は、次のような思惟と語りにならざるを得ないと考える。すなわち、私は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に信頼し、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、聖書を自らの思惟と語りにける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、絶えず繰り返し、聖書に対する「他律的服従」とそのことへの決断と態度という「自律的服従」と全体性において、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、聖書の中で証しされている純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)とそのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、それ故に一般倫理学の問題ではない、「自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識」に基づく倫理の問題ではない、すなわち純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである、それは純粋な教えとしてのキリストの福音を全世界としての教会自身と世のすべての人々が<現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えである)という連関と循環の中で、ただイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの活ける「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すところのバルトの思惟と語りのようにならざるを得ないと考える。それは、次のような思惟と語りである――「啓示の秘義」としての「まことの神にしてまことの人間である」<イエスキリスト人となり死んで甦り給うたという復活の力、<神の勝利の行為による和解の言葉>、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、<客観的な>その「受難と死および復活の出来事」における「キリスト復活の四十日(使徒行伝一)」、「キリスト復活四十日日の福音」、「まことの過去」と「まことの未来」を包括した「まことの現在」としての「実在の成就された時間」、徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格として理解されたギリシャ語原典ローマ322ガラテヤ216等の「イエス・キリスト<>信仰」、すなわち「イエスキリスト信ずる信仰(『福音と律法』)、それ故に「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済>」そのもの、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和>そのもの、「この世の神との和解人間相互間の和解を直接その内に包含している和解である」。神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行、永遠的な実在」としてある神性を内在的本質とする「神ご自身によって、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である「神の第二の存在の仕方」における〕イエスキリストの歴史〔出来事史〕においてその生涯と死においてすでに成就され完了され死人からの復活においてすでに啓示されているような和解である」。したがって、「われわれによって初めて成就され完了されなければならないような和解ではなく神ご自身によって確立された成就され完了された和解である」。「イエス・キリストにおいては、〔神の側の真実として、〕神と人間が、しかしまた人間とその隣人が平和的なのであり、敵としてではなく、忠実な同伴者、仲間として、共にあるのである」。「イエス・キリストにおいて平和は、神ご自身が世界史〔人間の類の時間性、人類史、歴史〕のまっただ中に創造し見えるものとして下さった〔神の側の真実としてある〕<現実性>である」。したがって、「この贈り物はただわれわれがこれを受けとることを待っている」。したがってまた、「われわれがこの事実に向かって眼と耳を閉ざして生きているということが悲惨なのである」。したがって、前段で述べたようなキリスト教会自身が、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨なのである」。また、「そうした中で、われわれが、平和は戦争より善いものであるということを繰り返し断言せねばならない」としても、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさないことは明白である」。何故ならば、現存する世界は、経済の世界性と自国の利害を第一義的に最優先する一部国家支配上層の意思によって動員できる巨大で強力な国軍(軍隊組織)を持つ戦争の元凶である民族国家の一国性を単位として動いているからである。われわれ人間は誰であれ、ある歴史的現存性における時代と現実に強いられて思惟し語り行動しなければならない限り、バルトは、次のようにも述べている――「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならないがしかしこのことはわれわれは平和主義者でなければならないということを意味しない平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが一つの原理や理念にはしないしたがってわれわれは最後の手段のために、〔戦争の元凶である民族国家が現存している限り、〕戦争の可能性はあけておかなければならない」。このバルトは、『平和に関するバルトの書簡』における立場において、「世界はイエス・キリストにおける神の愛〔すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕によってすでに解放された世界である」(これが、「世界が必要としている革命的認識」である)ことに感謝をもって信頼し固執し固着して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な倫理的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」、と述べている。このように思惟し語るバルトは、現存する世界についての現実認識に基づいて、ある<政治的>決断を強いられた時には、あくまでも過渡的緊急的相対的評価において(何故ならば、究極的永続的には、人間の類、人類の構成する頂点に位置する政治的な近代国家、自由国家、国民国家、経済的には資本主義国家、欧米の諸国家、またロシア、中国、これら民族国家、すべての国家は無化されなければならないから)、「(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要な〔第三の形態の神の言葉に属する〕キリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」ということからして、自由および直接民主制と武装永世中立の「スイス〔国家、それ故に軍隊組織、国軍を持っているスイス国家〕をナチズム〔ドイツ国家〕からまもるために私は軍隊に参加し、両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛するために、もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」と述べている。親鸞や吉本隆明も述べているように、ただ単に形而上学的な木を見て森を見ないという仕方の「自己欺瞞に満ちた市民的観点、市民的常識」(知識の自然過程における往相的観点からだけでなく、そうした知識の<自然的過程>から意識的に下降するところにある知識の<意識的過程>における「究極的観点」(還相的観点からすれば、それが宗教者、善人、知識人等誰であろうと、「現実的な戦争とか利害対立とかの不可避な<機縁>さえあれば、自分が意志しなくとも、人ひとりだけでなく多数の人を殺し得る」のである。本当は真剣な意味では、こういう在り方に、キリスト者の<政治的>決断と<政治的>実践があるのである。したがって、私には、島国で一応安全さが保たれた「平和ボケした」・「軽薄な明るさ」(太宰治『右大臣実朝』、この「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ」)のただ中にある日本において、実感の伴わないただ平和を守る、平和を祈るという教会の言葉は、虚しく響いてくる。したがってまた、私には、教会は、戦前と同じような状況になれば、戦前と同じような「敗北の構造」において、戦前と同じような過ち(「敗北」)を繰り返すに違いないと思えてならないのである。バルトは、『バルト自伝』で、次のように述べている――「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、自己決定の権利を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)として〕神学的思惟は神の主権とキリスト教の使信全体の終末論的性格とキリスト教会の唯一の課題としての純粋な福音の宣教の強調に中心がありまたそれにこれまで中心をおいてきた現実の人間を考慮しない(神はすべてであって人間は無である!)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、〔教会の宣教における一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)として神学を持たない、またトータルな世界認識の方法を持たない〕私の本を読んだ多くの人々の頭のなかにまた特に私についての評論をしたり一冊の本を書いたりした人々〔神学者、キリスト教的著述家、牧師等、「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語る」(吉本隆明『カール・マルクス』)〕の頭のなかにのみ存在していたのである」。したがって、ベルトルート・クラッパートとその追従者である神学者・寺園喜基の一般的倫理学と神学的倫理学とを混合させた仕方の、「神学的なものと政治的なものとの必然的関係および正しい関係に仕える」という「時代と現実との関連における神学=状況連関神学」、すなわち「〔倫理の模範としての〕キリストと同じ形になることを目指す形成倫理学」は、「倫理―隣人愛〔これは、結局は、市民的常識・市民的観点におけるそれと神学的なそれとの混合としての隣人愛〕―仕える教会―信徒―〔これは、結局は、国家の無化の究極的問題を明確に提起しないところでの、それ故に観念の共同性を本質とする国家を第一義性・価値性とする<国家主義的>国家を前提とした<擬制>民主主義としての普通選挙制度を介した議会制民主主義に過ぎない〕民主義的社会主義〔それ故に、これは、社会主義という言葉を使っているが、現実的な社会を第一義性・価値性とする社会主義ではない〕―平和〔これは、結局は、戦争の元凶である民族国家の無化という究極的問題を明確に提起しないところの、それ故に平和が永久に実現しないところの、幻想としての平和運動である〕」は、机上の論理でしかないものである。また、ヒトラー暗殺計画の陰謀を企てたボンヘッファーの『説教と牧会』に即して言えば、「キリスト証言は、言葉と行為とをもってする説教者と聴衆とを要求する」ということからして、そして「この世におけるキリストの許しのもとでの<神との共働>」、「キリストを模範とする行為」、「イエスへの従順と服従の行為」、「正義の体現行為にあった」ということからして、ボンヘッファーのその「イエスへの従順と服従の行為」は、あの時代と現実に強いられたところでの、結局はまたただ新たな国家を第一義性・価値性とする<国家主義的>な国家を構成するだけで終わってしまうところの、国家を実体(暴力装置)として捉えた事実的なヒトラー暗殺計画という政治的<行為>(政治的<実践>)に向かった。ボンヘッファーは、形而上学的な木を見て森を見ないという仕方で、ただ国家のその外在的な暴力的側面に対してだけと闘争したのであって、その内的本質である国家の観念的側面を包括し止揚する問題に対して無頓着であったのである。したがって、ボンヘッファーの死は、第一義的には<政治的な>死となってしまった。例えば、戦前の天皇制国家の問題は、吉本隆明の『共同幻想論』によれば、次のような点にあった――「天皇制的な意識構造」は、天皇族(支配)の占有する外来の文明や文化(大陸の、農耕技術および律令、儒教、仏教等の制度や知識)が、被支配から遠く隔絶されていればいるほど、被支配の関係意識にとっては、その天皇族(支配)に対して「強力に願望の対象でありながら、恐れの対象であるという両価性の心性〔「未開の心性」〕を持つ」という点に現れる(このことは、日本において今でもあるのであり、例えば『はじめての宗教論』を書いたキリスト教的著述家の佐藤優の<高等>教育を受けた者〔佐藤自身、自らを<高等>教育を受けた優秀な者だと主観的な<自己>評価をしている〕と受けなかった者とに分けて思惟し語る思惟や語りは、まさしく「未開の心性」によるものなのである。そしてまた、一般大衆が、そのような大学知識人や一般知識人やメディア的知識人やメディア的情報の知識に対して、自らの生活思想において、それらから対象的になって距離を取るということをしないで、それらを「そのまま鵜吞みにしたり模倣したりする」在り方も、「未開の心性」によるものなのである。この「未開の心性」における「大衆の敗北の構造」は、敗戦後において、被支配としての大多数の一般大衆が、「自分たちを戦争へと駆り立て、家族や親族や友人たちを死に追いやった」天皇制国家支配上層や知識人や知的集団やメディア(特に、戦争に加担した朝日新聞およびNHK)に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、「むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく」というところに現れた。「そこには、その両価性の心性〔「未開の心性」〕に基づく<制度>的な禁制〔「共同幻想」〕が存在する」。すなわち、天皇族(支配)は、外来の文明や文化の占有による格差の関係性に基づいて権力の構成を行ったのである。そして、その関係性において、「被支配は、複雑に重層化され隔絶された天皇制的な諸観念、最下層の共同幻想である自然規定、風俗・習慣、心性、文化等を包摂した天皇制的な宗教、儀礼、法、制度等を、自らが所有してきたそれ以上のものとして共同的に錯覚することにおいて〔無意識のうちに〕支配に取り込まれていくことになった」。その時、価値性・第一義性は、現実的な社会の中で具体的に生き生活している個体や対(対の共同性としての家族)にではなく、その観念の共同性を本質とする<国家>支配共同性にあるように擬制された。このように、「水平的な概念である共同幻想としての国家は、垂直的な概念である支配―被支配の関係に転化されて国家<権力>となった」。したがって、そうした国家を無化するという場合、われわれは、ただ単にその国家の外的な暴力装置に対して暴力を対峙させるだけでは全く駄目なのであって(すなわち、暴力を対峙させるだけでは国家を無化させることはできないのであって)、その国家の内的本質である観念の共同性(共同幻想)の出自にまで遡って、歴史的批判的に調査し解明しその観念を自己還帰させ自己回収する以外にはないのである。ボンヘッファーにはこの後者の観点が全くなかったのである。したがって、その時には、観念の共同性を本質とする国家は残り続けるのであり、国家の支配は続くのであり、またその戦争の元凶である民族国家は存在し続けるのであるから、永久に、個体的自己としての全人間の社会的な現実的な究極的包括的総体的な解放もないし、平和も訪れることはないのである。したがって、バルトは、「ボンヘッファーは革命後のヴィジョンを持っていなかった」と述べている。これは、客観的な正しい評価である。まさに革命の問題は、観念の共同性を本質とする国家(具体的には、政府、政権)を第一義性・価値性として前提してはならず、人間の政治的な、すなわち観念的な過渡的緊急的相対的部分的な解放の問題<と>人間の現実的な、すなわち観念の共同性を本質とするすべての国家の無化を伴う社会的な究極的包括的総体的永続的な解放との全体性において思惟し語らなければならないのであるが、聖書の「み国を来たらせ給え」という<主の祈り>は、終末(復活されたキリストの再臨、「完成」)における、すべての国家の無化を伴うところの、<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な<救済「<完成>」、それ故にこの包括的な救済概念と同一である<すでに>出来事として起こった「成就」され「完了」された究極的包括的総体的永遠的な<平和「<完成>」ということを含んでいることからして、その革命の問題をも包括しているのである。このような訳で、先ず以て、教会(キリスト者)も<政治的>実践をしなければならないと声高に叫ぶところに第三の形態の神の言葉である「キリスト者とキリスト教会の責務」があるわけではなく、バルトの思惟と語りにあるように、「キリスト者とキリスト教会の責務」は、先ず以て第一義的に、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持し、具体的には「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)に基づいて、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての「第二の形態の神の言葉」である聖書(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」、この「聖書が、教会に宣教を義務づけている」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として、終末論的限界の下でのその途上性で、絶えず繰り返し、聖書に聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神としての神、純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」(「教えの純粋さを問う」<教会>教義学の問題、<福音主義的>教義学の問題)と、そのような「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」(区別を包括した単一性において、<教会>教義学に包括された「正しい行為を問う」特別的な神学的倫理学の問題、それ故に一般的倫理学の問題ではないし、「自己欺瞞に満ちた市民的常識や市民的観点」からするそれではない)――すなわち、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が〔全世界としての〕教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すなわち全世界としての教会自身と世のすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を<現実的に所有することができるために>なすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えという連関と循環において、ただイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」共同性を目指すという点にあるのである。

 

さて、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「『言葉が肉〔、人間〕となったという命題」における「この〔肉、人間と〕<なる>ということは、創造と関連づけられることは許されない、被造物のもろもろの発展可能性のうちの一つとして理解されることはできない。(中略)神によって造られた世界が段々高度に発展していって、ついに神ご自身の言葉を、世自身の実体のもろもろの要素のうちの一つの要素として生じさせるようになるということは、万一堕罪が起こらなかったとしても、全く不可能な考え方である」。先にも述べたように時代と現実も、そのような人間の類の時間性としての人類史、世界史、歴史における直線的な進歩史観を許さなくなっている。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の言葉が被造物〔肉、人間〕なるということはその時でも新しい創造として理解されなければならないましてや〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神の特別「啓示の真理」において人間と人間の歴史が堕罪を通して刻印され特徴づけられている時にはなおさらそうであるどうしてここで、突然内在的な世界の発展の産物としてのキリストが可能となるはずがあろうか。そういうことは全くない」。神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉が肉〔、人間〕なったということは決して被造物〔肉、人間〕のそのものの運動ではないそのことは創造そのものがそうであるように「教会の<客観的な>信仰告白および教義Credoである三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことである」ところのその〕あくまで主の主権的な行為でありしかもそのことは〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」における〕創造とは異なった〔和解としての、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕主の神的な支配の行為である」。

 

 「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆、神の自由を認識していないという事態にある」人間中心主義的な「ヘーゲルの強力な痕跡を持っていた」(『ヘーゲル』)近代主義的プロテスタント主義的キリスト教的神学者、人間学的神学者、包括的に言えば「『自然』神学」者のシュライエルマッハーは、「すでに二世紀に多く存在していたグノーシス主義者の先例に従って、そしてまたJ・スコトゥス・エリウゲナおよびドゥンス・スコトゥスの先例に従って」、次のように述べている――「イエス・キリストの出現は、『人間の性質のいまはじめて完成された創造(この創造は保持と同じ意味である)』として理解されなければならない。言い換えれば、イエス・キリストの出現の中で、『最初から人間の性質の中に植え付けられており〔最初から人間の性質の中に内在しており〕、不断に発展して行く感受性、すなわち神意識のあのような絶対的な力強さを自分の中に取り上げる感受性の保持が起こっている限り、人間のいまはじめて完成された創造として、イエス・キリストの出現は理解されなければならない』。このように言うことができるのはシュライエルマッハーにとっては罪は、〔神的な否(裁き、死)の対象としての、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれの人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪(『福音と律法』)のことではなく、〕ただ自然的な〔生来的な〕人間の神意識が打ち勝ちがたい仕方で弱められ無力になってしまうことでしかないからである言い換えればシュライエルマッハーにとっては罪は神に対する人間の敵意ということではないのである。(中略)キリストは、シュライエルマッハーにとっては、単に人間の想像と共に始まった発展、神意識を強める方向に向かって進む発展の継続と完成を意味しているのである」。したがって、シュライエルマッハーには、聖書の中で証しされている啓示の真理からはじめて引き寄せることができる、次のような認識がないのである――「もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり〔生来的な自然的な〕『自分の理性や力〔感性力、悟性力、意志力、想像力等〕によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。その「シュラエルマッハーの把握に対する本来的な主要な異論は彼がイエス・キリストを通しての救済と呼んでいるところのものを、聖書に従って神の自由な主権的な行為と見ないで、神の言葉を救済の行為の中での主体として真剣に受け取らずに、〔<人間の>類の〕世界の過程の諸要素の中の一つとして理解している点にある」。

 

「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」としてのその神の内在的本質である神性の受肉ではなく、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」における神の「<言葉の>の受肉」、言葉は肉〔、人間〕となったと言われている時この〔肉、人間と〕なるということは〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉が持つ神的な自由の中で起こることである」。「神の自由」は、「自己自身である神」(「ご自身の中での神」)における「神の自由の概念の積極的側面」、自己還帰する対自的であって対他的な「神の自由」、「神の自存性」、<自在>としての「神の自由」<と>「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における「神の自由の概念の消極的側面」、「神の独立性」、「すべての外的被制約性からの自由」、<他在における自在>としての「神の自由」との全体性におけるそれである。したがって、われわれは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持しなければならない。このような訳で、聖書の中で証しされているキリストにあっての「神は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕神の言葉が肉〔、人間〕となることによってまた内的にも自由に行動されるのであって例えば神もそれに服せしめられている一つの律法を成就しつつ行動されるのではない」。「永遠の言葉」としての神性を内在的本質とする「神の言葉はこの〔肉、人間と〕<なるということがないとしても〔すなわち、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉が肉、人間と<なる>」ということがないとしても〕、〔「永遠の言葉」として、神性を内在的本質とする〕神の言葉であり給う。それは、父、子、聖霊が、たとえ〔その「外に向かって」の外在的な「存在の仕方」において〕世界を造られなかったとしても、同じように永遠の神であり給うであろうのと同様である」。「われわれは、この〔肉、人間と〕<なる>という奇蹟を、神が事実なし給うた時、ほかの何かではなく、まさにそのことの中で、全くただ神の自由なよき意志を認識しなければならない」。「神は愛である愛は神である」、この神は愛し給う――これが、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神の存在の特別な現実性」、「われわれのための神としての〔その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における〕神の行為あるいは神の生〔父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>〕……の内容である」、換言すれば聖霊という三位一体の神の名の啓示の中で明らかにされている神の本性神の本質である」。われわれは、「神の存在」を、換言すれば神の自由な愛の行為の出来事としての「神の存在」を、「自分自身から生きる存在〔自存的な存在〕として理解した」。したがって、神の自由な愛の行為の出来事としての神の存在を、すなわち「神が愛し給うことを、それ自身の故に愛する愛〔自存的な愛〕として」、「無条件的な、自分で自分の根拠と目的を措定する、徹頭徹尾主権的な愛することとして、理解した」。自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な自存的な愛として理解した。「この精密規定なしには」、すなわち聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神は「生き、愛し給うという<独一無比性>についての表示なしには」、われわれは、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>において「神が生き、愛し給うということではなく」、類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟としての人間的理性や際限なき人間的欲求やによって対象化され客体化された人間的自然(人間の観念的生産物)としてその人間の意味世界・物語世界・神話世界(「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神の啓示」)について、「一般的に生きることと愛することについて語っているのであって」、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神については語っていないことになる」。まさに「この精密規定は、……自由という概念によって与えられている」。「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事<全体>)において「生きる方、愛する方としての神の存在は、自由の中での神の存在である」。そのように「自由に、神は生き愛し給う。神は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「三つの存在の仕方」において〕自由の中で生き、愛し給うという仕方で、またそのことの中で、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする〕三位一体の神であり、ご自身をそのほかの生ける者、愛する者から区別し給う。そのような仕方で、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「三つの存在の仕方」において〕自由な人格」として、「自己自身である神」としての「三相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」としての「<われ――存在>として、神はご自身をその他の人格から区別し給う」。「キリストが人間となり給うことキリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ理性的ニ論証シヨウとした」(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)したカンタベリのアンセルムスの必然性ということはアンセルムスにおいては認識的な必然性にしてもつまり信仰の対象の認識においてもすなわち、<客観的な>その「死と復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)の中での「主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」においても)〕、存在的な必然性必然性にしてもつまり信仰の認識に先行するその対象の存在においても〔すなわち、その<客観的な>「啓示の出来事の中で主観的側面」としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊の注ぎ」による<主観的な>「信仰の出来事」(<主観的な>「認識的な<必然性>」)に先行する<客観的な>その「死と復活の出来事」における「イエス・キリストの啓示の出来事」(<客観的な>「存在的な<必然性>」)においても〕、最後の言葉ではなくその方にとってはそしてその方の意志に関してはいかなる必然性も存在しない神ご自身が持っておられるその神ご自身こそが最後の言葉なのであるその〔「起源的な第一の形態の神の言葉」としての啓示の〕真理そのものこそが最後の言葉なのである」。「神ハ必要ニセマラレテ何カヲナシ給ウノデハナイ。何故ナラバ神ハ決シテ何カヲナスヨウニ強イラレタリ、何カヲナスコトヲ禁止サレルコトハナイカラデアル。スベテノ必然性ハ……神ノ意志ニ従属シテイル彼ガ意志し給ウコトハ、確カニ必然的ニソノママ成ルノデアル(アンセルムス『神は何故人間となり給うたか』)」、「(エピファネス)キヨイ、〔神性を内在的本質とする「根源」・「起源」としての〕創造主ナル神、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉ハ……満チアフレル愛カラ人間ノ姿ヲトラレタ。ソノコトハ、強制ニヨルノデハナク、ムシロ自発的ナゴ意志ニヨルノデアル」。このような訳で、神のその内在的本質である神性の受肉ではなく、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の受肉」としての「言葉が肉〔、人間〕となる時神の奇蹟の行為あわれみの行為が問題である」。言い換えれば、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉が肉〔、人間〕となる時、……神とは違う、神から引き離された〔<人間の>類の〕世そのものを神は必要とされず、その被造物の方では神に向かって提供すべき何ものも持たないところの被造物そのものに対して神は何も義務を負い給わず、むしろその被造物そのものの方ですべてを神に負うたままでいて、しかも自分の現実存在を神の前で台無しにしてしまった被造物に対する神の愛の業〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事〕が問題である」。

 

 その内在的本質である神性の受肉ではなく、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の受肉」としての神の「言葉は肉〔、人間〕となったと言われている時この〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉はこの〔肉、人間と〕<なるということ・〔肉、人間と〕<なったということの中で、〔神性を内在的本質とする〕自由な主権的な神の言葉〔永遠の言葉〕であり続けるこの言葉は厳密に取るならば神とは違う主辞を持つところの一つの命題の中での賓辞あるいは客語となることはできない。『まことの神にしてまことの人間という命題は一つの等置……厳密に取るならば〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性における〕ひっくり返すことのできない等置である〔まことの神が主辞である〕」。したがって、バルトは、『神の人間性』において、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性われわれに出会う」と述べると同時に、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は〔換言すれば、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持できていないような人は〕、今神の人間性〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べている。ある教会の牧師が、Web上で、形而上学的な木を見て森を見ないという仕方で、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、バルトの「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」について論じ、「バルトが語る<神の人間性>とは、たとえ人間が、神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということである」と書いた時、その牧師は、先に述べた『神の人間性』におけるバルトの言葉を全く理解していないだけでなく、キリストにあっての神としての神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪について論じている『福音と律法』におけるバルトの言葉および『教会教義学 神の言葉』における聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての「神の啓示〔キリストにあっての神の特別啓示〕、〔「単一性と区別」、区別を包括した単一性において〕裁き〔律法、死〕であることによって恵み〔福音、生〕である」というバルトの言葉も全く理解していないのである。その牧師も、教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したバルトに迷惑をかけているだけでなく、キリスト教宗教組織の中の制度としての牧師として「誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて語る」(吉本隆明『カール・マルクス』)という仕方で、わざわざ人々にバルトを誤解させるようなことを行っているのである。そのような思惟と語りの説教を行っているその牧師は、その教会における人間的な意味での「心遣い、配慮」を行う牧会者としてはよい牧師であるかもしれないが、説教者としては聴衆に対してより良い説教を目指しているよい牧師ではないと言えるのである〔因みに、ミシェル・フーコーは、『全体的なものと個的なもの――政治的合理性批判に向けて』で、「市民の生活と西欧の歴史の全体を覆っていて、現代社会にとっていまなお最高度に重要な問題は、一方で、国家の統一性の法的枠組みとして機能している政治権力と、他方で、社会的には教育制度・医療制度・監獄制度等を通して、また政治的には福祉政策を通して、すべての諸個人の生命に四六時中心を配り助けを与え、彼らの境遇を改良することを役割とする司牧的牧会的と呼ぶことのできる権力の無化にある」と述べている〕。この意味で、第三の形態の神の言葉である教会の宣教(説教と聖礼典)における牧師の神の言葉への奉仕の仕事は、本当に真剣な意味では大変な奉仕の仕事だということが分かる。その内在的本質である神性の受肉ではなく、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>」としての「言葉は肉〔、人間〕となったと言われている時この〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉はこの〔肉、人間と〕<なるということ・〔肉、人間〕<なったということの中で」、「この〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕<言葉語りこの言葉が行動しこの言葉が勝利をおさめこの言葉が啓示しこの言葉が和解させるのであるしかしあくまで神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕<言葉がそのようなことをするのであって〔、人間〕がするのではない。〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉はそれが肉〔、人間〕であるという以前においてもそれが肉〔、人間〕であるということなしにもそれが〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における<神の>言葉として、<永遠の>言葉として、〕現にあるところのものであるこの〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉は〔、人間〕となった言葉としても自分の存在を永遠にわたって父および自分自身からして持っているのであって決して肉〔、人間〕から持っているのではないそれに反して〔、人間〕、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉なしにはただ単なる言葉であることができないであろうばかりでなくそもそもいかなる存在も持っていないましてや語ったり行動したり勝利をおさめたり啓示したり和解させることはなおさらできない……」。したがって、バルトは、次のように言うのである――「創造された世界における神の愛とわれわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛との間には差異がある」。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛である。すなわち、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動)における――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における〕和解ないし啓示は、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「起源的な第一の存在の仕方」における――すなわち、「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における〕創造の継続や創造の完成ではないこの意味は、<和解ないし啓示>は、神の第二の存在の仕方における新しい神の業であるということである。それは、神的な愛の力、和解の力である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において第二の神的行為を遂行したのである。この神の存在の仕方の差異性における創造と和解のこの順序に、キリスト論的に、父と子の順序、〔「啓示者」・「言葉の語り手」・「創造者」としての〕父と〔「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての〕子の順序が対応しており、和解主としてのイエス・キリストは、創造主としての父に先行することはできないのである。しかし、父と子は、〔「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」ということからして、〕その父と子の従属的な関係は、その存在の仕方における差異性を意味しているだけである」。また、「近代主義的プロテスタント主義的キリスト教神学が、キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない時、それは、視覚的錯覚〔人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍〕に基づいている。その時には、和解に関して言えば、赦す<神>が<人間>に内在しなければならないことになり、その認識自体が思弁でしかないものとなるそのような認識においては、イエス・キリストは、下からの半神、超人、人間の最深の本質、最高の理想という空虚な概念でしかないものとなる」。「最後に、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉はそれが肉〔、人間〕となることによって、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の言葉」、「永遠の言葉」としての〕言葉であることをやめはしないのである」。

 

 そのような訳で、形而上学的な木を見て森を見ないという仕方で、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化した「すべての抽象的なイエス崇拝>〔肉、人間―崇拝〕は必然的に拒否されなければならなくなる。すなわち、確かに人は、肉、人間「イエスの歴史的―心理的現象をそのようものとして考察することができる」し、人間の類の時間性としての「歴史としてだけ認識され信じられることができる」し、「キリストの肉はヨハネ六章で小論されているように『食べられる』ことができるし、『食べられなければ』ならないしかし、「ただ>」、人間の類の時間性としての「歴史の中で行動されるということに基づいてのみ歴史は啓示なのでありしたがって信仰の対象であるということからして〔換言すれば、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間」、「イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間」ということに基づいてのみ人間の類の時間性としての「歴史は啓示なのであり、したがって信仰の対象である」ということからして〕、イエスの人間的な性質そのものイエスの歴史的心理的現象そのものを崇拝の対象としようとするところのすべてのキリスト論はあるいはキリスト論的教えと実践は必然的に拒否されなければならなくなる」。「福音の歴史の正しい考察は、徹頭徹尾啓示が主辞であるから、啓示は歴史の賓辞ではない、歴史が啓示の賓辞である」という点にある。また、「史実的に正しい内容が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、シリアの総督のクレニオと聖降誕の出来事、ポンテオ・ピラトと使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、出来事として起こったもろもろの歴史(Gschichten、もろもろの出来事史)について語っている」という点にある。「そこで人を生かすものは〔神性を内在的本質とする〕霊であって、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>」としての〕〔、人間〕は何の役にも立たないわたしがあなたがたに話した〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、この〕言葉は〔その「啓示の出来事における主観的側面」として〕霊であり命であるというヨハネ六六三が思い出されなければならない」。「神の言葉が人間によって信じられる……出来事信仰の出来事は〔「信仰の認識としての神認識」(『教会教義学 神論』)、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」は〕、人間自身の業ではなく徹頭徹尾神の言葉自身の業その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての聖霊の注ぎによる聖霊の業である。すなわち、言葉を与える主は同時に信仰を与える主である」。「自分自身の活動力によってではなく自分と一つに結び合された〔神性を内在的本質とする神の〕言葉の力によって主の肉〔、人間〕は神的なことを働かれたのでありその同じ主の肉〔、人間、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」〕を通して、〔神性を内在的本質とする神の〕言葉は自分自身の神性を示したのである」。「神的支配ガ人ナルキリストニ与エラレタ。ソレハ、ソノ人間性ノ故デハナク、その神性ノ故デアル。何故ナラバ、タダ神性ダケガ万物ヲ創造サレタノデアリ、人間性ハ何モ協力ヤ助ケヲシナカッタカラデアル。(中略)ソレデアルカラ、タダ人間性ダケデハ何モナシトゲハシナカッタ。タダ神性ガ、人間性と結ビツイテ、スベテノコトヲナシタノデアル。マタ人間性ハ神性ノ故ニ何カヲナスコトガデキタノデアル(ルター)」。したがって、〔、人間〕という賓辞の啓示する力は性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉という主辞の自由な行動と共に立もすれば倒れもする」。神性を内在的本質とするところの神の「第二の存在の仕方」における神の「<言葉イエスキリストなのである」。このような訳で、「信仰および宣教の対象として、イエス・キリストの神性を回避しつつイエス・キリストに接近して行くために発見され考え出されたところの、すなわち人間的な判断と体験の形で一般的に理解し得るために、一般的に可能な仕方で接近して行くことができるために発見され考え出されたところの、〔「『自然』な信仰」、「『自然』な宣教」、「『自然』な神学」を目指す〕近代プロテスタント主義の史的イエス〔人間の類の時間性としての歴史的イエスhistorische Jesusは問題にならないものとなる」。「一八世紀のツィンツェンドルフの……キリストの被造物的な苦難に関心を寄せる宣教〔「『自然』な信仰」、「『自然』な宣教」、「『自然』な神学」〕の中に、……その起源の一つを見て取ることができる」。その「ツィンツェンドルフの宣教の仕方」は、「方法論的には、同じ世紀の合理主義的なイエス像の企ての先駆けである」。その「企ては、事柄的および歴史的な平行事象を、当時ローマ・カトリック教会の内部で(1675年のMM・アラコックの幻覚に基づいて)イエズス会の特別な協同ののもとで起こり広がった言葉の神性を回避するところの、一般的に誰にでも納得のゆくイエス・キリストへの接近ということを問題とした<聖心の信心>〔「『自然』な信仰」、「『自然』な宣教」、「『自然』な神学」〕の中に持っている」。「そこで問題となってくる非難は、……それとしてのキリストの人間性そのものが直接的に崇められことによって〔神性を内在的本質とする〕神的な言葉が回避されごまかされてしまうという点にある」。言い換えれば、「そこで問題となってくる非難は、その〔神性を内在的本質とする〕神的な言葉は、イエス・キリストの人間存在から切り離せないが、しかし、その人間存在は、ただ単にそれの側として切り離せない仕方で神的な言葉と結びつけられているだけでなく、むしろただ神的な言葉からしてだけ啓示としての性格と啓示としての能力を受け取るそういう神的な言葉が、それ故にイエス・キリストの人間存在〔キリストの人間性〕はまさにそれ自身で抽象的に直接的に信仰の崇拝の対象であることができないそういう〔神性を内在的本質とする〕神的な言葉が回避されごまかされてしまうという点にある」。「人が、イエス・キリストの人間存在〔キリストの人間性〕をそのように抽象的に直接的に信仰の崇拝の対象とするところ、そこでは本来意図されていた『実質対象』〔「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまこと人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)イエス・キリスト〕への想起は、ただ後からとってつけた力のない留保でしかない」。このような訳で、「イエスという宗教的英雄〔ヘーゲル的に言えば世界史的個人〕を信じる新プロテスタント主義的信仰〔「『自然』な信仰」、「『自然』な宣教」、「『自然』な神学」〕も、イエスの心に対し献身帰依しようとするカトリック的な敬虔〔「『自然』な信仰」、「『自然』な宣教」、「『自然』な神学」〕も、いずれも<被造物の神化として拒否され>〔人間の神化として拒否され〕なければならない」

 

 人が福音主義的なキリスト信者および神学者としてもそれがローマカトリック教会のいわゆるマリヤ論によって重荷を負わされたところのマリヤ神の母として表示する仕方を拒否しないでマリヤを神の母と呼ぶ表示の仕方をキリスト論的な真理の正当な表現として肯定し是認するということは〔その内在的本質である神性の受肉ではなく、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉の受肉〔「言葉が肉、人間と<なる>」ということ、「言葉が肉、人間と<なった>」ということ〕についての教説の正しい理解の試金石を意味している」。神はみ子を女から生まれさせ、……お遣わしになった(ガラテヤ四・四)。ルカ一・四三では、主の母上と呼びかけられている。なお、ルカ一・三一以下、三五を参照せよ。また、言うまでもなく福音書は徹頭徹尾〔「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」としての〕イエスの神性を前提としており証言しているのであるからこの下においてマリヤが至極自明的にこのイエスの母として記述されているすべての箇所が思い出されなければならない」。「啓示の秘義」としてのイエスキリストはまことの神にしてまことの人間であるというキリスト論的な主要命題からしてマリヤのことを神の母と呼ぶこの記述の仕方は意味のあることであって、<キリスト論的な補助命題として許されると同時に必然的なものであったし今もそうである」。この補助命題〔キリストの人間性、「マコトノ人間という面を説明する補助命題」〕第一にその内在的本質である神性の受肉ではなく、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の〕言葉の受肉においては無からの創造が問題なのではなくイエスキリストは彼の母を通して実際に人間というまとまった種族に属しているというふうに〔肉、人間と〕なった〔キリストの人間性〕ということを語っているマリヤの息子〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の受肉、この肉、人間」としての〕キリストの人間的存在は……〔神性を内在的本質する〕神の永遠のみ子自身であるということであるそれであるからこのマコトノ人間という面を説明する補助命題は第二にごく単純に生まれたという意味であることを示している」、またこの補助命題は第三に特にマリヤが生んだところの方は神の子以外の方ではなく神の子と並んでの第二の方でもなく実に〔神性を内在的本質とする〕神の子であったということを語っているここで人間の類の時間性としての歴史、人類史、世界史としての〕時間の中で生まれた方は永遠に父から生まれた方〔詳しく言えば、「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の「根源」・「起源」としての「父が、子として自分を自分から区別した」<子>〕と同一であるということの中で現実存在を持っている」。このような訳で神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における啓示はしたがって神の言葉はしたがって神ご自身は処女マリヤから生まれた方以外のところで尋ね求められるべきではなくまたさらに処女マリヤから生まれた方の中では啓示したがって神の言葉したがって神ご自身の言葉以外のものが尋ね求められてはならないということを語っている」。二世紀および三世紀において人がマリヤからのキリストの誕生を強調しつつ指し示した時、そのことは、ワタシタチノ神、イエス・キリストハマリヤニヨリハラマレ(イグナティウス)は、また使徒信条の中にある処女マリヤカラ生マレは、ただ単に〔「啓示の秘義の<しるし>」としての「クリスマスの奇蹟」、〕処女降誕ばかりでなく、特にマコトノ人間を指し示している」。しかし、「その後四三一年におけるエペソ会議において神の母という定式が教義化されるように導いたものは、……キリストの神性と人性を区別〔分離〕するネストリウス派の方法と対立しつつ、〔人間の類の時間性としての歴史、人類史、世界史としての〕時間の中でマリヤから生まれ給うた方は、父から永遠に生まれ給うた方と同一であるということを強調することであった。マコトニ<神>ガインマヌエルデアルコト、マタソレ故ニ、処女聖マリヤが神ノ母デアルコト、スナワチ父ナル神ノミ言葉ニヨッテ受肉シタ肉体ヲ生ンダコトヲ宣言シナイ者ハ排斥サレル。そのことは四五一年のカルケドン会議において確認された」。「ルターは言う――マリヤハ分ケラレタ人間ヲ生ウンダノデハナイ。スナワチ、アタカモ彼女ガ〔人性としての〕自分デ息子ヲモチ、他方、神モ〔神性としての〕ゴ自分ノ息子ヲモタレタトイッタ具合デハナイ。ムシロ永遠カラシテ神カラ生マレ給ウタソノ同ジ方ヲ彼女ハ〔人間の類の時間性としての歴史、人類史、世界史としての〕時間ノ中デウンダノデアル」。イエス・キリストは、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な神の「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における神の「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)である。このような訳で、「神の母は、『二重ノ出生』〔まことの神にしてまこと人間であるというキリストの両性〕を表現している」。この聖書的に基礎づけられキリスト論的関連の中で有益な主要命題を独立した一つの教説であるマリヤ論の基礎として適用するローマカトリック教会の企てに対しては、その形式的な勝手さからいっても、事柄みての内容的な疑わしさからいっても、福音主義の立場から断固として抗議がなされなければならない」。何故ならば、現存する「聖書の啓示証言は、〔イエス・キリストにおける神の自己〕啓示の出来事においてはマリヤの人格に対して、……前述したような神の母という命題を超えたところで神学的教説の対象としたりあるいはマリヤ論的教義の対象とすることを必然的ならしめ正当化する相対的にだけでも独立した抜きん出た地位を与えることをわれわれに承認する契機を与えないからである」、それ故に相対的にだけでも独立した「マリヤ論は啓示の真理を解明することではなくむしろ啓示の真理を曖昧にし暗くすることしか問題になっていないということからして、そこでは異端が問題であるということ以外のほかのことを引き出すことはできないということからして、マリヤ論は神学的思惟の贅肉つまり病的な形式物であるからその贅肉は取り除かれてしまわなければならない」。

 

 「新約聖書は、エペソ会議およびカルケドン会議がそうであったように、マリヤの人格に対してただひたすらキリスト論的な興味を示していた。このことは、まさにクリスマスの歴史とその前史についてこそ言えることである。マリヤはそこで奉仕するわき役となるというAシュラッターの言葉は注釈的に見て反駁することができないものであるルカ一二六三八における天使ガブリエルと処女マリヤの間でかわされた会話においても、……キリストの方を指し示していないようなただ一つの命題も引き出してくることはできないあの有名な多くのマリヤ論的思弁にきっかけを与えたルカ一・二八の『恵まれた女よ』もこの文脈に属している。そのような思弁に対しては、『恵まれた』という言葉が<警告を発し>なければならなかったルカ一一・二七以下で『あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんと恵まれていることでしょう』と叫んだあの女に対してイエスは、『いや恵まれているのはむしろ神の言葉を聞いてそれを守る人たちであるという拒否的な答えを与えたここでは、『わたしの母とは誰のことかわたしの兄弟とはだれのことか』。これらのわたしの弟子こそ、『わたしの母わたしの兄弟である天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでもわたしの兄弟また姉妹また母なのである』(マタイ一二・四八以下)が思い出されなければならない」。「新約聖書に出てくるマリヤの姿の偉大さは、ルターがマグニフィカートの中で注釈的に見ても全く正しく理解したように、すべてのことが、それであるからすべての興味も、マリヤ自身からそらされて主の方に向けられているということである。確かにマリヤの卑しさ』(ルカ一・四八)は、そしてマリヤの身に及んだ神の栄光は特別な考察、教説、尊崇の対象となるのに適しているかもしれないが、〔生来的な自然的な〕マリヤの人格そのような特別の考察、教説、尊崇の対象となるのに適していない。マリヤは、洗礼者ヨハネと共に、旧約聖書が新約聖書の中に突出してくる人格的な先端であると同時に、<また>最初の新約聖書的な人間である、『わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように』(ルカ一・三八)。彼女は、ただ全くその者の身に啓示の奇蹟〔「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕が起こるところの人間である。この人間マリヤは、おそらく使徒の場合のように一つの役職の担い手であることができる。またさらにその役職は、キリストの役職との関係において、一つの教説の対象となることができる。しかしその場合も、〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」としての、すなわち「イエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉である〕パウロペテロあるいはヨハネの役職が教説の対象となるのであって彼らの〔生来的な自然的な〕人格が教説の対象となるのではないしましてやそのような役職を持たずむしろただ全くそれとして主を受け入れるところの旧約聖書的であると同時に新約聖書的である人間自身を代表することができるだけであるマリヤの〔生来的な自然的な〕人格はなおさら教説の対象となることはできない。「〔『わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように』(ルカ一・三八)という〕マリヤの姿は、まさにその強調されない姿の中でこそ、まさにその無限に意味深い控えめな後ろに退いている姿の中でこそ、まさに彼女は、ただ受領者として・恵みを受けた者としてのみ重要となるが故に、聖書的な宣教の欠かすことができない要素である、ちょうど「聖書によって宣教を義務づけられた」第三の形態の神の言葉である教会の宣教およびその一つの「補助的機能」(「教会的な補助的奉仕」)としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、その思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度〔「祈りの態度」〕に対し神が応じて下さる〔「神のその都度の自由な恵みの神的決断」による「祈りの聞き届け」〕ということに基づいて成立している」ということからして、その言葉への奉仕としての思惟と語りは、神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという仕方においてではなく、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に信頼し固執し固着するという仕方において、それ故に「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、聖霊自身の業である「啓示されてあること」、「キリスト教に固有な」類と歴史性、「聖礼典的な実在」)の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)に信頼し固執し固着するという仕方において、なされなければならないように。「マリヤの人格が特別な注意の対象とされるようなすべての言葉は換言すればそれでもってマリヤの人格に対して救済史においてただ相対的にだけでも独立した役割が帰せられるところのすべての言葉は啓示の奇蹟〔「啓示の秘義の<しるし>としてのイエス・キリストは処女マリヤより生まれ給うたというクリスマスの奇蹟」〕〕に対する侵害行為である」。何故ならば、「そのことは、〔聖書の中で証しされている〕その啓示の奇蹟を、後から、結局人間からして、〔生来的な自然的な〕人間の受容能力からして基礎づけようとする試みだからである」。「MJ・シェーベンが、まず第一に『キリストの』神的栄光とそれと共にその母に比べてたちまさったキリストご自身の卓越性が確認されなければならず、そのあとはじめてまさに<そこのところから>母のほとばしり出る光を照り返す栄光について語ることができた」と述べているところの「そのような恵みを受けた人間の上に『ほとばしり出る光を照り返す』受け取られた栄光については新約聖書はそもそも何も知らない」。新約聖書はこの点では全く〔神と人間、神人協働、神人協力という〕弁証法的ではない仕方で理解された法則Ⅱコリント一〇一七)――『誇る者は主を誇るべきであるの下で語っている」。「マリヤハ神ノ宮デアツタノデアッテ、宮ニ住ム神デアッタノデハナイ。ソレデアルカラソノ宮ノ中デ働キ給ウ方ダケガ礼拝サレルベキデアル(アンブロシウス)。人は、マリヤについて、部分的にはキリストのまことの人間性の故に、部分的にはキリストのまことの神性の故に語るのであって、決してマリヤ自身の故に語るのではない」。「エバとマリヤを平行的事象としてみる見方についても注意を払わなければならない。それは、エバは、いずれにしても創世記三章についての新約聖書の解釈によれば、堕罪の出来事の中で、アダムと並んでいかなる独立した役割も演じていないということである。ここで、Ⅰテモテ二一三以下も引き合いに出されることはできない。何故ならば、アダムは惑わされなかったが、<エバは惑わされた>と言われている時(「エバは『違反を導き入れた』という言い方は、ただルター訳聖書の中でのみなされている」)、……そのことは、女に似つかわしいとして帰せられている立場は、静かにしていることであって、決して男の上に立つという立場ではあり得ないということを証明するという文脈の中でなされているから……そのことはキリストとマリヤとの関係に対してこそ意味深い仕方で適用されることができる……。祈祷書に収録されているOff.B.Mariae Virg.の中の讃美歌『処女タチノウチノ栄光アルモノ』におけるエバとマリヤを平行的に取り扱う表現『悲シイエバガ取リ去ッタモノ 汝ハ実リ多イ子孫デモッテ回復スル』は、全く恣意的なものと言わなければならない」、エペソ会議の神ノ母もマリヤに対して決して神的な救済の業の中での……協力的な働き〔神人協働、神人協力〕を帰していない」。このような訳で、「『神ノ母キリスト論への付属物として受け取らなければならないのであるが、付属物としての『神ノ母』の方がますますのさばり出て特別な『マリヤ論』の主要命題となった時、そしてさかんにひろがっていった礼拝式的、禁欲的な実践を教義学的に正当化する手段とされてしまった時、そのことは、新約聖書の証言を曲解することを意味していたし、それと同時に、キリスト論的に事柄に適った伝統を曲解することを意味していた」。それらの声は、「決して〔第三の形態の神の言葉である〕教会を基礎づける神の言葉の声ではなかった」。「キリスト論への付属物としての『神ノ母』という教説を超えて、ローマ・カトリックにおいて、神の母の特権についての教説が展開されるようになった。そのようなものとして、マリヤは出産後も処女性ヲ保ッタと理解されなければならなかったし、そのことが、六四九年の第一回ラテラノ公会議において教義化されなければならなかった。その教義に、マリヤは、自然的に誕生したのであるが、先行する恵みによって原罪のすべての汚れから解き放たれていて、聖化する恵みの状態の中で存在するようになったということを教える無原罪ノ受胎についての教説が結びつくことができた。それに対して、カンタベリーのアンセルムス……は、拒否的な態度といわないまでも、控え目な態度を取った。そのような教説の形成を神学的な領域で勝利へと導いた者は、ドゥンス・スコトゥスであった。このマリヤの無原罪ノ受胎についての教説は、一八五四年になってはじめて教皇ピウス九世によって教義にまで高められたこの命題は、それからさらに展開されて、トリエント公会議で……マリヤは<実際にも決して罪を犯さなかった>ということが教会的な教説として力を奮うようになった。(中略)さらに……マリヤの肉体を持っての昇天の教義化、(中略)さらに……救いに主の母として、マリヤは、われわれの救いの女仲保者であり、仲保者の女仲保者として自ら恵ミノ母であるということが起こって来る。(中略)キリストご自身が、私たちのために『義ヲモッテ』立てた功績を、マリヤは私たちが『フサワシク』受けることができるようにした。ワレワレハキリストノミモトニアッテノソノ女仲保者ノトリナシヲ頼リトシテイル。キリストハ、ゴ自分ノ母ヲ、罪人ノ女弁護人、恵ミノ役者オヨビ女調停者トシテ受ケ入レヨウト欲シ給ウタ(ピウス十一世)。主ガモタラシタスベテノ恩恵ノ宝ハ……神ノ意志ニヨッテ、<マリヤヲ通シテデナケレバ何一ツトシテワレワレニ与エラレナイ>(レオ十三世)『マリヤが崇拝されないところ、そこにはキリストの教会は存在しない』(ディーカンプ)このディーカンプの宣言に対してわれわれは断固とした福音主義的な宣言――すなわちマリヤが尊崇されるところ換言すればその教説全体とそれに対する帰依がまかり通るところ、<そこでは>〔Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下ということからして、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示なし和解の概念の実在」(「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」)である第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉であるただイエス・キリストをのみ主・頭とするところの〕キリストの教会は存在しないを対置させることができるだけである」。

 

 われわれが〔ローマ・カトリック教会の〕マリヤ論を拒否するのは第一にそれが聖書および古代の教会に相対しての自分勝手な革新を意味しているからであり第二にその革新は事柄的にはキリスト教の啓示の真理を贋造することにほかならないからである」。全宇宙ノ中デタダアナタダケガスベテノ異端ヲ取リ除カレタマリヤについての教義は実にローマカトリック教会の分かれ目的な中心的教義以外の何ものでもない」。「何故ならばその教義マリヤ崇拝に与しない者は異端とされるからである」。言い換えれば、「ローマカトリックのマリヤ論的教義が述べている神の母全くそのまま……その救いに際して先行する恵みに基づいて奉仕しつつ協力して〔換言すれば、神人協働、神人協力して〕働く人間的被造物の原理原型総内容でありまさにそのようなものとして教会の原原型総内容である」。バルトは、『啓示・教会・神学』で、次のように述べている――「ドストエフスキーの書いた〔『カラマーゾフの兄弟』における〕あの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意〔類的機能を持つ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された人間の意味世界・物語世界・神話世界(存在者)における善意〕によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう〔何故ならば、そこには、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に信頼し固執し固着した「神への愛」と「神への愛」を根拠とする「神の賛美」としての「隣人愛」という連関と循環がないからである〕。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」。「トマス・アクィナス、自然神学、存在ノ類比」に立脚する「ローマ・カトリックの教義における……神ノ母ハ単ナル被造物デアルということを強調すべきである」。「また、ローマ・カトリックの教義のマリア論におけるマリヤは、……女神であったりあるいはまた三位一体の神の存在領域ではなく、徹頭徹尾地上的―被造物的―人間的領域に属しており、まさに被造物としてこそ、マリヤに対してその威厳、特権、あの神との協働〔神との協力〕が帰せられているのであり、それと共に、全宇宙ノ中デタダアナタダケガスベテノ異端ヲ取リ除カレタマリヤについての教義という中心的な体系的な地位と機能が帰せられている……」。「ローマ・カトリックの教説に従えば、人間は先行する恵みを通して、彼女があのコノ身ニ成リマスヨウニを語ることによって、彼女は本来的な聖化する恵みに対して準備する能力を持っている――「<この>、<その同意の故に恵みを受けた被造物が、マリヤ論の本来的な対象>であり、マリヤは、『キリストに次いで人類の最も高貴な、最も傑出した、あるいはむしろより高度な秩序の中へと突き出ている一員であって、そのマリヤという人類の一員〔生来的な自然的な、地上的―被造物的―人間的な人間〕を通して、その一員の中で、人類はキリストおよび神との神秘的な交わりの中に立っている(シェーベン)』、『神から外に向かって出て行き、世との現実の中に立っていて、神の外で、神と並んで、換言すれば神のもとで、世の内部に存在しており、働いている人格』、しかも『神から外に向かって出て行った女性の人格』、それが神から発しているということの故に、そして神とのその親近性の故に、換言すれば神から発しており、神に似た(神の座、世に向かっての神の完成する・生かしめる・照らし出す働きかけの器・道具であるところの)原理としてのマリヤは、神から発しており、神に似ており、しかも世界の中に内在する知恵としてのマリヤ」は、「カトリックの存在ノ類比の中にはそれらがその全体性の中で……神に向かって『開いて』いるが故に、からだと精神、共同体と個人を含み入れてところの、まことの受肉の世界への諸可能性(E・プシュヴァーラ)である」。「カトリックの存在ノ類比からしてみた場合被造物生来的な自然的な、地上的―被造物的―人間的な人間〕その全体性において比喩の中で比喩全体を凌駕している比喩を超えた神を見通す眼力でありそのことの中で神に対し受容する用意〔生来的な自然的な、地上的―被造物的―人間的な人間の用意〕がある」。言い換えれば、被造物〔生来的な自然的な、地上的―被造物的―人間的な人間〕は、それ自体、<その最後的な本質において>、いわばすでに『<見よ、主のはしためです。み言葉通りわたしの身になりますように>』ということである」。そこには、次のような認識と自覚が欠けているのである――そこには、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の認識と自覚がないし、またイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」(『教会教義学 神の言葉』)の<総体的構造>(『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)に対する信頼がないし、また先行する「神の用意に」包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(徹頭徹尾神の側の真実としてのみある、神の側からする神の人間との架橋)であり、「神との間の平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「自己自身である神」としての自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由な聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)における「第二の存在の仕方」――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」)イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識〔「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕に向かっての人間の用意が存在する」という認識と自覚がないし、また「先行する神の用意」に包摂された「後続する人間の用意」という「人間の局面は、全くただキリスト論的局面だけである」(『教会教義学 神論』)という認識と自覚がないのである。もっと言えば、次のような認識と自覚がないのである――まさに〔「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われに差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」のその神の「第二の存在の仕方」である〕イエス・キリストにおける神の自己啓示の中でこそまさにイエスキリストの中でこそ隠れた〔「自己自身である神」としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質する「三位一体の神」としての〕神はご自身を把握できるものとし給うた」。しかしそのことは、「決して直接的にではなく、<間接的にである」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて終末論的限界の下で贈り与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、<しるしの中においてである」、このようにとにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質である神性が肉となったのではなく神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の第二の存在の仕方における神の「<言葉が肉〔、人間〕となった>」――「これがすべてのしるしの最初の起源的な支配的なしるしである」、換言すればそれは、自由な人間的理性や際限なき人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない人間の意味世界・物語世界・神話世界(人間の観念的生産物)としての存在者では決してなく徹頭徹尾神の側の真実としてある、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」――この神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の受肉、この肉人間としての存在者>」〔「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエスキリストの>」、「イエスキリストの人間性の現実存在」〕である。このような訳で、その「最初の、起源的な、支配的な<しるし>に基づいて」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的な<しるし>が存在する」。先ず以て「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」(「最初の起源的な支配的な<しるし>」)であるイエス・キリスト自身を起源とするその「最初の直接的な第一の啓示ないし和解の概念の実在」、すなわち「預言者および使徒たちのイエス・キリストについての言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉である聖書が「啓示との<間接的同一性>」(啓示との区別を包括した同一性)においてその「最初の直接的な第一の啓示の<しるし>」として客観的可視的に存在している、それから「教会に宣教を義務づけている」第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としての第三の形態の神の言葉である教会の宣教〔説教と聖礼典〕が<「啓示の<しるし>」の<しるし>として客観的可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神(「神の顕現」)にしてまことの人間(「神の隠蔽」、「神の自己卑下と自己疎外化」)、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における神の「言葉の<受肉>、この肉、人間」、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」としての「イエス・キリストの<名>」、「イエス・キリストの<人間性>の現実存在」――このイエスキリストと地上における可視的なみ国」が客観的に存在している。「これこそ神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握ししたがってまた神について語ることができる偉大な可能性である」。

 

「存在ノ類比」における思惟と語りにおいて、「K・アダムスは、……神の愛は、単に自由な理性の意志という自然的な〔生来的な〕持参金を通して、神ご自身の創造者としての力の像および比喩へと高めるばかりでなく、またあのように独立した本質を持つ人間〔マリヤ〕を、聖化する恵みの高価な贈り物を通して、比較を絶した仕方で神的性質とその祝福の力にあずからせ、神のみ業に対するある種の創造的な<協働>〔神人協働、神人協力〕へと、そして神の国建設に当たっての救いをもたらす<主導性>へと召すのである。理性的被造物をその存在の無力さという無限の隔たりから、また罪の深淵的な失われた状態から神的生命の充実まで高め、まさにそのことを通して、本質的に被造物としての被制約性を保持しつつ、救いの業に<協働>する能力〔神人協働の能力、神人協力の能力――この能力は、『福音と律法』によれば、聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく、人間中心主義的なわれわれ人間も、われわれの人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神人協働の能力のことであり、それは、それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な人間における「不信仰」・「無神性」・「真実の罪」としての能力である〕を与えるということが救いの最も深い意味であり、また最大の富である。……そのようにしてある範囲内で、救われた人類全体が神的生命の力の圏内に入るのであるその限り救われた人類全体は、ただ単に神的救いの活動の対象であるばかりでなく、また<主体>でもある」と述べている。「これと同じ方向を取りつつ、ゲルトルート・v・フォルトは、……『無原罪の御孕』〔「無原罪ノ受胎」〕の教義は、人間がまだ堕落しなかった被造物としてあったことを述べる宣べ伝えを意味しており、それは、聖職から追放されたのではない被造物の顔、人間の中での神的似像を意味しているまた、それは、『救に際しての被造物の協働〔神人協働、神人協力〕を意味している』」と述べている。「グレゴリウス一世は、Ⅰ列王一章についての説き明かしの中で、マリヤについて、……永遠ノ言葉ノ受肉ニマデ到達スルタメニ、善行ノ火柱ヲ、天使タチノ全合唱隊ヲコエテ神ノミ座ニマデウチタテタマリヤハ、至高ナ山デハナカロウカ」と述べている。「全人類ノ代ワリニ恵みに基づいて恵みを肯定するマリヤが、それ故にこのマリヤの中で言葉の受肉を度外視しても、被造物がその神に向かって開いており用意ができていることとして理解されているところの、またこの用意ができているということは功績の火柱として理解されているところの〔人間の類としての〕世界に内在する神的な知恵〔被造物マリヤ〕それ故にいまや『神的救いの活動の主体』である被造物〔マリヤ〕こそが、〔それ故に、神だけでなくわれわれ人間もという仕方で、「キリストとついに相対的に競り合うに至るわれわれの救いのための」神人協働において、神人協力において、〕神の業に創造的な仕方で働くこの被造物〔マリヤ〕こそが、マリヤ論で言われていることである」。ところで、「教会ノ母という称号はカトリックの教義が被造物マリヤに対して与えている尊称の一つである。カトリックの教義は、そのことでもって、ただ単にマリヤが恵みの仲保者であることに基づいて、マリヤは『すべての信者の母』であるということを意味しているだけでない。教会の母という称号は、ただ単に被造物マリヤは、キリストの神秘的なからだの心であるということを言っているだけではない。それは、被造物<マリヤ>が教会の母であることと<教会>が母であることの関係〔「シェーベンは、相互内在性という言い方をしている」〕を、『内的結びついと類似性』のことを言おうとしているのである」。したがって、「すべての救われた者に相対しての被造物マリヤが母であるということについて語らなければならないのと同様に聖体の秘蹟のキリストを念頭に置いて、またキリストに相対して、教会が母であるということについて語らなければならない。その限り、被造物マリヤの中で、『救済の恵みの供与の仲保者的な原理としての教会は、それの尊厳さ、力、活動に関して、範例的に予示されている』ということであり、『カトリック教徒たちは、恵みの母および仲保者として<教会>を受け取る彼らの神秘主義的な教会観を、被造物マリヤの中で、讃美し弁護しているとプロテスタントの学者が考える時、そのことは全く当たっている』(シェーベン)ということである」。「ここでも全く明らかに〔最後的には「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持しないで、〕……被造物マリヤに対してと同様に、そしてそもそも恵みを受けた人間的被造物に対してと同様に、また〔それとして全く人間的な〕教会に対しても救済の経過の中で相対的に独立した地位と機能が固有なものとして帰せられる〔換言すれば、そこにおいては、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)が堅持されなくなる〕、〔それ故に、第三の形態の神の言葉である〕教会もまた、〔聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神だけでなく、われわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという仕方で、「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕キリストと競り合うのである」。このような訳で、「その誕生から死に至るまでのマリヤの現実存在はキリストご自身の現実存在と比べてほとんど劣るところのない平行事象とならなければならないように、……教会に対しても被造物の限界の内部ではあれ相対的に独立的な威厳権威全権が帰せられるのである」。「ピウス九世の生涯の働きの中での一八五四年の無原罪ノ受胎の宣言一八七〇年の教皇無謬性の宣言に至るまでのそしてヴァチカン公会議においてなされたトマスアクィナスの意味での〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼しない」ところで、キリストにあっての神の特別啓示ではなく一般的啓示に、キリストにあっての神の特別啓示の真理にではなく一般的真理に、「恵ミノ類比」(「啓示ノ類比」・「信仰ノ類比」・「関係ノ類比」)にではなく「存在ノ類比」に立脚する〕『自然神学』〔神と人間、神学と人間学との「混合神学」、「人間学的神学」、「哲学的神学」〕を正式の教義とするという宣言に至るまでの関連性は、全く首尾一貫したものであった」。「被造物マリヤが崇拝されるところの教会はそのような教会である」。

 

 そのような訳で、ローマ・カトリック教会における「被造物マリヤの教義に反対して唱えられるべき〔福音主義的教会における〕福音主義的信仰命題は恵みについておよび教会についてのローマカトリックの教説に反対して力を奮わしめられるべき信仰命題となるすなわちイエスキリスト、〔神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における〕神の言葉はちょうど永遠からして〔神性を内在的本質とする〕父のみもとでそうなさっておられたのと同じように造られた〔人間の類の〕世界の内部で主権的な仕方で存在し支配し主催し給う」――「神の言葉の三形態の関係と構造秩序性、Ⅰコリント310-11、エフェソ214以下)からして、神性を内在的本質とするところのその外在的本質である神の「第二の存在の仕方」における「神の<言葉>」、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である「イエスキリストがわれわれ人間に対して、〔第二の形態の神の言葉である〕聖書および〔聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とする第三の形態の神の言葉である〕教会の宣教〔説教と聖礼典〕を通して同時的となる時と所、〔イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて〕『神われらと共にが神ご自身によってわれわれに語られるところにおいてはわれわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認するしたがってわれわれは歴史社会をその中でキリストが生まれ死に甦られたところの世歴史社会として承認し確認するすなわち自然の光の中でではなく恵みの光の中でそれ自身で閉じられかくまわれた世俗性は存在せずただ神の言葉福音〔、恵み〕、神の要求判定〔、裁き〕、祝福によって問いに付されただ暫時的にだけただ限界の中でだけそれ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」。したがって、「イエス・キリストにおける啓示」は、一般的な啓示、一般的な真理、「存在の類比」、「自然神学」に依拠した教会の宣教における「福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした十字架象徴論へと、イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所であるし、包括的に言えばわれわれ人間の個と現存性(人間の個の時間性、自己史、個体史)―われわれ人間の類と歴史性〔人間の類の時間性、人類史、世界史、歴史〕の生誕から死までのすべてを見渡せる場所であり、それ故に「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である。このような訳で、そのことは確かにその教会の中でその教会を通してであるがしかしそこで存在し支配し主宰し給う際の仕方からして全線にわたって〔「啓示ないし和解の実在」そのものとしての「起源的な第一の形態の神の言葉」である〕イエスキリストご自身が主でありあくまで主であり続け給うのであり人間は教会もそれと全く同じなのであるがただキリストにだけ誉れを帰すことができるのであってたとえどんな間接的な意味ででも自分〔被造物としての人間、教会〕に帰することはできないしそこで相互的な互恵主義とか相互作用〔神人協働、神人協力〕というようなものはたとえ最も注意深い留保の下でも問題となってくることはできない何故ならば信仰〔「信仰の認識としての神認識」、「啓示認識」(「啓示信仰」)、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」〕こそが決して相互主義〔神人協働、神人協力の行為ではなくすべての相互主義〔神人協働、神人協力〕を断念する行為であり〔何故ならば、「啓示認識」(「啓示信仰」)は、徹頭徹尾イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力」の<総体的構造>に基づいて贈り与えられるからである〕その方と並んでほかのいかなる仲保者も存在しないただ一人の仲保者を承認する行為であるからである啓示と和解はひっくり返すことのできない分割することのできない仕方で〔ひっくり返すことのできない「単一性と区別」という仕方で〕排他独占的に神のみ業である〔排他独占的に、「自己自身である神」としての「三位相互<内在性>」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位一体の神」の、「われわれのための神」としてのその「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三度別様な「三つの存在の仕方」における神の「第二の存在の仕方」(様態、性質・働き・業・行為・行動、外在的本質)――すなわち、「啓示」・「語り手の言葉」(「起源的な第一の形態の神の言葉」)・「和解者」としての子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である〕」。このような訳で、「恵みについて、そして教会についてのローマ・カトリックの教説が、そして模範的な仕方でマリヤ論が答えようとしている問い、神の啓示と和解に被造物が協力しつつ働くことについての問いは〔神人協働、神人協力についての問いは〕、もともと正しくない問いであって、それ故にその問いに対しては、ただ間違った教説でもって答えることができるだけなのである」。ここでは、「マリヤについての教説およびマリヤ崇拝に対するプロテスタントの反抗はそれの側でも……半分だけの恵みについての間違った教説と教会的な指導者原理についての間違った教説を代表している限り〔包括的に言えば、半分だけでも「自然神学」の段階における教説を代表している限り〕、純粋ではない」。何故ならば例えばローマ322ガラテヤ216等のギリシャ語原典イエスキリスト信仰の属格を神人協働神人協力的なベクトルを持つ目的格的属格(生来的な自然的な人間の「イエス・キリスト信じる信仰」)として理解する者は少なくとも半分だけは一般的啓示一般的真理、「存在ノ類比」、「『自然神学に立脚することになるであろうし逆にその属格を徹頭徹尾神の側の真実としてのみある主格的属格(「イエス・キリスト信ずる信仰」)と理解する者はイエスキリストにおける神の自己啓示自身が持っている啓示に固有な自己証明能力に信頼するそれ故にその自己証明能力の総体的構造に信頼するし聖書の中で証しされているキリストにあっての神としての神の特別啓示啓示の真理、「恵ミノ類比」(「啓示の類比」・「信仰の類比」・「関係の類比」)、啓示神学に立脚するであろうからである

(文責:豊田忠義)

 

長文になり過ぎるので、後半のおよびは、3月9日前後に投稿する予定である